江戸時代に詠まれた狂歌で「 白河の 清きに魚も 住みかねて もとのにごりの 田沼恋しき (詠み人知らず)」という物があります。 地球上に存在する魚類の方々(笑)にも実に様々な種類があり、それは住んでいる場所1つ取っても多種多様に渡っています。清流にしか住めない物、濁った沼のような場所を好む物、淡水と海水を自由に行き来する物、他にも色々あるでしょう。そうなっている理由は意外と簡単で、そういう住み分けをすることで様々な種類の魚がエサや住処を得て生き残っているのです。
例えばあるゲームの世界の現状が泥沼のような有様で (^^; それをある個人や組織が「何とか頑張って清流に変えたい」などと考えたとします。ところが、ならばとその沼地から泥をきれいサッパリ取り去り、水を濾過すればそれで終わりなのかというと、現実はそう簡単な話にはなりません。要するに「沼が清流に代わった途端に、今まで住んでいた魚はまずそこに住めなくなっていなくなる。」ということです。なぜその沼に少なからぬ魚が住んでいるのか。それは“沼の方が居心地がいい”と感じる魚が少なくないからなのです(笑)。そしてひょっとするとその業界は今や、その沼を好む魚によって維持されているかもしれないのです。 (^^; それを単に外から見たイメージを良くするとか、来るかどうかも分からない外来種の魚を招き入れたいがために、いきなり沼地の底をさらって水を清流に変えてしまう。これでは“そして誰もいなくなった”状態になりかねないのです。
ただそういう沼というのは、外の世界から見ると「中の様子が分からないので何とも不気味である」という印象になります。そうなるとそこに住む生き物を残らず駆除してしまおうとか、いっそ沼を埋め立ててしまえばいいという発想を持つ方も少なからず現れます。そういう思想の持ち主が例えばPTA役員とか地方議会議員といった然るべき地位の人の中に現れると、具体的に校則とか条例などによって沼の埋め立てや住んでいる生き物の駆除が始まってしまう。これが間違いなく世の中の図式です。沼の中のことは沼の住人が決めている。だから外の人間は口を出すな。そういう論理は世の中では通じません。その沼は外部から何の供給も受けずに、100%自活した状態でこの世に存在しているわけではないからです。「子供が間違ってその沼にはまったら・・・」そういう危惧を持たれただけで埋め立てられた沼ですら、恐らくこの世にはごまんと存在しているはずですので。
普通なら「水辺に遊びに行こう」とか行って、わざわざ近寄るだけで異臭が漂ってくる沼地に出向く奇特な人はほとんどいないでしょう。 (^^; 沼の住人は現状をそれなりに良い居心地だと感じているでしょうが、実際には外から人がほとんどやって来なくなっている、あるいは近づくのも怖いくらいに阻害されているのかもしれません。もしそういう状況を改めて沼を賑やかにしたいのであれば、沼を外の世界の人達が訪れたくなる環境や雰囲気にするか、逆に沼の住人が外に出向いて交流を始めるしかないのです。