本多富正寄進状

龍泉寺には、富正以前の府中(武生)領主・木村常陸介、青木秀以や、富正以後の本多家歴代領主、越前藩松平候歴代藩主からの禁制及び寄進状が伝わっております。
この書状は、慶長20年(1615)4月8日付けで、内容は本多領のうち上太田村(現武生市上太田町)から50石を龍泉寺領としたものであります。
日付けの4月8日は富正の主君結城秀康の命日にあたります。またこの寄進状からちょうど1ヶ月後に、富正は「大坂夏の陣」に参戦していますので、そのことと照らし合わせますと、討ち死にすることも覚悟して自分の菩提寺を前もって龍泉寺と定め、併せて主君秀康の供養と戦勝を祈願して、寺領を寄進したのではないかと思われます。
文書の読みは、包み紙が「寄進状 伊豆守殿」。 中身は「巳上   当寺領高五拾石の為上太田村の内を寄進し奉り候の条、全く御収納成される可く候、よって件の如し」  本多伊豆守
         慶長弐拾年四月八日   富正(花押)    龍泉寺 納所禅師   

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