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   期日前投票

初めて期日前投票というものを経験しました。
エントリ「さらばT市」でも書いたように、合併した新市の市長選が次の日曜日に行われます。
ちょうどその日に当地にいないので、ここはいっちょう「権利」を行使するか(いや「義務」を果たすのか?)と殊勝な気持ちで出かけようとしました。
ちょっと待って、投票所入場券がまだ来てないよ。
そこで市役所へ問い合わせたところ、入場券が無くてもいいとのこと。
じゃ何か身分証明をできるものを持っていきますか? 印鑑要りますか?とわたし。
いいえ、何もいりません、どうぞおいでください と市役所のおねえさん。
なんだかキツネにつままれた気分。。。

やって来ました。市役所、期日前投票をやっている会議室。
およよ、なんだか人が何人も座っています。 入ると丁寧にインストラクターがついていちいち説明手取足取り。
用紙に住所氏名を書いて期日前投票をする理由、簡単に選択肢から選びます。たとえば、旅行、仕事、本人家族の冠婚葬祭 などなど。
それをもって横の机にDellのノートを広げている男性のところへ。(おぬし悪役か?)
いま、選挙人名簿で確認しています・・・・・・はい、これどうぞ。 そういって渡されたのが投票用紙。名前を書いて投票箱へ。
箱の前には選管の人と、いわゆる立会人の若い女性が2人。言葉もなくひたすらこちらの一挙一動をじっと眺めていました。
こうやってあっけなくも期待していたのに期日前投票はおわってしまいました。
帰り道、どうしてあんなに簡単なんだろうと疑問に思いました。 もしも誰かがわたしの名前をかたって(ありえないけどね)投票してもわからないじゃん。少なくとも投票所 に顔見知りは誰もいなかったし。
それとは知らず投票当日地区の投票所へ行ったら、「あなたもう投票済みです」なんて言われたら吃驚仰天するでしょうね。 反対に投票に行かない若い子と同じ年格好の別の子にその子に成り代わって期日前投票に行って貰うこともできる?
なんだか、変ですよね。投票って数が合えば良いってもんじゃないと思うんだけど。 振り返って、そんな悪いことする人はいないのかなあと、卑しい想像をした自分の方がおかしいのかとも思ったり。
期日前投票がこれほど簡単に行えるのなら、そのうち代理投票とか、投票所まで来られない病気の人やお年寄りのために投票箱の出前出張も方法さえしっかりすれば可能なのでないかと、実に脳天気な希望的観測にまで想像を逞しくしました。
2005/11/05  記

   天津茶碗蒸し丼

さあて、お立ち会い!
うちでは食事のバラエティを計るために1週間に1回、食材+調理用調味料を宅配で注文しています。(別名、家事の手抜きともいう)
友人からの紹介ですが、製造は中華料理専門店がやっており、これがなかなか美味しくて家庭ではちょっと出せない濃厚な味とか、これぞ中華という味が楽しめて(料金もお安いし)重宝しています。
注文は10回ほどまとめて写真付き一覧表から選びます。だから今週の注文といっても、もう2ヶ月も前にした物で、何を頼んだのかも記憶はおぼろげです。
下ごしらえ or 調理用に切りそろえた食材がパックに入って届けられます。受け取ったのはわたし。
まずそのまま冷蔵庫に入れておきました。 夕方仕事に出かける前に母に声をかけました。
「今日の作り方に丸つけておいたよ!」
ところが何を思い違いしたのか、わたしの気分ではまだ月末のつもりでした。そのくせ月は10月と認識──つまり10月25日だと思い込んでいた──その週の注文は「天津飯」。 何の疑問も抱かずに、「卵が要るよ〜」と念を押して出かけました。
さて、10時半となり戻って来ると、いつもはもっと早く夕食を終えている母がわたしの帰りを待っていてくれました。下ごしらえだけしてあるからすぐに食べられるよ、そんなことを言いながら早速作り出しました。 ところが作りながら変なコメントが入りました。
「カニ入り天津飯っていうけど、まだカニの季節じゃないからエビと鶏がはいってるんだわ」
着替えをしながら、ふーんとわたしはこれを聞き流していました。

ここで気づくべきだった!

そのうちに台所から
「なんか変だわ、ちっともとろみがつかない・・・・・・あら、また卵が出てきた・・・・・・もろもろになってきたわ。ま、いいかこんな天津飯もありかなあ」と母の声。

いい加減に気づけよ、自分。レシピが違ってるんだって。

母が持ってきたのはどんぶりご飯の上に「ふわふわ卵」ならぬ「かっちり卵」がのってその中にエビ、三つ葉、椎茸、ぎんなん、銀杏切りのかまぼこが見え隠れ。 書いてある分量の水を入れたら「じゃぶじゃぶ」になった「卵出汁どんぶり」か「おじや」か「出汁茶漬け」か、といった代物。。。。。(残念ながら画像はありません。撮っておくべきでした)

