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PART ONE The Mummy's Shroud  第1部  ミイラの屍衣

・1・
運命の神殿

陽光をちらちらと映ずる青いナイル河---単独河川としては世界最長の河---ルクソールからそれほど離れていない上流の左岸の古代の都市テーベ、そこに壮大な石の神殿の廃墟が横たわっている。三頭のラクダがじっと主人の帰りを待ちわびていた。主人達は太陽に晒されている石柱の回廊や、広間や小部屋の廃墟を調べている。これらの建造物は全て、エジプトの死者の神アモン神と、生者と死者の神アモン=ラー神をまつるために建てられたのだ。

神殿はB.C.1280年前後に完成した。神殿の設計と実際の建築の監督はオシリスの高僧、イムホテップ本人の手になるものだ。イムホテップは博識と権力を持ち、彼の考案した巨石を運搬して持ち上げる方法のお陰で巨大なピラミッドを作ることが可能になったと言われている。

しかし、イムホテップはファラオのセティ王を裏切り、最後に"ホム=ダイ"の呪いという、前例のない運命に苦しむことになる。彼に関する記録は王国から抹殺された。イムホテップの建てた壮麗な神殿も同じ運命をたどり、キリスト生誕より遙か以前に廃墟と化してしまった。
現在--- 1933年夏--- 神殿の昔の壮麗さはただ想像に任せるしかない。それは朽ち果てたミイラを克明に調べて、かつての偉大な戦功を誇った王の生前の姿を忍ぶのに似ている。

神殿の内部では天井石の割れ目から射し込む太陽の光で闇が鋭く切り裂かれていた。今はもう訪れる者もない、石の散乱する床から巨大な柱が伸び上がっている。柱は歴史と記憶と多分、亡霊と共に生きているのだ...亡霊はほんの小さな姿で、闇からこっそり現れて長い影を投げかけながらヒエログリフで装飾された向かい側の壁の割れ目に滑り込むように消えていくだけだ。

神殿地下の納骨堂でリチャード・オコンネルは仕事の手を止めてきっとして目を上げた。彼の目は油断無く用心深く、頭上と左の方から聞こえてくる何かが動く音に反応している。漏れて射し込む光の円柱の中に立って、その気配がどこからしてくるのか確かめようとした。その音は---

オコンネルはエジプト学者ではなかった--- 新聞や雑誌、ニュース映画では彼を「探検家」「傭兵冒険家」「冒険家」といういかにも想像をかき立てる名前で呼んだり、往々にして元フランス傭兵部隊大佐という肩書きを使ったりしていた。ただしこの殊勲は、戦場で上官の本物の大佐が逃げ出したので、間に合わせにオコンネル伍長がその職務を引き継いだに過ぎないというのが本当のところである。

これは大方10年近く前のことだ。そして彼の人生を大きく変えることになった冒険の始まりだった。とははいうものの、最近は大きな波風は何一つ立たない穏健な日が続いているのだった。
しかし、本人は気付いておらず、そして新聞などが彼を称するこれらのロマンチックな肩書きがいささか馬鹿げていると思っていても、リック・オコンネルは相変わらず当世の熱血漢の颯爽とした物腰を持ち続けていた。
力強い顎、物に動じない眼差し、学生のようなハンサムな顔立ちは程良く年齢を重ねていた。日に焼けて、無造作にあちこちを向いた茶色の髪は、僅かにこめかみのあたりに白い物が混じっていたが、オコンネルは外人部隊にいた頃と同じ引き締まった男性的な体つきのままだった。
襟元を大きく開けて、袖口をまくり上げ、チノパンツをブーツの中に押し込んで、脇と腰のホルスターに武器を吊した姿のオコンネルは、"ヒーロー部門"ではダグラス・フェアバンクスも形無しといったところだった。

そして現在の所は"ヒーロー"にお出まし願わなくてはならない。こんな暗い得体の知れない場所には付き物の気味悪い正体不明の混然とした音がする物だが、その音に混じって足音が地下納骨堂の冷気の中に響いている。

