法華題目抄
法華題目抄の概要 【文永三年正月六日、聖寿、真筆−断存】 根本大師門人 日蓮撰 南無妙法蓮華経 問て云く、法華経の意をもしらず、義理のあぢはゝずして、只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限て、一日に一遍、一月乃至一年十年一期生の間に只一遍なんど唱へても、軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかず、ついに不退の位にいたるべしや。 答て云く、しかるべきなり。 問て云く、火火といへども手にとらざればやけず、水水といへども口にのまざれば水のほしさもやまず。 只南無妙法蓮華経と題目計りを唱ふとも、義趣をさとらずば悪趣をまぬかれん事、いかがあるべかるらん。 答て云く、師子の筋を琴の絃として一度奏すれば余の絃悉くきれ、梅子のすき声をきけば口につ(唾)たまりうるをう。世間の不思議是くの如し、況や法華経の不思議をや。 小乗の四諦の名計りをさやづる鸚鵡、なを天に生ず。三帰計りを持つ人、大魚の難をまぬかる。 何に況や法華経の題目は八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目なり。汝等此をとなへて四悪趣をはなるべからずと疑ふか。 正直捨方便の法華経には「信を以て入ることを得」と云ひ、双林最後の涅槃経には「是の菩提の因は復無量なりと雖も、若し信心を説けば則ち已に摂尽す」等云云。 夫れ仏道に入る根本は信をもて本とす。五十二位の中には十信を本とす。十信の位には信心初めなり。 たとひさとりなけれども、信心あらん者は鈍根も正見の者なり。たとひさとりあるとも、信心なき者は誹謗闡提の者なり。 善星比丘は二百五十戒を持て四禅定を得、十二部経を諳にせし者なり。 提婆達多は六万八万の宝蔵ををぼへ、十八変を現ぜしかども、此等は有解無信の者なり。今に阿鼻大城にありと聞く。 又鈍根第一の須梨槃特は智恵もなく悟もなし。只一念の信ありて普明如来と成り給ふ。 又迦葉・舎利弗等は無解有信の者なり。仏に授記を蒙て華光如来・光明如来といはれき。 仏説て云く「疑を生じて信ぜざらん者は、即ち当に悪道に堕すべし」等云云。此等は有解無信の者を皆悪道に堕すべしと説き給ひしなり。 而るに今の代に世間の学者の云く、只信心計りにて解する心なく、南無妙法蓮華経と唱ふる計りにて、争か悪趣をまぬかるべき等云云。此の人人は経文の如くならば、阿鼻大城まぬかれがたし。 さればさせる解りなくとも、南無妙法蓮華経と唱ふるならば、悪道をまぬかるべし。 譬へば、蓮華は日に随て回る、蓮に心なし。芭蕉は雷によりて増長す、是の草に耳なし。我等は蓮華と芭蕉との如く、法華経の題目は日輪と雷との如し。 犀の生角を身に帯して水に入りぬれば、水五尺身に近づかず。栴檀の一葉開きぬれば、四十由旬の 金剛は堅固にして一切の物に破られざれども、羊の角と亀の甲に破らる。 尼倶類樹は大鳥にも枝をれざれども、か(蚊)のまつげにす(巣)くうせうれう(鷦鷯)鳥にやぶらる。 我等が悪業は金剛のごとし、尼倶類樹のごとし。法華経の題目は羊の角のごとく、せうれう鳥の如し。 琥珀は塵をとり、磁石は鉄をすう。我等が悪業は塵と鉄との如く、法華経の題目は琥珀と磁石との如し。かくをもひて常に南無妙法蓮華経と唱へさせ給ふべし。 法華経の第一の巻に云く「無量無数劫にも是の法を聞くこと亦難し」。 第五の巻に云く「是の法華経は無量の国中に於て、乃至名字をも聞くことを得べからず」等云云。法華経の御名をきく事は、をぼろげにもありがたき事なり。 されば須仙多仏・多宝仏は、世にいでさせ給ひたりしかども、法華経の御名をだにもとき給はず。 