それでもまだ親子共に気が付いてないんですから、なんというかおめでたい・・・・・・
しかし、その後母の一言。「栗ご飯の材料もついていたけど、明日にしようね」

余分な物をサービスでつけて来るような博愛精神はないはず。
ここで、はた!と思い当たって、急ぎレシピの一覧表を見るとなんと今日のレシピは「栗ご飯とかんたん茶碗蒸し」 
が〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!
こと料理でミスをすることなどない母ですが、注文をしたのがわたしの方で、しかも天津飯のレシピに丸をつけてしまったので、 まったく、ぜ〜〜〜んぜん、爪の垢ほどのこれっぽっちの疑いもなく、卵出汁を見ても銀杏、三つ葉を見ても、天津飯だと思い込んでしまったのです。

げにげに恐ろしき思いこみ。コミュニケーションの不足というか、単なる早とちりのおっちょこちょいというか、 お互いに「日時の確認くらいしなさいな」と「材料とレシピの見比べくらいしてチェックしてよ」とのむなしい応酬をしながら、 「天津茶碗蒸し丼」をれんげで掬いながら食べたのでした。味? 味ですか? まあ失敗だったねと笑いながら食べられたのですからご想像下さい。
もしかしてこれがわが家の天津飯になってしまわないかと、ちょっとおそろしくもあります。


2005/10/05  記

   White Christmasのご褒美

疑問といえないくらいの小さな疑問がふと心に湧くことがあります。

是が非でも解決しなければならないというほど切実でもなく、心をよぎっただけで時間の経過と共に消えていくものが多い中で、忘れ去られたような顔をしながら心の隅に身を潜めていて、思いもかけない折りに何かのきっかけで意識の表面に浮上してくるものがあります。
そして大抵そういうときには、疑問とその答えが共に手を携えて一気に浮上してくることが多いのです。
すると疑問のままに未解決で心に潜めていた年月の圧縮された思い出までが一時に開放されて、その喜びの感覚に、わたしはたじろぎ圧倒されてしまいます。

やけに仰々しい始まり方ですが、先日久しぶりにこういうを体験しました。
事の起こりはCDの整理からでした。
CDの中に一度しか聞いていなかった"ポーラー・エクスプレス"のサントラが目に留まりました。 この際季節外れとは言いますまい、懐かしくなって再生しました。
前半分はOST、ジョシュ・グローバンの甘い声やトム・ハンクスのコミカルな声、子供の素朴な声が流れます。
後半は往年のクリスマス・ソング・ナンバー。そして聞こえてきたビング・クロスビーの"ホワイト・クリスマス"。

刻々と「その時」が近づいてきました。

I'm dreaming of a white Christmas
Just like the ones I used to know
Where the treetops glisten and children listen to hear sleigh bells in the snow
I'm dreaming of a white Christmas
With every Christmas card I write
May your days be merry and bright and may all your Christmases be white

中学生の時クロスビーならぬアンディ・ウィリアムズの歌で覚えました。とても易しくポピュラーな歌詞なので一度覚えてからは口に浮かんで来るままに歌い続けてきました。 ただ、一箇所、最初に書いた「小さな疑問」が浮かんだことを除いては。
それは第一連の最後の2行。
Where the treetops glisten and children listen to hear sleigh bells in the snow
今までに自分がおくってきたクリスマスをしみじみと思い出しているところです。
「木々の梢がきらきら光り、子供達は橇の鈴の音に耳を澄ます・・・・・・」そう解釈していましたし、まさにその通りなのですが、ほんの小さな、ほとんど意識もしないような疑問が昔からありました。

中学校で習う動詞 listen は自動詞、だからlisten to の形で使うんですよ、そう習いましたね。
たとえば、I listened to CDs yesterday. なんてね。
だからこの歌詞を最初に聴いて読んだときに何の抵抗もなく listen toの形でインプットされてしまったのです。でもその後に hear という動詞が続いているのに、当時は気が付かなかったんですね。 とにかく初めに抵抗なく覚えてしまったので、ああ、子供が耳をすましているんだなあと無反省的に素直に思い込んでいました。

その後何回この歌を歌ったかわかりませんが、自然に口に出てくる歌詞が、この部分を歌うたびにいつも、何か釈然としない思いが小さな疑問詞を残していくのです。それと意識しないほどに小さな疑問詞を。
そして、先日ポーラー・エクスプレスを聴いていて、まさに晴天の霹靂、疑問と答えが一度に押し寄せて来ました。ひらめいたとか思いついたなどいう生やさしい程度の言葉では収まりきれないほどの感激! そうか、そうだったんだという充足感は周囲に充ち満ちました、もしこの感激が目に見えるならば、きっとわたしの周囲がばらいろに光っていたのではないかと思うほどでした。
あの子供達は 雪の中を走っているかもしれない橇の鈴音を聴こうと耳をすませていたのです。