オコンネルはトンネルのざらついた岩壁に沿って音のしないように移動した。ホルスターのスナップを外し、リボルバーを静かにケースから引き抜いた。

物の気配と足音が響いた--- 何かがこちらへ来る。
ぞっとしないぜ、顎をぐっと引き締めながらオコンネルは思った、あのイムホテップのやっこさんのいまいましい神殿を探検するだなんて---

地下道が分岐する暗い角で、オコンネルは全身の筋肉を張りつめて、今度は気味悪く静まりかえった中でやってくるものを待ち構えた。
そしてリボルバーをいつでも撃てるように構えて、電撃のような速さで角を曲がった---
---びっくり仰天したのは彼の8才になる息子、アレックスだった。

「わお!」愛らしく天真爛漫な少年は---束になったブロンドの髪は父親の髪と同じようにあっちを向いたりこっちを向いたりしている---胸を半分冗談っぽく、半分本当に驚いて押さえている。
「心臓が止まるかと思った!」
「おれのは止まったよ」
父親はごくりと唾を飲み込むとリボルバーを回しながらホルスターに納めた。
「上の神殿で待ってなさいと言っただろう!」

アレクサンダー・オコンネルは半袖の白いシャツに紺色のショートパンツを穿いて、8才の子供なら誰でも言うように答えた。
「だって、パパ---」
「"だって"はなしだ。下は危ない、何があるか分からないんだから」
アレックスは父親の傍に寄った。
「だってぼく見たんだ!すぐにパパに言わなくっちゃ!」
「何を見たんだ?」
「パパの刺青だよ!」

オコンネルは息子が何のことを言っているのか分からなかった。アレックスはずっと父の腕の甲にある小さな刺青に興味を持っていた、だから見たことがあるのは当たり前だ。
「同じ絵が壁に描いてあるのを見たんだ」
アレックスは息せき切って説明した。興奮で声がうわずっている。
「入口の上にパパの刺青と同じ模様の描いてあるカルトゥーシュがあるの、本当だよ」
「うそだなんて思ってないよ---」

「こんなふうに見えたんだ」
父親の手をしっかりとつかみながら、本人によく刺青が見えるように手を廻した。それはまるでオコンネルが長年暇があれば、幼い折りに、いや自分の覚えていないもっと前に、この刺青を一体誰が入れたのだろうと考えたことがないと言っているかのようなしぐさだった。
刺青には下を指している羅針儀と上を向いている2枚の隼の羽がピラミッドを形作り中央にホルスの目が描かれている。

「目の付いたピラミッドも、他のも全部あったんだ!」
「分かった、一息つくんだ。よく気がついたね--- もう少ししたら上へ行ってよく見るから、いいね」
愛くるしい顔ががっかりして、しかめっ面になった。
「それまでここにいてパパといっしょに探検したらだめ?」
「だめだ」
「だって---」
「"だって"」はなしだと言っただろう」
オコンネルは息子の肩に手をおくとくるりと向きを変えさせた。
「上の神殿で待ってなさい、ほら、いいか、走ってけ!」
「何をしてたらいいのさ?」

ねずみが一匹走ってトンネルの中に消えていった。少年は白くなって父親の腕をぎゅっとつかんだ。
「なにかびっくりするような物をつくってくれ」
少年の頭をくしゃくしゃとかき回すと言った。
「もっといいねずみ取りでも作ってろよ」
ネズミの姿を見てこのまま地下にいたいというさしものアレックスの熱意も削がれてしまった。

「じゃあ後で見てよ」
それだけ言うと少年は神殿の方に向かって駈けだした。それはさっきネズミが走ったのと反対の方向だった。
ネズミの走ったのはオコンネルが足を向けている方向だった、もちろんネズミを探しているわけではない、いわんや蛇などと出くわすとは夢にも思ってなかった--- ところがいたのだ。

さっきまで彼と妻のイヴリンが作業をしていて例の変な音を聞いた、カルトゥーシュの装飾のある小部屋に足を踏み入れるとアレックスの母親が閉ざされた石の扉の前に立っているのが見えた。彼女はブラシを使って扉の表面に彫られた古代の浮き彫りから埃を払っていた。そのヒエログリフの物語は、二人の美しいエジプト人の高貴な女性が間近に闘う一瞬の様子を写し取った物だった。

