第23回ちょっといって講座
新潟・福井豪雨と河川のあり方を考える
大熊孝新潟大学工学部教授
日時:2004年10月28日
於:福井県教育センター403号室
はじめに
新潟中越地震の10月23日(土)に震源の近くの小出町と言うところにいました。夜7時からの川の集会に出る予定で会場に向かう途中で地震に合いました。翌朝の朝食用におにぎりは持っていましたので、避難した駐車場で食べてお腹を膨らませ、自動車のTV の震度分布から、会津を回ってなら帰れるのではということで新潟へ帰ることができました。災害が起こると言うことは文明の社会から原始の社会に放り出されることで、自分の能力でなんとか解決しなければなりません。避難勧告が遅かったとかいうのではなく、最終的には自分の身は自分で守る必要があると思います。
今日は、新潟での水害を中心に話したいと思います。福井には8月2日に来ていますのでその違いについてもお話しできればと思っています。
今の日本の治水計画はほとんどの川で暗礁にのりあげています。利根川にしても、石狩川にしても、信濃川にしても、吉野川にしてもそうです。完成しない計画ばかりになっています。これを何とかしない限り、解決の目処が立たない状況にあります。
「縄文の川?」・「弥生の川?」
図1 日本の河川
まず、川をどう考えるかですが、日本の川は急勾配で洪水になりやすく渇水になりやすいといわれています。この急勾配の絵を見せられると、日本の川はダムを造ったり、河道をコンクリートで護岸しなければならないと納得してしまうわけです。しかし、別の見方をすると、日本の川は非常に短くて、落ち葉が落ちてそれが海まで行って、魚類の栄養になって、鮭が戻ってきたり鮎が戻ってきたりするということが実感できるわけです。そのことが、強調されていない。
「縄文の川」「弥生の川」ですが、私は31歳で新潟大学に職を得ましたので新潟へ行き、鮭や鮎が上るのを見て豊かさを感じ、縄文感覚で川を見る必要を感じました。稲作の観点からは、川があふれてもらっては困る、渇水になってもらっても困るわけですが、新潟に行くまでは弥生的感覚でしか川を見ていなかったのではないかと思います。
水俣川の上流には祠が30ほどあり、祠の中には珊瑚とかアワビといった海の物が祭ってあります。山から栄養が流れてきてくれたお陰であるということ、すなわち『森は海の恋人』であることを、日本人は昔からこのことを知っていたということです。
災害の本質
川というのは時々大災害を起こしますが、それで土砂が供給され九頭竜川の平野も越後平野もできたのでしょう。沖積平野は耕作しやすいとか舟で移動しやすいとか飲み水が得やすいということで、皮肉なことに災害に遭いやすいところほど人が住み着きやすいわけです。まさに矛盾するところで人間が頭を使い文化が生まれてきたのだと思います。災害に遭うことを覚悟して住んでいるわけですが、その災害をどうやったら減らすことができるかです。
鮎の食み跡の写真ですが、苔が厚くなるとおいしくない。そこで時々洪水が起こり、石が流れ転がって苔がはがれる。それが再び2,3日で生える。この新しい苔がおいしいのです。川の生態系は時々洪水が起こることを前提に作られてきた。人間はここ50年ぐらい、ダムを造り洪水を起こさせないようにしてきました。川の生態系をここ50年くらいですっかり変えてしまったのです。
私が学生の頃、高度経済成長時代ですが、洪水は無駄に流れているのだからそれをため込んで使えば一石二鳥と考えられていました。しかし、川の生態系を考えれば、洪水だって必要なのです。時々攪乱が起こってくれることは必要なことで、川には無駄な水は一滴も流れていないのだということです。かつて、新潟の水を関東に持って行こうという計画がありましたが、そんなことはやるべきでないのです。
川とは?
川とは?