釈迦如来は、法華経のために世にいでさせ給ひたりしかども、四十二年が間は名を秘してかたりいだざりしかども、仏の御年七十二と申せし時、はじめて妙法蓮華経ととなえいださせ給ひたりき。 しかりといえども摩訶尸那・日本の辺国の者は御名をもきかざりき。 一千余年すぎて三百五十余年に及てこそ纔に御名計りをば聞きたりしか。 さればこの経に値ひたてまつる事をば三千年に一度華さく優曇華、無量無辺劫に一度値ふなる一眼の亀にもたとへたり。 大地の上に針を立てて大梵天王宮より芥子をなぐるに、針のさきに芥子のつらぬかれたるよりも法華経の題目に値ふ事はかたし。 此の須弥山に針を立ててかの須弥山より大風のつよく吹く日いとをわたさんに、いたりてはりの穴にいとのさきのいりたらんよりも法華経の題目に値ひ奉る事かたし。 さればこの経の題目をとなえさせ給はんにはをぼしめすべし。生盲の始めて眼をあきて父母等をみんよりもうれしく、強きかたきにとられたる者のゆるされて妻子を見るよりもめづらしとをぼすべし。 問て云く、題目計りを唱ふる証文これありや。答て云く、妙法華経の第八に云く「法華の名を受持せん者福量るべからず」。 正法華経に云く「若し此の経を聞て名号を宣持せば徳量るべからず」。添品法華経に云く「法華の名を受持せん者福量るべからず」等云云。此等の文は題目計りを唱ふる福計るべからずとみへぬ。 一部八巻二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広なり。方便品・寿量品等を受持し乃至護持するは略なり。但一四句偈乃至題目計りを唱へ、となうる者を護持するは要なり。広・略・要の中には題目は要の内なり。 問て云く、妙法蓮華経の五字にはいくばくの功徳をかおさめたるや。 答て云く、大海は衆流を納めたり、大地は有情非情を持てり、如意宝珠は万財を雨し、梵王は三界を領す。 妙法蓮華経の五字も亦復是くの如し。一切の九界の衆生並に仏界を納む。十界を納むれば亦十界の依報の国土を収む。 先ず妙法蓮華経の五字に一切の法を納むる事をいはば、経の一字は諸経の中の王なり。一切の群経を納む。 仏世に出でさせ給て五十余年の間八万聖教を説きをかせ給ひき。仏は人寿百歳の時壬申の歳二月十五日の夜半に御入滅あり。 其の後四月八日より七月十五日に至るまで一夏九旬の間、一千人の阿羅漢結集堂にあつまりて、一切経をかきをかせ給ひき。 其の後正法一千年の間は五天竺に一切経ひろまらせ給ひしかども、震旦国には渡らず。 像法に入て一十五年と申せしに、後漢の孝明皇帝永平十年丁卯の歳仏経始めて渡て、唐の玄宗皇帝開元十八年庚午の歳に至るまで渡れる訳者一百七十六人、持ち来る経律論一千七十六部・五千四十八巻・四百八十帙。是れ皆法華経の経の一字の眷属の修多羅なり。 先ず妙法蓮華経の以前、四十余年の間の経の中に大方広仏華厳経と申す経まします。 竜宮城には三本あり。上本は十三世界微塵数の品、中本は四十九万八千八百偈千二百品、下本は十万偈四十八品。此の三本の外に震旦・日本には僅に八十巻・六十巻・四十巻等あり。 阿含小乗経・方等般若の諸大乗経等。大日経は梵本には阿■■訶■の五字計りを三千五百の偈をもつてむすべり。 況や余の諸尊の種子・尊形・三摩耶其の数をしらず。而るに漢土には但纔に六巻七巻なり。 涅槃経は双林最後の説、漢土には但四十巻。是も梵本之れ多し。此等の諸経は皆釈迦如来の所説の法華経の眷属の修多羅なり。 此の外過去の七仏千仏・遠遠劫の諸仏の所説、現在十方の諸仏の説経皆法華経の経の一字の眷属なり。 されば薬王品に仏宿王華菩薩に対して云く「譬へば一切の川流江河の諸水の中に海為れ第一なるが如く、衆山の中に須弥山為れ第一、衆星の中に月天子最も為れ第一」等云云。妙楽大師の釈に云く「已今当説最為第一」等云云。 此の経の一字の中に十方法界の一切経を納めたり。譬へば如意宝珠の一切の財を納め、虚空の万象を含めるが如し。 