イヴリン・カーナハン・オコンネルは、エジプト史上最高の美女といわれるネフェルティティ女王、その人を入れても、どんな王女にもひけをとらないくらい美しかった。長身で褐色の長い髪を持ち、ほっそりと引き締まった体つきでよく日に焼けている。人目を引くエジプト人風の印象は、身につけたビーズのネックレスと流れるような線の焦げ茶と白のエジプトのプリント生地のドレスのせいで、いやが上にも強調されている。その女性は、今いつものように、自分の仕事に没頭していた。

右足の傍でとぐろを解こうとしている大きな黒い蛇には全く気付いている様子もない。

オコンネルの手が銃のホルスターに伸びると同時に蛇が威嚇の音を立てた。エヴィは少しもたじろがずに、
「あっちへいって、邪魔しないで」と言うとブーツの先に蛇を引っかけると部屋の向こうに放り投げた。

オコンネルは首をすくめて頭の上を飛んでいく蛇を避けた。

蛇が暗いトンエルの中に命からがら逃げていくのを見送ってオコンネルは言った。
「手慣れたものだね」
仕事を続けながら振り返りもせず彼女は尋ねた。
「アレックスと話していたの?」
「ああ」
「用事は何だったの?」
そこでオコンネルは彼女と並んで開かずの扉の前に立った。そのヒエログリフの彫刻は既にくっきりと浮かび上がって、きれいに写真に撮れるまでになっていた--- 彼は妻の手並みを見事だと思った。

「何か見つけた物のことを言いにきたんだ」
オコンネルはそう言うと更に続けた。
「さて、こいつを一丁こじ開けてもいいかい?」
彼女はきっとして彼を見た。愛らしいハート形の顔の中でアーモンドの形をした切れ長の青い目がきらりと光った。
「いいえ、ちゃんとした方法で開けるのよ」
「ちゃんとした方法で、っていうのは、思うに君のやり方でっていうことだね」
彼女は頷いた。

溜息をつくと彼女の足下に放り出してあるリュックサックに身を屈めて、中から考古学者の発掘道具の入っている茶色の皮のポーチを取り出すと、彼女に手渡した。
「さて、どこまでやったっけ?---ああ、そうだ---ピックだ」

エヴィはポーチから地質学者の使う岩石ピックを選んで、まるで手術中の外科医が看護婦に「ピック」と言ったようにオコンネルに渡した。

オコンネルは注意深く丁寧に、封印された扉の隙間を削った。細かい石のかけらがふけのようにぱらぱら落ちた。
「ヤスリ」脇目も振らずに言った。
イヴリンはポーチから小さな金属製のヤスリを選ぶと彼に手渡しながら言った。
「はい、ヤスリ」

熟練した考古学者のようにオコンネルはヤスリを使って削った面を滑らかにした。
この仕事はそれほど長くはかからないだろうよ--- 彼は思った---ほんの1世紀ってとこか...
「ノミ」オコンネルは言った。
イヴリンはリュックサックからノミを引き出すと、「ノミ」と言いながら夫の伸ばした手のひらに置いた。
オコンネルは今削って作った小さな隙間に、そっとノミの先端をあてがった。
ふうっと大きな溜息をつきながらイヴリンは言った。
「ああ、もういやになっちゃう--- いいわ、あなたのやり方でやりましょう」

彼はにやっと笑いかけるとノミを手から落として言った。
「バールだ!」
リュックサックから重いバールを引っ張り出すと言いながら手渡した。
「バー---」
その言葉が終わらないうちにオコンネルはバールを扉の隙間にぐいとこじ入れると、扉を栓を抜くように外した。嬉しそうなキャッという悲鳴を上げてエヴィは後ろに飛び下がると、大きな石の塊が二人の中間に古代の塵を舞い上げながらドスンという重い音と共に床に倒れた。