地球における物質循環の重要な担い手であるとともに、人間にとって身近な自然で、恵みと災害という矛盾の中に、ゆっくりと時間をかけて、地域文化を育んできた存在である。
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<いままでの定義>
河川とは、地表面に落下した雨や雪などの天水が集まり、海や湖などに注ぐ流れの筋(水路)などと、その流水とを含めた総称である。
私が川をどう考えているかですが、「地球における物質循環の重要な担い手であるとともに、人間にとって身近な自然で、恵みと災害という矛盾の中に、ゆっくりと時間をかけて、地域文化を育んできた存在である」と見ています。
私が習った河川工学の教科書における川の定義は、「河川とは、地表面に落下した雨や雪などの天水が集まり、海や湖などに注ぐ流れの筋(水路)などと、その流水とを含めた総称である。」というものでした。確かに水循環は考えている定義ですが、ダムについては良心の咎めがなく作ることができる定義です。
ダムとは?
日本の場合、水は1年たてばちゃんと循環してくれます。ただダムは川の物質循環を完全に遮断するものです。土砂が満杯になったらどうするかは考えずに作ってきています。100年間の堆砂を見込んでさらに容量を確保していますが、日本のほとんどのダムは堆砂計画の予定よりずっと早くたまり続けています。佐久間ダムは50年たった現在、1/3ぐらい土砂が溜まってきており、数百億円をかけて何とかしようということになってきています。佐久間ダムができたとき日本の経済復興はこれでなんとかなると大喜びしたダムでした。それが、わずか50年で天竜川は悲惨な状況になっているのです。
しかし、狭い国土に1億2700万人を住まわせようとすれば、やはりダムは必要であったろうと思います。その時、川にお願いしてダムを造らせて下さいという態度で造ったか、あるいは、ダムサイトと見れば全てダムを造ってきたのかの差がいま出ているように思います。ダムのない川はほとんどありません。しかし、まだダム計画がいくつもあるのです。
7月13日新潟水害の状況
新潟の7月13日の状況ですが、400から500平方キロメートルの区域にものすごい豪雨がありました。五十嵐川・刈谷田川という信濃川の支川です。長野からきた信濃川の水は大河津分水路で全部日本海に放流され、その下流には一滴も信濃川の洪水は流れません。その大河津分水路の下流で、この2支川は信濃川に合流しています。そして、刈谷田川と五十嵐川が合流する途中で中ノ口川が分派しています。それがまた下流で合流して
図2
五十嵐川の上流に笠堀ダムと大谷ダムがあり、刈谷田川の上流に刈谷田川ダムがあります。この流域に400mmを超える豪雨があって、川は完全に計画規模を遥かに超え、至る所であふれ、あふれた結果堤防が切れて、大惨事を引き起こしたということです。笠堀ダム地点では70mmを超える雨が2時間も続いています。
破堤地点は五十嵐川では諏訪という地点、刈谷田川は中之島というところです。53平方キロメートルにわたって氾濫し、死者が15名、全壊は30棟、半壊が129棟、一部損壊が95棟となりました。
中之島の破堤地点では川が大きく左側にカーブしており、湾曲地点で右岸側にどんどんあふれていました。そのぶつかった水が反転した左岸側で破堤しました。そこには1602年に作られたお寺があり、そのお寺が吹っ飛んでしまいました。越流して破堤したのですが、お寺は5、6分で全部壊れてしまったとのことです。高さが約5mの堤防が一気に壊れ、家を完全に破壊してしまった。破壊された場所には土嚢が積まれておらず、水防活動の形跡がほとんどありません。それが一つの問題点です。
写真2 刈谷田川・中ノ島破堤跡の池と飛ばされたコンクリと護岸
(2004.7.25 大熊撮影)
