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   春の大掃除

毎年、必ず言い出すんですよね。
春の大掃除──いや、ご町内の一斉清掃じゃなくってさ。
自発的にうちの中かたづけようってえの。

そもそも、狭い家でスペースが限られているんだから、空いている空間に右のものを左へやって、はい終了、そんな器用なまねはできません。
現実は、つまり玉突き。
企画中なのは、二階にある予備の食器棚を階下に下ろし、その上にTVを載っけること。
予備の食器棚の中の食器はなるべく始末して、不要なものはもらってくれる人に譲る、お嫁にもらってくれるところがない物は、この際涙を呑んで始末する。 そして残った食器は、いまTVが載っている小振りのタンスを二階に上げてそちらへ収納。TVの下へ来る棚の中にタンスの中身を入れ替え。

──こう書いてみると、要するに台を入れ替えるだけで、どうしてそんなに労力を使って何無意味なことやってんの? 
と突っ込まれそうだが、そもそも話は棚の方が容量、強度ともにかなり大きいから、入れ替えようということになったわけです。

こんな具合に、わが家では、春先に大騒ぎして家の中を引っかき回すのが恒例になっている。
進学なんかで家族が家を出る分には、ものが減るのだから問題はないのだが、今回のような、「玉突き」は、大変な思いをして、大型家具を階上階下と移動させ、 しかも内容物の整理、廃棄・・・・・ときには、廃棄した物をまた戻したり・・・・結局、疲ればかりがどっと溜まり、それに見合うだけの効果は大いに疑問視されるような、 「骨折り損のくたびれもうけ〜」 になる危険性が多大にあります。

大抵、毎年家具の入れ替えをするときには、きまってこういう会話があります。
「これできっと良くなるわ」
「今までになく便利」
「もうこれで、絶対に動かさなくてよくなるから」
何回そんな言葉を交わしながらやったことか。

大体、わたしは性格もずぼら、勤勉の正反対を地でいく人間です。
こういう企画は母が出してくる。
頭の中で、あっちの和箪笥を3畳間に入れて壁に沿わせて全部置くと、こっちの押入が空くからあそこの服をこっちへ吊れるし・・・・・
そういう100%の希望的観測に、ついうかうか乗ってしまうわたしも悪いんだけど、妙に説得力があって、いかにも生活が効率よくなりそうな気になってしまいます。

今までの何度もの挑戦と敗退から学んだ教訓は
その1 すべてを一日で片づけようとすると失敗する
その2 民族の大移動は避ける
その3 移動させるだけでは根本的解決にならず
その4 思い切った廃棄、それが最大最良の解決策

「玉突き」の最大の欠点は、とにかく片づけてしまわないと足の踏み場もなくなり寝る所もなくなる。しかも、どちらを見ても雑然混沌として片づかないうちに夕食の準備とかの時間になってしまって、 もう後はパニックになるか、ど〜〜んと気分的に落ち込んで厭世的になるかのどちらか。

絶対量を減らすこと、まずはこれが第一かと。
今年は食器を減らすぞと決めた。
6客揃いだから、何かの折りに役に立つとっておいたコーヒーカップ、半端な数になったガラスのコップ、やけに大きな盛り皿、数え上げるだけでも頭が痛い。

世の中には、捨て上手な人がたくさんいる。
整理の方法や、いかに不要なものを見定めるか、そのノウハウを読んだり聞いたりするが、そのときはなるほどと思うものの、いざ実行の段になると、自分には越えられない一線がある。
どうやら春の大掃除とは、ものの整理整頓ではなく、自分の脳内の整理整頓、不要物の廃棄というのが本当に意味するものであるらしい。

2005/04/06(水) 記

   エイプリル・フール狂想曲

「ダンナとけんかした、もう我慢の限界。家を出るわ」
昨日、こんな書き込みが舞い込んで来ました。
彼女、よくできた人間で、結婚以来舅姑との同居も厭わず、ご主人とは相思相愛、家業もまめに手伝うしそれ以外にも地区のおつきあいや各種の会にも顔を出す、いわば良妻の鑑みたいな人。 その彼女に曲がりなりにも家を出る決心をさせたものって・・・・・・
上記の書き込みがあって暫くして、次の書き込みが。
「○○ホテルに宿泊予約したから、家から問い合わせがあっても言わないでね」
おお、これは本格的だ。
原則として夫婦げんかは犬も喰わない主義のわたしなのでな〜〜んも言いませんけど、これでいいんか?
私以外にも彼女からメールをもらった人もいたらしい。メールを見てびっくりして、「ホテルに行ってあげようか?」とレスした人もいたし、 「ダンナとけんかなんて。うちのダンナは脳出血で入院中や!」と切り返した人もいたらしい

本気にした人も、いっしょに乗って浮かれた人も、半信半疑で口出しを控えた人も・・・・・・
かくして四月一日のラプソディは終わりを告げたのでした。
2005/04/01(金) 記

   春は悲喜交々

時ならぬ大雪、目を疑った朝の光景。
後一週間で春分だというのに、なによこれ!
でも、さすがに昼からは寒さも緩んで雪も斑に解け出しました。

この季節、毎年天候は一定しないけれど、必ずあるのが合格!という喜びと・・・・・・残念な結果。
少しでも関わりのある人は全員合格してほしいのが人情だけれど、現実はそうはいかない。
今年も勝ち組と負け組ができてしまいました。
勝ち組には、はしゃいで「おめでとう」を連発できるのですが負け組には報告を聞いても声をかけ辛いものです。 ある学生から、不合格だったらとにかく触れて欲しくないものだよ、と言われました。
何とか、残念な気持ちと、不合格は実力がなかったからじゃないんだよ、という気持ちを伝えようと、つい「あなたほどの実力があったら・・・・・・」とか 「運不運もあるし・・・・・・」とか「試験は水物だから・・・・・・」などと余計なことを口走ることが幾度かありましたが、ずーんと反省。
それより第二志望であろうと、私大であろうと、進学が決まったことを素直に祝ってあげるのが最善なんだって。そうなんでしょうね。

先週のこと、母が仲良しの友達と4人で九州の方へ旅行しました。
娘と二人で気楽な数日を過ごし、母が帰ってくる日に何か作っておこうと殊勝な気を起こして、二人でシフォンケーキを焼きました。
かなりふんわりいい感じに仕上がって、これだったらおばあちゃん喜ぶね、などとはしゃいでおりました。
夜も8時過ぎ、母が帰ってきました。帰り道でひと騒動あったのですがその話はまた次の機会に。
それで、出してくれたおみやげの一つ。
「はい、これ神戸でシフォンケーキ買ってきたわよ、あんまり美味しそうだったから」
─────たいてい、こんなものです。

ああ、春は悲喜こもごもですね。

2005/03/15(火) 記

   東と西

きつねうどんの話です。
おなじみの即席きつねうどん、私の前に2種類のきつねうどんが並んでいます。 まったく同じように見えるのですが、一体どこが違うのでしょうか? 実は関東バージョンとが関西バージョンなのです。

一般的に関東のうどんは「醤油の中に麺が浮いている」といわれるように、出汁は色が濃く、関西のうどんは「だし汁の中に麺が坐っている」と称されるように出汁が薄いのが特徴。
どちらが美味しいか? それはもう好みの問題ですが。
最近の発見ですが、即席うどんにもこの関東、関西の違いがあるということを知りました。
それぞれの麺のカップ側面に小さく記載されている"E"と"W"がそれを見分けるただ一つの方法です。 Eは娘に東京で買って来させて、Wは当地で購入しました。
まだ実地に試食していません。今日あたり一緒につくって食べ比べしようと思っています。中の見た目も違うのでしょうかね?
生まれ育った土地に育まれた味覚は一生その人の好みを作るといいますが、関西圏で育って関東へ移った人が即席麺を食べてなんだか味が違う・・・・・・ と違和感を持つとしたら、これまた何とも微妙で面白い話だし、即席麺にまで東西バージョンをつくって、消費者の嗜好に合わせて販売促進を計るなんて、 とても日本的な発想だなあと感心してしまいます。

2005/03/03(木) 記

   自己責任で行ってらっしゃい

今日の携帯のやりとりです。
「おふくろか、ちょっと明日から一週間携帯通じんで」
「一週間って、どっか行くの?」
「ちょっとロンドン行って来ようかと思うんや」

簡単に言ってくれました。 ろぅんどぅんだってぇ? わたしもまだ行ってないのにw
そういえば去年からそのうちヨーロッパ行って来るわ、と何回か耳に挟んでいましたが、また例の「口だけ」だと思ってました。今まで海外へ行ったことがあるのはパック旅行だったし。 まあ息子もいい年なんだし、大学出るまでに(就職で拘束される前に)どこかへ思うように旅行したいと言うのも頷ける。
でも、つい根ほり葉ほり聞いてしまった。誰と行くの?どこの航空会社?何便?帰りは?
─────だってもしものことがあっても、どの飛行機かも知らないなんて、ねぇ。
宿泊先はちゃんと決めたの? どこへ行くの? お金はあるの? あっちは寒いから手袋と帽子が要るし。

そして気が付きました。向こうから言ってくれる分だけで満足しなきゃ。
子供の独立を望むと言っていながら、足を引っ張ってるのはわたしの方だった。
どこか行くいいところはない?と聞かれて、時間があったらビクトリア・アルバート美術館へ行っておいでとだけようやく言えました。

携帯から流れてくる声は、どこまで本気なのか、ちゃんと計画を立てたのか、それもわからないお気楽状態。でも、きっとそれなりに緊張しているとは思うけど。
自己責任だよ、といいながらも、それでもおかーさんは心配です。
無事に何事もなく帰ってきてね。
そして、願わくば外でしか学べないことを身につけて、一回り逞しくなって帰ってきてねと。

さて、一夜たって、やはり不安はぬぐえません。 朝になってから、もう遅いかなと思いながら(いやがられるのを覚悟で)携帯に、最小限の連絡先、使った旅行社、宿泊先の名前だけ教えて、とメールした。
出発予定は12:00。
11:30頃に電話が鳴った。息子から。
「メール見たわ、今もう飛行機の目の前や。心配なら一応言っておくで・・・・・・」
大急ぎでメモして、やっと、心から「気をつけていってらっしゃい」と言えた。

HPの書き込みをしていてはっと時計を見ると12:15だった。
思わずJALの国際線発着案内を開けるとJAL421便 12:13 出発済み LHR(ロンドン・ヒースロー国際空港) の赤文字が目に入った。
ああ、もう行ってしまったんだね、知らず知らずのうちにどっと涙が出た。
2005/02/16(水)記

   ローズの笛

冬休みで帰省していた娘といろいろ話をしているうちに地震のことになりました。
折しも、中越地震は記憶に新しく、スマトラ沖大地震・大津波は 連日のように報道されて、その上阪神大震災から10周年。
あまりに大規模な地震が起きているというのに、自分のところには起きるまいという、まったく根拠のない 希望的観測で毎日を過ごしていることに気がつきました。

思い返せば10年前、まだ夜も明けない暗いうちに感じたどこからともなく近づいてくる地鳴り。
目覚めた方の半分の頭が 地 震 ! と警報を発していました。やけに長く感じたP波の後に、地面がぐいと引かれたような大きな揺れが来ました。
もうこのころには飛び起きていました。
揺れがおさまるのに何秒くらいかかったでしょうか? 今にして思えば10秒かそこいらだったのでしょう。 でも必死にこの地震は遠い、遠い、だから大丈夫と言い聞かせていました。

すぐさまTVを点けましたが、最初に出たテロップは「京都地方で地震」でした。その後1時間ほどして今度は「大阪地方で地震」・・・・・・神戸が壊滅状態で情報が入ってこなかったのでしょうか。 やっと神戸が大変なことになっているとわかったのは午前8時頃でした。
神戸からはるばる何百キロも離れたこちらの地方でも震度4は越えていたのですから、地震のエネルギーは空恐ろしいほど大きかったことは容易にわかりました。 そしてあれほど長く縦揺れが続いていたのも遙か遠くから伝わってきたからだとも。

枕が長くなりましたが、関東地方でM7程度の地震が起きる確率が10年以内が30%、30年以内が70%、50年以内が90%程度といわれています。
娘が住んでいるのは都心からは離れているというものの、あっぱれ東京都。 確かに何度か行って泊まっている間にも夜間に体感できる地震が起きていました。
今までも、もし大地震が起きて連絡がとれなくなった場合どうするか、可能ならばどこに避難してどうやって連絡の手段を講じるかなど、何度か確認はしてきましたが、今回ほど差し迫って 具体的な危険性について考えたのは初めてでした。

そして今回検証した結果。娘の部屋には高いロフトがあってそこに普段使わない季節物や余分の寝具、その他何でも持ち込めるだけつめこんでいます。そのロフトの下はちょうどいいコーナーなのでベッドが置いてあります。 帰ったらまずそのベッドを移動してロフトの下から出すこと。たとえ夜半に地震があってロフトが落下しても無事なようにです。 初めは笑っていた娘もそのうち思い当たることもあってか、戻ったその夜にベッドを移動させたみたいです。

その後娘が友人と話していてもう一つ実行に移したことがあります。
笛を買うこと。
笛?
ほら、ローズの笛だよ。
そういわれてもピンと来ない私に、娘はタイタニックのローズが笛を吹いて助かったエピソードを思い出させてくれました。
遊びに来た友人はいつも笛を下げているそうです。
確かに家庭にいれば、災害があってもそのとき家には誰々がいたとわかりますが、都会地の下宿に一人暮らしていて、家族もすぐに駆けつけられなかったら、万が一瓦礫の下になっていても誰も気づいてくれない。 誰も当てにできない。誰も助けてくれない。自分で自分を助けないと。

すごいと思いました。地方から東京へ出てきて一人で暮らしている娘さんがこれだけ自覚できているなんて。
娘も早速笛を買って離さず持っていることにすると言っていました。
もちろん、未来永劫にそんな笛を使うようなことが起きないでほしいのですが。

2005/01/24(火) 記

   史上最大のジョークの種

読売新聞のコラム「編集手帳」にこんなジョークが載っていました。

ブッシュ大統領が酒場のカウンターに座った。
「ジョニー・ウォーカー、シングル」と、右隣の男がバーテンダーに注文した。
左隣の男は「ジャック・ダニエル、シングル」と注文した。
「お客様は?」と聞かれて大統領は答えた。
「ジョージ・W・ブッシュ、既婚」

またこういうのもありました。
「大統領は神童だった。十歳にして現在と同じだけの知性を有していたのだから」

さらに
(問い)神様とアメリカ人の違いは?
(答え)神様は自分のことをアメリカ人だと思ったことはない

すべて、出典は早坂隆氏の「反米ジョーク集」(中公新書ラクレ)です。

「華氏911」でもこっぴどくやり玉にあがっていましたが、世界に冠たる超大国アメリカの大統領でここまでこけにされている人も初めてでしょう。 ケリー氏との公開討論会でもしどろもどろになるなど(知性のなさで)強い印象を与えたし、日常の言動もどこか軽佻軽挙のそしりを免れない・・・・・・
実際昨年の大統領選挙戦では、特に海外メディアの下馬評もケリー優勢、海外知識人が圧倒的にケリー支持した・・・・・・のにも関わらず一般投票でも51%を獲得して、雪崩的に選挙人票もさらえとって再選に輝いてしまいました。
一説にはブッシュは抜けているが回りを固める参謀が優秀なのだとも。
24のシェリーのモデルと言われる新国務長官になるコンドリーザ・ライス氏(現大統領補佐官)を見ていると、これほどの切れ者がどうしてあの人に??と疑問を持ってしまいます。
選挙では妊娠中絶や同姓結婚に反対する「道徳的価値観」(moral value)を全面に押し出して、新保守派の票を獲得しました。
賢いやり方だと思います、なぜなら「宗教」を全面に押し出すとそれ相応の反発も予想されますが、汎宗教観に根ざした「道徳的価値観」に正面切って「それは間違っている」と反対を唱えることは誰もできないから。
たとえば妊娠中絶にしても「いかなる段階であろうと人の命を人の手でつみ取るのは犯罪」=「汝、殺す無かれ」に真っ向から「人を殺してもOK」とは言えるわけがありませんや。
この錦の御旗に対して 「女性の人権」とか「母体保護」とか「暴行による妊娠」とか果ては「経済的事情」 の上げる声のなんとか細く聞こえること。
政治的浮動票をなす多くの「良識人」たちをインテレクチュアルにではなく、センチメンタルに引き寄せる見事な作戦勝ちだったと思います。
全米を真二つに分けたといわれる選挙戦が終わり、20日に行われる二期目の就任式には全体で40億円もかけるそうです。その多くが民間の寄付でまかなわれるとはいえ、何か釈然としない思いが残ります。
イラクとの落とし前をどう付けるのか?北朝鮮とは?対中国の輸出赤字は? 問題山積、そのいずれもが一つ道を誤れば世界全体が危機に陥るかも知れない重大事項です。

その決定の鍵を握る指導者が 「知性のなさ」 でジョークにあげつらわれるなど、嘆かわしいのを通り越して、空恐ろしくさえ感じてしまうのですが・・・・・・         

2005/01/19(水) 記

   センター試験

今年もやってきました。15,16日に大学入試センター試験。
例年巡り来るものとは知りながら、当事者にしてみれば天下分け目の決戦。
これを傍観者的に語れるのは自分に近しいあたりに該当者がいないからだと知りながら、あっけらかんと話をするのは気の毒で憚られる───なんだかアンビバレンツな心境です。

折しも今冬最大の雪。北陸地方ではセンター試験日の天候がどれほど受験生の心配の種になっていることか。みな週間天気予報を見て戦々恐々としています。 もし当日に"大雪"の予報でも出ようものなら、交通機関何を使うか、果てまたマイカーで行くならどのコースを通ってどの程度早出をするか。 受験生にはいらぬ心配をかけまいと、親や教師が胃が痛くなるほど心配するのもこの天候。

センター試験が必須ならば、いっそのこと天候の心配の要らない、そして流感の心配も余り無い4月か5月にして7月ころに新学年年度を始めたらいいのに。どうしても1月にセンターを実施しなければならない根拠は薄弱だと思うのですが。
4月新年度からの逆算で行われている1月から2月末にかけての入試(高校は3月初めだけど、やっぱり寒いね)時期そのものの改革は誰も言い出さないのでしょうか? 正月休みを遊ぶ者が泣く、などとてまことしやかに唱える貧しい見解が幅を利かすお粗末さ。
受験生を身内に持った者なら、せめて受験生の外的負担を軽くしてやれるような時期的な変革を求めるのにやぶさかでは無いでしょう?         

2005/01/15(土) 記

   おもちゃ今昔

お友達のHatchさんからNYT(ニューヨーク・タイムズ)の記事、"Babies in a Grown-up Toyland"を読んで、昔ながらのおもちゃが廃れテレビゲーム等で遊ぶ今の子供たちは、子供時代を失っていくのか?玩具の変遷と子供の変化の問題点は?と頭を悩ませるお題目を振られました。
以下、内容的には少し逸脱するかもしれませんが、私なりに考えたことです。

本来子供は自分が楽しい物で遊ぶものだ。
子供が眺めて心惹かれない物、手にとって探索してみようと思わせない物は、子供にとっておもちゃたり得ない。

現在の子供は何で遊んでいるのだろう。
従来の人形や機関車やレゴブロックに代わってコンピューター・ゲーム(PSPやNintendoDSなどの携帯用ゲームを含んで)が子供たちの心を捕らえている。実にゲームメーカーは3歳児からターゲットとして視野に入れているそうである。
しかし子供がゲーム(上記のコンピューターゲームのこと)で遊びたがるのはそれが魅力的であり面白いからだ。人形や木の玩具やぬいぐるみに見向きもしないのなら、それらが面白くないからなのだ。
思い出してみて欲しい、あなたが子供だったころ何で遊んだだろうか? その当時最新のおもちゃではなかっただろうか?友人が新発売のおもちゃを持っているとそれを羨望の目で見なかっただろうか? 一時代前の古めかしいおもちゃを自分から選んだだろうか?
子供は新奇なもの、好奇心が引かれるものを欲しがる。それが子供の本性である。
ゲームの氾濫に眉を顰め、従来のおもちゃが良しとするのは大人のノスタルジーに過ぎないのである。

本来子供はcreativeである。 もしゲームなど無い環境で木や粘土や石や紙を与えられれば、いずれそれを使って遊び出すだろう。
しかし、もしそういった作られた「おもちゃ」が無い状況で子供から創造性のある遊びを引き出したいのなら大人のガイダンスは必須であろう。ただ素材を与えて後は放任するのではなく、それを使ってどのようなことができるのか可能性を示唆する必要があるだろう。
しかしそれ以上の方向性を与えてはいけない。子供がどのように素材を用いどのように遊ぶかは子供に任せるしかない。

従来のおもちゃ、それは構造が単純で動いても最小限の反復動作しかしない、壊れてもその機能の幾分かは残る。形而下の性質といえる。
それを子供に与えれば考えられる反応は2つ。 一つは「ごっこ遊び」を通して子供が想像力の助けを借りて、現実にはない架空の状況を作りその一員となることで社会性を発展させる。なぜなら子供は抽象の世界に生きているわけでは無いからだ。
人形や台所セットや電車模型セットは子供にとっては具体性をもった現実社会を模倣するものであるからで、現実には「子供」ということで参加できない社会を擬似的に体験するよすがになる物である。
残るもう一つの反応は、単につまらない、退屈だといったネガティブな反応。これは子供の発達がそのおもちゃを越えてしまったということであろう。

ゲームに代表される複雑な最先端のおもちゃ、それは複雑で微妙な構造を持つ。あらかじめ精妙にデザインされた機能を持つ。しかし壊れれば機能は完全に失われまったく役に立たない厄介者になる。 つまりこの手のおもちゃは形而上的な性格を持つといえよう。
それで遊ぶ子供は skill を身につける。規定された「遊びかた」の中でいかにすればより興奮が得られるか、どうすれば他人との差別化を図れるかを考え、情報を集め、試行する。 これもある種の創造性といわずしてなんというのであろうか。

どういう種類のおもちゃで遊ぼうとそれが子供の思考力を磨き、情緒を豊かにし、包容力のある心を培うなら、その新旧、素材、性質は問わない。子供の発達段階によってもどのようなおもちゃを好むかは(与えるかでは無いことに注意)異なるだろう。
子供が一番喜んで遊ぶおもちゃ、それが子供にとって最高のおもちゃであるような気がする。         

2004/12/14(火) 記

   あれよ、ほらあれ

いま、TVで"老い──エイジングを特集しています。
歳を重ねることに前向きになろう、と今30代にならなんとしている若い女性たちが話をしているけれど、もうその年代を疾うに越えてしまっている者にとっては、 かえってしらじらしく感じてしまう。もしかしてこれはひがみかもしれない(笑

どういうときに「老い」を感じますか、というアンケートの答えの中に、カラオケに行って次に歌う歌のタイトルが出てこない、歌詞を思い出さない、ただ「ほら、あれよ、あの人の歌ったあの歌」と繰り返すというのがありました。 そういえば、記憶力の減退にはずいぶん前から気がついていました。
映画の題名がすぐ出てこない、俳優の名前はいわずもがな。こうやって何か書こうとしていても、言葉が出てこない、ほら、もっとぴったりの言い方があったじゃない、ほらほら こんな感じ。
確かに高校生のころ、10代後半の記憶力はすごいものだったと今にして思います。今使っている言葉、基礎的知識なんて、全部その頃仕入れたものばかり。
だから、開き直りました。
新しいものを増やしていくのはなかなか大変だとしても、せめていま持っている物を保持、維持したい。
そのためにはどうしたらいいのでしょうか。 思うに、面倒くさがらずに記憶の引き出しを頻繁に開け閉めすること。
あれはどうだったかな?と思ったらとにかく思い出してみる、だめだったら改めて調べてもう一度引き出しにしまい直す。
しまい直したら余り時間が経たないうちにもう一度引き出しを開けてみる。
やらないよりもましかな、という程度だけれど、何にでも再インストは必要かなと思います。

ここまで書いていたら、番組中ですてきにお年を召された女性がその「記憶力」について話していました。
「・・・・・・確かに歳をとると記憶力は無くなりますよ、でもかわりに理解力が増すんですよ。 何かが無くなると必ずそれを補う何かができるんですよ」

なんて心強い言葉だろう。
よし、わたしも10年後今より魅力的で輝けるように頑張ろうっと。

これもいつぞや新聞で読んだことで正確な言葉は忘れてしまったけれど、とても印象的でした。
ある学者(男性、多分50代いや、60代だったか)が自分への戒めとして心に思っている言葉でした。
「20代の感性と、30代の情熱と、40代の成熟をもって仕事にあたっていきたい」
ね、いい言葉でしょ?