「この時を---」とエヴィは堂々とした様子で目を輝かせながら言った。
「あの夢を見出してから---ずっと考えていたのよ」
繰り返されるエジプトの夢、このイムホテップの神殿の夢が彼ら夫婦と年若い息子をこの遺跡へと導いたのだった。オコンネルはずっと以前から、妻の仕事のせいもあって、古代のファラオ達の国エジプトが彼らの生活の大きな部分を占めるだろう事は認めてきた。

しかし今回は仕事や研究の域を遙かに越えた何かに引かれてきた。現実のように生々しい古代の夢がいつもは冷静で内気でさえある、この元図書館司書の頭を虜にしてしまった。このような強迫観念をもつとは全く彼女らしくないことだったが、オコンネルは妻を自分の命より大切に思っていたし、そこでは理由など大きな意味を持たなかった。それでこの奇妙な探検旅行を切り出されたときに拒絶できなかった訳である。ファラオの歴史を発見するための旅ではない、イヴリンの夢の意味を説き明かすための旅だったのだ。

そして、今最初の扉が開かれた。
「おれはこんな夢見たことがないがなあ」かびくさい小部屋を松明で照らしながらオコンネルは言った。
朽ちたミイラが壁にもたれかかっている、石の床にはサソリと蛇が這い回り蠢いている様はさながら音無しの悪意に満ちた踊りのようだ。
虫たちはイヴリンが恐れもなくこの虫ずが走る部屋に足を踏み込んでいくとこそこそと姿を消した。
「ここへは前に来たことがあるわ」そう言う声は幾重にも反響した。
「あり得ないよ」
「リック、前にここに来たことがあるって私には分かってるのよ!」
「ねえ、ここ3000年の間ここには蛇とサソリ以外は誰も足を踏み入れてないんだよ」

イヴリンは傍目からは夢遊病のようであったが、十分予測した確信を持って手を伸ばして、松明掛けに見えた取っ手を掴んでぐいと引いた。
岩に埋め込まれて隠されていた戸口がぱっくりと口を開けさらに内部に暗い通路が続居ているのが見えた。
「もし私がここに来たことがないのなら、」イヴリンは夫につんとした様子で聞いた。
「私が正確にどうしたらいいのか知っていて、どこへ行けばいいのかも知っているように見えるのは一体どういう訳なの?」

リュックサックをつかみ、すとんと肩に掛けながらオコンネルはエヴィに松明を手渡して隣の暗い小部屋に入り、すぐ後に彼女が続いた。がらんとした小部屋に入って松明を大きく巡らすと、四面の壁が褪せて消えかかったヒエログリフで装飾されているのが見えた。
オコンネル自身には計り知れない何か不思議なことが彼の妻に起こったのはその時だった・・・

・・・イヴリンの視野の中、揺らめく松明の明かりの下で部屋の様相が夢幻のように変化した。まるで一気に何千年も過去へ飛ばされたようだった。狭い小部屋が唐突に眩く新しくなった。ヒエログエリフはたった今描かれたように美しく、燦然と輝く調度品は一目で控えの間と分かる部屋を飾り立てていた。一人の美しい女性が---頭飾りと宝石を散りばめた黄金の装身具に体の線を美しく見せる弔慰を着た、ほっそりとした若いエジプト人の王女が---戸口からこちらの控えの間に入ってきた。女性は顔を伏せていたのでイヴリンにはしかとその顔は見えなかったが、その向こうにもっと大きくて豪華な部屋があるのがちらりと目に入った。中には二人の屈強な兵が剣と盾に身を固めて、黄金で飾り立てられた小さい櫃の両側に立っていた。王女は背後に扉を閉めて日時計型のダイヤルを廻して錠を下ろした---右へ二回、左へ一回。不思議なことにこの部屋の眺めの中にリックもいた。場違いな現代のいでたちで、全くこの部屋の眩い変貌には気付いていない・・・その事実は、真っ直ぐに王女を横切って歩いてきたことで確かになった。彼はまるで王女がそこにいないかのように通り抜けたのだった!