越流して水が落ちてくると下の土を洗堀して、「押っ掘」という池ができます。その池の端まで堤内側にあった護岸が飛んできています。堤防が高いということはそれだけ守ってくれるということですが、逆に破堤したときにはものすごい力で破壊するということです。堤防は高ければいいというわけではなく、ほどほどの高さがよいということです。ここで、全壊家屋が15棟、半壊家屋が37棟です。あたかも、空襲を受けたような状態でした。こんなに多くの家が壊されているのは私の水害調査経験では初めてのことです。
刈谷田川の上流の平野に出る手前でもかなり破堤しており、それが下流にとってはかなりの遊水効果になっています。ダムに匹敵する以上の調節効果があったと考えています。今回、改修して破堤しなくなるとこの水が全て下流に行くことになってしまいますので、その点注意が必要です。
破堤した地点の右岸側ではオーバーフローだけだったので、それほど被害は大きくありませんでした。床上浸水もあったが、泥も少ない。水防用の麻袋がぜんぜん使われずにそのままの状態で置かれていましたが、これはショックでした。こんな無様な水防活動だと、新潟の水防活動はもうダメなのかという感じです。
生活再建支援制度の問題点
五十嵐川の破堤氾濫ですが、破堤地点には家がなく少し離れたところに新興住宅地があります。ここでは全壊が1軒、半壊が55軒ですが、ほとんど全壊に近い状態です。福井県が生活再建支援制度で沢山お金を付けたので、新潟県も同様の制度を設けました。国の支援金は所得制限500万円以下となっていますが、今時、年収が500万円以下いう人は非常に少ない。家は解体せざるを得ないのですが、解体費用だけで100万円くらいになります。国の再建支援制度ではその解体費用ももらえない人の方が多いのです。この箇所で仮に破堤しなかったとすれば、下流のどこかで破堤した可能性は高いわけで、この破堤した箇所の人の犠牲により被害を分担してもらっているわけです。全流域であふれていたと仮定すれば全流域が被害を受けるということになるが、今回は局部的集中的に激甚な被害を与えているわけで、そのような被害は税金できっちりと補償すべきであると考えます。豪雨から3ヶ月たっていますが、半壊の家でも修復に1千万円もかかるということでまだ住めない状況です。
五十嵐川・諏訪地点の破堤原因
図3 五十嵐川・諏訪地点の基礎地盤柱状図(出典:新潟県提供)
破堤した左岸側は内カーブで水流が当たらないところですが、水漏れがあったところで、水防計画上は危険度Aランクとなっていました。破堤の仕方をどう考えるかですが、どういう現象で破堤が起こったかというと、堤防の真下が砂礫層となっています。洪水になるといつも水が噴いていたという証言があります。砂礫層も堤防が低ければ水圧が低くそれほど問題とはなりません。堤防が高くなると水圧が高くなるので、砂礫層が問題となってきて、弱点が顕在化するということです。こうしたところを水が通らないようにすることは20年前までは大変難しかった。昔は礫があると矢板などが簡単に打ち込めなかったが、今では連続地中壁工法や矢板工法を簡単にできるようになっています。水防計画上Aランクとなっているところはどんどん強化していくことが重要と考えています。堤防の高さはそれなりに高くなっているので、これからは堤防を強化していくことであると思います。
阪神淡路大震災では高架橋がずいぶんばたんと倒れたので、せめて橋や高架橋がぐずぐず倒れるように補強を一所懸命やっています。堤防の補強も同じようにやるためには金の回し方が問題です。どこを優先するかです。
新潟では天井の上まで水が来ました。福井の場合には道路から1.62mが一番深い場所だったようで、床上40〜50cmぐらいで、起き上がれば息ができます。新潟の場合には寝たきり老人はどうしようもなく、12人が水死という悲惨な状況になりました。急激な破堤により逃げる余裕がなかったこともあります。
避難勧告・避難指示のタイミング