2004/12/04(水) 記

   台風余話、三方一両損

たとえば台風で衛星放送用パラボラが吹き落とされたとしましょう。
運悪く落ちた先が駐車場で、よりにもよって隣の部屋の人の車の上。
アンテナも壊れ、車にも疵がついたとしましょう─────この場合損害費用は誰が払うことになるのでしょう?

これは実際にあった話。事実に少し脚色してあるけれど。この話を持ち込まれた先は大家兼管理人さん。
確かに台風さえなければアンテナは落ちなかった、車がもう少し外側に停めてあれば直撃はしなかった・・・・・・のだが、ここでは仮定の話は役にたたない。
話を簡単にするために、この際保険とかそちらの関係は一切ない物として考えてみましょう。 法律談義をするのではなくて、あくまでも心情的な面から考えてみることにします。

解決その1
損害を修理する費用はおのおの持ち主が払う。お互いに責任は問わない。
(台風という自然災害のもたらした予測不能の事故。アンテナの持ち主の設置方法が間違っていたわけでもないし、車の持ち主が駐車してはいけないところに駐車していたわけでもない)

解決その2
アンテナの持ち主は車の修理費を、車の持ち主はアンテナの修理費を支払う。痛み分けということ。
(これは実現の可能性はほとんどない。───なんでおれがあいつの車をなおさにゃならんのだ?)

解決その3
お互いの損害費用を足して2で割って支払いに充当する。この場合お互いに平等な責任を認めたことになる
(落とし穴あり。 平等? アンテナの修理代と車の修理代、もしすごく差があったらどうする? アンテナの持ち主はおれの方が分が悪いと不平等感をもつこと間違いなし)

2と3はこの事故に関する共同の責任を考慮しているように見えますが、二人の損害の額が同じくらいならばうまくいくかもしれないけれど、今回はどう考えても車の方が高そうです。 それに修理費が同じくらいなら何も交換しなくてもいいんですよね。解決1で十分。
弁償責任があるかどうかは別にして、この手の事故で一番ネックになるのがどこへもやり場のない不満。
すべて台風のせいだから仕方がない。
でもアンテナの持ち主にしてみれば、駐車するスペースは他にもあったのだからもう少し離れて停めていてくれたらあたらなかったと思う。
そもそも台風の日には何が飛んでくるかわからない。たとえば木の枝とか瓦とか・・・・・・持ち主不詳の物が当たったら当然修理は自分持ちだ、それを承知で停めていたのだから自己責任じゃないの? うちだってアンテナがおシャカになったんだし。
車の持ち主にしてみれば、自分の駐車スペースに停めていたのだから落ち度はない。風がふけば落ちるような設置をしたことはいわば管理責任があるんじゃないの? とにかくこっちは新しい車だよ、おたくのアンテナが直接の原因なんだから、少しは費用持ってくれてもいいんじゃないの?

う〜〜ん、悩みますね。どちらの言い分もそれなりに理が通っている。でもお互いに何だか釈然としない不満感が残る。お互いに心情的にすっきり納得する解決法ってないんでしょうか。

落語に「三方一両損」ってのがあります。

ある男が三両入った財布を落としてしまった。あわてて奉行所へ恐れながらと届けたけれど出てこない。最初は嘆いていた男ももう金はないものと覚悟を決めた。
次に登場するのが第二の男、道で財布を拾った。なにやらずっしり。そこで根が正直な男は恐れながらと奉行所へ持っていった。
ここで現代なら男1は男2から財布を受け取ってなにがしかのお礼をしてそれで円満に解決する所だが、ここはそれでは落語のおもしろさがない。
男1はやおら財布を押し戻し
「江戸っ子だ、宵越しの金は持たねえ。取っておけ。一度諦めた金だ、拾ったお前のもんだ」
男2だって負けてはいない。
「こちとらだって江戸っ子だ。拾った金をおいそれと、はいそうですかと懐に入れられるか」と受け取らない。 三両入った財布は宙ぶらりんになってしまった。
ここで登場したのは、名奉行、大岡越前の守。押し問答を続ける二人の間に、まあまあと割って入って、自分の懐から一両取り出すと、合わせて四両にして、こう言い渡した。
「ここに四両ある、二つに割って二両ずつ取るがいい」
男1にこう言った。
「三両落として全部なくしたかもしれないのに、二両戻ってきた。よって一両の損」
男2にはこう言った。
「三両そのまま懐に入れられたのに二両だけ手に入った。よって一両の損」
そして「わしも自分の懐からいまこうやって一両出したから一両の損。よって三方が一両ずつ損をした訳だ。三方一両損ということで痛み分けじゃ」

まあ、こういうお話で、ここでは被害感情を平等にしたというわけ。落とした方も拾った方も精神的な負担を感じずに安心して二両手にできるというわけです。大岡様はお金持ちだから、まあ、一両の出費ということだけど、上に立つ者のそれなりの犠牲ということで納得ずくです。
上記の台風騒動の解決3の考え方はちょっとこれに似ています。

ところで、三方一両損というといつも思い出すのが筒井康隆のとある小説の中に登場した「三方一両得」のエピソードです。
この「一両損」を紹介した後でユニークな登場人物がこういいます。
「おれなら三方一両得にするがなあ」 つまりこの三両を三人で一両ずつ分ければいいとのこと。
曰く、「男1は三両落として戻ってこなかったはずなのに1両戻ったから一両の得」
「男2は拾わなかったら何ももらえなかったのに1両もらったから一両の得」
そこで別の人物からつっこみが入る。
「お奉行様はどうして一両もらうんだ?」 「それはそれ、お奉行様の手数料さ」───── これが「三方一両得」の顛末でした。

どんな難問にも解決法はあるもの。というか当事者間に心情的に納得のいく解決法という意味で。 それがネガティブに平等感のある一両損になるか、ポジティブな平等感を与える一両得と考えるか。それはケース・バイ・ケースになるでしょうが。 でも大抵の問題は「被害」を伴ったネガティブな性質のものと考えられるから、現実には一両損の方が適用性はあるようですね。 同じ台風で被害を受けても他人より自分の方が被害が大きいと、不運と諦めるものの、割り切れなさを感じる。少しでも責任の所在が明確な場合には次は賠償という方向に心が動く───これも、大きくひとくくりに言ってしまえば人間の自己防衛本能の現れなのでしょうかね。

2004/11/16(火) 記

   わが名はトカゲ

さて、名前のオン・パレードです
Alex(アレックス)、Bonnie(ボニー)、Charley(チャーリー)、Danielle(ダニエル)、Earl(アール)、Frances(フランシス)、 Gaston(ギャストン)、Hermine(ハーマイン)、Ivan(アイヴァン)、Jeanne(ジーン)、Karl(カール)、Lisa(リサ)、 Matthew(マシュー)、Nicole(ニコール)、Otto(オットー)、Paula(ポーラ)、Richard(リチャード)、Shary(シャーリー)、 Tomas(トーマス)、Virginie(ヴァージニー)、Walter (ウォルター) 何の名前でしょうか? 

もしかしてアイヴァン(=イワンのこと)と聞いて、あれ?と思いつくかもしれないのですが、これは今年2004年大西洋で発生した、そしてこれからするかもしれないハリケーンのリスト名なのです。確か夏にはフランシスとかアイヴァンがフロリダを直撃して一面水浸しになった映像がTVに流れてましたね。  

ことの起こりはつい2日前全国に甚大な被害を残して去った台風23号(200423)のリスト名が"TOKAGE"だと教えてもらったことから。そう言えば日本でも台風に固有名をつけてアジア諸国間の認識をスムーズに行うことにした……とかなり前に聞いたことがあります。でもあいかわらず台風○○号で通っていますが。
今朝のニュースで、海外でも23号の被害について報道されたと、アメリカの(CBSかABCかわかりませんが)ニュースが一部流れてそこでも"Typhoon Tokage hit Japan ..."としっかり言っていました。

そこで「台風の名前」で検索すると、Netmateのさまタマさんから教えてもらったサイト「デジタル台風、台風の名前」 海外では「national weather service; ナショナル・ハリケーン・センター」 に詳しく名前リストが載っていました。
でも地域によって呼び名が違っているんですね。かえって混乱しないのかな、とも思いますが発生して移動する場所が違っているから混同することはないんでしょうね。
英語名はAからWまで(北東太平洋地域ではZまで)発生順に付けていくそうです。名前は1年にワンセットで、それぞれAからWまであって、全部使わなくても次の年になればまたAから始まるようです。

アジアではどうかというと、2000年に北西太平洋地域の14カ国が加盟してその地域内で発生する台風に固有名を付けることにしたんだそうです。でもアメリカみたいに人名にこだわらず動植物や自然現象に関する名前を、加盟国それぞれの国語で表すようにしました。
14カ国がそれぞれ10個ずつ名前を提出してそれをアトランダムに140並べ、2000年1号の分から使い始めました。 それによると、今回の2004年23号は117番目"Tokage"だそうです。
ちなみに日本は星座の名前をエントリーしました。
順にTembin(天秤)、Yagi(山羊)、 Usagi(うさぎ)、Kaziki (かじき)、 Kanmuri(かんむり)、Kuzira (鯨)、 Koppu(コップ)、Kompasu(コンパス)、 Tokage(トカゲ)、 Washi(鷲)。
どうしてこれらの星座が選ばれたか?ですが、他の国のエントリーとつきあわせて頭文字が重ならないように調整したのだと思います。 詳しくは気象庁公式HPの中の「台風のアジア名」に意味も書いてあります。
これによると140個で一巡ですからあと数年でまた1番の「ダムレイ」(カンボジア語で象)へ戻るとのこと。

あちこち見ていたらこれらの名前にも「永久欠番」があることがわかりました。あまりいいことではないのですが特に甚大な被害をもたらしたような大ハリケーンなどはリファレンス上の誤解がないように最低5年は同じ名前をつかえないとか。でもさしたる理由もなしに上記の(大西洋地域)リストで名前が差し替えられてもいます。

2006年のリスト "K"の項は"KIRK"でしたが"KEITH"に差し替えられた─────KIRKってあの"カーク"何でしょうかね?もしや熱烈なトレッカーが抗議してキャプテン・カークの名前を使うなんてけしからんと署名嘆願でもしたんでしょうか? もしそうで、それが元で差し替えになったんだったら愉しいんですが。

トカゲ台風に触発されて台風の名前などこだわってみましたが、被害にあわれた方々にはそんな軽々しい話題ではないことは重々承知です。心からお見舞い申し上げます。早い復興をお祈りしております。         

2004/10/23(土) 記

   祇園祭今昔

何十年ぶりかで祇園祭に行って来ました。 正確には宵山に。
山鉾巡行はそれほど見たくもありませんでした。学生時代京都に居たので巡行を見る機会がありましたが、暑い炎天下に長時間待って、やたらと辛かったことだけが記憶に残っています。

さて、宵山は、覚悟の上だったけれど、人、人人人人人人人人人人人人人人人人人人……
49万人の人出だったそうです。
昼過ぎに京都駅に着いたとき、もうすでに浴衣を着た女の子が多く目に付きました。
でもその姿たるや、ぐずぐずの着方。頭は、今みんなよくやっている、髪をくるくるっと上げて髪留めでぱちんと留めて、しっぽはばさばさと広げる何とも「お手軽」な髪型。おまけにこれでもかと言うほど長いちらちらしたピアスをみんな型にはまったように着けている。何かとっても違和感感じましたね。

夕方になって四条烏丸で地下鉄を降りて歩き出しましたが、歩行者天国になっている四条通は人いきれと屋台の食べ物のにおいが渾然となった異世界でした。
わずかに山鉾の仕立ててある前後は昔ながらに厄除け粽など売っていましたが、それ以外はまさにどこにでもあるお祭りと一緒。特に規制のない四条以外の裏の通り────錦、蛸薬師、六角、南北は西洞院、室町、新町など────は食べ物を主体とした屋台の行列でその周辺の汚いこと汚いこと。

学生時代に行ったときには錦でさえ食べ物を出しているのは、その店自体がもともと食堂のところだけでした。
出す物も氷水とか、白玉ぜんざいとか風情があったのに。
そして各戸が幕を張り、献灯の提灯をたてて軒をあけて昔ながらの段通を敷いて屏風をたて花を生けて、通りを行く人々の目を楽しませてくれた物でしたが、その幻影を抱いていたのが間違いでした。
四条界隈では屏風見せなどしている家は一軒もなく、喧噪と猥雑さが渦巻いていました。

あまりのひどさに烏丸を越えて西に行くとわずかに室町通りで数軒、ふすまを取り払ってずっと奥の方まで見渡せるようにした、昔ながらの大層なお家に奥まって綿の段通や諸国屏風、職人屏風、壇ノ浦、鵯越尾の合戦屏風など引きまわして飾ってあるところがありました。江戸時代の甲冑を飾ってあるところもありましたね。

少し溜飲を下げて、疲れたのでスタバでコーヒーを飲んで北山に帰りました。
翌日また地下鉄で出て、四条烏丸で地上に出た途端、鼻を覆いたくなるような異臭がしました。昨夜の屋台の飲食物、そのゴミ、残り物が取り除かれているものの、こぼれた汚水が暑さの中で腐臭を発しているのでした……

こんな風に祭りが様変わりしてしまったのは時代の趨勢かもしれないけれど、そしてその変化は徐々に起こって、方向は変えられないのかもしれないけれど、心ある人なら祇園祭がこのように地に墜ちたことを嘆かざるを得ないとおもいます。
一大決意であの俗悪な食べ物屋台と、安物の和風小物など祭りに便乗して日本趣味の低俗化に拍車を掛ける店を排除しないと、千年続いた祭りも、早晩その歴史的意味も現代的意味も失った全く形骸にのみなってしまうでしょう。
たぶんもう2度とは行かないなと思うと残念で寂しくてなりません。 複雑な思いを残した2004年祇園祭でした。

2004/07/28(日) 記

   夢を買う

とうとう買ってしまった─────万華鏡、カレイドスコープ

何年か前、偶然丸善で出会った世界の有名作家の万華鏡展。
思わずひとつずつ手に触れ、回して魅入られた。

無限に拡散と収縮を繰り返し、めくるめく光と色彩の饗宴を繰り広げる、小さな小さな宇宙、このままずっとここにいたい、このまま回していればわたしという存在も光を受けて輝く一つの破片になって鏡の重なる折り畳まれた空間に飲み込まれて行くような至福の思いがした。

それ以来万華鏡はわたしのあこがれになった。
おこがましくもHPにKaleidoscopeと名付けもした。
ブラッドベリィの万華鏡、萩尾望都のカレイドスコープアイ、何でも万華鏡と名付けられたものが愛おしかった。
ボール紙の筒、ビーズや色付き樹脂の破片でできたまがい物はいらない、あのずっしりと重いステングラスの乳白色のガラスと粘度の高い液体の中をゆっくりゆっくり流れ落ちる油滴やきらきら光る名も知らないものを手にしたい。
昨年一度買うチャンスはあったのに、妙な経済観念が働いてやっぱりこんなものにお金を出すのはやめよう、と断念した。でも、その後、後悔することしきり。
今春、再度チャンスが巡ってきた。昨年と同じ販売で10ヶ月で海外の有名作家の小型の万華鏡10種。 ためらわずに申し込んだ。考えれば何とか毎月やりくりできる額、他のところで節約しよう。これで積年の夢が手に入る と思えば安いものだ。服を一枚買うことを思えば……DVDを無反省に買うことを思えば……
結局金額の多寡ではないのだ。それが自分にとってどれだけの意味を持つかを考えれば贅沢ではない。 少しも罪悪感を感じなかったとは言わないが、こうしてついに心を決めた。
先週一つ目の万華鏡がわたしの手に入った。
あの、ずっしり重い、乳白色のステンドグラスのガラス、ガラスを繋ぐ鉛、細いガラス管の中をゆるゆると流れ落ちる細かい青い油滴とさまざまな色の星々。
かくしてわたしは合わせ鏡の世界に吸い込まれて一つの星になり宇宙の一つの端からもう一つの端へと悠久無限の旅に出る─────万華鏡、カレイドスコープ

2004/04/25(日) 記

   朝の怪談

根っからの宵っ張りの朝寝坊が災いして、早起きは誰がなんといっても苦手だ。
だが世の中には苦手ですまされないことだって多い、いやそれがほとんどだ。
だから早起きをしなければならないときには睡眠の不足分を補うべく二度寝をすることにしている。用事が終わったらもう一度布団に戻って、たとえ30分、1時間であろうと眠る努力をする。常に睡眠不足を抱えているから横になれば間違いなく眠れるというのもかなりの強みではある。

しかし話はそううまいことばかりではない、この二度寝をすると必ずと言っていいほど夢見が悪いのである。一度完全に目覚めて仕事までするのだから、二度目の睡眠が浅いのは仕方がない、常にレム睡眠の状態であるし、周囲は明るいので半覚醒状態で眠っているといった方が適切かもしれない。
だから、ざっと思い出しても、火事になって誰かに知らせないといけないのに声が出ない夢、雪山で切り出した木を母と引きずって運んでいて母が木もろとも滑落する夢、起きてからも後味が悪くて、ろくな夢がない。

さて先日見た夢は中でも最高に奇怪だった。
夢のもとになったのはTVの番組で小耳に挟んでいたのだろうか、それとも私の全くのオリジナルなのだろうか、それすら定かではないのだけれど…… 話はこうである。

わたしは家の玄関の上がり框に立っている。
目の前には農家の老女といった風の頭に手ぬぐいもんぺ姿のおばあさんが立っていて、にこにこしながらわたしに水をいっぱいくれと頼んでいる。開け放した玄関から外にその老女の連れらしい少女が二人遊んでいる。顔は見えない。
心の隅で何かが警鐘を鳴らしている───やばいよ、これ! でも、何も断る理由がない。知らない人とは関わりを持たないのが一番だが、この老女に冷たくするのはあまりに人情がない、そんな気持ちがして、決して進んでではないものの「いいですよ」と答えてしまう。
すると老女はにんまり笑って子供を呼ぶ。
このとき心の封印が解けて、それまでのど元まで出かかっていたのに思い出せなかったことを思い出す。
水をやると答えると魂を吸われてしまうのだ!(このあたりいかにも、っていうお手軽怪談の常套手段であるが……苦笑)
時すでに遅く、外にいた少女がまるで画像を拡大するようにひゅっと目の前に立っている。戦時中といった風情のおかっぱ頭、服装はもんぺをはいていただろうか。その顔ときたら子供の顔なのに恐ろしく年を経ているあやかしであることが直感的にわかるむくんだ顔、目は細い一線に、歯は見せずに笑っている、にんまりなどという表現では表せない、恐ろしい人間とは異質な笑い。一瞬にしてわたしは少女に抱きつかれる、金縛りにあって声が出ない……声さえ出たらこの呪縛を振り払える。
長い長い一瞬、わたしの意識はただ声を出すことにだけ振り向けられる。しっかりしろ、声を出せ、自分を必死に叱咤する…… 文字にすると長いがこれが一瞬のこと、そしてわたしは舌をもつれさせながら
「うちから出ていけ!」と大声で言う。
呪縛が解けた、自分の声で目が覚めた。

さて、この後味の悪い夢の記憶から回復するのに何日かかかった。
今になれば女の子の顔を何とか客観的に思い出そうとできるが、当日は思い出すのも忌まわしいほど恐ろしい、この世のものとも思われない不気味な顔だった。
冷静になってわたしが興味を感じるのは、親しみやすい老女(これはダミー)→奇怪な少女(本命)→声を出して回避というシークエンスよりも思わず口走った「出ていけ」という言葉だ。

ここでもう一つ実例を挙げよう。 これは大学時代の岡山出身の友人から直に聞いた話である。(いよいよ怪談らしくなってきた!)