こういうわけです。 hear は「聞こえてくる」という意味です。聞こうと意識しなくても音が耳に届いてくる「聞こえる」です。だから鳥のさえずりがきこえるのはこちらを使います。
一方 listen は「聞こえるはずの音を注意して聞こうと耳をすませる」意味。だから音楽や先生の話を聞くときにはこちらを使うのです。
Children listen to hear sleigh bells in the snow. この情景、子供たちはもしかしたら雪の中を彼方で走っているかもしれない橇の鈴の音を、耳をすませたら聞こえるかも知れない鈴の音を、聞こえるかなあと耳をそばだてているのです。
その橇は何か素晴らしい物を携えて来るかもしれない、たとえ自分たちのところを目指しているのでなくても、そこにははじけるような期待と憧れが詰まっています。
この短い一節から、12月という雪の季節、クリスマス前の遠い橇の鈴の音。まだ暖房にはマントルピースに薪、香ばしい焼き栗、白い息を吐きながら表をやってくる客人、一枚一枚違った手書きのクリスマス・カードの束、そういったローテクの時代のクリスマスを彷彿とさせる心象風景が浮かんできます。
子供達は鈴の音にうきうきと心を躍らせます。橇が通っているのを知っていて音を聞こうとするのではなく、もしかしたら走っているかも知れない、想像が本当になるかも知れない、そう思いながら、一面の白い世界に繋がる窓辺で、きっとかわいらしく首を傾げて遠くの鈴の音を聞こうと耳をすませているのでしょう。

こうしてわたしの小さな疑問は圧倒的な感動を伴って一気に解決されたのでした。 多分真剣に考えればこの答えはずっとずっと以前に明らかになっていたのでしょうが疑問は忘れられて眠っていました。 その期間があまりに長かったために、歌声に触発されて一気に氷解するプロセスが反動的に大きかったのでしょう。
宗教的変節はよく一瞬にしてなされると誤解されるが、実は転向にいたる過程は長い時間をかけて徐々に徐々に心の中に橋頭堡を築いて行くのだと教わったのを覚えています。意識しない状態での転向の機が熟したとき、まさにそのときに外から何らかの働きかけが行われると、碎啄同時という状態で宗教的転向が行われたように見えるのだと。
大げさかも知れませんが、小さな疑問が一度に氷解するのは案外この碎啄が同じくして起きる状態なのかもしれません。意識の下で疑問は障りとなって固まりつづける、それに対する答えを求めて意識のほんの一部は常に休まずに考え続けている。そして解答を導き出し続ける。 そして、何かがきっかけになってそれらが一度に浮上して意識を支配する。
心は長い時間をかけて疑問を抱きそして解き明かしたプロセスを記憶しているから、圧倒されるほどの喜び、感動という形でご褒美をくれるのかも知れませんね。

2005/10/10  記

   歌にまつわる遍歴

学生時代に合唱をやっていました。
K大学の音楽研究会Heimatという合唱団です。
混声で団員数はそれほど多くなく50名弱。歌う曲毎に新しく目を開かれる心地で4年間ひたすら歌を歌い続けました。
さて、ハイマートは混声合唱団でしたが、男声だけ特にMannerchor(ちなみにこのaはaウムラウトです)として混声とは別の練習日をもうけて活動していました。
もちろん女声禁制というわけではなく、練習中にクラブボックスに行ったりすると冷やかすも見学するも自由でした。

そうやって聞いた男声合唱には、それはそれは記憶に残る名曲がたくさんありました。男声には混声にはない魅力がまたあったのです!)自分たちには絶対に中へ入って歌えないという制約が却って魅力的に響いたのでしょうね。 記憶に残っているものに、多田武彦作曲の草野心平の詩による「富士山」や「蛙」の歌。北原白秋詩の「柳河風物詩」、清水脩作曲・堀口大學詩の「月光とピエロ」、高村光太郎「智恵子抄」、津村信夫「父のいる庭」、他にもコダーイやバルトークとか。 メロディの潔さと歌詞、そこはかとない郷愁にめろめろになって、女声でしたがこっそりとテナーパートを歌っては一人楽しんだものでした。
富士山「作品第肆」 川面に春の光はまぶしくあふれ・・・・・・、というあれですが、これなどは今でも春の河原脇の道を通るときは知らず知らずのうちに口ずさんしまうほどです。

しかし、悲しいかな、時の流れと共にあれほどよく膾炙していたはずの歌が、ぽろりぽろりと記憶から脱落していく、サビ部分しか覚えていないというお定まりの経過をたどって行きました。
ところが先日の夜のこと、仕事を終わってひとけのない夜道を急ぎ足で帰るとき、どういう回り合わせでどのような偶然性が働いたものでしょうか、 不意に歌の一節が頭に浮かんだのです。

「目路遠き 地の果て、 陸(くが)の末駆け、 いづちへと急ぐや 木がらし、木がらし」

これだけの一節。
浮かんだと同時に消えそうになるイメージをなんとか逃すまいと必死で口に出して、メロディを付けて歌ってみる── うん、だんだんおぼろげな歌詞とメロディが形をとって昔の姿に近くなってくる。
何度か繰り返すうちに、その前半部も思い出してきました。

「野山さびし 師走、  風 蕭条、 木の葉散り 草枯れ 冷たき雨降る」

これで完全です。
ユニゾンで野山さびし・・・・・・から始まって、木がらし木がらしで終わる。同じ歌詞とメロディの変奏でフーガのように各パートが互いに追いかけるように繰り返しながら消えていきます。
疾走していく秋の風、飛来する氷雨。暗い空に時折遠山が不思議に明るく映じる。短いながら印象的な曲です。

不思議な体験です。
一体何年、歌うどころかその曲自体を思い出しもしなかったのに、たった一言の「目路」という、あまり日常的でない言葉から封印を解かれて、再生して音楽を奏で出すとは!