下流の方の中ノ口川と信濃川水位ですが、中ノ口川は計画高水位を十数時間超えた状態でありました。本川の信濃川は計画水位よりも低い状態であり、派川のほうに流れが行き過ぎたということです。白根というところでは避難勧告がでています。上流で破堤していなければ、白根あたりで破堤していたかもしれません。白根のハザードマップは私が座長で作成しましたが、このマップが役に立たなかったことが今回分かりました。ハザードマップを作り直す必要があります。三条でも中之島でも避難した小学校や中学校の体育館が水で完全に囲まれ、ヘリコプターで救出しなければなりませんでした。食事も水もない状態でした。地震と水害の避難場所は変える必要があります。
足羽川の破堤状況
足羽川では、上流でものすごい氾濫があり、これが下流にとってはありがたかったといえます。大きな遊水効果があり、ダムがあったのと同じ状態でした。もしかしたら、それ以上の効果かもしれません。福井平野に出てきたところでは意外と洪水の水位が低く、平野に出てきたときにはかなり洪水の規模が小さくなっていたのではないかと考えています。にもかかわらず、福井市に入ってきて越流氾濫が起きた。市内の橋脚や工事中の箇所が堰上げの要因になったのではないかと考えています。
写真3 足羽川上流部 山間部はいたるところ氾濫している
春日地点の場合、越流開始が12時で13時30分ころということで、その間90分ありました。新潟では数分から十数分で破堤してしまった。時間がかかれば逃げることが可能でした。春日地点は堤防の高さも3mということで、3軒の家は破壊されましたが、高さが低かったことでそれほど激流とはならなかった。堤防の脇の道路が舗装されていて、掘れなかったことが越流して破堤するまでに時間がかかったということだと思います。氾濫量が少ないことで被害が軽かった。泥の堆積もそれほどない。乾燥した状態で厚さ2から3cmだから、新潟の乾燥した状態でも20cm程度と比較するとかなり少ないといえます。堤防の低い状態で破堤した場合には被害は軽いということです。
ダムについて考える
多目的ダムで洪水調節をやろうという考え方が出てきたのは大正時代の終わりです。東大の物部長穂教授(1888〜1941・内務省土木試験所長兼東大教授)が大正末に導入しました。外国のダムを参考にしております。外国のダムは1年分の全流量をため込むほどの規模のダムでした。ところが日本では、ダムの規模が大変小さいという違いがあります。横に流域面積・縦に洪水調節容量をとって・ダムで何ミリまで溜められるかというのが図1ですが、ほとんどの日本のダムは100mm程度しか溜め込めません。流域に降った雨を何ミリまで溜められるかであるが、新潟の五十嵐川の笠堀ダムは124mm、大谷ダムは245mm、刈谷田川の刈谷田ダムは135mmまで溜められます。これは全体雨量の何パーセントまで貯められるかというと、五十嵐川の全洪水量のうちダムで貯められるのは23%にしかならない。刈谷田川ではわずか4.4%にしかならない。今回の雨量は400mmを超えているので、ダムの貯められた量は五十嵐川で十数%、刈谷田川では4%以下であると思います。ダムができているのに何故水害になったのかと住民は疑問を発していますが、ダムは洪水のほんの少ししか貯められないということです。ダムは豪雨を防ぎきれないという限界を話すのですが、なかなか理解してもらえません。ダムが巨大な偉容を誇っているのと用地買収などでダムができたら水害は起こらないと説明されていたことが原因でないかと考えています。だから水防活動に関する熱意も減っているといえます。今回の水害では、ダムは持っている機能は十分に果たしたと思います。ダムが貯めた水量分の水が下流に流れていたらもっと大変であったと思います。しかし、ダムがあったけれども今回の破堤を防ぎきれなかったことは確かであり、ダム建設に数十億円の金をかけてきて、結果として今回のような大災害を起こしているわけですから、治水計画を採点するとしたら零点ということになります。
図4 ダムの洪水調節容量と流域面積の相関