彼の弟が自家中毒で寝ていた夜のこと。
かなり危険な状態だったらしいがそれは後でわかったこと。当時はたいした重病でもないと入院もせずに自宅で寝ていたらしい。
お母さんが一人横について看病していた。 うとうとした夜半、玄関に人の気配がする。いぶかしく思いながらお母さんが出てみると、暗いはずの玄関に提灯を持った人が(その顔は思い出そうとしても思い出せなかったとお母さんが言っているとか)二人、じっと佇んでいて、お母さんの姿をみると「お迎えにきました」と言ったそうである。
お母さんは血相を変えて
「帰れ!二度と来るな」と叫んで夢中でその人を玄関から押し出して鍵をかけたそうである。
長い夜が明けて翌朝弟さんは持ち直したと。

その話を聞いて怖がるわたしに友人はこう付け加えた。 「そんなときは帰れと言わないといけないんだ、もしちょっと待って、なんて言ったら必ずまた来るから」
お母さんにそれだけのことを理詰めで考える余裕があったとは思われないが、子供を思う気持ちの母ほど強いものはない、「女は弱し、されど母は強し」を実感させられたものである。
これが実話か、それとも話し上手の友人にいっぱい食わされたのか真相は今となってはわからないが、いかにもありそうな説得力を持った話だった。

面白いことに何の関連もない友人の話とわたしの夢に共通していることがある。
妖しを「いえ」から外へ出すという行為である。
妖しが人を凌駕する力を持っているのなら家の外であろうが中であろうが、力の行使に何ら制限はないはずである。しかし外に出すことでその力を封じることができるという暗黙の了解があるとすれば「いえ」は一種の結界というべきものなのであろう。
わたしの住む地域では浄土真宗が圧倒的に力を持っているが、真宗に限らず仏教には仏を崇める他に先祖を敬うことが根幹になっている。外国では「いえ」は単に家族が生活する入れ物にすぎないのかも知れないが、私たちにとって「いえ」はご先祖様が守ってくれている結界なのである。
それだけに世代を経た「いえ」には幾世代もの先祖の守る力がこもっている。外からの魔を弾き、中の人を守る思念の力のこもる特定の空間である。
だから魔の手は「いえ」の敷居を越えて入ってこない、入るためには内部の者の了解が要る。これが「水を飲ませて」を了承することであり「お迎えにきました」に肯んじることである。
内部の者が厳としてこれを拒めば魔は引き下がる、こういった(全く根拠はないのだが)土着の確信がわたしたちの内奥に共通意識として刷り込まれている。
どちらにしても最終的に、魔を退けるのは、当事者の意志の力であることは言うに待たないが。 これが、恐ろしかったが声を出せたことに幾ばくかの満足と安堵を覚えた朝の怪談の顛末である。

2004/04/22(木) 記

   レヴォントゥリにさそわれて3

イヴァロ空港に到着。
辺りはとっぷりと暗くいよいよ直にフィンランドの空気と接するのかと思うとやや緊張。
どのくらい寒いのか、緊張の原因はまさにその一言に尽きます。
飛行機から降りて来る人ほとんどがスキー(それもノルディック)を持っている事からも、これで泣いても笑っても雪の厳寒の国に来たんだ、と実感。
ターミナルから道を隔てたところがバス乗り場。まず先遣隊がどのバスに乗るのかスーツケースを持たずに聞きに走ります。ここでバスに乗り遅れては一大事です。
乗るバスは手近にありましたが、地面が凍った積雪に覆われていてしかも横殴りの風には容赦なく雪の砕片が混じっています。
手荷物から帽子と手袋、マフラーを取り出して完全武装で、いざ出陣。 思ったほど雪は深くありません、でも道路の表面は完全に凍り付いてスーツケースが横滑りして上手く押せない、押してもだめならと力任せに引いてバスまでたどり着きました。
路線バスと雖も大きなバスで、すかさず大柄なドライバーさんが下りてきて下部のカーゴにスーツケースを手際よく入れてくれます。 バスが走り出すとコンダクター(車掌)さんが行き先を聞きながら料金を徴収に来ました。前に座った友人がまとめて3人分払ったので、ここはクリア。
空港近くの人家の灯りはすぐに途絶えて、見えるのはただ雪の道と両側を塞ぐ森林の壁。灯りといえばヘッドライトだけで、それに照らし出されて、厚く葉を茂らせた針葉樹がぬっと立ち並びます。葉に雪が積もったまま凍てついてさながら一つの塊になって風の中で重く揺れているのが見えます。
バスの車内灯がふと消えました。でも暗闇にはなりません、夜目にもしらじらと雪の原野が目に飛び込んできます。あっと思うまもなく右手の林が切れてずっと向こうまで見渡せるようになった時、それが空に見えました。
一つの大きな光の帯――――縦に細長く広がり狭まり刻々と姿を変えながら大空を高みから大地に向かって下りてくるような錯覚に陥れられそうな青みがかった光のうねりでした。
レヴォントゥリ――――火の狐、その炎の尻尾が天から地に打ち振られて、粛々と伸び上がり撓んで捻れながら広がり、わたしたちは声もなくただ魅入られていました。
同乗していた土地の人もドライバーのサービスと共に快く旅行者によく見える席を譲ってくれて、残念ながら理解できないフィンランド語で解説をしてくれるのでした。
こうして、時間にして5分も続いたかどうかという短い間でしたがレヴォントゥリは空を駆けて消えていきました。  

2004/02/01(日) 記

   冬の水ようかん

冬の食べ物風物詩というと、十人中八九人が「炬燵にみかん」の連想をするに違いない。
でも、わたしの地方では、これが「炬燵に水ようかん」になる。
水ようかん―――当地風に言うなら「でっちようかん」である。
京都では「丁稚ようかん」といえば栗の入った練り羊羹を指すようだが、こちらのでっちようかんは見た目は地味、味はいたって淡泊、寒天ベースに黒砂糖蜜を加えたあっさり味のやわらかい水ようかんで、内側に撥水加工をした紙の箱に流し込まれ短冊形に切り込みを入れられて、表面に透明フィルムを被せられて蓋を閉められる。

一般的に水ようかんは夏のもの、季語でも夏に分類されていたと思うが、当地では寒くなるとスーパーの店頭に並び始める。薄い箱なので何箱も積みかさねられて売られている。お値段は製造元にもよるが、大抵400円台。どうして冬に作るのか諸説はあるが、どうも気温が高いと品質保持が難しいからというのが昔からの理由らしい。確かに寒天に黒砂糖では、生物の実検に使う培養基そのものw。
味が好きなのでよくスーパーで買ってきて食べるが、年が改まって寒に入ると、昔のわたしが子供の頃の、あの「でっちようかん」が無性に恋しくなる。
水ようかん、以前は紙箱入りではなかった。
木製の薄い箱に入っていた。箱といっても蓋のない、そう、細長いお盆の中央が長方形にくぼんでいる、木の容器といったら少しは想像してもらえるだろうか。
とにかく菓子屋はその木の容器に水羊羹の液を注ぎ、固まったら八百屋などの小売り店へ配達する。わたしたちはそれを一棹、二棹といって買ってくる。
水ようかんには切れ目がついていて、棹に添え付けの薄い木の剥(へぎ)で一本ずつ掬ってつるつるっと口に運ぶ。大抵それが炬燵の中だった。そして食べ終わると容器だけまた八百屋に返しに行く。今思えばリサイクル容器だった。
今のように各部屋にファンヒーターがあるわけではない、暖房機といえば炬燵か石油ストーブ。確か炬燵のある部屋にはストーブなどなかったように覚えている。
だから炬燵に入って寒い手を擦りながらつるりと食べる水ようかんの謙虚な甘さと口当たりの滑らかさは、わたしの子供時代の冬と切っても切れない連想なのだ。これがわたしの「プティ・マドレーヌ」なのだ。
子供の頃の水ようかんは食べても食べてもまだある、それくらい分量が多かった。それなのにいまでは一箱くらいあっという間に食べ終わってしまう。
単にわたしが食い意地が汚くなったのかもしれないが、もしかしたら、子供の頃の水ようかんの木の容器は、わたしの記憶通りとてつもなく長いものだったのかもしれない。
そうじゃないのかなという気持ちは振り捨てられない。
何とかもう一度あの水ようかんを食べたいものである。

2004/01/12(月) 記

   レヴォントゥリに誘われて2

ほっと一息、残りの時間をターミナルのカフェテリアで一服。
外を見ると今までに見たこともないくらいの細かい多量の雪片が後から後から舞い降りて来ます。
既に辺りは真っ暗で、空港の煌々としたライトの届く範囲の雪がきらきら、それはきれいに輝いて舞っています。同行の北海道出身の友人が、これはスノーダストの雪だよと教えてくれました。
北海道でもたまに極気温の低い時に起こる現象だそうです。

国内便で一気に北緯70度より少し南のイヴァロという所まで1時間40分の旅程。
今までよりはずっと小型の飛行機に乗り換えて待機。隣に停まっている先発便を見るとかなり上に雪が積もっている。どうするんだろう、氷が着いたままでは飛べないだろうに、それは取り越し苦労でした。
大きなアームを備えた整備車が近づくとすごい勢いで液状の物を噴出、積雪はあっという間に吹き飛ばされていきます。あれは液体?それとも高圧の風吹き飛ばしているのか? この疑問も、いざ私たちの機の番になって解消。正体は不凍液だったようです。ざっという音と共に泡の混じった薄い茶褐色の液体が窓の外を伝わって流れていきます。これで機体への着氷を防いで正常な飛行ができるようになるのですね。さすがは餅は餅屋……と感じ入りました。 考えてみれば、雪が降ったから欠航していたのでは、一年の半分以上は欠航続きになりますものね。
青と緑のランプウエイを示す埋め込みライトの幻想的な灯りの中を飛び立った国内便、いよいよアナウンスもフィン語だけになり、何を言っているのかさっぱりわからず。こういう時に緊急事態が起こったら情報がわからず、最初に死ぬんだ……などとよからぬ発想。
フライトが半ば過ぎた頃、訛りのあるコ・パイロットからのアナウンスで "Northern light, visible"という声。耳を疑いなら思わず「どこどこ」と日本語で騒いだのもご愛敬でした。 そして……左窓から外に微かな光が。 
あれがオーロラ??? これが最初の印象でした。 TVなどで「極地の幻想」とかなんとか喧伝されて放送されるのは、長期の取材に厳選された最高にすばらしいオーロラの姿。オーロラ、イコールすばらしい空の全体を覆うような、ひらひらカーテン状の光の幕だと思っていたのは何も知らない者の浅はかさでした。
結局のところ、「オーロラ」と特別な名前が付いていても自然現象の一部、虹が空に現れても「くっきりはっきり」青空の中に色紙を貼ったように浮かび上がらないのと同様で、わたしたちが見たオーロラも、ぼんやりと周囲から浮き上がった光の塊の様なものでした。 ただ、その形が一定せず、見る間に形を変える、揺らめきながらするすると延びたり薄れたり、また現れたり…… 幻想的と呼ぶには余りに「貧弱」、だけど見過ごせもしない、ひたと目を据えて離せない、これが最初のオーロラ、ラップの人々の言葉ではレヴォントゥリ(火の狐)との邂逅でした。     

2004/01/06(火) 記

   レヴォントゥリに誘われて1

11月22日、もう一月も前の事になりましたが、フィンランドへオーロラをみに行ってきました、これはその道中記です。

第1日   関西国際空港11時5分発フィンエアAY078便で一路フィンランドへ……というはずでしたが、何事も、それ、そううまく話は進まないというでしょう、その通りでした。
一般のヨーロッパ便より約1時間出発が遅いので楽な気分になって搭乗ゲートだけ確認した後30分に集合、なんてお気楽に、恒例の免税店ショッピングにうつつを抜かしていた私たち。ふとアナウンスで自分たちの乗る便のコールが掛かっているのに気が付いて「うそ」と思いつつも急いでゲートに向かいました。
ところが、忘れていました、保険! パックツアーならすべて手続きは完了しているのですが、今回は何と言っても会員特典のキャンペーンに一枚のらせてもらった激安往復旅費を使っての個人ツアーなので、保険も自分で手続きをしなければなりません。
旅行にいちいち保険を掛けないと言う剛胆豪傑のかたも知っていますが、元来小心者のわたしとしては、やはり無駄死にはしたくない、万一事故があっても救援者保険くらいは掛けておかないと……という思いで、自動の保険手続きの機械と向き合いました。
最初にトライした友人は支障なく手続きが完了したのにわたしの番になったら、記入したカードを入れる直前に機械が動かなくなってしまいました。え〜〜〜!!どうして?! でも、もうそんなことを言っている暇はありません、料金の払い込みがまだだったのが幸い、そのまま手続きをキャンセルしてシャトルに飛び乗り、ゲートで待ちかまえていた航空会社のお姉さんに走りながらパスポートとチケットをチェックしてもらって、ようよう滑り込みセーフ。

最後の3人でした…… 最初からバック・トゥ・ザ・フューチャー並のコピーが付きそうな始末でしたが、やれやれこれで旅の始まりです。
通常のヨーロッパ便はオランダのスキポールにしろ、オーストリアのウィーンにしろ、イギリスのヒースローにしろ、多少の時間差はありますが大抵10時間から10時間半はかかりますが、このヘルシンキ便は何と9時間! 
飛行航路を地球儀で確かめると確かに、韓国、中国、モンゴル、ロシアと飛ぶのに比べてずっと北方のロシアと北極海の境あたりを飛ぶので、距離がだいぶ違います。
飛んでみて実感したことがもう一つ。大抵ヨーロッパ便は西行なので太陽を追っかける、つまり何時までも明るくて夜にならない、それで着いた後時差惚けに……そういう筋書きだったのですが、今回は、あれ、と気が付くとあたりは暮明の暗さ、普通に夕方じゃありませんか。 それで膝を打ちました、高緯度を飛ぶから早く暗くなったんですね。 冬至まで残すところ1ヶ月で北半球は夜の時間が長い、特に高緯度は顕著……知識としては知っていても、体験して初めてわかる実感学習でした。

フィンエア、初めて乗る航空会社ですが何せ今回は特別キャンペーンの激安チケット、でもサービスに差はありません。大阪から飛び立つ時にその上昇率が今まで乗った飛行機に比べて急上昇、思わずおおっと思いました……そして9時間後、機内放送でヘルシンキに近づいていますという訛りの強い英語のアナウンスがあった途端、今度はぐぐっと下降、不思議と不安はなかったものの大きな機体がまるで軽飛行機の様にぐいっと旋回して向きを変えるのがしっかり実感できました。そして更にぐいぐいと下降、あっという間にドンと着地。そろりそろりとアプローチして、微風が吹いても揺らぐほど速度を殺して着陸する日本の航空機と違って、実質本位という感じ。うまく無駄なく下りるよ、なにかあるの?っていう感じ……ハァ。

ヘルシンキ空港はもう闇の中、このまま国内便に乗り継いで北のイヴァロまで一息に飛ぶ、トランジットは約1時間30分後。
荷物を取りに行かねばならない、ところが他の旅客より遅れたために見失ってしまいました。読めないフィン語の中から辛うじて英語の表記をたよりに荷物を請け出しに行くと、ベルトコンベアーは動いていない、誰もいない、荷物もない!!
慌ててその場の空港係員に聞くとどうも違った場所に来たらしい、しかも延々遠い道を戻らないといけない??
しかしどこにも親切な人はいるもの、その女性係員はさっと立ち上がるとおたおたしている私たちを率いて、係員以外通行禁止のショートカットをくぐって、ありがたや飛行機から降ろされたスーツケースが堂々巡りをしているコンベアーの所へ連れて行ってくれました。 ありがとう、旅の人情は身に染みます。         

2003/12/20(土) 記

   寝不足の負け犬

ここ2日ほど今までになく大変な仕事をしました。
昨夜は寝たのが今朝の5時、ってもう何やってんの、と自分でつっこみを入れてますが。
友人と2人である人のSOHOのお手伝いのようなことをやっています。
今回いただいた仕事が件の○工○議所が行う秋の産業展のようなイベントの参加団体のリストの英訳。
英日に比べて日英はきついんですよね。時間も倍ではきかないし。 納期が10日後と聞いていたのでそのうちにやろうと(嫌な仕事は後回しの法則)手つかずのまま放っておきました。 ところが(勘のいい人でなくてもこの後の展開はわかるね!)一昨日の夕方にボスから電話、明日送ってもらえますか? 
さあ、押っ取り刀でとりかかっものの、たいへんな難物でした。
私の受け持ちは繊維・テキスタイルの部分。聞いたことのない用語や物の名が各行にある、しかも辞書には載っていない……その道の専門の人にしたらあったりまえの用語なのでしょうが、悲しいかな素人にわかるはずもなくネット上の例の巨大辞書とgoogle検索を同時にやりながら時間だけが刻々と過ぎていきました。

そのうちにだんだん腹が立ってきたのが原稿の日本文の曖昧さ。 例えば…… 炭素繊維原糸を○○特許開繊技術によって広げた「○○糸」を使ったUD、織物に○○……(この間団体の名前が続いて)の共同開発による○○法で炭素繊維にアルミナ薄膜を形成しアルミニウム熔湯鍛造法にて合金を作った複合材です。 いったい「何が?……!!」と思わず大声で言ってしまった。しかもこの文途中で切れるのか一文なのかもわからない。これを訳せって言っても無理でしょう?
もう一つ 炭素繊維強化複合材料の強化材として……おいおい、強化材を強化するの? ハイパー強化材かい? 聞いたことのない舌をかみそうな物質名、三酸化アンチモン、ノン燐ノンハロ難燃性生分解プラ、高難燃性フッ素エラストーマ……わたし化学赤点だったんよ。 この手の判じ物が延々とA4用紙4枚続きました。
そして仕上がったのは今朝の5時という顛末でした。
この内容でこの分量なら半月あっても逐次調べていたら掛かりそうな仕事をいかに納期が迫っているとはいえやっつけでやってしまったのには大層悔いも残るし、第一にまともに出来ていないと思うからなおさら恥ずかしい。

プロの翻訳会社に外注すると法外な値段を請求されるから、その辺のローカル人にやらせようという安易な考えを持つ人にも首を捻るけれど、外国語をやらない人は、ちょっと扱える人ならどんな物でも英語に簡単に訳せると思っている節があるのには閉口してしまう。
片手間で出来る仕事などないのだ、たとえ簡単な手紙一本だって、もし間違いがあったら大変だから辞書も何度も引くし、同じ事を言うのにいろいろ言い方があるからどれが一番この場にふさわしいか、などと考え出したら時間はいくらあっても足りないくらいだ。 だから、この際自分の能力のなさはおいておいて(それが一番の原因だとはよくよく了解、だけどそれを言ったら話が永久にストップしてしまうから)一言物申したいと思うんだけど、やっぱり負け犬の遠吠え?

2003/10/14(火) 記

   ベネルクス三国道中記3

ミッフィーに会いに
Nijintje……これがミッフィーの本名です。
あの可愛いブルーナのうさこちゃんといった方がいいかな?
生まれはオランダ、残念ながら本名はどう発音するのかわかりません。
今回の旅行でミッフィーとのおつき合いは2回ありました。
まずマーストリヒトにあるミッフィーグッズの直営店。直営店はオランダでも3店のみというのですからお値打ち物です。
ガイドさんの説明ではマーストリヒト以外にはこの規模の小都市でヨーロッパの粋といわれるステータスの高い店が集まっている所はないということでしたが、所詮カルチェやブルガリなんてわたしには縁のないお店。それよりミッフィーの方がなんぼか楽しい! 
小市民根性丸出しで小さいファンシーショップ並の店の中を行きつ戻りつして絵葉書、ペンケース、お財布、スプーンやピンバッジなどと女学生のような小物買いを堪能しました。

次の出会いはユトレヒトの近代美術館、ここにブルーナの原画がたくさんあります。
日本人にはお馴染みのキャラなので訪れる観光客も多いようです。美術館の中の売店でまたまた懲りもせずに、新しい絵はがきを購入(可愛いので見れば見るだけ欲しくなる、しかも単価も安いし……ああ、物欲の塊です)
ところが、時間があったので売店の女性館員さんと少し話しているとやおら、
「ミッフィーがお好きなら美術展のポスターを無料であげましょうか」
と言ってカウンターの下から出してくれたのが何と畳1畳もあるような巨大ポスター!! 
真っ白なバックにあの微妙な黒い線で目とバッテンのお口……
欲しかった、それこそ喉から手が出るほど欲しかったですが、どうやって持って帰るの?今でさえトランクとキャスター付きのバッグと、肩からは大きなバッグがあるのに。それで入れ物もなしに巻いただけの巨大ポスターを無傷で地球半周も向こうまで持って帰れる?
結局涙を飲んで辞退しました。
「本当は是非にも欲しいけど、痛めてだめにしたくない」と言ったら館員さんもわかってくれました。
「残念だけど、次回にもらいに来ますね」と言い残して来ました。でも今思っても正しい選択だったよね。

小便小僧と少女
よく人口に膾炙しているのでこう書いてもそれほど品性が下がった気もしません。
ところが○○少女と書くと(書けないけど)急に周囲を見回してちょっと恥ずかしくなります。 でも、あるんですよ、これが。
小僧の方は有名でベルギーの首都ブリュッセルの名物。
ごたごたした土産物屋が軒を連ねる一画にあって、「ここ」と言われるまで気も付かないほどです。
実物は小さい、日本のさる健康飲料のCMでは真っ白な石膏像のイメージですが、本物は漆黒、黒光りしています。ただ彼は(ジュリアンという愛称があります)衣装持ちで3000着以上も服を持っているらしい。それをとっかえひっかえ着せてもらうようです。わたしが見た時はスペインのカタロニア地方の民族衣装を着ていました。
お隣の土産屋にはエルビスのきらきら衣装のジュリアン君のレプリカもありました。
観光地によくある顔だけ出して写真を撮るボード、もちろん全面は巨大に引き延ばしたジュリアン。顔を出す穴が上方に。おや?下の方にもう一つ小さな穴が……そこからは指を出すそうです。もちろん正面からはその指がナニになるわけです。そこから他の物を出した豪傑がいるかどうかは聞き漏らしましたが……。

最初に書いた少女のほうは新しくて現代作家がデザインしたのですが、見に行った時には遅かったので厳重に檻の様な金属のシャッターで囲われていました。かわいそうに、まさに留置所に入れられた少女。
スタイルは日本式のお座りスタイルです。昼には水が出ているのかどうか聞きませんでしたが、出ていない方が可愛いですよね。
ただ彼女の名誉のために書いておきますが、彼女が造られたのは単なる悪のりの新キャッチとしてではなくて、エイズ等の難病にかかっている子供達への募金活動の一環として造られたそうです。         

2003/12/03(水) 記

   ベネルクス三国道中記2

風雨再び
雨に祟られた風車見学も、それはそれでまたいい思い出になってしまうのが旅行の不思議なところです。
ヨーロッパは9月の声を聞くと途端に寒くなると言われていますが、それをしっかり実感しました。
でも横殴りの雨の中を川沿いの道を辿る途中にすれ違った外国人の旅行者の一団はもっと惨め、Tシャツ、ショートパンツ、サンダル履きの姿で簡易レインコートをつっかけただけで寒さに震えていましたから。どうやら同じヨーロッパ人にとってもこの風雨は予期できないものだったようです。

これも伊万里の子分?
オランダの焼き物と言えばデルフト焼。マイセンほどお高くないのが魅力。
江戸時代前後に日本から輸出された伊万里に啓発された云々と説明もそこそこにまずトイレに直行。 ここのトイレはデルフト焼きと聞いていたので。
確かにそうでした。トイレの壁にはずらっと絵タイルが貼られ、極め付きが白地に染め付けの藍の花模様が付いた美しい便器。思わず証拠写真を一枚。でもここで本当にしていのかな?そう思わされるトイレでした。