・・・そしてイヴリンは再び、暗い色褪せた古代の控えの間に立っている自分に気がついた。壁のヒエログリフは消えかけており、豪華な調度は影も形もない。

オコンネルはこの部屋の変貌を何一つ見も感じもしなかった。奇妙なことに日時計型のダイヤルがついている、石の扉に歩み寄ると、もうピックとヤスリとノミの工程は御免だとばかりに、早速リュックサックからバールを引き抜いて扉と壁の隙間に突っ込んだ。
リックが力を込めててこを使おうとしている一方、イヴリンは何かに見入られたような表情を浮かべて慎重に松明を振り回していた。

荒い息を付きながらオコンネルは肩越しに妻の奇妙な行動を見て言った。
「何をしようとしてるんだ? 火で空気に名前を書こうっていうのかい?」
「今のがもう一回起こらないかと思って」
てこにしたバールにもたれ掛かって息を整えながらリックは尋ねた。
「何をもう一回起こすんだって?」
「この部屋・・・この部屋が全然違って見えたのよ」
「違うって・・・?」
彼女は今見たこと、実際に体験したことを事細かに説明して、こう締めくくった。
「前に夢で見たのと同じなのよ。でももっとリアルでもっと本物みたいだった・・・本当に古代にこの場所に立っていたみたい」
「でも、これは夢じゃないぜ---幻影じゃないか」
イヴリンの魅力的な目が光りを得て興奮で鼻孔が開いた。
「そう!それ、幻影!まさにその言葉がぴったり!」

オコンネルは妻をじっと見た。松明のオレンジ色の光りに照らされて彼女の美しさは勝り、非の打ち所のない顔の造作に陰影が延びて、しなやかにカーブした肢体が見える。彼は本気で妻の正気がどうかなってしまったのでないことを祈った。何にも増して心からこの女性を愛しているからだ。
「夢のことは気にしてないが、幻影は気になるよ・・・大丈夫かい?」リックはそっと言った。
「大丈夫・・・だと思うわ、ええ、大丈夫だわ!」
幾つか深呼吸をして、夫に目を据えた---そこに彼の心配を読みとって---安心させるように言った。
「あなた、本当に何ともないったら」

オコンネルは溜息をついた。手の甲で額の汗をぬぐうとまた向き直って石の扉をこじ開ける大作業に戻った。
「じゃあ」リックは唸りながら言った。
「ほんとに君が何千年も前にここにいたんだったら、こいつを何とか開ける方法を思い出して教えてくれよ」

イヴリンがついと彼の横に来た。手慣れた様子でダイヤルに手を伸ばすと---右に二回、ついで左に一回廻した。錠が外れる音に続いて扉がパンクしたタイヤから空気が漏れるような音で軋みながら壁から身を引きはがすように開いた。
オコンネルの目がイヴリンの目と合った---彼女も彼に劣らず仰天していた。
「分かったよ、こいつは何かに書いて置いてもいい、おれは君が怖くなってきたよ」
イヴリンはごくりと唾を飲み込んで言った。
「私も自分で自分が怖くなってきた」

オコンネルは片手にバールを持ち、もう一方に妻から松明を受け取って言った。
「君のすぐ後ろに付いていくよ」
イヴリンはリックの顔を見た。
「それはあんまり男らしくないんじゃなくって?」
「おいおい、君が扉の開け方を知ってたんだぜ」

エヴィはひんやりした暗い部屋に足を踏み入れた。すぐ後にいる夫が足下を照らすのに松明を掲げてくれている。左を向いた途端に自分が真正面からおぞましい顔と向かい合っているのに気付き、思い切り悲鳴を上げてしまった。
オコンネルもそれを見た。エヴィの悲鳴がまだ耳の中に響いているうちにバールを刀のように振り上げて怖ろしげなものの頭を刎ね飛ばした。ちぎれた頭は石の壁に当たって撥ねて転がった。

「くそ、一体なんだ?」
オコンネルは松明を下げて前へ出ながら言った。
その頭に見えるものはミイラの一部だった。ミイラといっても10年も前にイムホテップがこの20世紀に甦ったときに呼び起こして、オコンネルを悩ませた、あの類のミイラではなかった。昔ながらの悪さをしない包帯で巻かれた亡骸が、出入りする者を見張るように、ここに立て掛けられていたのだ。しかし身につけた盾と剣から、この遙か昔に死んだ男は兵士で、エヴィが話してくれた幻影の中の小櫃を両側から守る衛兵と同じ仲間なのは明らかだった。