実は3つのダムとも碓砂計画よりも早く碓砂しています。これらのダムの100年間の計画堆砂量に対する堆砂率を見ると、7・13洪水後で笠堀ダム92%(完成後40年)、大谷ダム34%(同11年)、刈谷田ダム107%(同24年)です。いずれ土砂で満杯になることを考えると、長期的にはダム依存の治水から脱却すべきと思います。
土木技術の三段階
私は土木技術の担い手による分類をしているのですが、次の三段階があります。
@私的段階、A共同体的段階、B公共的段階、です。
この3つがうまくかみ合うといい技術が展開するのではないかと思います。水害対策で見れば、個人的段階は自分の家を高床式にして被害に遭わないようにしようということであり、共同体的段階では村落共同体で水防活動や水害防備林を育てたりすることです。公共的段階では大きなダムを作ったり堤防を作ったりすることですが、明治以降公共的段階だけに特化し、個人的段階や共同体的段階をきちんと育成してこなかったという歴史があります。私的段階と共同体的段階がどんどん衰退してきています。他の分野、例えば教育の分野でも同様です。
図5 土木技術の三段階U(技術の担い手による分類 Three Stages of River
Engineering U)
[第U類] @私的段階………小技術 Individual Action
A共同体的段階…中技術 Community Action
B公共的段階……大技術 Public Action
53年当時の新潟の水防活動
三条の破堤地点ですが江戸時代からある家は皆高い。床下浸水にもなっていない。しかし、C社の工場では数十億円の被害を出しています。すぐそばの高床式の家に学ぶべきではなかったかと思います。
53年の水防活動の一例では、むしろを張って越流させている。むしろを張ってしまえば越流しても破堤しません。水制の一種ですが「かまくら」というのを20分程度で組み立てて、10分で川に入れて、流速を抑えます。流速が毎秒2mを超えると洗堀がおきます。2、3割流速を抑えれば洗堀が起きません。53年当時は新潟ではこうした水防活動が至るところで行われていました。最近よく使われている1トン土嚢といわれるものは、復旧にはよいのですが、重すぎて水防活動では使えません。それから橋にゴミが引っかかります。最近は見たことがないのですが、洪水の時にこのようなゴミをとることも水防活動です。 写真4 昭和53年6月洪水渋海川における水防活動 「かまくら」
水防五訓
水防五訓
1.水防は、地域の守り、地元の仕事。
1.水防は、日ごろの準備と河川巡視から。
1.水防は、危険がつきもの、必ずつけよう命綱。
1.水防は、我慢が肝心、一時の辛抱、大きな成果。
1.水防は、減水時の破壊多発、油断大敵。
(1991・5・19 大熊作成)
「水防は、地域の守り、地元の仕事」というのは、左右岸、上下流の対立があるから、県とか国の仕事ではなく、市町村長の責任のもとで行わざるを得ないということです。「日ごろの準備と河川の巡視」というのは、どこが危ないのかはある程度分かっているということです。今日ではかなり高い技術も持っているので、今日の新しい技術を使って危険箇所をどう潰しておくのかということが大切です。水防計画は毎年厚い書類を作ってきていますが、そのような考えが足りなかったように思います。次は、水防活動は「危険がつきもの」であり、必ず命綱をつけて行動すべきということです。「水防は、我慢が肝心、一時の辛抱、大きな成果」というのが一番難しい。逃げるタイミングをどこに置くかです。オランダのハンス少年の堤防を守った話がありますが、堤防の上20cmを超えるオーバーフローになれば逃げた方がよいのではないかと思います。逃げるタイミングは水防団長の決断が問われます。最後の「減水時」ですが、水位が一気に低下すると堤防が欠けやすくなります。そこに水が当たると破堤しやすくなりますので、水が引き始めたからといって、安心してはいけません。
個人水防心得五訓
個人水防心得五訓
1.調べておこう、自宅のまわりの氾濫実績。
1.大雨きたら、まず明かりと水と食料の準備。