スープあれこれ
大抵昼食にはそこのローカルの料理が出ますが、今回はスープが多かった。
名前はすっかり忘れましたが、トマトベースで(多分)ジャガイモ、タマネギ、セロリ、それにパプリカがうんと入ったピンク色のスープ、これは最高でした。レシピを聞いても上記の野菜以外は「企業秘密」だとして教えてくれなかった……けち。
もう一つ記憶に残ったのは豆のスープ。
こちらはアムステルダムだったか。いかにも豆をうんと裏ごししました、式のどろどろスープ。宣伝に「食べるスープです」ってのがありますが、このうたい文句はこのスープにこそ当てはまるようでした。
このスープを出してくれたレストランはウナギの寝床のような細長い建物にあって、薄暗い中をどこまで入ってもテーブルが続いているものでした。
以前オランダでは家の間口に応じて税額が決まる時代があって、その時に対抗上、極力間口を小さくした伝統的な建物だそうです。世界中どこでも同じタイプの考え方をするものだと苦笑。
おまけに余り間口が小さいので家財道具の出し入れに不便、それで屋根から木製の大きな梁を突き出してその先端に滑車を取り付け、吊って出し入れをした、それがアムステルダムの町屋の典型だと聞かされて、その根性に脱帽。

スーパーの楽しみ
旅行客用の土産物屋さんはそれなりに面白いところもありますが、所詮京都で言えば新京極。低品質の悪趣味キッチュが積んであると思わねば。
それより面白いのがスーパーマーケット。大抵のお土産はここでそろいます。自由時間があるとスーパーの位置を聞いて6人組で出かけました。
あ、これはお昼に飲んだ地ビール、わ、安い。350mlで0.7ユーロという具合です。浮世の柵でお土産をたくさん買わないといけない人にはスーパーは救世主。しこたまクッキーやワッフルの類を買い込んでもその安さに感激です。ただどうやって持って帰るかは別問題ですが。

失策その2
スーパーで嬉しくなって買い込んだ350mlビール缶数本、リコラのハーブキャンデー(日本の3/1くらいの値段)、割れやすいワッフル3箱、かわいさに思わず手の出たミニジャムの瓶多数、エリザベート風美女の描いてあるココアの大缶、パスタ、クルトン……荷造りをしにかかって真っ青。         

2003/09/27(土) 記

   ベネルクス三国道中記1

Friends will be friends will be friends...
旅は道連れ、などといいますがそれを地でいく旅行をしました。
友人の友人はこれまた友人の公式通り初対面の3人を含む6人のグループ、それを含む14人。
目指すはベネルクス3国です。 何となくマイナーな響き、ベルギー、オランダ(ネーデルラント)、ルクセンブルグ……世界史や現代史でしかお目に掛からない地名です。何となく選んだマイナー旅行、しかもちょいとシーズンオフ、ということで集まった顔触れも、それいろいろです。

第一の失策
今年のヨーロッパは猛暑でスイスの氷河も溶けてマッターホルンの片側の地べたが見える程だったと聞きます。はて暑いのかそれとも寒いのか。結局半袖長袖、防寒コートから日よけ帽サングラスまで一年もバカンスに出かけるような用意をして臨みました、これが第一の誤り。
関空を出るのが午前11時過ぎ、オーストリア航空。もしかして昨年と同じ便じゃ〜? 当たりでした。
ただし期待は裏切られれて座席に個別のディスプレイが無い! 映画もゲームもできないなんて! ただでさえ耐え難い12時間余の缶詰状態で小さなテレビで映る映画を見る羽目になってがっかり。
しかもプログラムでは今日はアニメじゃないか。がっかり。

記念品ゲット
余談ながら機内で出るフォークとナイフはやや小振りでホットケーキを食べる時に最適って知ってましたか?直ちにゲット!と行きたいところでしたが、よく考えたらウィーンからユーロ(国内)便に乗り換えです。ここで絶対に引っかかる、警報が鳴ったあげくに荷物を開いてゲットしたフォークとナイフが転がり出てくるなんて、考えただけでもみっともない末代までの恥。
そこでターゲットはコーヒー用カップ。外が赤くて中が白でかわいい。食器を下げに来る時にカップだけ手元に残して後はお片づけw
友人によるとオーストリア航空は財政難で今年にもなくなるかも知れないとのこと。だから記念品を今のうちにもらっておくんだそうです。ついでに乗務員さんの真っ赤なベストもも欲しいとあっぱれな物欲。

恐怖症克服
もうこのころには最初のワインでかなり気分はハイになっています。
飛行機が少々揺れたってへっちゃら。どうしてこのとっておきの秘策を先回まで思いつかなかったのか我ながら不覚です。これまで何度冷や汗を掻いて乗ったことか。要するに早めにアルコールをもらっていい気分になってしまうのが最高の対症療法だったんですね!

高空の孤独
西へ飛ぶ飛行機は太陽を追っかけることになります、つまりいつまでたっても日が暮れない、窓の外は晴天、燦々と陽光が注いでいます。 時計はもう夕方5時を回っているのに一向に変化無し。じっと座っているのでお腹も空かず持参した文庫本もそろそろ1冊目が終わりに近づき、それでもまだ後7時間も乗らないといけない…… この辺りが一番辛い時です。周りを見るとほとんどの人がお昼寝。
つまらない…… 昨今取りざたされているエコノミー症候群予防の為かかなり頻繁に水やジュースの入ったプラコップを持って客室乗務員さんが(スッチーなんて言ってはいけないんです!)回ってきます。その度に手を出してしまうわたしって……ああ。

スキポール空港
アムステルダムのスキポール空港は実に9年ぶり。
相変わらず大きなハブ空港です、ってそうころころ空港が変わっても怖いんですが。現地時間で8時過ぎなんですがまだ暮明の明るさ。外に出るなりPanasonicの大きな画面と看板……ここも、また。
聞いた話です、この大規模空港には当然トイレもたくさんあります。その年間の清掃費がこれまた馬鹿にならない額で何とか経費削減を狙った管理側が編み出した究極の必殺技が何と蠅のシールだったそうです。
男性トイレの便器にそのシールを貼っておくとどうも男性諸氏はそこを狙って放尿するらしいのです。つまりスィートスポットに当たるというわけでシール導入以前と比べるとかなりの額の清掃費が節約できるようになったらしいのです。 ただしこれは確かめるわけにはいかないのが残念でした。
後日談
帰りのトランジットでまたここに寄った時に一行中の男性が「あった、あった」と意気込んで帰ってきましたのでどうやら本当らしいです。

夏時間の怪
ホテル直行でそのまま就寝となります。
昨日(もとい今日)空港へ出てくるために早起きした時から数えると24時間は優に起きていたことになります。 翌日起きると6時というのにまだ外は真っ暗。ここは北海道より高緯度だから、と勝手に納得していましたが、考えてみれば午後8時の暮明の説明がつきません。
これがDaylight saving =夏時間の実体なんだと気が付いたのは不覚にも2,3日たってからでした。暗いうちはなるべく活動停止して明るい時間をフルに使おうというアイディアは、頭での理解ではなくて実感できたのにいささか感激です。

雨中の風車
初日は雨男雨女のお陰で横殴りの雨の降るさんざんな天気でした。
笑われながら持参した冬の防水防寒コートとマフラーがこんなところで役に立ったのが唯一の慰め?でした。 ツアー旅行の悲しさで、雨が降ろうと槍が降ろうと回るコースは消化する、これが鉄則。横殴りの雨の中、傘をおちょこにしながら19基の風車の立ち並ぶキンデルダイクの堤を歩いたことです。

2003/09/21(金) 記

   難読漢字は御難のもと

そもそもの始まりは珍しい名前を持ったことに端を発します。
(そもそも……という始まり方、便利ですね。やみつきになりそう)

難読名字というのでしょうか。わたしの姓はそんじょそこらにちょっと無いほど珍しい、そういえば聞こえがいいのですが、早くいえばへんてこりんで初対面の人様に一度で納得してわかってもらったことははっきり言ってありません。
それでどうしても名前をいわなければならない時、それも一事預かりだったり本の予約だったりタクシーの送迎だったり、いわば単に人違いをしないための符丁の時には旧姓を名乗ります。こちらの方はそれこそ平凡きわまりない名前です。
この世過ぎの便法を子供達も見習って、簡単に私の旧姓を名乗るのが習い性になっていました。

さて、先日のこと、娘が眼鏡を新調するので近くのショッピングモールの中の眼鏡コーナーへ出かけました。前の眼鏡はもう3年以上も使ってデザインも古びていたのでこの際好みのフレームにレンズも明るい圧縮率の良いものをと、多少の出費覚悟でした。
何せ、「学生にとって目は命」……これはわたしの学生時代学部の蛍光灯増設のキャンペーンに「研究者にとって目は命です」をもじったものw
色々フレームをとっかえひっかえ掛けてみてやっとお気に入りが決まって、こちらへどうぞとカウンターの前に座り、まずはお客様名簿に名前住所を書くのですが、娘は何のためらいも無く旧姓の方を書きました。
では次にレンズという段になり、娘が眼科医からもらってきた検眼表を取り出すと、なんと名前は本名のまま。
その時の係りのお姉さん 
「あら、これ……お名前が違いますね」
わたし「あ、どちらでもいいんです」
お姉さん 「……?……! す、すみません。要らないことお聞きしまして(汗」
その時、きっと彼女の頭の中には昼メロまがいの、おどろおどろした人間関係縮図が渦巻いていたことでしょう。
例えば、「名前が違う……ということは検眼してから1か月も経たないのに、この親子、もしかして離婚?」
もしくは、「この子、高校生くらいにしか見えないのに、もう結婚? もしかしてできちゃった?」
または、「どっちでもいいって……この親、別れた夫に娘を取られて、内緒で眼鏡をつくってやってるの?」
あははは、いくらでも作れますね。
きっと彼女はこんな事を一瞬にして思いついて、要らぬ事を聞いてしまった、気を悪くされて眼鏡のキャンセルされたら一大事と、こちらがあっけにとられるような平身低頭ぶりだったのですね。
後で娘と、そのお姉さんの狼狽えぶりをさかなにさんざん笑いこけました。 そして、ただ「あ、それ本人です」って言っておけばよかったのにね、って。 本当に人が悪いのは私たちの方ですね。         

2003/08/29(金) 記

    Asian Journey

そもそもの始まりは今朝届いたTIME誌だった。
TIME誌は購読を初めてそろそろ10年にならなんとしているのだが、何とか1週間で読み切れるようになりたいという初期の熱意はどこへやら、今ではぱらぱらめくって面白そうな記事や映画関係の記事だけ立ち読み感覚で目を通すだけになってしまっている。
今週号はTIME恒例のアジア旅行特集、お盆休みという気軽さも手伝って何となく読み始めた。
自分はやはり日本人、アジア、それも日本近辺の記事には何が書かれているのか気になるし特に外国人記者の目に映った日本には特に興味がある。

今週号のカバー・ストーリーはThe Asian Journey Home(returning to our roots) と題してアジアの各都市にまつわるエッセイを記者が書いている。
日本について書いているのはKarl Taro Greedfeld, TIMEアジア版の編集員の一人で時々記事署名に見かける名前だった。
内容は彼の名前からも推測できることだが、グリンフェルドは日系人で、日本に住んでいる高齢の祖母が死にかけており会うのは最後の機会になるかもしれないと、これも日本にいる母親から知らされて日本に帰ってくる前後の事情が書かれている。 何枚か現代の東京や証券取引所、ナイトクラブの写真と共にグリンフェルドの祖父母一家の写真があり、最後に1986年筆者と祖母、父母が共に映った写真があって説明に母親が芥川賞を取った授賞式の写真とあった。 え? 芥川賞?あわてて受賞者一覧を見ると86年は受賞者なしだった。

ここから検索遍歴が始まった。 Karl Taro Greenfeld で検索すると数冊の著書があり父はアメリカ人、母は日本人とある。更にたぐっていくと、父はJosh Greenfeld で何冊か自閉症の息子ノアについての著作があることまではわかったが、母についての詳細は見つからない。そこで今度は86年前後の女性芥川賞受賞者の著作を探していくと、85年下期「過越しの祭り」の米谷ふみ子さんが何冊も日米の文化の違いなどについて著作があることがわかった。更にJosh Greenfeld著の「わが子ノア」「ノアの場所」「依頼人ノア」等の翻訳を出版していることも。 ここで米谷さんとGreenfeld氏の繋がりがおおよそわかった。
履歴をたどっていくと、米谷さんはアメリカ留学時代に知り合ったGreedfeld氏と結婚し、二人の息子を設け長男がKarl Taro, 次男がNoah Jiro。その後次男のノアが自閉症を発症、自閉症児を育てる苦闘の日々の覚え書きが米谷さんを創作に向かわせたこともわかった。そして現在、米谷さんは日本とアメリカを行き来し、カールさんはTIMEアジアの編集者として香港に、ジョシュ氏とノアさんはアメリカにそれぞれ生活していることも知った。

TIMEの記事はObaasanの最晩年を語り、病院で祖母を看取りながら、ふと自分の生まれた病院も同じ所であり、その当時産科病棟は今祖母が最後を迎えようとしているにその病棟であったことを知り、著者は自分の日本との絆がまさに叔父叔母従兄弟達親族の寄り集まっているその部屋に集約されていることに気づく、そこで終わっている。

一日の午前中という短い時間にわたしはGreenfeld一家の半世紀以上に渡る歴史を垣間見た思いだった。全くこういうのを「縁」というのだろうか。それまでわたしにとって何の繋がりも関心も、いやそれどころか知りもしなかった何人かの人々がこうも身近に感じられるとは。
もちろん単に外から見ただけの情報の集まりであって彼らが何を考え何を感じたのかカール氏の記事以外に中へ踏み込める手だては無かったが、わたしにはこの人々がもはや他人ではなく理解可能な、共感すら感じられる人々であるように思えた。 肉親の情に裏打ちされた個人的な思いを綴る文には見ず知らずの人にも親族並の共感を持たせる何か不可思議な力があるのだと思った。

2003/08/15(金) 記

  ハリー・ポッターとフェニックスの騎士団2

先日ハリー・ポッターとフェニックスの騎士団(仮題)"Harry Potter and the Order of the Phoenix"の中間報告をしましたが、今回は読了後感想を書きたいと思います。

ただし内容に触れずに書くことは不可能に近いのでまだお読みでない方には極めてアンフェアになりますし、邦訳が出る前に内容をネタバレするのも翻訳権の侵害になって本意ではありません。
それで内容に触れるところは文字反転します。くれぐれもお気をつけて。

第5巻を読み終わっての評価は今までになくつまらなかったというものと起承転結の転に当たる巻で確かに重く悲惨で楽しくはないが面白かったという両極に分かれるようです。
私としては序盤から思いもかけない展開で、ぐいぐい引かれて行くようでした。
ただし学校の恐怖政治化、新しい闇の魔術防御術の先生の陰湿ないじめに近い懲罰から始まってトレローニ先生の失職、ハグリット追放、ダンブルドアの失墜、マクゴナガル先生の襲撃と、暗い要素に事欠かない恐ろしい内容です。
スコラスティック社が2003年夏のカタログで5巻の内容を少し紹介しています。J.K.ローリングもインタビューに応えていくらか内容に触れています。また、Book Magazine にも内容がいくらか書かれています。
ここでそれを書くのはルール破りにならないでしょうね。
1.魔法界はヴォルデモートの復活を信じる陣営と、信じない陣営の2つに分裂。
2.フィッグばあさん(アラベラ・フィグ)の全てが明らかに
3.マッド-アイ・ムーディが再登場。しかし「闇の魔術に対する防衛術」の先生は「毒入りの蜜」のような女性になる。
4.ルーピン先生が帰ってくる!
5.悪意に満ち、不満を抱いた屋敷しもべ妖精が登場。
6.生徒たちを悩ますのは、学期末のO・W・L試験(普通魔法使いレベル試験)。
7.ハリーは扉の悪夢を毎晩見る。その扉は、静まり返った廊下に1つだけぽつんと置かれていて、どんな悪夢をあわせたものよりずっと恐ろしい。
8.魔法省は信頼できず、ホグワ−ツ職員が無力であることをハリーは知る。 重要な登場人物が死ぬ。死」の意味をハリーは更ノ身近な方法で考えることに
9.ハリーは友情の深さと強さ、限りない忠誠心と耐え難い犠牲をこれまで以上に知ることになる。

4巻の終盤でヴォルデモートの復活を信じるダンブルドアやハリーと信じようとしないコーネリアス・ファッジらとの間に大きな溝ができますが今回はその溝が更に大きく魔法界を二分させます。
しかもヴォルデモートを主と仰ぐデス・イーター(ルシウス・マルフォイら)があからさまに行動を開始。
アズカバンに収監されていたデス・イーターが10人も脱走するなど不穏な状況から始まります。
ハリーはというと、いつものごとくつまらない夏休みをバーノン叔父さんとペチュニア叔母さんの家で過ごしていたのですがある日デメンターに襲われます、それもダーズリーと一緒に。
咄嗟のことで未成年魔法使用禁止条項も忘れてパトローナスで難を逃れますが、直ちに魔法省からの警告、後を追うようにロンのお父さん、ウィーズリー氏から、絶対に叔母さんの家を出るな、絶対に杖を渡すな、とのフクロウ便。
ダーズリーが危険な目にあった事で動転してハリーを追い出そうとする叔父さん夫婦のもとに吠えメールが! ペチュニア叔母さんに「約束を思い出せ」と。
これで今までの叔母さんに対して抱いていた認識が変わった!しかも、ハリーの周辺には気が付かなかったけれどたくさんのスクイブたちの保護監視の目があったとは。
危険に曝されたハリーを護衛すべくフェニックス団がやって来ます。
ついでに言うとフェニックス団とはヴォルデモートの復活を危惧し、決戦の時の準備をすべく秘密裏に集まった魔法使い達の秘密結社です。ハリーを迎えに来た中にマッド・アイ・ム−ディー、ルーピン先生、などがおり、迂回しながらたどり着いた本部、グリモールド・プレイス12番地にはなんとシリウス・ブラックが待っています。
この家はシリウスの生家だったのです。しかもそこには先にロンやハーマイオニー、ウィーズリー夫妻、ジョージやフレッドが待っています。
自分の知らないところで状況が大きく変化していたことにハリーはショックを受けると同時に疎外感を感じて、ついロンやハーマイオニーに八つ当たりしてしまいます。しかもハリーはマグル界で魔法を使ったことで魔法省から召喚状を受け取ります。
ウィーズリー氏の付き添いで階層になった魔法省の中を歩くハリー、これは後の重要な場面の伏線になっています。
審問を受け持ったのがファッジとアンブリッジという一癖も二癖もありそうな女性。これが後にホグワーツの闇の魔術防衛術の先生になります。
しかも応援に来てくれたはずのダンブルドア校長先生はハリーに目もくれない冷淡さです。
この間にフェニックス団の本部でウィーズリー夫人の見るショッキングなシーンや(はっきり言ってここであの人が死ぬのかと早とちりしてしまいました)主人に反抗するハウスエルフ(これも伏線!)
新学期が始まりホグワーツ特急で駅に到着しますがハグリッドの姿が見えない。
代わりに馬の無いはずの馬車に馬が着いているのです。
馬と言ってどこかは虫類の感じがして黒い皮が骨の上に貼り付いていて骨は一本一本見えるのです。
龍の様な頭と虹彩のない白い目黒い蝙蝠の様な羽根が生えていて……どうして急にハリーにだけ見えるようになったのでしょうか……いいえ、ジニーの友達のルーナには初めから見ていたようです。つまり身近な人の死を見た者だけに見えるのです。
冒頭200頁ほどの概略ですが(もちろん言及していないことの方が多いのですが)こんな具合に始まって盤石だったはずの学校まで内部が空洞化してしまいます。しかもハリーが最も頼りとする人達が次々消えていきます。
後半は次の機会に。        

2003/07/29(火) 記

 ハリー・ポッターとフェニックスの騎士団

イギリス時間で20日、日本時間で21日、ハリー・ポッターの第5巻が発売になりました。
Harry Potter and the Order of the Phoenix (そうですね、ハリーポッターとフェニックスの騎士団、とでも訳しておきましょうか)
そう、SWファンにならおなじみのジェダイ・オーダーのあれです。
ちなみにorderというのは訳語が多いので題名だけが明らかになった最初のうちは「マーリン勲章」のオーダーと一緒にして、フェニックスの勲章、なんて訳されていた事もありましたが、はっきり言えるのはこれは「復活した例のあの人」と闘うための秘密結社、フェニックス団だということ。

今まだ読了はしていませんがやはりここでネタバレをしてしまうのはフェアではないので厳に口を慎みたいと思います。 ただ、印象を少し。

全体としてとても物語として進化しているように思えます。
15歳になったハリーと連動して物語も大人になってき多という印象です。ですから第1巻のような口当たりのいい楽しい描写は(何と驚いたことに3分の1を過ぎても)出てこないのです。
ダーズリー一家と気の滅入るような夏休みを過ごしている常の開始からいくらも行かない内に、のっけから危機に陥り、辛くも逃れはするもののハリーは自分の知らないところで何か大きな世界に変化が起きているのに巻き込まれます。
はっきり言って読者もハリー同様、訳がわからずフラストレーションに陥ります。 いつもお馴染みの登場人物からまでハリーは自分だけ疎外されていると感じます。誰も信じられない、誰も自分の心中を理解してくれない……

ハリーほどに特異な状況にはあるべくもありませんが、思春期を迎え、少年少女から青年へ移行しようとする年代に特有の喪失感と疎外感が余すところ無くハリーの心境として語られます。 その結果、ハリーは今までのいい子ではいられなくなって、思わず親友達にまで自分でも思ってもみなかった程の荒い語気で何故自分が(これほどまで敵と闘い、学校に尽くして、辛い目に堪えてきたのに)誰も何もはなしてくれないのか、そして一番心にわだかまっていること――――その全てが自分から望んだことではないのに、どうして自分だけこれほどの苦しみに耐え、勇気を振り絞らないといけないのか――――と大声で叫んでしまいます。

この時点でこのシリーズが新しいステップに入ったと思いました。
スーパーヒーローでかつ子供が自分を投影できる親密な可愛いハリー像から、悩めるもっと人間らしいハリー像の造形です。