しかし思い出した後がまたジレンマでした。曲名、作曲者、作詩者名が思い出せないのです。
確かに男声合唱曲には違いないのですが、思い出した歌詞でググってみてもヒットなし。
もしやと思って昔の楽譜を(何と青焼きコピーまで!)ひっくり返してみましたが見つかりません。
そうなると今度は四六時中この歌が頭に鳴り響き続けます。しかもちゃんと男声合唱で。気になって、曲名を突き止めるまで落ち着きません。

多分、堀口大學、萩原朔太郎その辺りの作詩、多分多田武彦の作曲とあたりをつけて、検索方法を変えてみたところ、あった、見つけた!
  慶応ワグネル・ソサエティ(こちらも有名な男声合唱団)のデータベースに、多田武彦作曲、堀口大學作詩「人間の歌」──「縫ひつける」「涙の塩」「浜の足跡」「また一つ」「木がらし」「年の別れ」6曲の記載がありました。
不思議はまだ続きます。これらのタイトルを見た途端に「海と母とを縫いつける・・・・・・かたきと祖先を縫いつける」とか「いく年は女であるか、さかり(離ち)ゆく影がさびしい、女なら嘆きもしよう、いく年は音にさえたてず」などのフレーズが次から次へと口をついて出て来るのです。
音と言葉が分かちがたく組み合わさった「歌」のもつ人の記憶の中の生命の長さに驚かされます。
本当に心酔して歌い続けて来た歌を覚えているのには何の不思議もありませんが、ここに書いた歌の数々は、全くの忘却の彼方に押しやられていたものばかりでした。その存在さえ忘れていたのですから。

言葉が音を呼び覚まし、音がそれに続く言葉の封印を解いていく。
こういう感動をあと何度くらい感じることができるのでしょうか。
秋日好天。


2005/10/14  記

   さらばT市

わたしの住むT市が10月1日をもってE市になりました。
平成市町村大合併──小さい行政府を目指す公的リストラへの滑り込みです。
隣接する小さな町と一緒になって、当然旧市の名前を継承するものと思っていたのに、読みが完全に外れてしまって、「市町村合併協議会」なる公的有志の会内部で、 アンケートを元に投票して決まってしまいました。
結果も広報の一部としてささやかに発表されたので、当の市民が周知するまでにはかなりの時間が必要でした。
この結果に対して賛否両論…と言いたいところですが、賛の声は聞こえてきません。周囲では否の意見ばっかり。はい、わたしも否組です。
Tの名は古くは催馬楽にも見える歴史的な地名。片やEも日本書紀に初出しているらしいけれど、現在Eの方が遙かに外部の人によく知られています。 ──特産のカニや、お騒がせの大クラゲや、果ては全くこの土地とは関係のない大岡忠相の肩書きなどから。
E市に名前を決定した背景には、ネームバリューの大きい方にしようという短絡的な考えや、ゆくゆくは周囲の類似した名のE町、南E町などを併合して 「大E市」を作ろうという考えもあると聞きました。

つかっているうちに追々慣れて来てそのうちに違和感も持たなくなるのかも知れませんが、生まれ育った土地の名が消えていくのは寂しいものです。 だってT小学校、T中学校、T高校と進んできたのに、そのTが今や固有名詞を除いてはどこにも行政区の中には見あたらなくなってしまったのですから。
1日を境に市役所の前にはきらきらしく新しいE市の看板が立ち、(国土交通省管轄の道路標識はまだそのままですが)通りで「E市」の表示を見るたびに、 なんだか間違った所へ来てしまったような居心地の悪さを感じずにはいらないのでした。

2005/10/03 記

   足も身のうち

先週の土曜日、初めて「リフレクソロジー」○国式足マッサージなるものを体験。
新しくお店ができたのではなくて、出張出店みたいに行きつけの喫茶店の一部屋で予約制でした。
面白半分興味半分、ともかく体験してみようという100%野次馬根性です。
施術者はかわいい娘さん、足を40分以上も揉んでくれるの、力続くの?とおばさんの老婆心です。

ベッドに寝てから、しまった足の裏拭いて置くんだったと思いましたが後の祭り。
始まって早速親指の側面にぴきぴきとした痛みともつかない感覚!
おおっ、これがツボ押し? なんとも簡単に感激する体質です。
気持ちよかったですね、足の裏なんてせいぜいで23cmどこをどうやれば20分も時間をかけてもめるのだろうと心配したのも杞憂でした。
足の裏だけでなく側面、踵、指、それにくるぶしからふくらはぎと、普段座りがちなのでどうしてもむくんでしまう足がほんとうに揉みほぐされて血行がよくなる(気分?)がしました。
物理的気持ちよさと、サービスして貰っているという精神的気持ちよさから、不覚にもうとうとと寝てしまいました。あの感覚をもっと楽しみたかったのに勿体なかった!
終わってから、肩こりと腰、それに目の疲れなんかを指摘されましたが、これは誰にでも当てはまるかな、などと少しだけ天の邪鬼になってしまいました。