1.ハイテクの自動車浸水に弱し、車での避難、要注意。
1.濁水の下の凹凸みえず、片手にころばぬ先の杖。
1.氾濫の引き際に、泥・ゴミ掃除忘れずに、後始末大変。
(1992・5・29 大熊作成)
次は、個人水防の心得ですが、自分の家の周り過去の氾濫実績は確認しておくべきです。五十嵐川の新興住宅街では、過去の氾濫に対する関心は全くなく、ダムが2つもあるから絶対安心だと思って土地を買ったようです。「まず明かりと水と食料の準備」ですが、お腹がすいていて判断するのとお腹がふくれて判断するのとでは全然違います。昔はすぐにご飯を炊いておにぎりにして準備しておくということでした。「ハイテクの自動車浸水に弱し」ですが、今回の地震では車があって非常に助かりましたが、水害の場合にはほとんどダメです。今の車は窓の開閉も電気で動くので、電気がショートしてしまうと窓が開きません。自動車グッズに窓を破るハンマーが売られているので常備しておくべきです。「濁水の下の凹凸みえず」ということですが、勝手に歩いて、足を取られて水死する人もいます。必ず棒を持って、低いところを探りながら歩くべきです。「氾濫の引き際に、泥・ゴミ掃除忘れず」は、53年の水害の時には、ほとんどの浸水した家では男手が残っていて、床上浸水が引くときに箒で掃いてきれいにしていました。今回の場合それがほとんど見られませんでした。避難しっぱなしで泥が何十pも貯まってしまったということです。家が流されずに大丈夫であれば戻ってきて掃除した方がよいのです。避難命令をどこまで聞くかですが、正直、避難命令は絶対ではありません。最終的には個人の判断で責任を全うすることが必要なのではないかと思います。そのためには『在宅避難』ということも視野に入れて、避難を考えるべきでないかと思います。
7・13新潟水害の特徴と教訓
・計画規模を超える洪水の発生で各所で越流していた。
・高い堤防の急激な破堤による激甚な被害が集中した。
・高齢者を中心として水死者が多かった。
・越流だけなら被害は小さい。
・ダムはそれなりに機能したが、治水計画の補助的存在で、水害を防ぐまでの機能はなかった。
・上流での破堤は下流にとって遊水効果があり、ダム以上の機能を有していた。
・下流の派川・中之口川で計画高水位を超える洪水が長時間続いた。
・水防活動は、昭和53年水害と比べるとかなり衰退していた。
・昭和53年水害では見られなかったボランティア活動が盛んであった。
<今後の対策>
・計画規模を超える超過洪水に対しても責任を持つこと。
・堤防の高さをこれ以上高くすることなく、越流しても破堤しないように堤防を強化すること。
今回は計画規模を完全に超えた水害だから、行政の責任が水害裁判的に問われることはないと思います。しかし、水害を起こさせないために多くの税金を払っているのですから、結果として激甚災害となってしまったことは問題だと思います。越流だけならそれほど大きな被害とはならないのですから、急激な破堤を起こさせないことが肝心です。ダムは治水計画の補助的存在であり水害を防ぐというところまではいっていないということです。上流での破堤は下流にとって遊水効果があり、ダム以上の効果を有していたといっていいと思います。今後、上流の河川改修が進み、上流の洪水が全て下流に来てしまえば下流はさらに大変になるということです。そのことを考慮しなければなりません。むやみに水害が起きたから起きた箇所を完全にしようという考え方だけではだめです。新潟の場合、中ノ口川では計画高水位を70cmも超え、その状態が17時間も続きましたが、幸い破堤しませんでした。そのことをどう考えたらいいかです。
水防活動は、昭和53年6月の水害と比べて、かなり衰退していました。一方、それを補うかのようにボランティア活動が盛んになっています。ボランティア活動それ自体は大変いいことですが、水防活動が衰退していることは問題です。
図6 「鋼矢板を用いた堤防補強技術」出典:鋼管杭協会 2000.1.1
堤防強化法はあるか?