"第5巻で私たちが目にするハリーは今までよりももっと暗くぴりぴりと怒りやすくなっています。決して成長に伴う精神的に不安定な時期だからではなくて、ハリーは今まで1巻から4巻までずっと遭遇してきた、追いかけられ苦しめられた事による精神的な傷を私たちに示しているのです。そのいわれのないものへの怒りと恐れが大人、子供の年代を越えた読者の心の琴線に触れるのです。
「きみ達にはこれがどんなことかわからないだろう!」
こうハリーはロンとハーマイオニーに向かって叫びます。
「きみたち、二人とも、あいつと面と向かったことは無いだろう!」
そう、二人にはそれがどのようなものであるか知るよしもありません。でも、(読者である)私たちはよく知っているのですよ。"

これはTime誌6月30日号に載った書評の最後の部分ですが、全く言いたいことをいってくれているのでちょっと引用しました。
常に話がどう進展するのかわからない面白さは相変わらず、ずっと私たちに身近に感じられるようになったハリー、懐かしいキャラクターの再来、そして一つで終わらない悲劇……
期待以上にハリー・ポッターの第5巻は(面白い、面白くないという範疇を越えて)良くできている、今までの最高の作品だと思います。         

2003/06/30(月) 記

   世はCG映画全盛だけど

このところ映画モードが続いています。
おかしなもので見に行かなくなると1ヶ月に1本くらいしか見ない――――家ではDVDやビデオは腰を落ち着けないといけないので余り見ることができない、それで映画館へ行く時は、「この2時間は日常生活から離れてどっぷり虚構のバーチャル・リアリティに首まで浸かるんだ」、この覚悟(!)で出向きますが――――そういう気運が訪れないとなかなか映画館まで出向く腰が上がりません。

でもこの一月というもの映画の神様と相性がいい月だったのか、そうですね、X-MENから始まってめぐりあう時間たち、サラマンダー、シカゴ、マトリックス・リローデッド、ザ・コア……と矢継ぎ早に何作か見てしまいました。
超大作あり、小粒あり、当たりも外れも……

「スパイ・ゾルゲ」で監督業を引退する篠田監督がインタビューで言っていました。
現場でロケをして俳優に演技指導をして現実をフィルムに写し取るという意味での映画はもう終焉を迎えたと。
映画作りは実際の俳優を使った撮影が終わった段階から始まる。

いま、映画製作は大きな転換期にさしかかっているように思います。 ポストプロダクションのことです。
以前バットマン&Mr.フリーズの時にCGIで合成したバットマンが歩くシーンは俳優の肖像権の侵害になるので使えなかったという事例がありましたが昨今の映画状況から見ると昔日の感がします。
マトリックス・リローデッドでの100人のエージェント・スミス、それを迎え撃つネオ、共に本人とボディダブル(この場合マルティプル?)の実写を元にしたCGの産物ですよね。

悪名高いジャージャーや指輪のゴラムにしても(その元になる演技は生身の俳優さんがしているとしても)フルCGでキャラクターを創造しているし、はっきり言って映画がこの世に現れて1世紀経って、映画の基盤そのものを揺るがすような大変革の波が押し寄せているようです。
絵空事が絵空事じゃなくなる、もうそれこそ何でもありの世界。 仮想現実をいかにリアリティを持って提示するかに鎬を削る映画界。 今後どのような展開になるのか空おそろしい気分になります。

見る側に生半可な刺激では驚嘆も感激も起こさないようなemotional deficiency, emotional malfunction (感情的機能不全)が蔓延するのじゃないんだろうか……
反面、人間の批評眼に信頼を置けば、いくら舞台装置が大がかりで華やかであろうとドラマに魅力がなければ見放されるという伝統的な見方もできますね。
テーマパークのアトラクションのような刹那的な刺激と娯楽だけでは一度でもうごちそうさま。二度、三度と繰り返し見てもそのたびに何か新しく感じるものがあるとか以前の印象が更に深化するそういう作品が本当に求められているのでしょうね。
練り上がった脚本を十全に表現するための「目くらまし」的CGは本当に大歓迎。
むしろそういう手段を使うことで更に完璧な映画が作れるのだとおもいますし。
何を見せるかが最初に来て、それをどう見せるか、そのために手持ちの技術を総動員する、こういったプロセスを経ながら三者が相互に関連しあって作用を及ぼしあって、きっと次世代の「面白い映画」ができあがっていくのだと思いたいのです。
個人的には全くの仮想空間をあたかも現実のように見せてくれる映画は大好き!
その臨場感目当てに劇場へ通ったりするのですが、手段としてのCGは大歓迎でも、目的にすり替わってしまったCGは見た後で虚しさだけが残って結局心に留まらない映画の仲間入りをしてしまうようです。
これから映画はどうなっていくのでしょうね?         

2003/06/15(日) 記

   めぐりあう映画たち

新しく映画雑感のページを分離させたので日記のページが元来の日記として使えるようになりました。
とは言っても日記として機能するかはまだまだ?でありますが。
わたしに、もっと文才があったら、ちまちました個人的日常の防備録に終始していても、それなりに読んでいただけるし、多分楽しんでいただけるのでしょうがね。

長らく映画に行きませんでした。いや、また映画の話で恐縮ですが、内容については雑感の方に書くのでここでは経緯を。
行き出すとまた癖になってダイ・アナザーデイ、ネメシス、X-MEN2、めくりあう時間たち、マトリックス・リローデッドとメジャー作品ばかり見てきました。それもネメシス、X-MEN、めぐりあう……は2回ずつ、マトも2回は必ず行くでしょう。
近頃気に入った作品はご丁寧に2回映画館へ足を運びます。 余韻を楽しみたい映画はできたら翌日にでももう一度見たい気持ちになります。 時には中の台詞が気になってどうしても確かめたい、そんな現世利益を求めて行く時もあります。
逆に衝撃を受けたすばらしい映画でも、2回と見るのは遠慮したい、そうのもあります。
世の評価と自分の好き嫌いは得てして手に手を取り合わないものだとも経験から知っていますし。
で、今頭の大部分を占めているのは「めぐりあう時間たち」
これは本当に2日連続で行きました。
頭の中をピアノの音が水の音のように流れています。
3人の女性の生き方を1日に集約して描いたもの……そうパンフレットにも書いてあるのですが、そのどのシーンにも自分の中に響きあう物を感じてしまうのです。
と言っても共感とか、生き方に共鳴とか、そういった明確な形でいいきれるものはまだ無いのですが。
いつものように寸評を書こうと思ったのですが、なかなか書き出せない。考えているとあのシーン、このシーンで思いつくことがあり、何度も繰り返し反復されるいくつかのテーマが見えたり、ふと登場人物の仕草、眼差しにまで何か意味を感じてしまう。
ところがこの「手応え」は実にとらえどころが無くて思いつく側から蒸発してしまうようです。いざ書こうとすると手の中から滑り落ちて、残るのは空虚な言葉の形骸。昨晩思いついた「ここにこんな意味が!」と思うような事がもう思い出せない。 もどかしい反面何かが熟すのを待っているような気もします。

幸運の女神は前髪は波打つ豊かな髪なのに、頭の後ろには髪が生えていないと言います。だから幸運にめぐりあったら前髪を掴まなければならないと。通り過ぎた後うしろから手を伸ばしても掴まらないのだと。
ちょうど、今の状態がこの幸運の女神が偶然にも側を走り去るのを待っている気分です。 うまくいけば何か形になって現れるだろうし、うまくいかなければ未発酵の抜け殻のように心になにか澱が溜まるだけ。 だから、何かを書きたい、何かを表したいという気持ちが漲って堰を越える時を待ちかまえて、その水滴の初めの一滴を逃さず手に受けられるように耳を澄ませ、外に目を閉じ内に目を開いているつもりです。         

2003/06/02(日) 記

   なまくら小刀

最近物事を徹底して調べるという姿勢がとみに後退している。
粘りが無くなったといえばマイナス、ある程度わかると適当な程度で妥協して次の懸案に取りかかるといえばプラス。 でもたまにとことん拘って自分なりに納得できるところまで漕ぎ着けるのはある種快感でもあります。

先日問題になって即答できなかったことを調べた結果をご紹介。(以下英語についてです)

問題から復習してみましょう。
He is not the man that he used to be.   (he was...だったかな? まあ、この際どちらでもいいけど)

それで疑問だったのはこの関係代名詞"that"は省略できるか?でした。
答え;省略できます。その心は……

まずこの文章から見ていくと補語は、普通は N + that ではなくてこんなぐあいですよね
He is not what he used to be.

関係代名詞の what の項を調べると、 what は =that which; things which と言い換えられる、先行詞を含む関係代名詞となっています。さて、ここまでは簡単、一般的問題ですね。

その次に what+S(=代名詞) be の説明。
文法書には "このwhatはbeの補語"と書いてあって(文頻)これもわかりますj。
ところが次で引っかかりました。補語が関係代名詞で前に出ることがあるのか?

そもそも関係代名詞は文のS(主語)またはO(目的語)が出るもので元の文に直してもSかOにしかならない。
だから関係詞節は完全文ではない、それが関係代名詞の識別にもなる……これは受験文法ではあまりにもよく言われることです。
でもここにはC(補語)とあるし確かに役割もC…… ここで行き詰まってしまって悶々と例文を書いては考えていたわけです。

では解答編です
He is not the man [that he used to be.]
↑ ↑    ↑   ↑ ↑   ↑
S  V  C(先行詞)  RP  S'    V'

[ ]内が関係代名詞節です。thatはbeの補語になって、これはU文型の「主格補語」。
よってこの関係代名詞は主格と考えられます。

"このように関係代名詞の主格が補語として使われることがありこれは普通省略されます"(桐原からの引用
) これでやっと疑問解明です。
考えてみれば主格と目的格しかないのですからそれと同等の性質を持つ物と考えれば主格補語というところに思い至ったのでしょうが、結局考えが浅かったという事なんでしょうね。

でもこの文型でwhatを使った問題は山ほどあるのに先行詞+thatの類題がほとんど無いのに気が付きました。やはり"大抵省略される"という辺りに関係しているようです。
些細なことですがわかって(自分なりに納得できてものすご〜〜く嬉しいです)

いやあ、文法って本当に面白いですね!!
でも忘れちゃいけないのは、「先に言語ありき」ということ。
これは当然のことながら、ふと機械的に問題を解いたり義務的に読解をしたりしていて、引っかかるとまず文法書を取り出す――――中に説明が見つかれば難無きを得るのですが、見つからないと途端にパニクる、特に質問されたりすると自分の能力の欠如を見透かされているようで、もう大汗物です。
実際にその言葉は一人歩きしているのにそれを規定する記述がないと安心できない、これはもう「先に文法ありき」のスタンスですね。
そうならないためにも言語感覚を鋭く磨いておかないといけないなあ。伝家の宝刀なんだから。
でも、これって、そう切れないくせに使わないとたちまちなまくらになるやっかいな小刀……程度なんですが。   

2003/05/11(日) 記

   久しぶりの歯科

何年かぶりに歯科へ行きました。
歯医者さん……痛くならないと行きたくない、これは誰にも当てはまるのでは……?
でも今回行ったのはは痛くなったからではなく、痛くならなかったから。
仲の良い友人の旦那が歯科医で、ずっとそのうちに検診をしてもらうと冗談に言っていたのがついに実現したというわけです。
それでどうなったかというと、前歯に虫歯の初期が2本、おまけに以前充填してもらった所に色素が沈着して結果歯が黄色く変色したところ2カ所、まとめて治してもらいました。
この手の治療も日進月歩なんですね、ほとんどどころか全く痛みを感じない穿孔、以前とは全く違った感じの充填法(何せ目をつむっているから詳細はわからない) できあがって鏡を見たら感激! 
全くどこを治療したのかわからない全く自然な白い歯が並んでいました。
でも年相応に歯茎も歯も痛んでいるとのこと(はあ〜〜)
これからは特殊なブラシでしっかり磨いて状態を良くすることに頑張って、といわれて DVD見たり本を読んだりする間ブラッシングをすることに(一応)決めました。

吉田拓郎が肺ガンだと知った時に今まで感じた事のない恐怖を感じたと言っていましたが(今日の特ダネ)ここまで深刻では無いにしても、自分ではかなり気を付けて歯磨きをして歯茎に関してはまあまあの気分でいたのに、相応の痛み具合といわれたのはかなりショックでした。         

2003/05/03(土) 記

   辞書が死んだ日

辞書が壊れた……
3代目の電子辞書SEIKO,SII,SR9200 
発売後1年にも満たないのに液晶画面がまだらぼけになってしまった。
もちろん通常の対処はしてみた。電池を入れ替えてリセットを押して。それでうまく直るはずは無いと思ったが。 修理に出したが、どこを探しても保証書がない……
こんな時にいつも自分の始末の悪さを呪うのだが、後の祭り。必要な時に物があった試しがない。いつもの事ながら。
液晶画面の交換だと小一万かかると言われて意気消沈だったが背に腹は代えられない。辞書がなかったらお話にならない、その場で預けてきた。
さて愛しのSR9200が不在の間、前任のSR750をと思ったがこれは娘に下げ渡して、今手元にない、仕方がないので3代前のTR7000に登場願った。
技術の革新とよく言うが、これほど違いがあると思わなかった。
エントリーが少ないのは仕方ないとして、検索も遅ければ表示も遅い、ジャンプ機能もない、選択キーと復帰キーが離れた場所についている、数えあげればきりがないほど。
SR9200を使っていても、ついリーダーズ+が入ってないとか文句ばかり言っていたが、いざなくなってしまうと、困る困る、実に困る。今更紙のアナログ辞書を持ち運ぶのはごめんだし……。
新しい機能が満載された便利な高性能の物ばかり使っているとほんの数年前に最新式だっったものがもうこれほど時代に遅れた役立たずに成り下がっているのかと気持ちは複雑だった。
人も中身を更新しないと、すぐに時代の取り残されて粗大ゴミ並みの扱いしかされないようになるのかも知れない
願わくは、機械の範囲だけに留めて置いて欲しい物である。         

2003/02/04(土) 記

   光に満ちた憂愁、そして新生

Though nothing can bring back the hour
Of splendour in the grass, of glory in the flower,
We will grieve not, rather find
Strength in what remains behind;

イギリスの詩人ワーズワースが1807年に発表した「幼年時代を追想して不死を知る頌」の中の最も有名な一節です。(第10節)

…… あの草原の輝き、花々の栄光、    
その時を今になすよしもないが    
哀しむまい、むしろ後に残されたもののなかに    
強さを見出すのだ

娘が受験で東京に行っています。
不案内なので母に付き添いを頼みました。他の家族もそれぞれ出払って、お陰で(というべきか?)一人で静かな、物寂しい何日かを過ごします。
今朝は陽も暖かく、冬の低い光が窓から燦々と降り注いでいます。
歓極まりて憂いを生ず……紅楼夢の一節ですが、ここまで大げさでなくても、申し分のない穏やかな暖かさと光に囲まれて、却って何とはない哀しみを感じてしまいます。
そこで思い出したのが冒頭に引用したワーズワースの詩。
子供時代の黄金が綴られた長詩、しかしその背面にはその時代を取り戻せない大人の経験知の哀感が漂います。
草、花といった言葉から想起させられるのは個々人によって千差万別でしょうし、拡大解釈して自分の経験に強引によき寄せるつもりもありませんが、全ての人が持つ草、花という体験から抽象された概念、また可逆的にそれから分節される個としての体験、それらを絡めて単純な言葉として提示しています。

追憶は不純物を捨象して美しく、時には純粋に生気を持って、不意にわたしたちの前に顕れます。
その佳き時を今に戻すことは何を持ってしても不可能です。
しかし、ワーズワースはここで感傷に酔いはしていません。

哀しむなかれ、嘆くまい……
そして、子供時代を過ぎて失った物も数限りないが その代わりいま、残されたこの心と体の中に全てを認めてなお先に進んでいける強靱さを 自ら見出すのだ……
と詠っています。
この「哀しむまい」から「見出すのだ」までの2行に何度励まされ心が熱くなった事でしょう。
日常にふと開いた穴に嵌った時、余裕のあった以前の心境がふと蘇ってきて、今朝のような充実感を感じさせてくれます。        

2003/02/04(火) 記

   雪のある暮らし

久々に「ちょっとした雪」が降りました。
一応雪国といわれる地域に住んでいるので、多少の雪は当たり前です。
それこそ学校、会社に遅れても雪のせいにはできません、その分早く出てこいといわれるのが落ちです。
実際、うちのお隣では出勤前に玄関先の雪を全部どけてすっかんときれいにしてから出かけていきます。
朝が遅いわが家などゴミ出しに起きるともお隣は出かけた後。わが家の前にしっかり積もる雪を見て、大慌てでスコップを出して、融雪パイプも設置します。

しかし一昨日の雪は、ここしばらく無かったような尋常ならざる雪降りでした。
まず気温が絶対的に低く、雪が積もらないで風にとばされて舞っていました。微細な雪が突風に巻き上げられて屋根といわず道といわず吹きまくるのは、暖かい部屋の中から見ている分には感嘆、驚嘆の声をあげるだけで事足りますが、外に一歩出たら地獄並みなのです。
そういう日に限って外出する用があるのですから皮肉です。
ともかく車は昼間からライトを点けて低速運転、最高20kmくらい出したでしょうか。対向車は白い幔幕の中から10メートルくらいに近づくとぼんやり見えてきます。運転席の横の窓には、張り付いた細かい雪が溶けないでそのまま。横の確認が難しい、バックなんて全く無理です。
この状態で娘を学校に送り、母を送り、しかも昼からは会合をキャンセルしたのに相手に連絡が付かず、結局出かける羽目に……。 終日、北海道出身の友人が、懐かしいといったような天候でした。

一日経って今日、またまた降雪。
今回の雪は水気を含んだ重い雪でした。これは温度こそ低くないもののよく積もります。しかも溶けやすく、溶けたらシャーベット状になっていつまでも地面の上で、あちらへ寄ったりこちらへ崩れたり、始末の悪い性質です。
この手の雪は例年何度も経験しているので路面凍結よりはずっと車で走るのは楽なのです。
そう思って軽い気持ちで娘を乗せて学校へ出発、ところが! 降雪量が多かった。
シャーベット状というか大根おろし状態の雪が半端じゃない量です。いかに冬タイヤと雖も、チェーン装着ではないので横滑りをします。特に学校近くの土手は道幅が狭くてすれ違いがやっと。しかも始業時間近くは自家用車で混雑します。
いつもは運転技術を標榜しながら軽々すれ違う道も、一歩間違えば横滑りして土手の下へと転がり落ちる危険性有り。 さすがに緊張の連続でした。始業の時間は刻々と迫るし、路肩で待っていてくれる車の横を通るにも、コントロールを失ってぶつかりはせぬかと冷や冷やのしどおしでした。
校門から帰る道、遠回りの交通量の多い道を選ぶか、交通量は少ないけれど細い土手を選ぶか、迷ったあげく土手道を選んだ私が馬鹿でした。
ほんの数百メートルなのですが、何と2台も路肩からずり落ちそうな停車車両、その横を通り抜けるのも、細心の注意で、その車の方に滑らないように避けて運転しなければなりません。でも避けて反対に寄りすぎると今度はわが身がそちらに落ちるというジレンマ。
市内の幹線道路には「融雪装置」といって地下水をくみ上げて自動的に噴出させて消雪する設備がありますが、土手や狭い住宅地にはまだまだ行き届いていません。わが家の前、学校近くの土手、共にその恩恵に浴していない地域。かなり高い市税や町内の区費を払っているのにどうしてこんなに大変な目に遭うのか、不公平感ばかりつのります。
今はやっと雪も降り止み夕闇が落ち出しました。
もうすぐ立春、でも春はまだまだ遠いようです。         

2003/01/31(金) 記

   今日は母の誕生日

近頃、することがないと(公称することはあっても、やりたくない時)なぜか日記を書いているようです。
テーマなし、見せ場なし、多分読む人も無しということでだらだら日常を紡いだり、もやもや形にもならない思いを綴ったり、です。

無意味に時間を費やしている自分を省みるための吐血の思いの自己侮蔑かな? 
後日読んで体裁をなさない文に赤面するだけなのに、それでも何か書きたいと思っている。この心理は何だろう? 
話は変わるが、わがPCは未だに接続がISDNである。
昨日ストーブを買いがてら近所の家電量販店へ行って、例のごとくPCコーナーで遊んできた。 相変わらずADSL全盛、プロモのPCを操作すると、やはり速い。自分のHPなど凝った造りではないから瞬時にバン!と現れるのに感激。
ADSLが一般的になってきた時、考えたが、数年先にBフレッツ光ファイバーの時代が来ると聞いていたので、2度も設備投資をするには資金繰りが厳しいし、何よりその手間が邪魔くさい…… それでこの際ADSLは見送ろうと心に決めていたが、世を挙げてのブロードバンド時代、大容量のHPが増えた、みなブロードバンド標準装備の前提にたっている。うちのような弱小接続には荷が重い、短気を起こして開けるのを途中で中止したことも数えきれず。 こりゃそろそろ考えの変え時かなとかなり本気で感じてしまった。
そもそもISDNで頑張ってきたのは、わたし自身ゲーマーでもないし画像に凝り性でもないし、当然HPだってテキスト中心なので、今のままで充分と踏んでの上だった。 しかし世の中は足踏みして既存の生微温湯につかっている者をそうそう待っていてはくれないようだ。
いい物を見てしまえばそれが欲しくなるのが人情か…… 今年はそろそろ本気で通信速度の改善を考えてみようかな、うちのある地域はもうBフレッツだって適用地域なのだから(ただし!! 料金が今の5倍くらいになってしまう) 液晶のワイドモニターもきれいだったし、新しいプリンターも欲しい!
物欲の無間地獄にのめり込みそうである。
2003年、斯くして多難の幕開け…………         

2003/01/14(火) 記

   凍てつく夜の幻想

今夜は寒かった。本当に。
つい先の日曜日に降った雪も日中の暖かさで解けたものの、まだ道の両側には老醜をさらしている。

いつものように仕事を終えて仕事場に施錠して出た途端に ツルッ!滑ってしまった。
さすがに路上で無様にはいつくばるほどの雪国初心者ではないが、ちょっとびびった。
放射冷却で冷える冷える、雪も濡れた道もバリバリ。
今季一番の冷え込みと気がつき、はっと見上げる空…… そこには張り付いたようなオリオン座とシリウスが、瞬きもせずに煌々と悠久の過去の光を放っていた。
ちょうど南の空高く登ったオリオン座、三つ星もトラペジウムも、赤みがかったベテルギウスも白いリゲルも。

学生時代の思い出の一つに最初の下宿の窓から見たオリオン座の美しさに感銘を受けた事がある。
ちょうど東山如意ヶ嶽の上に空に横たわるオリオン座は窓から切り取られた空の大半を占め、悠々と空にかかりながら、地上に足を着け、見る者の魂を奪った。
天地悠久の長大さと、それに比して己の存在の無にも等しい卑小さを思い知らされた、この体験は色褪せることなく、いつも心のどこかに座している。
オリオン座、それを追うおおいぬ座のシリウス……どこか和風の趣のあるなつかしい星座である。