夫から松明を受け取ったエヴィは部屋のもう一方を照らして、そこには本当に二体の兵士のミイラが豪華な櫃の両側で警備についているのを示した。

「これが、君が幻影で見たものかい?」櫃の蓋を見るために膝をつきながらオコンネルは聞いた。蓋の上には黄金の円盤が載っていていて、表面にはサソリの模様の浅い浮き彫りが施してある。
しかしエヴィは彼の問いかけには答えなかった。代わりに一言発した。
「スコーピオン・キング!」
オコンネルは見上げた。
「その言葉だけでも好きになれないね・・・」
「その円盤は戦いの旗印よ・・・スコーピオン・キングの軍勢のね」
「オーケイ、わかったよ・・・」
「スコーピオン・キングは神話だと思われていたの--- 実在を示す痕跡が現在何も残されていないし、死んだと思われる頃から時代を下って後の何世紀にも記録がないから・・・」
「それで?」
かいつまんでエヴィは彼に伝説を話して聞かせた。彼女が話し終わるとオコンネルは口を開いた。
「じゃあ、火葬されてないんなら、その箱の中にはスコーピオン・キングは入っていないよ」

大きく目を見開いて彼女は言った。
「あなたは分かってないわ---これは大発見よ・・・あの円盤はスコーピオン・キングの実在を示す歴史上初めての証拠の品よ。わたしたちがこの部屋に入る前は神話に過ぎなかったものが、歴史的な事実になったのよ」
膝を払いながら立ち上がってオコンネルは言った。
「すごいじゃないか、ベンブリッジの学会員たちの鼻をあかすのに突きつけてやれるものだね」
嬉しそうにうなずきながらエヴィは手を叩いた。
「リック・・・リック早く開けましょう」
「何を? この箱かい?」
「もちろんよ。どんな貴重な物が入っているか誰にも分からないわ」
「ねえ、あまり素敵な考えじゃないと思うんだが」
「馬鹿なこと言わないで、ただの箱じゃない---今まで箱がなにか悪さをしたことがあって?」

彼は制するように手のひらを上げた。
「その言い方には覚えがあるぞ。あの本はどうだったんだ、おれたちがあいつを解き放つ直前に、君は今までに本が悪さをしたことなんか無いと言わなかったかい? 」
エヴィの目はきらきら輝いていた。松明の影が瞳の中で踊っていた。
「ああ、リチャード、もう今さら止められないわ! あなたの冒険好きな心はどこへ行ってしまったの?」
彼は溜息をつくとバールと持ち上げた。彼女が彼のことを"リチャード"と呼ぶときには何を言っても無駄なのだ。
「オーケイ、わかったよ--- でも覚えといてくれよ、今度という今度はリック・オコンネルは理性の代弁者なんだぞ」
「今度だけよ、お願い」そう言って、彼女のいたずらっぽく笑った顔といったら・・・
「さあ、バールを貸して」

エヴィが櫃をバールで開けようと躍起になって悪態を付いたり息を切らしたりしている間、オコンネルは数千年の間じっと立って番をしていたが、今は頭を無くして転がっているミイラに向かって松明を傾けた。残っている首のあたりに金の鎖とキーと思しき物が下がっていた。それを取り上げると、やんわりと皮肉っぽく言った。
「おやおや、こんな物が。これで、君のやり方でやろう」
膝をつくとキーを錠に滑りこませてくるっと廻した。古代の金具がカチリと鳴った。
「一体どこで見つけたの?」
イヴリンは目をまん丸にして尋ねた。
「幻影で見たんだよ。言うことを聞くんだ、後ろに下がって・・・前に罠が仕掛けてあっただろう、覚えてるね」
うなずきながら十分に用心して下がりながら彼女も言った。
「あなたもよ、気を付けて、リック」