経の一字は一代に勝る。故に妙法蓮華の四字も又八万法蔵に超過するなり。 妙とは、法華経に云く「方便の門を開て真実の相を示す」。章安大師の釈に云く「秘密の奥蔵を発く、之を称して妙と為す」。妙楽大師此の文を受けて云く「発とは開なり」等云云。 妙と申す事は開と云ふ事なり。世間に財を積める蔵に鑰なければ開く事かたし。開かざれば蔵の内の財を見ず。 華厳経は仏説き給ひたりしかども、経を開く鑰をば仏彼の経に説き給はず。 阿含・方等・般若・観経等の四十余年の経経も仏説き給ひたりしかども、彼の経経の意をば開き給はず。 門を閉じてをかせ給ひたりしかば、人彼の経経をさとる者一人もなかりき。たとひさとれりとをもひしも僻見にてありしなり。 而るに仏法華経を説かせ給て諸経の蔵を開かせ給ひき。此の時に四十余年の九界の衆生始めて諸経の蔵の内の財をば見しりたりしなり。 譬へば大地の上に人畜草木等あれども、日月の光なければ眼ある人も人畜草木の色形をしらず。日月出で給てこそ始めてこれをば知る事なれ。 爾前の諸経は長夜の闇の如く、法華経の本迹二門は日月の如し。 諸の菩薩の二目ある、二乗の眇目なる、凡夫の盲目なる、闡提の生盲なる、共に爾前の経経にてはいろかたちをばわきまへずありし程に、 法華経の時、迹門の月輪始めて出で給ひし時、菩薩の両眼先にさとり、二乗の眇目次にさとり、凡夫の盲目次に開き、生盲の一闡提未来に眼の開くべき縁を結ぶ是れ偏に妙の一字の徳なり。 迹門十四品の一妙、本門十四品の一妙、合せて二妙。迹門の十妙、本門の十妙、合せて二十妙。迹門の三十妙、本門の三十妙、合せて六十妙。迹門の四十妙、本門の四十妙、観心の四十妙、合せて百二十重の妙なり。 六万九千三百八十四字一一の字の下に一の妙あり。総じて六万九千三百八十四の妙あり。 妙とは天竺には薩と云ひ、漢土には妙と云ふ。妙とは具の義なり。具とは円満の義なり。 法華経の一一の文字、一字一字に余の六万九千三百八十四字を納めたり。 譬へば大海の一■の水に一切の河の水を納め、一の如意宝珠の芥子計りなるが一切の如意宝珠の財を雨らすが如し。 譬へば秋冬枯れたる草木の、春夏の日に値て枝葉華菓出来するが如し。 爾前の秋冬の草木の如くなる九界の衆生、法華経の妙の一字の春夏の日輪にあひたてまつりて、菩提心の華さき成仏往生の菓なる。 妙楽大師の釈に云く「治し難きを能く治す、所以に妙と称す」等云云。 総じて成仏往生のなりがたき者四人あり。第一には決定性の二乗、第二には一闡提人、第三には空心の者、第四には謗法の者なり。 此等を法華経にをいて仏になさせ給ふ、故に法華経を妙とは云ふなり。 提婆達多は斛飯王の第一の太子、浄飯王にはをひ、阿難尊者がこのかみ(兄)、教主釈尊にはいとこに当る南閻浮提にかろからざる人なり。 須陀比丘を師として出家し、阿難尊者に十八変をならひ、外道の六万蔵・仏の八万蔵を胸にうかべ、五法を行じて殆ど仏よりも尊きけしきなり。 両頭を立てて破僧罪を犯さんために象頭山に戒壇を築き、仏弟子を招き取り、 其の上瞿伽梨尊者を弟子とし、 智恵の者は舎利弗にあつまり、神通の者は目連にしたがひ、悪人は提婆にかたらいしなり。 されば厚さ十六万八千由旬、其の下に金剛の風輪ある大地すでにわれて、生身に無間大城に堕ちにき。 第一の弟子瞿伽梨も又生身に地獄に入る。旃遮婆羅門女もおちにき。波瑠璃王もをちぬ。善星比丘もおちぬ。 又此等の人人の生身に堕ちしをば五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国の人人も皆これをみる。 六欲・四禅・色・無色・梵王・帝釈・第六天の魔王も閻魔法王等も皆御覧ありき。三千大千世界十方法界の衆生も皆聞きしなり。 されば大地・微塵劫はすぐとも無間大城を出づべからず。