2003/01/09(木) 記

   Happy Birthday to Me

6日のうちに書き込もうと思っていたのに、遅かりし由良の助〜になってしまった。
6日はン回目の誕生日だった。
正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし…… 実は初句は「門松は」であるらしい。
一休宗純の句で、正月に浮かれる人々を諭すためにされこうべを棒に差してこの句を高唱しながら歩いたということである。
これにしても何を思い違いしたか初句は「正月」作は小林一茶と覚えていたのだから実にお粗末な話ではあるが。 やはり何でも調べてみないといけないものだ。
正月が来て、すぐに誕生日というので周囲も余り気にしないし本人も正月になるとまた一つ年食った、という昔人間的感慨を持ってしまうだけに留まっている。 しかし、口実には事欠かない、誕生日を口実にしっかりケーキだけは買ってきて食したのだから我ながら立派である。

マイノリティ・レポートの海賊版DVDを見た。貸してくれた友人は画像が悪いと言っていたが、なに、きれいなものでつい先日劇場で見たのとほとんど変わらない。 一度見たのだから英語字幕で大丈夫と思っていたが、台詞の量が半端じゃないので読み切れない。試しに中国語にしてみたら、簡体字ながら何とか雰囲気が瞬時に解るので、やっぱり我々漢字文化圏の住民だと感心した。
明日もう一回今度はちゃんとヘッドホンで音を拾いながら見ようと思う。         

2003/01/07(火) 記

   Merry Christmas(空耳ネタ)

諸人こぞりて迎えまつれ、久しく待ちにし主は来ませり、主は来ませり……

日本でも人口に膾炙した定番中の定番クリスマスソング、 「もろびとこぞりて」。
多分ベスト10を上げればNo.1には「きよしこの夜」、次に入るのがこの歌でしょうか?
通った幼稚園がキリスト教系だったので口がまわらないうちからこの歌を歌いましたが 文語訳の歌は幼稚園児にとって、まさにはてなの連続。 多分イエス様がお生まれになったお祝いの歌ですよ、くらいには説明をきいていたんでしょうが、意味は曖昧模糊。
小さい頃から知っている歌というのは歌詞が少々わからなくてもなんぼのもんや、と 豪傑にうたっていましたが、どこかで変な歌だなあとずっと思っていました。
「しゅはきませり」この辺がわからない───子供にとっては「きませ」ときたら「来ません」が自然な流れ。
完了・存続の「り」なんて事は高校生になるまでわからないこと。
だから「来た」はずなのに「来ませ……ン」だって、と歌うたびにそこはかと 素朴な疑問を感じて歌ってきました。
もちろんいつしかその意味もわかったのに その違和感だけが残ってしまった……歌のトラウマ。

同じ事が英語の歌にもありました。 娘と「赤鼻のトナカイ」の歌をごにょごにょ歌っていた時のこと。
娘曰く「歌詞を見ないで耳で聞いて覚えたのは、変な思いこみがあるわ」
"Rudolph the red-nosed reindeer, had a very shiny nose..."
shiny を 「恥ずかしい」 だと思い込んで何の疑問も持たなかったらしい。
多分に訳詞の 「赤いお鼻のトナカイさんはいつもみんなの笑い者……」 から 笑われて恥ずかしいという連想が湧いて、逆にshinyをshyと思い込んで変だと思わなかったと自己分析。
そういわれればわたしも冒頭を平気で"the red nose reindeer"と歌っていた。 考えてみればred-nosedじゃない、これも理屈が合わないのに、やっぱり耳から覚えたから。
お互いにいいわけをしながらクリスマスイヴの夜は更けぬ……(更けないではありません……w)         

2002/12/25(水) 記

     娘の入院

娘が入院しました、といっても病気や怪我ではありません――――抜歯のためです。
抜歯、そう誰でも乳歯の一本や二本、泣きながら歯科のイスの上で抜いてもらったことがありますよね。
その経験からすると、抜歯なんてそう大したことではなさそうです。
ただしそれが親知らず(智歯)上下4本、それもまだ生えてない顎の骨に埋もれているの、だったら話はやっかいです。
夏から始めた歯列矯正、その予防措置として智歯を抜くことになりました。 つまりこういう事です、せっかく歯列矯正しても何年後かに生えてくる智歯の方向によっては、押されてまた歯列が乱れるかも知れない、それを予防するために抜いてしまおう、ということです。
なんだかうまく話しに乗せられた感もしないではありませんが、専門家にそういわれると反論ができない素人の悲しさ。 しかも口腔外科の大きな病院を紹介するとのことで車で30分以上もかかる隣市の県立病院に入院することになりました。
どうして入院という大げさな事になるのか、最初はわかりませんでしたが、痛みのコントロールや術後の感染防止対策には入院が必須だとのこと。 当日は学校も休んで、手技は昼からというのに10時までに来るように言われました。
ところが当日は今季初めての本格的な雪、おまけに悪いことには悪いことが重なる(マーフィー〜〜)もので、家中が寝坊。 まるで笑い話ですが、電話を入れて雪のせいで遅れることにして、悠々1時間遅れで到着しました。

抜歯そのものは僅か20分で終了。現代の痲酔医学の進歩は目を見張るものがあって、本人に言わせると痛くもかゆくも無かったとのこと。いつ抜いたかそれすら感じなかったらしい。 抜歯の過程は、歯茎を切開して、ドリルで顎の骨から智歯を剥離して分割して(割って)除去するというもの。気の弱い人なら読むだけでかなりびびる内容。これが全く痛くなかったのだから信じられない…… しかし、そういい話ばかりではない。全てのことに「落とし前」があるように。
術後2時間ほどして痲酔が切れると痛みと出血が始まると聞かされていたが、それは脅かしではなかった。 「ちょっと痛いみたい」から「我慢できないほど痛い」になるまで僅かに10分足らず。 あまりの痛みに(すぐもらった鎮痛剤も効くまでに少し時間がかかる)娘は両頬にアイスノンをあてて虚ろな目をしてくたっと寝ているだけ。後で聞いたら気を紛らわすために傍らのティッシュボックスの花の模様をひたすら端から数えていたのだそうだ。
激痛が鈍痛になってもまだ問題があった。顔が見る見る腫れて最初は野球ベース顔、ついで平安美人の下ぶくれ顔。(これを書いている今日、術後1週間になろうというのに、まだ顔は明らかに腫れているし鈍痛も残っているらしい)
入院予定は3日間、回診時に翌日はもっと腫れると言われて追い打ちをかけられ、退院翌日には模試が控えている腫れの引かない顔に娘はどうしたらいいかわからず諦めに近い表情が……。
経過は順調で3日目には退院できました。入院は術後の感染防止の抗生剤の点滴や痛み管理、食事は飲み込める様なみじん切りのもの、これらが自宅ではやりにくいことからも必要だったんだと納得しました。 長男の病気入院の時と違って、今回は一過性のものですぐに治るから「不安」ではなかったのですが、やはり痛みに対して代わってやることも、どうしてやることもできず、ただ気休めに横についていてやるだけの立場には「無力感」を感じずにはいられませんでした。
とにかく気になっていたハードルを一つ越えた、といったところです。 でも、病院や入院という言葉とは余り関わり合いになりたくないのが今の本音です。

2002/12/17(火) 記

   師走の声はボヘミアン

師走と言えばクリスマスソングの登場の月です。
クリスマスソングにはかなりこだわりがあります。
第一に、とっても好きなんです。一年中聞いていたいと思うくらいです。 ただそれをやると家族にあきれ顔で見られるので自粛しているのです。
私にとって最初のクリスマスソング・アルバムは
ジュリー・アンドリュースの(懐かしい!)The Christmas Treasure というレコードでした。
アンドレ・プレビン=ロンドンフィルの演奏もぴったりで、有名なクリスマスソングはもちろんのこと、 Irish Carol(アイリッシュキャロル) Wexford Carol(ウエックスフォードキャロル) God Rest Ye Merry, Gentlemen(ゴッド・レスト・イ・メリー・ジェントルマン)などの日本ではマイナーな曲も収録されていました。
このレコードにぞっこん参ってしまったのですが、何せプレーヤーが無くなってから再生ができなくてお蔵入りでしが、三年ほど前にありがたいことにCD復刻版が出て、今それを聴きながら書いています。

毎年恒例にクリスマスCDを1枚ずつ増やしていっています。ほとんどはボーカルなのですが、中にはハンドベルとかオルゴール、バロックトランぺットなんてのもあります。
今年はW杯の前夜祭の3大テノール競演で記憶も新しく、カレーラスとドミンゴのクリスマスアルバムを選びました カレーラスはあくまでも清楚に初々しく真摯な歌い方で。 ドミンゴは艶のある一歩抑えた、ある種色気のある歌い方で。 甲乙付けがたい声と技量、うっとりしてしまいます。

先日Amazonをふらふらしていて、一足早く自分用のクリスマスプレゼントを買ってしまいました。
これも旧版のレコードで持っていたもので何年も聞いていなかった物。
72年録音、カラヤン=ベルリン・フィルで パヴァロッティとフレーニの「ラ・ボエーム」…… この録音のミレッラ・フレーニの声の可愛らしく美しかったこと、 パヴァロッティの声の伸びやかで艶のあったこと。
一時は憑かれたように夜も昼も聞いていた名盤でした。 このところオペラには少し縁が遠かったのですが、上記のW杯以来、興味が再燃して とうとう再開したラ・ボエーム。
日常の生活には疲れること、嫌なこと、考えなければならないこと、悩むこと たくさんありますが、一瞬でもそこからぽんと高みに自分を投げ上げて 至福の時を過ごさせてくれるものがあってよかったとしみじみ思っています。 今年もいいクリスマスになる予感がします。         

2002/12/05(木) 記

   またまた閑中

勤労感謝の日だった。
なのに休日らしいことはまるでなし。朝から土曜日恒例の勉強会(というものの、おしゃべりも結構楽しんでいる)

昼過ぎに戻って仕事に備えて、ちょっと準備。これも昨日の内にやっておけばいいのに、どうも根からの怠け者でお尻に火が付きそうに炙られないと手が出せない。
この性癖で、ン十年も生きてきたので、もう今更変えられない、変えようという努力も(少しは免罪符的にするが)ほとんどしない。
だから私とつき合っている人は、大抵知っている。約束の時間の10分後でないと私は現れない。そのときまでに読んでくるといった物は大抵読んでない。調べておきますといった物も、いうだけ野暮である。
それでも冷や汗ものでなんとかやることをこなしてきたので、また一層、この傾向に拍車がかかる。

今日はさる大学の入試問題の過去問を2年分解いた。
言うもおかしいが、実は私の出た大学である。
ところが、これがかなり難しい。おっかしいいなあ、ン年前にはこれほど難しいと感じなかったのに。
現役の時は、自分の能力の範囲内で解るところだけ解けばよかったからそういう印象が残ったのかも知れない。つまり、解らんところは解らん、それで終わり。
ところが今はそれは言えない、内容は100%解って出題に込められた意図も読めて、それ故にうまい解答も捻り出せる、それが要求されているから大変なのだ。
とどのつまりは出題者との知恵比べといったところか……
そう大それた事を言うつもりではないが、結局は試験なんて、知恵比べなんだ。
考えが堂々巡りをし出したので、その辺りで切り上げて、仕事場へ。結局、準備した分は使わなかった。それはそれでよし。

朝ちょっと考えていたハリー・ポッターの映画へ行くことも仕事が終わってからでは大義になって中止。
それより本の方を早く読んでしまおう。原書に在って日本語版にない部分がある……昨日の発見が、他の例も在るかどうか、やはり気になる。
他に無かったら、どういうわけで(意図的に、としか思えないが)省略したのか問い合わせてみたいと思う。返答が来るかどうかは不明だ。

かくして、勤労感謝の日は過ぎていこうとしている。
なんだか書くほどのこと事も無かったかな……

2002/11/23(土) 記

   霜月の心境、またはJA

足かけ3年というと、結局PC歴と同じ長さなんだなあと変なところで感心したりする。
例の試訳のお陰でこうやって飽きもせずPCの前に座ってこれたのだと思ってもみる。 本来なら他の本と同様、ただ読んで書架に並んで終わりという過ぎ去っていく書物達の仲間入りするところだった薄いジュビナルペーパーバック。
その本たちがこれほどわたしの生活の一部になりその本のお陰で多くの方と知り合え、語り合えるようになるとは思ってもいなかった。

SW、プリュクエルのさらにスピンオフ。
少年学徒のオビ=ワンが孤高のジェダイマスター、クワィ=ゴンと出会い、さながら磁石の同極のように近づくと反発する緊張の末に今度は異極同士がぴったり引き合って容易に離れないようになる、その経緯が記され、さらなる冒険と試練、数々の内外の敵と戦い、……そしてEpisodeTの悲劇的結末へと続く物語。
ジュビナルとして書かれながら、十分に大人の鑑賞に足る内容を持ち、登場人物達は目と心に焼き付いた画面での二人の姿と響き合って、突如として生彩を放って動き出す。
決して文学的に完成度の高い物ではないし、年少読者向けにストーリーは簡単に善悪は単純明快に、少年オビ=ワンも読者が感情移入しやすいように、等身大12歳の少年。

それなのに多くの人の心を捕らえ、私も虜になってしまった。この小説には不思議な魅力がある。
どうしてもトリロジーにはそれほど入れ込めなかったがEp1で再びSWの世界にどっぷり浸ってしまった。その一番の要因はオビ=ワンとマスターとの心の通い合った師弟関係であり、ひいてはそういった実に人間くさい古めかしい師弟関係に基礎を置くジェダイオーダーの在り方、といった物が新しい魅力を持っていたのだろう。
そして、その全銀河に規律と平和を約束していたジェダイ・オーダーが遠からず滅びてトリロジーの「唯一のジェダイ生き残りオビ=ワン」へと繋がっていく悲劇性がさらに最盛期の師弟関係に輝きを添えているように思われる。

何はともあれ、自分一人で読むのはもったいないと思った単純なところが出発点だった。それと中学生だった子供にも読ませたいという気持ちもあった。当時隆盛を誇っていた某SWサイトの掲示板に「オビ=ワン・ケノービ;若き日の大冒険」という会議室を新設して翻訳を書き込んでいったのが連載第1回だった。

#1の4〜5章くらいまで進んだところで下へ流れて消えるのがもったいないという書き込みと消えた分を見せてというメールをいただいた。その都度お返事していたが、その方達からちゃとしたテキストのぺージを作ってはどうかとご意見をいただいて、とんとんと話が進んだ。
まだHTMLページを作るなど私には技術的に夢のまた夢だったのだが、お声を換えてくださったnetで出会った友人が親切にも邪魔くさいページ制作を引き受けてくれた、そしてまだ自前のHPを持っていなかったので、これも行きつけのSW系有名サイトのオーナーに間借りして置かせていただく事を快く承諾していだたけた。
このようにして多くの方々の支援と協力があって初めて日本語版は日の目を見ることができた。

その後Ep1の興奮が去って2年間、次々とシリーズが発刊され、訳の方は他の事に気を取られたり、時には仲間内の読者に甘える気持ちもあって、長らく筆が途絶えたりすることもあった。特に#5で話が一度に暗くなって以来、気乗りがしなくて#6を半年以上も放置してあった。それもこれもわたしの根気の無さと一貫して一つの物事にかかり切れないいい加減さが原因だった。
Ep 2公開が迫った2002年、やっと#6の再開。そして14章までたどり着いた時、ふと私の心に以前から引っかかっていた大きな問題が再び姿を現した。直接の原因は一人の米国人と話したことだった。彼は以前日本語を教えたこともある人で法律関係もかなり詳しい。今こんな事をやっている……翻訳の事に触れると版権を持っているかとすぐに聞かれた。もちろん元々海賊翻訳であるし、読者層も極限られている、個人のサイトで全くの楽しみのためにやっている、等と説明したが、彼の答えは厳しい物だった。

曰く、アメリカの出版社の版権に関する認識は厳然としたもので上記の説明は追訴を免れる理由にならない、云々。訴訟問題になったら賠償金を請求される、その覚悟はあるか、等。
まさか、そんな大事にはなるわけは無い、そう思いながらも不安はますます募った。ただ一つ救いは、今のところ日本国内では出版される見通しが無いこと、つまり独占版権を取得する出版社がないということだった。
しかしだからといってス社のお目こぼしにいつまでも期待を繋ぐことはできない。それに今までごく僅かだったHPのカウンターのヒット数が急激に伸びてきたのも不安材料だった。それだけ多くの方の目に留まっているということだからだ。

手を拱いて、何もせずに放って置いてもそれ切りだったかも知れないが、気になり出すといけない。(たかが)一介の趣味のために大事を引き起こすことは避けたい。
そのためには、まず現状を調査、と思いついて検索エンジンでJA、その他キーワード検索をしてみると、かなりヒットした。あちこちで取り上げてくださっているのはありがたい事ながら、 「ただで日本語版がDLできる」と紹介されていたのには、少なからず驚いた。DLはあくまで読んでくださる方の便宜を図ろうという意図から作った物だったが、これでは言い逃れが聞かない。 これを見たとたんに決心が付いた。

潔く公開をやめようと思った。それに異論はあっても、現行では法律違反であることも大きな要因だ。やはりやるならまっとうにやりたいと思った。
不安要因を抱えながら続けても、まずこの自分が楽しくない。 一時的に読者数が減少しても仕方がないことだ、もともと自分一人の無償の楽しみで始めたことだ、原点に戻ったと思えばいい。
そう決めたら早かった、ホスト上のファイルを削除してお知らせと置き換えた。メール配信という手間を経ても読んでくださる方には今後も新訳をお送りすることにする、 個人間のファイル交換は著作権侵害に抵触しないと踏んでの上の措置である。

幸いにこの出し抜けの中止にもかかわらず、多くの方からメールをいただいて、この微々たる活動を見守り続けてくださった方が全国にいてくださったのだと感激してしまった。
そして軒並み私の(取り越し苦労かもしれない)危惧に理解を示してくださった。中には熱い思いを書いてくださった方、拙訳を褒めてくださった方、環境、興味は違っても、みなさん一様に話の成り行きに心を掛けてくださっている点では同じだった。 つまり同好の士だった。

とても励まされた暖かい思いでこれからも遅々として進まないであろうがこの作業を続けていきたいと思う。幸いにまだまだ素材はたくさんある。
一度終了した分もまだ改善の余地が多々ある。 今まで以上に楽しんでこの作業ができると思う。げに楽しきかな……である。皆様に感謝。

2002/11/01(金) 記

   虫の音とチェロ

昨夕出かけた。
わが家から車で30分ほどの県庁所在地の郊外に行きつけのギャラリーがある。
ギャラリーというと今風のきれいな「小じゃれた」、ちょいとスノビッシュな香りがするオフィスビルの中の一室、というイメージがあるが、ここは全く違う。
まず幹線道路から一・二本横道へ逸れただけで辺りは閑静な住宅地と田圃が広がる郊外。昔は「村」だった古いたたずまい。
そこにある文士の家、とでも言おうか、この近在では名士といわれた人の寓居で、今はお孫さんに当たる人が管理している。その人はわたしより5歳くらい年上であろうか、品のよい女性である。 市の産業の祖を築いた祖父と文化人で新聞社を設立した父を持ったその方は、鷹揚さと飾らない気さくさを備え、大きな家をただ閉めておくのはもったいないと、 知り合いの創作家の作品を展示したのがはじまりで、今では知る人ぞ知る、悠々自適のギャラリーをしている。
木の屋根付き門をくぐって前庭の石畳を歩くと周囲には石蕗や苔の広がる自然なたたずまい、昔ながらのひろい玄関があり、上がりがまちから畳が続く。 控えの間と二間続きの座敷を開け放つと実に三十畳以上の広間になる。鴨居も欄間も昔のまま、板の縁側をたどると離れに至る、瀟洒な風流床があり天井の羽目板も手の込んだ造り、 昔の、いい意味でお金のかかった家というのはこういうものかと思われる。

ここで開かれる催しは陶芸、彫金、木工家具からステンドグラス、イタリア寄せ木,市松人形、手織り布まで多種多様、ただしオーナーの気に入ったものしか展示しない 買い手市場なので、当然彼女の趣味が反映されて、素朴で単純かつ洗練されて品格の高い物になってくる。しかも古い造りの家によく合う疎らな展示のやり方、 季節の野花をさりげなくあちらちらに配して、どんな現代的作品も不思議と昔の日本家屋にしっとりとなじんで、調和のとれた空間を作り上げる。
選民主義と辛口の批判もあるかも知れないが、なに、オーナーの趣味で遣っているギャラリー、採算など最初から考えていない。 好きな物を好きな人だけに見てもらえば結構、その伝である。だから売らんかなの商業主義の入る隙はなく、また、 お遊び程度の手作り品が所狭しと並ぶフリーマーケットの乱雑さもない。

特に気に入っていたのは「図書室」、入り口の右手に延びた囲炉裏のある土間と水屋の裏に増築されたとみえる一室。普通は公開していないが、 いろりの側でお茶をいただいた時、傍らの書架にハヤカワ銀背の全巻が並んでいたのを見つけ、垂涎の体で眺めながら聞いてみたら、案内してくれたのが、図書室。 高い天井まで届く作りつけ書架、周囲は白壁、書架にはSF、ミステリー、もちろん古今の文学作品も並ぶ。決して全集物を一括購入でないことはその背表紙の多彩さからもわかる。 「たくさんあって……」と笑っていらしたが、どなたの趣味か聞かなかったのは不覚だった。

さて、今回出かけたのは、その図書室と水屋を改修して庭にステージを設けたのでお披露目に宵闇にチェロのコンサートをするという招待状をいただいたからだった。 図書室がなくなったのは残念だが、どのようになったのか是非にも見たかったので、仕事のやりくりをして出かけた。

到着は開始の20分前、いつも時間にずぼらなわたしにしてはちょうど手頃な到着だった。既に辺りは暗く門を入ったところから縁石に沿って点々と古い瓦を置いて紋の入ったところに 太く短い蝋燭がともしてある。見やると庭一帯に蝋燭の灯りが見える。
一旦玄関から入ると中にはもう先客が大勢いて、地元では有名な女流陶芸家作品展を見ている。例によって作品展というより、和の室内装飾を見ているようだ。 廊下に低く長く置いた木の上に藍と白の高坏が並ぶ。鴨居から円環の形の花入れが中に吾亦紅や通草や七竈を入れて下がる。床には富岡鐵斎の軸が下がりその下には違い輪のように 僅かにずれた円柱の重なったような灯りが点る。この際だ、値段は気にしないで見せてもらおう。

まもなく庭へどうぞの声で庭へ移動。家を壊した時に出た梁などの廃材と礎石で現代的なステージが50センチほど地面より高くしつらえてある。 運良く最前列の空いているイスにありつけた。チェロ奏者は26歳の若い音楽家、訥々と外では即興曲を弾きます、とだけ説明して早速演奏に入った。 どこから始まったか定かではないゆるゆるした音が楽器から漏れてくる。切れ目く続く糸のタマがするする解けていくような不思議な感覚。むしろ庭にすだく虫の音の方が明確に 聞こえてくる。闇に点々と浮かび上がる蝋燭の揺らめく炎と、虫の音、チェロの音が渾然となっておもわず目を閉じて、周囲の人や現実世界の物を忘れようとした。

次いで席を室内に戻して、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番、カザルスの鳥……スタンダードナンバーではあるがやはり生の音はいいもの。 ヨーヨー・マの演奏とまでは行かないが、熱演だった。
終わって、オーナーの手作りの紫いものお菓子とお茶のおもてなしをいただいて帰途についた。
なかなかの夜宴であった。         

2002/10/15(火) 記

   花の日曜?

