4月頃の仕事の忙しい時期になると,立原道造の詩や堀辰雄のような,やさしい,ふんわりとした物語を読みたくなる。堀辰雄の「大和路・信濃路」は,今までに何回読み返したことだろう。前には堀辰雄の作品を改めて読み返してみたが,私の読書の原点にあるのは,叙情だということがよくわかった。
その年の春,前から読みたかった室生犀星の「若き詩人たちの肖像」を見つけた。犀星が若かった頃,関わりを持ち,早世した詩人たちの幾人かが取り上げてあって,その中には堀辰雄や立原道造も入っていた。それがきっかけとなって,立原道造の詩集を読んでみようと,学生時代の
「優しき歌ー立原道造の詩と青春」小川和佑著
「立原道造詩集」小山正孝著
「父室生犀星と軽井沢」室生朝子
「立原道造全集第5巻書簡集」
「立原道造詩集」杉浦明平編
をひっぱり出してきて読んだりした。
昭和14年3月29日に結核で24年と8ヶ月の短い生涯を終えたのだが,彼の詩は今読みかえしてみても新鮮でちっとも古臭さを感じさせない。
高校の教科書に載っていた
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しずまりかえつた午さがりの林道を
うららかに青い空には日がてり 火山は眠つてゐた
ーそして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないとしりながら 語り続けた・・・・・
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさえ 忘れてしまつたときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
「のちのおもひに」は,一番最初に出合った立原道造の詩だが,今でも一番好きな作品だ。
夏の信濃追分を舞台に様々な詩が作られたが,彼の詩を思うとき,いつも長塚節の生涯と対比させてしまう。
節も結核で37才で亡くなっており,亡くなる前の年には物に憑かれたようにあちこちを旅して歩き,ついには九州宮崎の青島まで行き,福岡で亡くなっている。立原道造も亡くなる前年の9月から,盛岡を経て奈良・京都を経由し,松江から九州に渡り,12月に長崎で喀血し,東京で翌年の3月に亡くなっている。作品は,透明感のある清々しい,張りつめた厳しさのある節の短歌に対して,立原道造の詩は,透明感のある甘美な淋しさに満ちた作品が多く,清新なイメージが共通している気がする。詩と短歌の違いがあるが,何となく似た雰囲気があるような気がしてならない。
立原道造は堀辰雄の作品にひかれ,堀辰雄をまねて同人誌を作ることから
出発した。そして,堀辰雄に師事し,「四季」に作品を載せてもらったり,アドバイスを受けたりして自分の詩的世界を作り上げて行った。幼い頃に父を亡くした彼にとって,堀辰雄は父・兄・友人・文学上の師であった。
が,やがて「風立ちぬ」論を書き,亡くなる前年の10月に堀辰雄宛に決別の手紙を送っている。堀辰雄を否定しなければ,自分の文学世界を作ることができないという切迫した気持ちは分かるような気がする。子供が父親に親しみ,成長して行くうちに,親を批判したり否定したりして成長して行くように,彼にとっても堀辰雄をまず否定し,乗り越えなければ次へと進めなくて,自分独自の文学上における世界が創造できないと思い詰めた結果のことだったと思う。
杉浦明平さんは,立原道造が堀辰雄を批判するようになった原因は,
「死の影が不意に彼を覆いはじめたのではないか。堀の『風立ちぬ,いざ行きめやも』では生ぬるく生の歓びをもたらす力を欠いていたから,もっと激しく生が死と闘って勝ち得ないまでも死の不合理生(死はいかなる人間にとっても不合理の極である)をはねのける文学を求めてやまなかった。
その頃保田与重郎の『日本の橋』に出会い,死の無意味さ不合理性を謳い上げる文章とニヒリズム美学が立原道造を魅了した」と書いている。
亡くなる約半年前の頃で,結核が悪くなりだし,本能的に死から逃げるためにこんな行動をとったとも思える。