劫石はひすらぐとも阿鼻大城の苦はつきじとこそ思ひ合ひたりしに、法華経の提婆品にして、教主釈尊の昔の師天王如来と記し給ふ事こそ不思議にをぼゆれ。 爾前の経経実ならば法華経は大妄語、法華経実ならば爾前の諸経は大虚誑罪なり。 提婆が三逆を具に犯して、其の外無量の重罪を作りし、天王如来となる。 況や二逆一逆等の諸の悪人の得道疑ひなき事、譬へば大地をかへすに草木等のかへるがごとく、堅石をわる者軟草をわるが如し。故に此の経をば妙と云ふ。 女人をば内外典に是をそしり、三皇五帝の三墳五典に諂曲の者と定む。 されば災は三女より起ると云へり。国の亡び人の損ずる源は女人を本とす。 内典の中には初成道の大法たる華厳経には「女人は地獄の使なり。能く仏の種子を断つ。外面は菩薩に似て、内心は夜叉の如し」と云ひ。 双林最後の大涅槃経には「一切の江河必ず回曲有り。一切の女人必ず諂曲有り」と。 又云く「所有三千界の男子の諸の煩悩合集して一人の女人の業障と為る」等云云。 大華厳経の文に「能く仏の種子を断つ」と説かれて候は女人は仏になるべき種子をいれり。 譬へば大旱魃の時、虚空の中に大雲をこり大雨を大地に下すに、かれたるが如くなる無量無辺の草木花さき菓なる。 然りと雖もいれる種はをひずして、結句雨しげければくちうするが如し。 仏は大雲の如く、説教は大雨の如く、かれたるが如くなる草木を一切衆生に譬へたり。 仏教の雨に潤ひ五戒・十善・禅定等の功徳を修するは花さき菓なるが如し。 雨ふれどもいりたる種のをひず、かへりてくちうするは、女人の仏教にあひて生死をはなれずして、かへりて仏法を失ひ悪道に堕つるに譬ふべし。是を「能く仏の種子を断つ」とは申すなり。 涅槃経の文に、一切の江河のまがれるが如く女人も又まがれりと説かれたるは、水はやわらかなる物なれば、石山なんどのこわき物にさへられて水のさきひるむゆへに、あれへこれへ行くなり。 女人も亦是くの如く。女人の心をば水に譬へたり。心よわくして水の如くなり。 道理と思ふ事も男のこわき心に値ひぬればせかれてよしなき方へをもむく。又水にゑがくにとどまらざるが如し。 女人は不信を体とするゆへに、只今さあるべしと見る事も、又しばらくあればあらぬさまになるなり。 仏と申すは正直を本とす。故にまがれる女人は仏になるべからず。五障三従と申して、五つのさはり、三つしたがふ事あり。 -正直- されば銀色女経には「三世の諸仏の眼は大地に落つとも女人は仏になるべからず」と説かれ、大論には「清風はとると云へども女人の心はとりがたし」と云へり。 此くの如く諸経に嫌はれたりし女人を、文殊師利菩薩の妙の一字を説き給ひしかば忽に仏になりき。 あまりに不審なりし故に、宝浄世界の多宝仏の第一の弟子智積菩薩・釈迦如来の御弟子の智恵第一の舎利弗尊者、四十余年の大小乘経の経文をもつて竜女の仏になるまじき由を難ぜしかども、終に叶はず仏になりにき。 初成道の「能く仏の種子を断つ」も、双林最後の「一切の江河必ず回曲有り」の文も破れぬ。銀色女経並に大論の亀鏡も空しくなりぬ。 智積・舎利弗は舌を巻て口を閉ぢ、人天大会は歓喜せしあまりに掌を合せたりき。是れ偏に妙の一字の徳なり。 此の南閻浮提の内に二千五百の河あり。一一に皆まがれり。南閻浮提の女人の心のまがれるが如し。 但し娑婆耶と申す河あり。縄を引きはえたるが如くして直に西海に入る。 法華経を信ずる女人亦復是くの如く、直に西方浄土へ入るべし。是れ妙の一字の徳なり。 妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり。 譬へば黄鵠の子死せるに、鶴の母子安となけば死せる子還て活り、鴆鳥水に入れば魚蚌悉く死す、犀の角これにふるれば死せる者皆よみがへるが如く、爾前の経経にて仏種をいりて死せる二乗闡提女人等、妙の一字を持ちぬればいれる仏種も還て生ずるが如し。 