久々の日曜日、土曜日といっても学校の補習やテストもあるし仕事もしっかりある
よって日曜しか朝寝が出来ない……ところがその日曜もこのところつぶれてばかりで、やっと3週ぶりの朝寝とはなりました。
寝過ぎは却って辛い、腰が痛い、朝になってからリアルな夢を見る

なにやら家族がインチキキャッチ商法にひっかかっている。必死にクーリングオフを考えたり、自分が契約書の説明をうけるなら、あいまいな箇所をいちいち聞き直して 「それはこういう事ですね」と念を押して、その旨相手に書いてもらう、もし相手が書くのを拒否したら、自分が書いて「それにまちがいありません」と相手に書いてもらって捺印してもらう……

こんな事を夢の中でぐるぐる考えていた
なんつう現実的な、つまらん夢じゃろう
せっかくの朝寝を、もっといい夢が見たかった……

今日ばかりは仕事もNetも忘れて、のんびりとコーヒー飲んで読書。
そう思っていたのに、その現実の夢も破れた。ああ。

2002/10/07(月) 記

   京都駅での邂逅

京都駅で列車を待っていた。

1番線は北陸線、山陰線、プラットフォームの端からは、関空特急「はるか」が発着して、慣れた者でないとわかりにくい。
北陸線「雷鳥」を待っているつもりが山陰線「はくと」なんぞが入ってきてパニックになる人もいるらしい。
日本人でもそうだから、外国の人はさらに困惑するだろう。

乗り換えで時間がかなりあったけれど自由席なので、まあいいかとまだ列も出来ていない乗降口のマークの所にぼうっと一人立っていた、これって、側から見るとかなり間抜けな様子に違いない。
間抜けに見えたかどうかは分からないが、ホームの待合い席に座っていた外国人のお坊さん(たまにTVなどに出るね、日本で修行中とかいって)、その類の人が心配そうに近づいてきて、「はくと」を指して「これ、らいちょうですか?」と聞いてきた。
もちろん違うので、「違いますよ」と言うと安心したのか、にこにこ笑って元の席に腰掛けた。

しばらくして、また別の回送電車が入ってきた。またしても彼は心配そうに腰を上げた。
(回送車って英語でどうやって表現するんだ……と思いながら)違う違うというように笑いながら手を振ると、こちらへやってきたので、"This is not it, maybe next one is. " と言うと満面の笑みで破顔して英語で話しかけてきた。

個人的なことは聞くまいと思ったのだが、聞くまでもなく自分から話してくれた。新居浜の禅宗寺院で修行中の仏僧であり、永平寺の開祖500年祭に行くところだとか。
仏教に興味を持ったのは25年前大学生時代に"mentor"……導師に出会ったこと、日本に来て2年目で日本語が難しくて思うように自己表現が出来ないこと、などなど。
偶然にも、こちらも前の週にハンガリー、オーストリア、チェコを回って、多くの教会や大聖堂、ヨーロッパの歴史をそのままに残す町並みを堪能してきた帰りだったので、キリスト教徒ではないけれど、そういった壮麗な宗教建築に身近に接すると何か宗教的な敬虔さを感じる,そんなことを話すと、彼の方も建仁寺の庭を見たらその静謐さに心が洗われる気がしたと、日本人でも捕らえにくい機微を話してくれた。 彼の祖先はドイツ出だそうで、アイデンティティを求めるためにドイツへ行ったこととかアイルランドにも興味があって行ったとか、ひとしきりヨーロッパの話で盛り上がった。

もちろんしかつめらしい話ばかりしていたのではない。
禅僧の生活は禁欲的で作務の連続、その間に座禅と厳しいことこの上ないとあっけらかんと話してくれた。
わたしも高校時代に永平寺で座禅体験を1週間したことがあるので、その折りに、早朝4時から起こされてとても辛かった思い出を言うと、 何年もやっていてもやっぱり辛いよ、とウィンクして話してくれた。このとき彼は禅僧というより、気のいいアメリカ人に戻っていたようである。
30分ばかりその調子で話して、いよいよ雷鳥がホームに入って来ると彼はレールウエィパスを持っていて指定席車両にのるので別車両に走った。
しかし2,3歩行きかけて大急ぎで振り向いて握手を求めてきた。実に大きくて暖かい手だった。
もし、彼が最後に禅僧らしく合掌でもしたらきっと面食らったことだろう。

これが一期一会なんだなと、大変素直な気持ちで思えた。
旅の終わりを締めくくる良い思い出になった。

2002/09/18(水) 記

   息子の浅知恵

息子が京都にいます。
いわゆる花の大学生……かの有名大学ではないのですが、まあ大学生活を楽しんでいるようです。
この話はつい最近息子から聞いた自慢話です(書くネタ切れでこんな事を書いています)

往時の大学は町の中にあり、それぞれ特色ある建物、歴史を誇っていたものでした。
建学当時の講堂だとか、創始者の銅像とか……それこそ大学の7つ道具みたいな物があって、訪れる人はそういった物に囲まれた独特の雰囲気を楽しんでいました。
ところが昨今は、学生数増加による大学のマス化で、従来の限られたスペースしかない旧構内では賄いきれなくなった、しかも都市中心部では地価の値上がりで新学舎を作る余裕がない……諸々の事情で大学の郊外移転が始まってもうかなりになります。

彼のかようD大もその例外でなく、市内の本学から遙かに離れた県境近くに新学舎を作って教養部生はそこに通うようになっています。
これがまた環境は抜群なのですが辺鄙な山の中、JRと私鉄が1本、駅前にコンビニ1軒、ファミレス1軒。
楽しい遊びの大学生活の夢やぶれて、チャリ通しています。高校の時と何も変わらない
しかし一つだけ、おっ、これはという楽しみがありました。「学園都市」と言う名に恥じず丘陵地帯にD大を中心としてD女子大、D国際中学、高校、などが固まってあり、 彼らはお隣のD女子大をターゲットにしたのでした。

ところが……敵もさるもの、ガードが本気で固い。周囲には高い鋼鉄の格子塀を巡らし、ただ1カ所の通用門には24時間警備員が常駐して絶対に男子は入れてくれない。

しかしこんな事でへこたれる彼らではありませんでした。何とか合法的に入る事は出来ないかと頭を寄せ集め、PCのもう一つの可能性に賭けることにしたのです。
まず、手分けしてD大の蔵書目録とD女子大のそれを引き出します。この辺り共通図書もあってかなりたやすく目録を出せたらしい。
次にD女大にしかないものを検索で絞って、自分たちが貸し出しを申し込んでも変に思われない物を抽出。後は何食わぬ顔で閲覧と貸出依頼書をもらい、図書館パスを発行してもらって、やっとあこがれのD女大の門を大手を振ってくぐったとのこと。

入った物の中の様子がわからず、図書館へ直行すればそれで用が終わって退出しなければならない、だから2人して(そう、先発隊は2人でした)うろうろしたのですが、 行く先行く先で奇異の目で見られ、なにやら居心地が悪く、D大よりはずっと美味しいという学食で飯を食ってこようというはじめのもくろみも果たせず、 チャペルに登ってみようとしても鍵がかかっており……
結局読む当てもない本を借りて早々に退散してきたというお粗末の一席でした(爆

こういう事は実際にその場でやっている時よりも、計画して実施に向けてああだこうだと鳩首協議している時が一番楽しいのかもしれないですね。
それは、彼らもよくわかっていたのじゃないかな、と思います。

それにしても、学費払って、施設を使って、一体何しとるんじゃ〜〜〜と世の親御さんたちは呆れ且つ腹を立てております。
(自分たちも大学時代には結構馬鹿なことをしたものですが……)

2002/09/06(金) 記

   閑中日記

どうも日記が長くなって日記らしくならない……
自分でそのように作ってしまって、しょうもないこと、ほんの覚えのために書いておきたいことが、書けないような日記になってしまっている……
裃を着けて茶の間に(現代的に言うならリビングに)手枕でごろ寝するのも変なもの
と、いうわけでもっとつまらないことでも、そのときの気持ちを忘れないためにも(そう、まだら惚けするから)思いつくままに書き留めて置くことにしよう

幽霊を見たかと思った……

仕事柄夜の帰りがいつも10時過ぎになる。最後の200メートルほどは街灯も一つしかない夜道を歩くことになる
もうそんな生活を続けて10年近くなるのに、やはり暗闇はなじめないし苦手だ
田舎のこととてその時間には歩く人はほぼいない。これが住宅地ならまだ我慢もできるが わりと幅の広い道の左側はずっとブロック塀、その背後は墓地、右は市立の元保育園、子供数の減少のために廃止されてもう3,4年になろうか 予算の関係か、壊されもせず、かといって改修して他の用途に使われもせず、閉められたまま。時折園庭の草刈りだけはしているようだ右左にたいそうな背景を従えて、その道は最初の民家に達するまで30メートルは続く

墓地は別に怖くない、お墓=幽霊 なんて図式を信じるほど可愛くもない年
しかもお墓には生きた人はいない、つまり悪さをする人はいない
では、何が気持ち悪いかといえば、そんな道で偶然後から歩いてくる人、途中で交差する3階建ての市民アパートの方から続く道からふいっとやってくる人
被害妄想といわれるかもしれないが、つい「通り魔」とか「通行人刺される」といったワイドショーのタイトルがちらつく。 お金も入ってない鞄だけど、ひったくられたら必死で取られまいとしがみつくだろうし、後ろから走って来る音がしても、振り切って我が家まで逃げ切る脚力なんかあるわけない

だから歩くとき一人きりだとすごく安心する、誰か後ろからこようものなら思わず身構えてしまう

今夜はその怖さが倍増した
例の交差道の手前まで来たらなにやら大きな音がした
多分アパートの住人がドアを閉めたか、暑さで開け放した部屋から物音が聞こえたのだと、自分に言い聞かせて、それでも足が速まる
ふと見るとそちらから歩いて来る人影……普段ならちらっと見てすぐに目をそらす
相手からも見えはしないのだが、もし「眼をつけた」なんて思われたら嫌だから
しかし今日は目をそらせてからあっと思った……なにやら顔の辺りがぼうっと光っていたような
目の隅でちらと見ると………………やっぱりぼうっと青白く
しかも不自然に背が高い(ような気がした)顔以外は毛糸の帽子でも被っているように髪が見えない

さて、ここでどうしたかって?
  後も見ずに逃げた?  思わず叫んだ?  足がすくんだ?
いえいえ、もう一度よく見るために立ち止まってそちらを向くと……
その辺の兄ちゃんがメールを打ちながら歩いているのだった
周囲が真っ暗でもメールは打てるのね、光るから。しかも見ている顔だけ反射してぼうっと光る。 どきりとしてからメールだとわかるまで時間にしたら4,5秒なのだろうがかなり長かった

そしてほっとしたと同時にがっかりもした
どっぷりと現実に浸かっていても、心のどこかで非現実を、超現実を求めているのかもしれない
この世界も捨てたものじゃない、思っていたとおりの「すてきな世界」じゃないかと
どこかで願っている自分がいる

たまには空を見上げて航空機のランプが点滅して行くのを見ると、もしやUFOのような動きをしやしないかと期待している自分がいる

おおい、世界よ、わたしに応えてくれ!って

2002/08/28(水) 記

   おのれ、猫め!

にくきもの、かひものするとてしゃこをあけ、くるまだしたるそのすきにねこのはいりて、いちやこし、ししばばこきてよごしたるもの……

げに、憎っくき猫です!
 そもそも二軒隣のうちで猫を飼いだしたのが原因、おつとめの家で昼は外へ出しっぱなし
……当然よそのお庭に入り込みちゃっかりトイレをなさいますね、それだけじゃない植えたばかりのプランターの土を狙い打ちに引っかき回すし、門柱で爪は研ぐし。
さらに被害は続いて猫が猫を呼んで野良猫が徘徊するようになって上記の被害が倍増しました。
お隣にはなかなか苦情がいえないもの、言っても「うちの子じゃありませんわ」と言われれば、確かに証拠写真があるわけじゃなし……。
まあ何軒か軒並み泣き寝入りでした。

ところが一週間ほど前、車庫をあけて買い物に行った隙に猫が入り込んだらしい
当然帰れば車庫は閉めますから、猫は一昼夜車庫の中を我が天下と飛び回ったのです
翌日開けると、車の屋根と言わずボンネットと言わず足跡がべたべたべたべた……
それどころか、滑り降りるときに爪を立ててライトの表面に三本ずつ爪の跡がキェ〜っと……

まさかと悪い予感を抱きながら車庫の二階へ上がると……鼻を突く悪臭、
ごたごたある物をどけるとしっかり○○○
完全に切れました、一体どこの馬鹿ねこだ、そもそも猫を外飼いするからいかんのじゃ!
事もあろうに人様の家の中をトイレ代わりにするなんて!!!
出てこい、皮剥いで三味線にしちゃるぞ!

とは思いましたが、まさか怒鳴り込みにもいけず(このあたり田舎は地域地縁の連帯が強いから個人主義や、当然の権利の主張はなりを潜めてしまいます) 泣く泣く始末をしました。

後日談があります。そのトイレ代わりにされた場所は二階の床の開口部、わかりにくいのですが下から大きな物を階上に上げるときに仕事がしやすいように床の一部を開けてあります。
普段は見ていると不安になるので透明な塩ビ製波板を渡してあるところ。そこを下から見上げるとなにやら茶色の液体の汚れが見えてきました。 そう、あれだったのです。
波板を全部はずして下へおろして水洗い、鼻がひん曲がるかと思った。

おのれ、猫め!そこへなおれ、一刀両断してくれるわ!!
芝居がかった啖呵でも切りたくなりました。
先日始末をしてから、猫は本能に従ってやったまでで悪意があってやったのじゃない、そう思える余裕が出てきた矢先、 完全に二度切れしてしまいました。

動物を飼う人にはかわいい我が子と同じ、他人にはにっくき馬鹿猫
ああ、意識の断絶、でもしっかり飼う責任はとってほしいな、
それともこんなことで切れるのもわたしの狭量さかなあ。

2002/08/20(火) 記

   天罰か?!

クーラーが壊れました……この意味は、計り知れない重大事です。

今の季節今の日本で、軟弱と言われようとたるんでいると誹られようと 暑いものは暑い……我慢できない。
ヒートアイランド現象で青息吐息の都会地とはいえないものの、連日35度を超す猛暑。
おまけに我が家のリビングは冬こそ他人様から
「お宅は南向きにずっと開いていて、日当たりがよくていいね、おまけに天井までガラスで」 と、お褒めの言葉をいただけますが、裏を返せば夏は耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……の状態なのです。
寄りにもよってその部屋のクーラーが壊れたたのです。

しばらく前から室外機のファンがやけに大きな音を出しているな、 その認識はあったものの、「なあに、うちのに限って」という根拠のない確信でほったらかしにしてありました。
その結果……です。

早速電気屋さんに電話。 こういうときには町の電気屋さんは重宝です。
電化製品を買うときには大型量販店へいそいそ出かけるくせに アフターが後手後手になるので大型店は嫌い。昔からおつきあいのある電気店に頼み込んで来てもらいました。

済みませんね、室外機は当然外にあります。ポーチのタイルの照り返しがぎんぎんしている中、最高に暑い日中にかがんでねじをはずしたり調べたり。 それも仕事と言ってしまえばそうなのですが、曲がりなりにもわたしは室内でこうやってパソコンを打っているのに……

あ、首にかけていたタオルをはちまきにした、きっと汗がしたたるのだろう。 そうです、これは現在進行中の出来事。本当に申し訳ない。
「やっぱり基盤の交換ですね。取り寄せないと」
「……あのう、だいぶかかりますか」
「早ければ2,3日で来ると思います」

…………わかりました。わかりましたが…………………………
点々ばかりが延々と続きます。         

2002/08/06(火) 記

   夏休み!!

世間は夏休みというのに、こちとらちっとも休みになりやしない……
そりゃ世間様には自由業ですなんて言ったりしているが、都合のいいときはこれがちゃっかり主婦に変わったりする、自由な仕事イコール不自由なんですよ。 一週間これこれの時間からこれこれの時間まで仕事しなさい、そうすればお給料あげますよ……そんな仕事にあこがれることもたびたびです。
休みという観点では、それこそ盆と正月の2週間だけ、竹田の子守歌じゃないけど盆暮れにしか休みをもらえない下男下女子守並なのです。 近頃そういった職種名もなくなってサービス業もちゃんと有給もあれば年休ももらえますが。

話を戻せば、夏休みはちっとも休みじゃないってこと。
飛び入りのお客さんが来たりする。話を聞くと「この休みに集中的にやれ」とか「みっちりやって不得意を得意に変えろ」とか、かなり無責任な叱咤激励を受けているらしい。
休み休みというけれどわずか一月余、目に見えるような成果が上がるとは保証できない。 そりゃ来る日も来る日も4,5時間もみっちりやったら、少〜しは効果が出るかもしれないが、それにしてもほんの少し、または目に見える成果なんぞあがらないかもしれない。

でも、それをやんわりと言っても、やはり需要がある。
根底にはやることで何か大した成果を上げようというより、やらないと不安だから、やらないより何かやった方が安心だから、そういう心理が横たわっている。

目に見える効果を期待しないでいいならやらせていただきます……われながらなんて無責任な言い方だろう。
しかし某大手予備校みたいに「絶対にあげて見せます」なんて大口は叩けない。 商売気がないというか、はったりを噛ませられないというか。

語学なんて小手先技ではいかんともしがたいものなのよ、それはわたしが一番よく知っているの。何年もかけてしこしこちびちびやってきて、少しは読めるようになったかなと思っても、まだまだ知らない事ばかり自分は勉強が足りないと思い知らされる。 何も道を極めようなんて大それた事は思ってない、不自由なく読み書き話が出来るだけでいいのですが、それがたいそう難しい。

だから休みの間に、と安易に期待を持ちすぎるのはどうかと言いたい、できるのは自分のわからなさがどのくらいなのか、そもそもその時点で混乱が始まっているのか、どの程度で覚えなければならない最低ラインを越えられてないのか、そこを自覚することだと。 それと背伸びして自分の守備範囲以上の物に手を出すより、今自分の身に付いていることをもう一度見直しして、少しでも疑問があったらそれを解明することだと。

そのお手伝いなら喜んでさせていただくし、それが次の段階への土台になれば上出来だと思う。
学習曲線は高地部が長く続いた後やっと上向きに転ずる、高地部で足踏みしていても決して無駄ではないから信じて続けなさい、と言いたい。
自分を信じられなくなったら何も成果は上がらない、払う努力の価値も見いだせなくなる。

さて、どこまで客観的に自分を見られるか、こちらも懸命に勤めることにしよう。

2002/08/02(金) 記

   ODE TO STAR WARS

AOCを見て今更ながらにSWユニバースの多彩さに惚れ直したところです。
実はAOCについてここに書くのはいささか抵抗があります。 何を言っても中途半端で語り尽くせない、ここに注目しているとあそこが気になる、そこへ移るとまた他の場所が気になる……つまり客観的に批評評価することができない、少なくとも今は、まだ。 それともそういう態度を取りたくないと自分が心の中で思っているのかもしれません。

本当に好きな物はあれこれつつきたくない、連想がここ彼処と飛び回り、切れ切れのシーンがふと心をよぎる。 思わずにんまりしたり、うっとりしている自分に気づいてはっと赤面する。

脚本が複雑になって重層的にストーリーが進んでいくのが何よりうれしい。
旧三部作はわたしの中の位置づけでは、やはりどこかお子様映画の印象が強い。遙かかなたの昔に見た映画だし、ある程度予測のつくストーリー展開やステレオタイプのキャラにも不満があった。だから(生え抜きSWファンには申し訳ないが)改めてSWの魅力に囚われたのはEp.1を見てからだった。
Ep.1にも、もちろん不満は多々ある、曰く例のうるさいキャラ、すべての状況説明が強引に台詞によってなされていて展開がスムーズでない、CGの継ぎ目が粗い、etc

しかし、その喧々囂々たる非難を補ってあまりあるのが、敬愛するマスター、クワィ=ゴン・ジンというキャラクターであり、彼との絡みで、後ろに控えめに立っているオビ=ワンまでもが愛すべき存在になった。
個人的にはEp.1はマスターを描くためにあったと思っている。マスター・クワイ=ゴンという存在の造形によってSWは人間的深みを描く事に成功した映画に一段進化したと言っても過言ではなかろう。

ルーカスがEp.1の事物はすべてEp.2とEp.3のための捨て駒だったと言ったとか言わなかったとか。
しかし、マスターがいればこそ、Ep.2のオビが存在する───オビ=ワンにとってマスターの存在は単に尊敬する指導者程度の物ではなかったはずである。
修行半ばで師と引き裂かれたオビ=ワンは師に託されたアナキンの指導という重責を果たしながら、常に自問していたはずである───マスターならどうするか、マスターなら何というか、そして常に自分は師の域に達することが出来るのか、師を超克できるのか、自負と不安、奮起と消沈の狭間を行き来しながら人知れず悩んだことだろう。
メンターとしてのマスターの重みは手が届かなくなってからますます大きくなっていったことであろう。心の深奥に秘めたマスターへの敬愛と思慕の情がオビ=ワンをより慎重にさせ、人格的に深みを増す遠因となった。
Ep.2で時折はっとさせられるオビとマスターとの類似、優雅とさえいえるその仕草や言葉遣いにオビ=ワンの老成を見る、そして生涯をアナキンという(いわばお荷物)のために捧げることになるオビ=ワンの運命の切なさに涙を禁じ得ない。
見る者にかくも様々な感慨を抱かせるAOC、やはり一筋縄ではいかないものなのだなあ。