黄金の円盤を、それが長らく憩っていた場所から取り去って石の床の上に置いた。そして筺の蓋をはね上げた。筺の内部の空気が微かな音を立てて漏れるのを彼は頭を屈めて避けた。
強酸の雨も、毒性のあるガスも、バネ仕掛けの槍も、その他の開けた者を殺す仕掛けは何もなかった。
オコンネルは中を覗き込んだ。
ベルベットを思わせる古代の布のクッションの上にずっしりとした黄金のブレスレットが愛おしげに安置されていた。ブレスレットには櫃の上の円盤とと同じサソリの浮き彫りがあった。
近づいたエヴィは驚きと畏敬の念が滲み出た声でささやくように言った。
「アヌビスの腕輪!」
そしてやおら蓋を元通りにばたんと閉めた。
オコンネルは目をぱちくりさせると立ち上がって言った。
「ちょっと遅すぎたんじゃないか、パンドラ?」

彼女は震えていたが、咽を湿してから言った。
「あなたのリュックサックにこれを入れて」
円盤と筺のことだった。
「もっといい考えがあるぜ---こいつらはこのままにしていて早くおさらばしよう」
エヴィは眉を弓形に逆立てた。
「ちょっと遅すぎたですって?」
その言葉に応えるように--- 実に好ましからざる応えだったのだが--- 怖ろしい地をどよもすような轟音が外の納骨堂から小部屋に伝わってきた。

はっとしてオコンネルは彼女の顔を見た。
「一体なんだ?」
「人じゃないわね」顔を顰めながら答えた。
不安をかき立てる音はますます大きくなり地下通路に響き渡った。
「あれは石と石の擦れ合う音だ! 地震か?」
「地震なら神殿が崩れるわ! アレックスが上にいる!」
オコンネルはリュックに円盤を入れると上から小筺を押し込んだ。無理なくリュックにおさまるとそれを背に担ぎながら言った。
「早くここを出よう、アレックスの所に行くんだ」

うなずいて彼女は手を伸ばしリックはその手を取った、そして二人は後先見ずに猛然と走り出した。まさにその時、二人の背後の壁がはじけ飛び大石が吹き出す水と共に転がり出た!
二人は命がけで控えの間を走り抜けた、そして次の部屋へ、そしてその外の納骨所へ。耳には迫り来る水の轟音が響き、いやが上にも二人の足は追い立てられて、今までにこれほど速く走ったことはない程に転がるように地下通路を走った。

「あの控えの間だ」彼は走りながら前に見える戸口を指して叫んだ。
「あそこに階段がある、そうだろう?」
水の壁が背後に飛沫を上げて二人の後を追って納骨堂に突進してきた。
「わからないわ!」水の音に負けじと声を張り上げながら彼女は叫んだ。
「多分そうよ!」
彼女をぐいと引いて戸口をくぐった、そして手にした松明が照らし出したのは出口のない小さな部屋だった--- 行き止まりだ!
二人は戻るために振り返った、しかしその上に水が降りかかって来た。水は戸口から津波のように膨れあがり松明を一瞬にして消して見る間に小さな部屋を満たし始めた。

「くそ、ここは砂漠のど真ん中だ!」
オコンネルは滝のようなどうどうという音の中で叫んだ。
「一体この滅茶苦茶な水はどこから来たんだ!」
彼女の口から出たのは恐れよりも苦しみの色が濃かった。
「ああ、リック--- わたし、何をしてしまったの?」
「エヴィ、やめろ---必ず出口がある! いつでも必ずどこかに助かる道があるんだ!」

いまや腰の高さまで来た冷たい水の中を必死で通路に戻ろうと歩いた。通路に出れば水の中を泳いでどこかへ出られるかもしれない、しかし怒濤の流れ込む水の力が二人を押し戻した。1分もたたないうちに水かさは首まで達し、二人は、こもって薄くなっていく空気を必死に呼吸しながら相変わらずその部屋から出られずにいた。

「エヴィ---」
「リック!」 
そして二人はお互いの体に腕を廻し硬く抱き合いながら逆巻き押し寄せる水の下になった。恐怖と絶望をしのぐのは二人の愛だけだった。


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