本多富正公の生涯
本多富正公は戦国〜江戸時代初期の武将で、「龍泉寺の再興」と称される大檀越(檀家)であります。本多氏の先祖は大化の改新の功労者・藤原鎌足で、その10代後に豊後国(大分)に居住するようになってから本多の姓を名乗るようになったといわれます。その後、足利尊氏に仕えて頭角を表して建武4年(1337)に尾張国(愛知)の横根・粟飯原の両郷を領土とし、更に5代後は徳川家の家臣となって三河国(愛知)土井郷を領土としました。龍泉寺の再興である富正公はこの三河国太平村(岡崎市)で生まれ、父親が病弱であったため叔父の作左ェ門(お仙泣かすな馬肥やせ、で有名な鬼作左)に育てられました。 やがて14歳のとき結城秀康公(徳川家康公次男)の側仕えとなりました。これ以後、終生秀康公から決して離れることはありませんでした。天正12年(1584)小牧長久手の戦いの後、豊臣秀吉公の養子になった秀康公に随い大坂へ行き、慶長5年(1600)関が原合戦の後、秀康公が越前68万石の大名になったときも府中(武生)3万9千石の領主として、また越前藩国老として来武したのでした。 やがて慶長20年に大坂冬・夏の陣が起こると、「大坂城一番乗り」の偉勲を立て家康公より黄金50枚を拝領しました。また幕府より越前藩から独立して大名になることを勧められましたが、「自分は主君・秀康公に終生忠誠を尽くしたいので」と断わったのでした。 しかし、行列の際に長刀(なぎなた)を用いることを許され関所通過のときは乗り物のままで通行することを許されたり、江戸城における控え所が「柳の間」(4位以下の大名と表高家の詰め所。例えば赤穂義士討ち入りで有名な吉良家もこの部屋であった)であったり、江戸浅草(後に本所へ移る)に江戸屋敷を賜り将軍家の吉凶慶弔の際には諸大名と同じく献上物を行ない勤めたり、日光東照宮へ石灯篭を寄進するなど、常に大名家の格式を以って幕府から遇せられたのでした。 さて、公の越前藩や府中における功績は数々あげられます。府中の領主としては、日野川の堤防を直して水害を防ぎ、町へ用水を引いて住民の生活の便を図りました。また町の真ん中に北陸街道を通し街道沿いに町屋、東に武家屋敷、西に寺社を配置し、府中の町並みを整備いたしました。また打ち刃物や和紙、蚊帳(かや)などの地場産業を奨励し経済的発展の基礎を造りました。現在福井県の代表的な特産物になっている「越前おろし蕎麦」も富正公が京都から府中へ連れてきた金子権左衛門という家臣の発案といわれております 越前藩の国老としては、久世騒動(越前家騒動ともいいます)や2代藩主松平忠直公問題というあわや改易になるかという藩の一大事に冷静に対処し、幕府と連携してよく藩を守り無事切りぬけました。これをみれば、富正公がいかに幕閣中枢の要人たちとじっこんであったかが伺えます。また京都の烏丸光広のような公家や俵屋宗達らとも広く交際を持ち、文武両面に秀でておりました。また九頭竜川に堤防を築いて(現在も公の名を冠して元覚堤といいます)芝原上水を引いて北の庄(現在の福井市)のお城の堀水と住民の生活用水に供しました。同時に坂井郡や吉田郡方面の灌漑・治水を行ないました。このように富正公の立場は越前藩の国老にすぎませんでしたが、その実力は大名以上で御三家も羨むほどであったのです。また地元の曹洞宗大本山永平寺の住職が欠けたときにも幕府と相談して新しい住職を選び、開祖・道元禅師の木像を寄進(現在永平寺にある像がそうです。このことは特筆すべき業績といえますが残念なことにほとんど知られておりません)するなど寺社の保護にも力を注ぎ、宗教政策にも熱心に関わりを持ちました。 4代の越前藩主に亘り仕えて半世紀近く藩政を執った富正公は、慶安2年(1649)8月12日、78歳で府中城にて亡くなりました。墓は生前から自らの菩提寺と定めていた龍泉寺に建てられ、今日に到るまで歴代領主らとともにその供養を日々慇懃に受けております。 その後、本多家代々の当主は越前藩筆頭家老として、また府中領主としてよく治世を行ない,明治の版籍奉還を迎えるまで改易されることなく安泰して続いたのでした。いかに歴代当主が名君であったかが窺えます。現在も13代目が東京にて健在です。(勿論龍泉寺の筆頭総代です) 因みに、龍泉寺に葬られたのは、初代富正公以来歴代の領主とその家族のみに限られていて、分家などは武生市内の別の寺院5ヶ寺に葬られております。 平成13年は富正公府中入城400年という節目にあたり、武生の市民挙げて(400年祭実行委員会や武生立葵会、武生ロータリークラブなどが中心となって)様々なイベントが展開されました。龍泉寺でもこれに併せ、公の350回忌の法要(本来は平成10年が正当の年)を盛大に行ないました。 本多家歴代当主一覧
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