さて、後日談。 月曜からこれで3日間、家の家具を動かしての民族大移動です。
果てしなく増殖するDVDとCDの専用棚を作ってしまえという大暴挙に出て,DIYで溝の切ってある棚板を購入してなんとか細い棚を作ることに成功しました。(ただし地震が来たら、もろにバッタンですが)
棚を設置するからには部屋を片づけないといけない、それこの小ダンスはあっちへやって、この本棚は二階へ移動して。。。
足が疲れました、ずっと立ちっぱなし。足の裏が腫れたみたいに厚ぼったくてだるい。
思わず自分の足をこの間のマッサージ法を思い出しながら10分くらいマッサージしました。
すると、あらあら不思議、足の凝りが取れて歩いても足が軽いではありませんか。
大変気をよくして母を捕まえて、なりきりマッサージ嬢(変な事想像してはいけませぬ)
今の商売があがったりになったら、本格的にリフレクソロジーとやらの研修をしてわたしもリフレクソロジストになろうかしらと、半ば本気で考えています──本当?

2005/09/01 (木)記

   軽量眼鏡

ちょっとうれしいこと。サングラスを買っちゃいました。
昨年も、一つ買おうと京都へ行った折りにデパートや専門店を見て回ったのに、これ!と飛びつく物がなくて涙を呑んだのです。
さて、今日は地元で友人が自分とご主人の眼鏡を作ってそれを取りに行くというので野次馬で着いて行きました。
行った個人の店舗は小さくディスプレイなどもほとんど無いのですが、若い店主さんが気に入った海外商品だけを選んで置いているだけあって、今まで見たことの無いような眼鏡を出して貰いました。
まず買ったのはごく薄いグレイの偏光ミラーのグラス、ところが「これも面白いですよ」と一つ見せてくれました。
うわ、軽い! チタンでネジもヒンジも無くてツルは柔らかくかおにフィットします。レンズはきれいな偏光、かけてもかけている感覚がまったく無いくらい。
これこそ探していたサングラス、と一目惚れで買っちゃいました。シルエット(Silhouette)というオーストリアのブランドでした。
え? お値段はって? ふふ、当地は国内有数の眼鏡枠産地なんですよ、それで、眼鏡の価格がすごく安いのです。
もちろんデザイナーズブランドの輸入品はそれなりの値段はするのですが、それにしても多分都会のデパートで買うより か な り 安いと思います。
なにせ一つ分の金額で2つ買えちゃったんだから(笑

2005/08/06 (土)記

   かくして旅は続く


最後にタイトルを入れたら、ものすごくかっこよくなってしまいました
始まりはごくごく日常の描写から始まります────

朝から暑い! 昨夜は3時頃になってやっと外から涼しい風が入り始めたのだけれど、それもつかの間7時前にはむっちり暑さが戻ってきました。
やれやれ、ただでさえ短い睡眠時間が決定的に不足になってしまいます。
早めに植木に水をやって──っと、このところ目を掛けてやってなかったカクテル(蔓性バラ)の葉がない!
見るまでもなくあきらか、わたしが勝手にめだま虫と名付けている幼虫がいっぱいくっついてわずかに残った葉脈の上でぎょろぎょろ目玉をふりふり蠢いているじゃありませんか。
もう必死でスミチオンぶっかけました。ごめんこれも殺生だね。

家族がアイスコーヒーをどんどん消費するので、朝のうちにポットに二杯さっと沸かしておきます。これで多分今日一日は保つでしょう。
その後PCに向かい一気に「例のあのこと」──懐かしいでしょう、You Know Whatですよ──を片づけてしまいました。
本当に長くかかりました。なにせ#8第1章に着手したのがプロパティ見ると2004年3月16日になってます!!お恥ずかしい話しながら、自分でもこれほど前に始めたとは思いも寄らなかったです。 結局ずるずる思い出したように進めながら途中でやる気が失せていたようです。原因はいろいろ考えられるけれど、最大の要因は私の側のモチベーション不足でした。

ところがEp.3公開前後からまた問い合わせが押し寄せて、口々にわたしが途中でどこかへ置き忘れてきたオビとクワィのコンビに対する熱い思いを語ってくれました。
そこで、ここがわたしのお天気人間たる所以ですが、すっかり気をよくして、5ヶ月間も空中旋回していたスゥープを再度発進させたわけです。
一山越えると後はその勢いで不思議に筆が進み(この表現ももはや時代遅れですね)、ようやく午前中に「了」の文字を打ち終えることができました。
最後はほんとうに、マスター大好き!と大向こうから声が掛かるような終わり方です。
逸る心を抑えてもう少し推敲してから二人を旅へ出してあげたいと思います。待ってくださっている方々、もう少しの辛抱ですw
次には#9がひかえていますしね!