2002/07/11(木) 記

   なんとかやっと

Ardethの不通のためにサイト更新はおろかまったく手足が出ませんでした。
はじめ何とか復旧を待ち、それがおぼつかないと分かってからは新しいサーバーを見つけるか、一時的に避難するか、せっかく取ったドメインを移管するか、それとも新しいドメインを取るか……いろいろあるオプションを考えていましたが、結局、ある無料サイトにCGIの相性がいいものと、Ardethのコンテンツを一応移行することに決めました。
クリスタルの掲示板、カレイドスコープの掲示版、更新日記と読書日記それぞれ移転完了しました。広告がちらつくのがやはり目障りです、そのうちに有料サイトでCGIの設定がここほどややこしくない所を探そうと思っています
自宅ではメーラーをOEからEdMaxに代えようと思っています。なかなか面白い機能がたくさんあって使い慣れると便利そうです。

先ほどW杯韓国=イタリア戦が終わりました、夕方に日本敗退を目の当たりにしただけに韓国の延長戦粘りの逆転に息を飲みました。久しぶりに「精神力」なることばを体感しました。
これは更新とは何の関係もないかな……o(^◇^;)o         

2002/06/19(水) 記

   長崎オフ会拾遺集

長崎は坂の多い街でした。

佐世保からうねる山道を抜けて長崎へ向かう1時間半余りの道行きは 空は朗々と春うらら、山道の間に唐突に広がる入り江・・・えっ、これも海なんですかあ?
梅の花咲き、鳥は啼き、吹く風に照葉が翻って日光を踊らせています。
ああ、私が出てきたときには道路は凍結、線路の周囲は薄暗い中にも白々と雪が残っていたのに…
予報では九州でも寒く天候は悪いというものでした。2月なのだからどうなっても仕方がないと納得づくとは言え、いささか気の重い出発でした。

何せ、飛行機と聞いただけでどういうわけか最悪のシナリオを連想してしまう私としては なるべく、いや、できたら乗りたくない、その一心でJRを乗り継いで九州へとは出発したのでした。
京都でのぞみに乗り換え、S500系統に始めて乗りました。なんと車高の低い尖った車体、如何にも早いぞと言わんばかり。おおこれが、日本の技術の粋かと見とれてしまいました。
博多まで3時間の早かったこと、持っていった本を読んだりウトウトしたり、すぐに着いてしまいました。

ハウステンボスに着いたのは私が最後、皆さん待っててくれたんだ、申し訳ない。 橋を渡りながらどうやらあの一団らしいと渡りをつけ、走るのもみっともないかと、わざとそのままの歩調で進む、落ち着かなくっちゃ・・・

2-1Bさん、TN421さん、1年ぶり名古屋オフ以来ですね、Kotetsuさん、さまさん、お友達の花屋さん、初めまして。 Kotetsuさんは地元のセレブリティ、お顔も広いし行動力も抜群、ハウステンボスの「取材」ということで無料パスをいただき、夕食の日航ホテルでの豪華中華も普段なら出ない料理ばっかりとか… 移動は、ハイ!タケコプター、ならぬワゴンをレンタルして、猛スピードで飛ばします。

SWオフらしかったのは一坪ショップならぬフィギュア関係のYY貿易さん、Kotetsuさん、ここでも常連さんなのね。掘り出し物があるある、皆さん目の色が違ってましたね! 惜しかったのは別のお店にマスターの(リーアムの)サイン入りのクワイのフィギュアがあったとのこと、そう、リーアムはチャリティ以外にサインしてくれないから、これぞ本当の掘り出し物! もし目にしたら○万円でも買っていたかもしれない(ねぶねぶ)

2次会として連れて行っていただいた「地球屋」さんというエスニック料理&パブ そこのユニークなコスモポリタン店長さんとも親交を暖めました。外からはわからない佐世保という町の現状も興味深く拝聴。 部屋に戻ってからTNさんご秘蔵の"空耳"オンパレード、いや、笑いましたね、本当。

翌日一路長崎、その前にラドンに潰されて今改修工事真っ最中の西海大橋を見て、冒頭の山道の部分へと話は回帰します。 楽しかった中華街、折から旧正月の燈祭り、頭に触れそうなくらい赤や桃や黄色の桃燈がずらりと吊られて戸口には赤と金の祝紙が貼ってあるし、昨日見た上海雑伎団の興奮も醒めやらず、中国独楽を買う一幕も。 ここでは紅楼夢の登場人物を描いたトランプをget。
出島跡を探索して、いよいよ長崎ちゃんぽんの会食会となりました。海鮮ちゃんぽん、絶品。油淋鶏(?)これも美味しかった、さすが食文化の豊かさは日本有数。 お土産も買ったし、かの「メトロ書店」も覗いたし、ここでJRで帰るさまさんとはお別れ。「また会いましょうね〜〜〜」

大村市にある空港まで1時間余、迂闊にもうとうとしてしまいました。昨夜あんなに飲んだKotetsuさんに運転任せて… 怖かった飛行機も3人で乗れば怖くない(よーするに「死なば諸共」意識です) 気を紛らわそうとすぐに買ったスタトレ小説を読み出したら、これが面白い。お陰で離陸時にいつも120くらいまで上がる脈拍がそれほどぱたぱたしなかったみたい。 上がったと思ったらもう下りて、あっけなく伊丹に到着。ここで乗り継ぎの2-1BさんとTNさんとはお別れ。「今度のオフ会何時どこで?」

大阪駅を見たら、ああ、もう帰ってきたという気持ちで一杯でした。 列車に乗ってうとうと…はっとして外を見たら辺りは白々と雪の原でした。 かくして2日間の南の旅は終わりを告げトンネルを抜けないでも、既に雪国。

つくづく思うのが人の縁の不思議さ、今回のオフ会も世が世なら邂逅するはずのなかった人々とかくも楽しくかくも有意義な時間を過ごすことができました。 Netという道具があったにしろ、この巡り会いは、全くの偶然の産物。 何やら運命論者に賛成したいような気持ちにまでなってしまいました。
みなさまのおかげ、ありがとうございました〜〜〜         

2002/02/06(月) 記

   訃報

昨日新聞を見ていて、愕然とした。
訃報欄に写真入りで載っていたのは大学時代の同級生だった。

彼女は浪人だったから年こそ少し上だったが、ともかく4年、それも専門の2年間はかなり親しく、よく付き合った仲だった。 最近では年賀状の交換も途絶えてはいたが、まさか暮れの31日に亡くなっていたとは知らなかった。 彼女はいわゆる整った顔立ちで人目を引き、予備校時代はミス駿台で通っていた。
服装にもこだわりを持って、黒以外は着なかった。
男子の中には、そんな地味で真面目な彼女のことを「おばあちゃん」などと 親しみを込めて言う人もあったが。 4年が終わったときそのまま一緒に院へ行くのかと思っていたら 「私、東京の院へ行く」と一言残して、さっさと行ってしまった。
その少し後、彼女が当時有名だった"ダウンタウンブギウギバンド"のメンバーの一人、千野さんという人と結婚したのを週刊誌で知った。 何でも高校時代の同級生だったらしい。何事もさっさと誰にも言わず一人で決めて、一人で実行してしまう彼女らしいやり方だった。
その後、ずっと大学に残って、研究を続けて、いわば同期生の中では(出世頭とは言わないまでも)名前が一番売れた人だね、とよく冗談を言っていた。 今は学習院大の教授になって大和絵や障壁画の研究を続けていたし、確か共著の評論集で小泉八雲賞もとっていたと思う。
突然の訃報に接して、また、彼女らしく生き急いで誰にも言わず自分だけで逝ってしまったんだなあ、と感慨しきりである。
さようなら、千野香織、いや中村香織さん……

2002/01/10(木) 記

   今年最後の買い出し

Amazonでまとめ買いをしました。近くの書店では見つからなかった物ばかりです。
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 魔法使いハウルと火の悪魔 徳間書店
同              クリストファーの魔法の旅 徳間書店
テリー・ブルックス     魔術師の大失敗     ハヤカワFT
同              大魔王の逆襲      ハヤカワFT  
同               見習い魔女にご用心   ハヤカワFT  
更に近くのブックマーケットで未読のザンスシリーズを4冊  まあ、玉石混交なのですが、これだけ同じ系統の本ばかり読むと、また新しい物が欲しくなるかも知れません。年末の仕事が済んだら読みにかかるとしましょう。   

2001/12/28(金) 記

   ウィルス騒動顛末記

(まだOEをメーラーに使っていたころの話です、隔世の感があります、しかもDLソフトをフォルダーに入れずに解凍している。。今なら絶対こんなことしないんですが(笑)

英語関係の友人からメールが来た。
彼女はいろいろな記事や面白い画像を送ってくれたりすることがよくある、それが徒になった。
メールの題名は英文、ファイル添付。
何の疑問も抱かなかった。  
おまけにこのところ、Nimda騒ぎ以来少し弛緩していてトレンドマイクロへ行って最新情報をチェックもしてなかったから、つい最近「TROJ_ALIZ」(または「WORM_ALIZ.A」) なるものの 警報が出ているのを知らなかった。
何気なくメールだけ開けた途端にただ一文字 ”peace” しまった!と思ったがもう遅いという衝撃が…

その後もその友人から転送を含めて来たメールが5通、すべて削除したが悔やまれるのが先ほどの開けたメール。 まずは連絡先に入ってる全員に警告通知、その後ウィルススキャン掛けながらよく調べるとIE5,5SP2は影響ない旨分かって一安心。 完全にウィルス・フリーを確かめてから、感染無しのお知らせを再度全員に出した。 ウィルスバスター2002試用版をDL、やっぱりパーソナルファイヤーウォールは最低限必要だと再確認。
しかし試用版とはいえ、プレインストのVirus Scanをアンインストしないとインストできないと抜かしてきた。
かなり大きな顔をしてのさばる質のソフトみたい。 予感は当たった、ドライブEにいれた途端にEのアイコンがバスターのそれに変わった…赤い背景にでかいカプセル デスクトップにEへのショートカットを作ってあったがみっともないので削除。Eを開けるたびに先ずしゃしゃり出てくる、これはある意味、ウィルス並みに厄介だ。
今もメールを開けるたびに巡回して顔を出してくる。
29日後、やっぱりなにがしか登録料を払う事になるのかと思うとちょっと気が滅入ることであった。         

2001/11/25(日) 記

   セオドア・R・コグスウェル

もう一年も前のことになりますが、「幻想的小庭園」のページを企画したときに、是非に入れたかったのがコグスウェルの短編「壁の中」
最初に読んだのはず〜〜っと昔、小学生の時、中学生雑誌(ほら、中○時代とか中○コースとかあったでしょ)の付録に付いていた小冊子でした。 確か従姉のものを偶然読んで、その話に夢中になりました。

その後SFの洗礼を受け、いろいろな作品を読み漁って、それこそ、初心のセンス・オブ・ワンダーを忘れかけた頃、偶然にこの作品と再会しました。
それまではジュビナルだと思っていた「壁の中」が、あっぱれ正統SFに分類されているということに思い当たらなかったし、そもそもその存在さえ忘れかけていたのに、偶然目にして、本当に懐かしく。読んだころの気分までそのまま戻ってきたようでした。
それからまた長い月日がたってHPにこの紹介のページを作ろうと思いたちながら、他のことにかまけて先延ばしになっていました。
昨日「壁の中」を読んで再再度、びっくりしました。何とハリー・ポッターの世界に似ていること!
そう、壁の中とは魔法の世界だったのです。
主人公はほうきで飛び、空中浮遊術を使う男の子、しかも両親は、謎の失踪をとげ、嫌な従兄にいびられている、でもひとつだけ胸に秘めた計画がありました。 この世界を取りまいているあの高い「壁」の外へ出ること、どんなに怖ろしい「黒い人」が襲ってきても……

ページを作るのが遅れた理由の一つは、お話が余りにファンタジーっぽかったこと、魔法の記述が多くて、時勢に合わないのでかえって作品の良さが(紹介者の力不足で)分かってもらえないかも知れないという危惧があったからです。
しかし! ハリー・ポッッターのお陰で、今魔法の話は最も最先端を行く波に乗っています。 かくして、今は絶版でもうどのアンソロジーにも載って無いと思われる「壁の中」の解説ページと共に、復刻版の全ページをアップしたいと思います。
このすてきな、それでいてSFテイストの詰まったお話をみなさんと共有できますように、頑張ってみたいと思います。
2001/11/17(土) 記

   実際に書いてみると・・・・・・

昨日書いた入試問題の冒頭の部分です

The late twentieth century has witnessed a remarkable growth in scientific interest in the subject of extinction. It is hardly a new subject ---Baron George Cuvier had first demonstrated that species become extinct back in 1786, not long after the American Revolution. Thus the fact of extinction had been accepted by scientists for nearly three-quarters of a century before Darwin put forth his theory of evolution.....

この後延々続き、例のK-Tバウンダリーについての記述が現れます
Then, in 1980, physicist Luis Alvarez and three coworkers discovered high concentrations of the element iridium in rocks from the end of the Cretaceous and the start of the Tertiary---the so-called K-T boundary.(The Cretaceous was shorthanded as "K" to avoid confusion with the Cambrian and other geological periods.)Iridium is rare on earth, but abundant in meteors. Alvarez team argued that presence of so much iridium in rocks at the K-T bountary suggested that a giant meteorite, many miles in diameter, had collided with the earth at that time ....

まだまだ続きます。
これじゃあ、よほどその方面に興味があるか、それともロスト・ワールドを原文で読んだことがあるか、そのいずれかじゃないと何のことやら見当も付かないでパニくるという結果になるかもしれませんねぇ。         

2001/11/15(木) 記

   入試問題の出典

入試問題に使われる長文の出典はどのへんにあるのだろう。
現代国語の問題に関して、以前にある作家が書いているのを見たことがある。
曰く、新年度になってから大学から事後承諾のお断りの封書が来るそうである、入試問題という性格上事前に了解を取れないので事後のお知らせとなった、悪く思うな……ということらしい
しかもその作家が翌年問題集で調べたところ、
「これこれの箇所で作家が言いたいことは次のどれか」みたいな問題があって、
書いた当の本人が
「へえ、おれはこんな高尚なことを考えていたのか」と、感心したとか。
または選択肢のどれにも当てはまるので答えようがなかったとか、笑えない話である。

こんなこともあって現代文ならいざ知らず、特に英文だと出典など明らかになることはほとんど無い。
ところが全くの偶然から出典がわれることもある。以下はそのおはなし。

国立大や有名私立大の中でも、ひと癖あって難関に上げられる防衛大学、そこを受ける受験生がいて一緒に過去問を解いていた(もちろん、これは高校生には無理じゃない?という長文がいっぱい)
99年度の問題に、古生物学の中生代白亜紀と新生代第三期との堺にある"K-Tバウンダリー"についての説明文があった。内容といい、用いられている語といい、これは難しいという代物だった。
"K-Tバウンダリー"、はて、マイケル・クライトンのジュラシックパークの続編、「ロスト・ワールド」の冒頭にこの記述があったと、偶然にも読んだペーパーバックに覚えがあって参考にと引っ張り出したところ、ビンゴ!!
大当たりまさにそのもの、ズバリ、「ロスト・ワールド」の出だしが2頁ばかり問題文に転用されていたのだった。
驚くやらあきれるやら、学生には感心されるやら、(だって、これ偶然だよ)
しかし、こんなのから採ったとは・・・・・・その唖然とした衝撃からなかなか立ち直れないというのが本心である。

2001/11/15(木) 記

   ケルトの音楽

このところずっとケルト音楽に嵌っています。
「ケルト民族」 と一言にいいますが、その昔ヨーロッパ大陸に広く住んでいた人々が西に漸進して最後にブリテン島、アイルランドに行き着いた、長い歴史と独自の文化を持った謎の多い民族でした。

エンヤの音楽はゲール語を話すアイルランドのケルトの音楽と言われます。
一時彼女の音楽にもかなり入れ込んだのですが、最近洗練されすぎているのとシンセを使った曲想にちょっと飽きてきていたところでした。

今入れ込んでいるのが、カナダの女性シンガー、ロリーナ・マッケニット(Loreena McKennitt)。
事の起こりは、映画ハイランダーの4作目、「エンドゲーム」を見たことでした。
ハイランダーについてはまた別のところでお話しすることにして、第3,4作のエンドクレジットのバックに流れるのがマッケニットの歌う"ボニー・ポートモア"という哀調に満ちた歌でした。

この歌そのものはそう古い時代のものではないと思います。 節回しも、以前歌ったことのある古いイギリスフォークソングなどと似ています (スカボローフェアの原曲とか、シルヴィー、オーク アンド アッシュ、バーバラ・アレン等々)
何枚かのマッケニットのCDには、
ブリテン諸島のフォークソングをもとにしたバラード、
地中海を旅して新しい文化の中に古いケルトの面影を見いだした折衷的とも言える不思議な歌、
など多種多様な楽曲が混在して、オリエントとオクツイデントを混然と表すようなメロディには、何とも言えない郷愁を感じます。

古いものだけではなく18世紀の詩人Alfred Noyesの有名な詩"Highwayman" (ハイウェイマン=追い剥ぎ)に曲を着けた歌など涙なしには聞けないものもあります。
ケルト、地中海、中東、アフリカ、中央アジアまで懐に抱き込んだ不可思議な音楽に一時酔う秋の宵でした。

2001/11/12(月) 記

   コーヒーブレイク

今でこそレギュラーコーヒーと言っても珍しくも何ともないのですが、 私の学生の頃は、まだコーヒーは喫茶店で飲むもので 、自宅で飲むものとは思ってもいませんでした。

大学へ入ってすぐに入部した混声合唱サークルはハイマート (ドイツ語で「故郷」)という名で、 それまで地方の一進学校の狭い狭い井の中の蛙だった私に 世の中にはたくさんのすごい人、変わった人、頭のいい人 とにかく想像もできなかった人がいるものだと ほんの1,2ヶ月で教えてくれたところでした。

ある日、当時ソプラノのパートリーダーをしておられたYさんが、
「あんた、コーヒー飲まへん?」と下宿に誘ってくれました。
とにかく下宿に誘われるなんて生まれて初めてのこと、 いそいそとケーキなど持って伺いました。
確か日曜日の昼下がりだったように覚えています。

Yさんの下宿は大学の教養部のすぐ傍にあって、 山ひとつ越したところのわが下宿より遙かに便利そうで、 またまた素直に「いいなあ」を連発していました。
彼女が出してくれたのは、今思うと簡単なペーパーフィルターのドリップ。 それもカップの上にちょこんと置いてそのままお湯を濯ぐ 簡単なものでした。
でも、初めて目の前で、しかも脚を投げ出して座っているテーブルの上で 爽やかな初夏の昼下がりの風に乗って鼻孔をくすぐる珈琲の香りは それまでの何にも増して、裕福な贅沢な「時」を私に実感させてくれました。

その時砂糖やミルクを入れたかなど全く覚えていないし、 珈琲自体も生協で売っているミックス豆だったと思うのですが・・・・・・
しかし、今毎日何杯かの珈琲を吟味して淹れて、銘カップでクリームを入れて飲もうと、 評判のコーヒー店へ出向こうと、 この時の珈琲ほど、精神の充足感と新しいものへの期待感を与えてくれるものは、ついに再び出会えないでいます。
翌週早速生協へ行って同じカップ、同じ珈琲ドリップを購入して、 いい天気の日の午後下がり、自室で窓を開け放って初めての珈琲を淹れました。
昨日までの自分と違った自分になった、そんな気がしました。 まだ親しい友達とてない、五月病にかかる前の新米大学1年生の時でした。

2001/10/10(水) 記

   こんなことしてみたい

こんな楽しい記事を見つけました。
アイルランドの北部にある都市にあるショッピングセンターに、ちょっと変わった泥棒が入り話題を呼んでいます。
この泥棒は、酒屋で高価なチーズをさかなに日本円で1本2万8000円もする高級なシャンパン数本を開けて宴会を開いた挙句、お金も取らず逃走したのだとか。 因みに飲み終わったシャンパンの瓶は、酒屋の外にキレイに並べてあったとのことで、警察ではその瓶に指紋があることを期待し捜査をすすめているそうです。 このちょっと風変わりで几帳面で泥棒もお縄になる日は近い!?

憎めない泥棒ですね、うまいことやったな!とうらやましがられるとか
警察もつかまえないでいて欲しいような・・・

2001/09/26(木) 記

   じゅげむじゅげむ

新聞で面白い記事を見つけました。日記に転載という形で紹介したいと思います。

ご存じ、落語の「じゅげむ」は、生まれた子が長生きできるように、めでたい名前を付けてもらう噺だ。
ところが、子どもかわいさのあまり欲張ってしまい、とんでもなく長い名前になって大騒動になってしまう。
その名前は
「じゅげむじゅげむ 五劫のすりきれ
  海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末
食う寝る所に住む所 ヤブラコウジのブラコウジ
パイポパイポパイポのシューリンガン
  シューリンガンのグーリンダイ 
グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助」という。

ここに出てくる言葉は、みんなおめでたいものばかりで、 後半の「パイポパイポ……」という、およそ何の関係もないように思える言葉も、 その昔、中国にパイポパイポという国があって、 シューリンガンとグーリンダイという王とお后にポンポコピーとポンポコナーというお姫様がいて、その人たちが長生きしたことに由来する、 ということになっている。
ところで、先日、仕事である殿様の家系を調べていたら、 ちょっと面白いことがわかった。九州の平戸藩松浦家のお殿様は、代々名前が1文字なのだ。
昔は「○○之介」とか「○○左衛門」とか長い名前が普通だったと思うので、1文字の名前は現代風で、目立ってかっこいい。
「久(ひさし)、直(なほし)、披(ひらく)、持(たもつ)、繋(つなぐ)、 湛(たたふ)、答(ことふ)、定(さだむ)、勝(すぐる)、理(おさむ)……」と続く。
この松浦家のご先祖は、平安時代に鬼の腕を切ったという逸話のある「渡辺綱(つな)」 であり、その強さにあやかったわけでもないだろうが、 そのころから1文字の名前と決まっていたようなのだ。

しかも、松浦家は代々の藩主だけでなく、兄弟すべてに1文字の名前を付けていたよう。
「均、伝、至、引、聞、調、遊、囲、馴……」というふうに、 調べていくと何と読むのかわからない名前もたくさん出てきた。 そのうち一度使った名前も出てきて、とうとう22代目からは2文字の藩主が登場してしまった。
昔は子だくさんだったから、名付け親もさぞ頭を悩ませたことだろう。 ちなみに第41代の現当主は、松浦章(あきら)氏。しっかり伝統を守っているのである。

いかがでしたか、なかなか面白かったでしょう?

2001/08/16(木) 記


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