計画規模を超える超過洪水に対しても責任を持つ必要があると考えますが、どうしたらいいかです。現在の堤防はそれなりに高くなっており、これ以上高くする必要はないと思います。むしろ越流しても破堤しないように堤防を強化することが大事だと考えます。流域全体ではそこそこにあふれても破堤を起こさせない方法はあると思います。計画高水位の上に余裕高というものがあります。ダムが今はできない。そのできない分を堤防を強化して余裕高まで食い込んで洪水を流せば、ダムで貯留する分をほとんどクリアできます。信濃川の治水計画でも、ダムによる計画どおりの洪水調節は今後100年たっても達成できません。私はその分を余裕高に食い込んで流せばよいと主張しています。余裕高の高さを流量で段階的に決めていますが、科学的でないと思います。畳堤で余裕高を稼いでいる例もあるぐらいですから、再検討する必要があると思います。
図7 連続地中壁 TRD工法協会パンフレットより
堤防の強化法ですが、連続地中壁工法(Trench cutting RE-mixing Deep wall
method:TRD工法)では、堤防の中に少し堅い地中壁を造る。現在の堤防は1平方センチメートル当たり2,3kgの荷重にしか耐えられません。コンクリートは1平方センチメートル当たり200〜250kgまで耐えられるが、それほど強いものはいらない。連続地中壁は1平方センチメートル当たり10〜20kgあれば十分でしょう。これで砂礫層の透水性を遮断することが可能です。この方法では斜めに地中壁を入れることも可能です。
水害防備林 図8 水害防備林
筑後川の支流の城原川では、堤防を部分的に低くして越流させる「野越」というものが、江戸時代から9箇所もあります。その野越の背後には水害防備林が設けられています。これはきわめて安全です。ところが上流にダムを計画し、こうした越流箇所をなくそうとしています。堤防を簡単に破堤させないため、1997年改正の河川法第3条には樹林帯が入ってきました。水の勢いを殺して土砂を樹林帯の中に残していく方法で、水害防備林そのものです。しかし、これを具体的にやろうとする計画はまだありません。土でできている堤防はそれなりに強いといえます。ちょっと補強すれば相当に強くなります。
また、もし越流して氾濫するとしても、家を高く作っておけば心配ありません。現在、日本のほとんどの家は30年で造り替えられています。補助金を出し、高床式にすれば30年で床上浸水対策は完成します。ダムを作るのに40年かかる例もあるのと比較するとずっと早く対策が進みます。雪国では、雪害対策として固定資産税の減免と市町村の補助金で、この20年ぐらいでほとんどの家が高床式になっています。
図9 計画高水位と堤防余裕高
堤防を越えて溢れた水への対処の仕方
◆被害を出きるだけ小さくするために、床上浸水にならないようにしておく。
◆住居を高床式にするため、固定資産税の減免や補助金を出す。
◆住居の建て替えは従来30年程度であり、30年程度で確実に実行できる対策である。
質問
堤防の外側の水漏れ
A:今回の水害では日野川、江端川では漏水だと思うが、堤防の外側が10mにわたり崩れました。外側の堤防がぶよぶよになったが、そのような事例はあるのでしょうか。
大熊:外側とは専門的には堤内側と理解していいと思うが、そのような事例は沢山あります。堤防に上っていこうとすると堤防法先がぶよぶよで上れないことが多い。そこで、法尻にドレーンというもの(石を詰めたようなもの)を入れておくと、水は出て行くが土は出て行かないので安全です。
そのような堤防をどう補強するかということですが、技術はあります。しかし、堤防強化ではなかなか予算がつきません。ダムだとすぐ予算が付きます。補助金のあり方に問題があります。
足羽川の自慢の桜並木は堤防に悪影響があるのか
B:福井の場合、足羽川には自慢の桜並木があるが、並木は堤防にとって良くないのでしょうか。
大熊:江戸時代から論争があります。桂離宮の場合、ケヤキの大木があり、竹がびっしり植わっています。びっしり生えていればそれなりに強い。風で揺れて倒れたときに堤防を壊してしまうというのが一番嫌われています。桜の場合は50から60年で根が腐ってくるということが嫌われています。逆に、木があると土嚢などを積むときには役に立ちます。板を木と木の間に渡しその後ろに土嚢を積むと楽です。今は、堤防として必要な断面積は確保しその後ろに土を積んで木を植えるということで許可されています。堤防としても幅が広くなり強い堤防になるのでそれはいいことだと思います。
ハザードマップ