2005/08/04 (木)記

   沙羅双樹の花の色


祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす、おごれる人も久しからずただ春の世の夢のごとし

一度は誰でも耳にし、口に唱えたことがあるでしょう、平家物語の冒頭。
祇園精舎はお釈迦様が悟りを開かれたインドのありがたいお寺だそうだ。
ところが、沙羅双樹とはどんな花なのか、高校の教科書にも写真はおろか説明もありませんでした。 夏椿と呼ばれる白い花が「沙羅」と知ったのはかなり後になってからです。
一日花、朝開いたら次の朝までにぽとりとおちています。楚々として美しいだけに現世の汚辱にまみれないうちに潔く落ちてしまう花を惜しむ気持ちと、その儚さゆえに人の心を捉えるのでしょう。

鬱陶しい梅雨の時期に涼しげにひっそりとした風情で咲く白い花。
時間をかけて指先ほどの蕾が硬く丸くなって白味を帯びてやっと咲いても、一日すらその美しさをとどめることはできない、この儚さが来し方行く先定めない人の世を思わせるのでしょうか。

庭に植えてから十年余り。ようやく毎年たくさんの花をつけるようになりました。 根本近くから幹が二股に別れて一本の木が二本のように見えます。これが「双樹」の名のもとになったのかも知れないと勝手に解釈していますが、今までに見かけたこの手の木がみな根本のほうで二股割れているのは、あながち偶然とも言い切れないような気がします。
うつむき加減に開いて陽の光に透けるような花弁の中に黄金の蘂を見せながら暗い梅雨の空に一点の光を添える、沙羅の花。
しばし朝に夕に眺めて人の世の無常と、だからこそ、すべての時間を悔いが残らないように過ごすという永遠の課題について思いをはせるとしましょう。

2005/06/23 (木)記

   モローとの邂逅


Gustave Moreau(1826-1828) ギュスタブ・モロー

彼とのつきあいは長くなる。
小さい頃から美術史関連の本を読むのは好きだったが、大学時代に専攻が美学美術史学ということもあって、いろいろ主に西洋美術に関する本を読む機会が多かった。

フランス新古典主義からロマン主義、そして印象派へとうねる大きな流れをひもとく中で心を引かれたのが象徴派ともいわれるひときわ異彩を放つモローだった。
緻密で美しい造形と、時には人の心の深淵をえぐるような色彩、そして何よりも描くテーマがギリシア神話から旧約聖書、イスラム、インドといったエキゾティシズムに充ち満ちて、まさにこういっては失礼かも知れないが私の好み、そのものだった。
現在その作品の多くがパリの生前の住処を美術館にした"モロー美術館"に収蔵されている。 モローを見るならパリへ、パリへ行ったらモロー美術館へ、こう思っていた。

モローの実物を目にしたのは3回。
最初は70年代に岡山のデパートの画廊に何点か。この折りかなり無理をして見に出かけた。
今でも覚えているのは「トロイのヘレン」連作の中の一枚。城壁にたたずむヘレンも城壁も背景の空もほとんどモノクロのようなグレイと白、優雅に片手に花を持ち衣を垂らして屹立するヘレン、その白い衣は下半分は暗い赤と黒の油絵具が塗られている。ヘレンのために流された血糊が見えた。

その後1995年に京都でモロー展があり、これも見に行った。
"雅歌"の繊細な美しさに魅せられた。
そして、今年、灘の庫県立美術館で7月30日まで開かれているモロー展、3回目の邂逅。

今までにない多数の作品、それも代表作と数えられる"一角獣"やサロメの"出現"、その他小品ながら心を引かれる"夕べの声"や"インドの詩人"など絶対にこの目で見たかった作品が目白押しである。
土曜日、梅雨入りと台風の影響で時折雨足が強まる中、モローに会いに神戸へ出かけた。

兵庫県美は私の大好きな美術館。迷路のような構造は一歩中へ入ると日常空間から特別の空間へ迷い込んだような気分にさせられる。大きな建物は中に入っているだけで周りにある質量と圧迫感をひしひしと感じてしまうものだが、ここはどこからでも空が見える。質量を持ちながら重量を感じさせない構造というのだろうか。 とにかくここへ行くと何度も迷いそうになる、しかしそれが快い。敢えて館内の案内図など見たくない。曲がったところに思わぬ通路があったり出入り口がわからなくなったり、毎回楽しみが多い。
土曜日だったが人出もそれほど無く、静かな館内、柔らかな暗めの照明、浮かび出る大作の油絵とその間に点在する紙本の水彩画、数多くのデッサン習作。

人体を的確に描きながらそこに寓意を込め、精神性と感情との、女性的なる物と男性原理の衝突を描き、繊細緻密にして大胆、時に淡冷、時に濃厚。 しかしそのどれもが、向き合ったときに嫌悪の情を催させる物が一つも無い。新古典派の彫像のような硬さから感じる拒絶感もないし、印象派の独りよがりも感じられない。 古からの物語を秘めた図柄には、物語を知る者にはそれを確かめて楽しませる図像的な配慮と工夫があり、また知らなくても、直接的に感じられる動きと色彩のバランスに、やはり心を奪われる。

「一角獣」の美しさ、宗教や時代の特定を越えた永遠の楽園、アルカディアの現出。女性の衣装に施された線描が浮き上がって不思議な二重の空間を感じさせる。
「夕べの声」、重力を遮断した世界。ただ美しいだけではない、背後の峻険な山肌からは、厳然とした荒地を凌駕してのみ生まれる美や芸術への憧憬が伝わってくる。
「インドの詩人」は地上的なエキゾティシズム、西洋にあって想像する、この世ならぬ世界への憧れの結晶ともいうべき細密画の手法を取り入れた魅力的な水彩画。不思議なことにこのエキゾティシズムは極東の私たちにも同様に異国情緒を引き起こすのである。