天台云く「闡提は心有り猶作仏すべし、二乗は智を滅す心生ずべからず、法華能く治す復称して妙と為す」と。 妙楽云く「但大と云て妙と名づけざるは、一には有心は治し易く無心は治し、難し治し難きを能く治す所以に妙と称す」等云云。 此等の文の心は、大方広仏華厳経・大集経・大品経・大涅槃経等は、題目に大の字のみありて妙の字なし。 但生者を治して死せる者をば治せず。法華経は死せる者をも治する。故に妙と云ふ釈なり。 されば諸経にしては仏になる者も仏になるべからず。其の故は法華は仏になりがたき者すら尚仏になりぬ。 なりやすき者は云ふにや及ぶと云ふ道理立ちぬれば、法華経をとかれて後は諸経にをもむく一人もあるべからず。 而るに正像二千年過て末法に入て当世の衆生の成仏往生のとげがたき事は、在世の二乗闡提等にも百千万億倍すぎたる衆生の、観経等の四十余年の経経によりて生死をはなれんと思ふはいかが。はかなし、はかなし。 女人は在世正像末総じて一切の諸仏の一切経の中に法華経をはなれて仏になるべからず、霊山の聴衆道場開悟たる天台智者大師定めて云く「他経は但男に記して女に記せず、今経は皆記す」等云云。 釈迦如来多宝仏十方諸仏の御前にして、摩竭提国王舎城の艮、鷲の山と申す所にて八箇年の間説き給ひし法華経を智者大師まのあたり聞こしめしけるに、我五十余年の一代聖教を説きをく事は皆衆生利益のためなり。 但し其の中に四十二年の経経には女人仏になるべからずと説きたまひしなり、今法華経にして女人仏に成るととくとなのらせ給ひしを、仏滅後一千五百余年に当て鷲の山より東北十万八千里の山海をへだてて摩訶尸那と申す国あり。震旦国是なり。 此の国に仏の御使に出でさせ給ひ、天台智者大師となのりて女人は法華経をはなれて仏になるべからずと定めさせ給ひぬ。 尸那国より三千里をへだてて東方に国あり、日本国となづけたり。 天台大師御入滅二百余年と申せしに此の国に生れて伝教大師となのらせ給て、秀句と申す書を造り給ひしに「能化所化倶に歴劫無し妙法経の力にて即身に成仏す」と竜女が成仏を定め置き給ひたり。 而るに当世の女人は即身成仏こそかたからめ、往生極楽は法華を憑まば疑ひなし。 譬へば江河の大海に入るよりもたやすく、雨の空より落つるよりもはやくあるべき事なり。 而るに日本国の一切の女人は南無妙法蓮華経とは唱へずして、女人の往生成仏をとげざる双観経等によりて、弥陀の名号を一日に六万遍十万遍なんどとなうるは、 仏の名号なれば巧なるには似たれども、女人不成仏不往生の経によれるが故に、いたずらに他の財を数へたる女人なり。これひとえに悪知識にたぼらかされたるなり。 されば日本国の一切の女人の御かたきは虎狼よりも山賊海賊よりも父母の敵とわり等よりも、法華経をばをしえずして念仏ををしゆるこそ一切の女人のかたきなれ。 南無妙法蓮華経と一日に六万十万千万等も唱へて、後に暇あらば時時阿弥陀等の諸仏の名号をも口ずさみなるやうに申し給はんこそ、法華経を信ずる女人にてはあるべきに、当世の女人は一期の間弥陀の名号をばしきりにとなへ、 念仏の仏事をばひまなくをこなひ、法華経をばつやつや唱へず供養せず、或はわづかに法華経を持経者によますれども、念仏者をば父母兄弟なんどのやうにをもひなし、持経者をば所従眷属よりもかろくをもへり。かくしてしかも法華経を信ずる由をなのるなり。 抑も浄徳夫人は二人の太子の出家を許して法華経をひろめさせ、竜女は「我闡大乗教度脱苦衆生」とこそ誓ひしが、全く他経計りを行じて此の経を行ぜじとは誓はず。 今の女人は偏に他経を行じて法華経を行ずる方をしらず。とくとく心をひるがへすべし、心をひるがへすべし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 日蓮花押 文永三年丙寅正月六日清澄寺に於て未の時書し畢ぬ。 |