C:ハザードマップが余り役立たなかったということですが、公民館単位でマップがあると啓発にはなると思います。福井県内では敦賀市と福井市がハザードマップを作ろうとしています。
大熊:新潟では2箇所しかありません。そのうちの1箇所は私が座長をした白根という地区でした。白根は完全な輪中地帯で、信濃川や中ノ口川が氾濫すると、上流地区では水深1mくらいですが、下流では2階まで水が来ることになります。始めて作ったので、不動産屋にいろいろ聞かれましたが、出すことに意義があるということで出しました。しかし、今回住民に聞いてみるとほとんどハザードマップがあることを覚えていない状態でした。今回の水害で避難勧告が1052世帯に出て、取りあえず小学校に集まるということでしたが、どこに逃げればいいかなどは全く徹底されていなかったという状況でした。もう少しきめ細かくすべきだと考えています。最低限、自分の家の周りがどのような氾濫状況になるかは知っているべきだと思います。
ダムを造らないとだめなのではないか
D:福井市は市街地があふれたが、市役所側があふれていれば大変なことになったと思います。地下に重要な設備がありそのようなところで越流させ、水が入るといったいどうなるのでしょうか。また、上流で越流させればよいとの見解だが、田畑では大豆なども作っており、どこででも越流させればよいとは思いません。今回の足羽川の流量を見ると、とても堤防が耐えられる状態ではなかったと思いますが見解を伺いたい。私としてはどうしてもダムを造らないとだめなのではないかと思います。洪水になりやすいということ渇水にもなりやすいとのことだが、ダムで維持水量を貯めて、農業用水とかに利用すべきと思います。
大熊:どれくらいのスパンで考えるかですが、治水計画・利水計画は30年、40年のスパンで考えていく必要があります。このままいくと、あと50年で日本の人口は約8千万人になり、利水需要は減っていきます。渇水の場合、どれくらいの渇水に耐えるようにするのかが問題です。ある段階以上の渇水まで守ることは不可能です。治水もある段階から先は堤防から溢れざるを得ません。それを全部守れといわれても、正直出来ないというほかありません。足羽川の場合、現計画のダムサイトでは無理で、福井平野に出る直前のところで巨大なダムを造って、美山町から上流を全部水没させるということであれば、あるいは可能かもしれません。アメリカの場合には、氾濫する地域を全てダムにして水没させてしまうようなこともやっています。そこまでやって守るのか、30年に1度くらいの床下浸水くらいを受忍して治水計画を立てるのか、どちらを選択するかだと思います。渇水も10年、20年に1度の渇水は受忍するのか。どこまで我慢するのか。受忍限度というものを提示しないで、渇水も治水もすべて守ってくれというのは、日本の今の財政状況では無理なのではないかと思います。具体的な受忍限度の議論をやっていくべきではないでしょうか。
D:足羽川は2、3mも住宅よりも高いところを川が流れている。それに対応すべきではないか。
大熊:住宅より高いところを流れている場合は、当然、私も対応すべきと思っています。しかし、ダムを造って対応できるものではないと思います。今回、足羽川は河床を掘削して河床を下げる計画ですが、それはある程度やる必要があるとおもいます。しかし、その分下流は洪水の危険度が増すわけですから、下流でどう対応するかを考えておかなければなりません。福井市内の河床掘削だけでは終わらないとおもいます。
渇水への対応
D:渇水についてですが、河川の動植物の生態系に問題があります。平成6年には足羽川は水が全く流れていないほどひどい渇水でした。
大熊:渇水が起こることも前提条件で川の生態系は成り立っています。そこに一定の維持水量を流すということのために、ダムを造って生態系を壊すというのは矛盾しているのではないかと思います。今までの維持用水は一定量しか考えていません。しかし、川というものは流量が変動すべきものであると考えます。ダムから放流する維持用水もそれなりに変動させるべきです。発電用ダムの場合、一定の量の維持用水以外は全部取ってしまっています。それは川ではありません。取水量は上から流れてくる量の何割かを取り、下流に流すということをすべきであると思います。
講師紹介
大熊 孝 氏
1942年、台北市生まれ。東京大学工学部土木工学科卒業.同大学院博士課程修了。現在、新潟大学工学部教授
【主な著書】
「「技術にも自治がある―治水技術の伝統と近代―」(農文協)、「利根川治水の変遷と水害」(東大出版会)、「洪水と治水の河川史」(平凡社)、「日本土木史」(技報堂・共著)、「川を制した近代技術」(平凡社・編著)、「日本のダムを考える
」(岩波ブックレット)など著書多数