最後にサロメについて語らなければならないのだが、夕べの声やインドの詩人の醸す美しくも憧れに満ちた世界に酔っている今、サロメの妖しさに触れたく無いような気分もする。

2005/06/13 (月)記

   ゆすら梅


ゆすらうめ、"桜桃"とも"山桜桃"とも書くようです。
今年はいつになく花付きもよく、日に日に実が赤く熟していきます。
木が植わっているすぐ後ろには隣家の無粋なトタン張りの小屋があるのですが、ありがたいことにちょうど甲子園球場の壁面のように一面に蔦が茂って覆い隠してくれています。
蔦は風が吹くと一斉に同じ方向にざわざわ揺れて、深山の景色ようです。
いつも枝や葉や、何かが動いている庭は心をときめかせてくれるものです。

ゆすら梅の隣にこれまた小振りの庭梅があります。 こちらも花の可憐さに惚れ込んで植えた木です。 ゆすら梅の花が一重で先端がほんのり薄紅色に染まるゆかしさの花なら、庭梅はぱっと開いた五瓣の鮮桃色の花の中心に驚くほどたくさんの細い雄蘂が放射状に広がって、小さいながらに可憐で華麗という言葉がぴったりの花。こちらも控えめな実が膨らみつつあります。

検索かけるとゆすら梅は食べられる(しかも美味しい!)し、果実酒もつくれるとのこと。片手に乗るくらいの収穫だけれども、ゆすら梅酒に挑戦してみようかしらん。。

2005/06/06 (月)記

   尼崎の大事故


まったくの偶然なのですが、今日は大阪へ出かけていました。

雷鳥が新大阪にさしかかる少し前、車内放送がありました
── 「JR福知山線、尼崎駅付近で車と列車の衝突事故があり列車が脱線した模様です。ただいま復旧の見通しは立っておりません」
これを聞いてまず頭に浮かんだ図式は、車vs列車=踏切事故、立ち往生した車に列車がぶつかり、運が悪ければ車の運転者が命を落としたかも・・・・まあ、大阪までは何ともないから定刻に着くかな、程度でした。

新大阪で列車が止まり、また車内放送で、大阪駅へ乗り入れの列車の調整で雷鳥は当分新大阪に止まります、お急ぎの方はすぐに発車の快速に乗り換えて下さい・・・・・・

同じように新大阪に足止めになったいくつかの列車から乗客がぞろぞろ移動して、何の問題もなく後続の快速に乗り込んで大阪に到着。 駅構内の空気にも機能にも何の変化もなく、私もそのまま地下鉄に乗り換えて市内へ直行。その後はニュースを見る機会もなく用事をすませました。

帰りの列車は午後6時過ぎ大阪発。
大阪駅に着くとアナウンスがしきりにかかっています。 曰く、福知山線はまだ復旧していません、ご迷惑をおかけします云々。 まだ大事故の実態は知りませんでした。なんて復旧に時間が掛かるんだろうな、くらいにしか思いませんでした。

ホームに出てキオスクに並んだ新聞の夕刊の見出しが見えたときに、さあーっと血の気が引くような気がしました。そこには「死者50名」の文字が! 飛びつくように夕刊を買いました、知らなかった、こんな酷いことになっているなんて。 それも大阪市内にいたのに。

思わず京都の長男に安否確認のメール。しかし新聞をよく読むと当該列車は宝塚発京都行き、逆方向・・・・・・でも田辺の同志社前行きです。どんな成り行きで乗っていないとも限りません。 やきもきして返事を待っているのに、こういうときに限っていつまでも返信がありません。 とうとう追っかけメールを3通も打ってしまいました。最後なんか「生きてるならそれだけでもメールしなさい!」とまで打ちました。
数分後に「生きてるよ、今日はそっち方面に行ってないから」と何とものんびりした返事が来て一安心。 帰宅してからずっとニュースを見ています。自分たちも今日同じ大阪地方でJRに乗っていたのだと思うと人ごととは思えない、重苦しい気持ちになっています。

2005/04/25 (月)記

   オークション三昧


えー、実は数日前からオークションに浸かっていました。
ネットに繋がってはいたのですが、オークションの推移に常に目を光らせていたので、(他に新しいゲームに嵌っていたこともあって・・・これは余談かw)
ブログの更新や掲示板の書き込み等、まったくおろそかになっていました。

さて、それほど何に入れ込んでいたかというと、古布、それも木綿の絣や型染めです。
誤解のないように言っておきますが、私じゃないんですよ、これ欲しがったのは。
母がこのところ古布で服を作ることに目覚めまして、入れ込み方はそりゃもう大変な物ものです。
初めのうちこそ、今巷ではやっている"古い着物をほどいてリフォーム"程度だったんですが、病膏肓にいると申しますでしょう、あれですよ。
蔵の中のン十年も開けていないタンスを漁ってみたり、友人と一緒に車で古布の品揃えのいいという噂の隣県の骨董店にまで足を伸ばしたり、思い立ったらやってしまうあの実行力の凄さ。 古希に手が届いているというのに、このパワーには頭が下がります。
これまでも京都骨董祭に何度も足を運んでいるのに、その当時は古布にはまったく興味なしで、かえって「あのボロ切れの山」なんて憎まれ口を叩いておりましたのにね。

私にとって運の尽きは、何も骨董店で高額な古布を買わないでもヤ○オクなどを探してみたら、と振ってしまったことでした。
検索すると、古布、木綿、絣、型染め、和服、吃驚しました、あるんですね、これが山ほど。
どのキーワードで検索するかがまさにkeyなのでしょうが、木綿で絣と二重の検索で一番欲しい物にヒットしました。
目を付けたのが同一出品者からの数点の型染め古布と、別の出品者からの一連の絵絣。 どれも4,5点ずつ。母の言うところに寄れば骨董店よりも信じられないくらい安いとのこと。
"絶対落札"の密命を帯びた、かくいう私は、3日がかりで夜半10時過ぎの落札目指してimpossible missions を敢行することとなりました。
最高に大変だったのは数分おきに時間が終了予定の5点でした。
さすがに状態のいい品だけにかなりの競り相手がいる模様。エクスプローラーで時間順に別窓5個開けて、しかもそれぞれ詳細な残り時間のjava窓も開けて、すべて並列にして一目で進行がわかるように配置。
なんだか、こちらも乗ってきましたよ。いけけムードです。
でも、いくら何でもそうそう高額入札はできませんや、だから最後の5分に勝負をかけます。IDパスワードはコピーしてワンクリックで入力可の状態にしておきます。 ところが、一つ見落としがありました。久々にオークションへいった物で、以前の「駆け込み」入札ができなくなっています。
入札終了5分以内に新しい高値更新があると自動的に終了時間が5分延長されるのです。いわばフェアな措置ですね。競り相手が諦めて更新が5分なかったら、やっと終了となります。
大体の予想通り欲しい物は競り落としましたが予想外に高値になってしまったあ物件もあって、完全勝利に酔い痴れる気分にはんれませんでした。

ギャンブル性のあるものをうまく御して行くためには、まずマイナス思考をしてはいけないと言われます。
たとえば高値をつける株をそろそろ上げ止まりと思って売却したら、翌日翌々日にはもっと高値になった──これを「損をした」とネガティブに考える人は株には向いていないそうです。
たとえ上げ止まりでなくても、買ったときよりも高値だったら、それはすなわち「得をした」とポジティブに感じなければならないのだそうです。これができない人は株には向いていないらしい──→友人からの請け売り。

オークションでも落札できたことを喜べるか、もしかしたら他のところでもっと安値で買えたかも知れないという後ろ髪を引かれる思いを残すか、そのあたりがオークションに向いているか、オークションを娯楽の一種として楽しめるか分かれ道がありそうです。
後日談ですが、まとめて5点、絵絣を落札購入した出品者さんから商品が届いた翌日また一つゆうパックで品物が。見ると私が落札した物の下にあった落札者なしの品でした。出品者さんがおまけに送って下さった物でした。
出品者さんとは、ギブ・アンド・テイクの、ともすれば殺伐としたおつきあいに終始しがちなものですが、今回は品物を仲介にして相手の方の人間味を感じられました。 なんだか一日中うれしい気分になりました。

2005/04/23 (土)記

   粗大ゴミ


年に一度の粗大ゴミの収集日。
この日に備えて家中を点検、今はもう使わないのに、捨てられなくて取って置いた、子供の通学自転車、スキー板と靴、学習机、 人から要らない?といわれて深く用途も考えずもらったスチール棚、車のキャリアー、古くなった整理ダンス、壊れたラジカセ・・・・・・
書けばきりがない、ああ、これはもう不要品の山の中に暮らしているようなものです。
物を取っておくスペースを土地代や家の建築費用に換算すると、いかに無駄なお金の使い方をしていることか!  物をしまっておくために家を建てたのではないのです!

昼過ぎに町内の粗大ゴミ集積場へ行くと、すでに机のような木材もの、 自転車、パイプ製品のような金属もの、布団カーペットの布もの、プラスチックもの、電化製品などなど、山ができています。

何年か前、市で粗大ゴミ収集が始まった頃は、今の数倍の量が出ていたように覚えています。
不要の大物を持ってきた人が、その場に出ている机や椅子、果ては小ダンスなど、使えそうな物を 反対に物色してもらって帰ることもよくありました。
集積場にはその日は一日中人が絶えず、まさに臨時の不要品交換市様子を呈していました。
時には市内に住んでいる中国からの研修生たち、ブラジルから出稼ぎに来ている日系の人たちが グループで生活用品を物色に来ている姿も見られました。
しかしこれも、回を重ねる毎にめぼしい物も出尽くして、今は本当に廃棄しなければならない物ばかり、 これは再利用できるかなと思える物もなくなりました。

軽い生活、小振りの生活スタイルが人々の間に浸透し、本当に気に入った物だけを厳選して買い、長く愛用する 効率のよい生活が身に着いてきたのであれば言うことはないのですが、長引く不況の影響で経済活動が停滞、個人の購買能力が下がり、 人々が守りの構えに入ったのだとすれば、先行きが見通せない混迷の度が一層深まるような気分がします。

2005/04/18(月) 記

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