持妙法華問答抄
持妙法華問答抄の概要 【弘長三年()、聖寿】 抑も希に人身をうけ、適ま仏法をきけり。然るに法に浅深あり、人に高下ありと云へり。 何なる法を修行してか速に仏になり候べき。願くは其の道を聞かんと思ふ。 答て云く、家家に尊勝あり、国国に高貴あり。皆其の君を貴み、其の親を崇むといへども、豈国王にまさるべきや。 爰に知ぬ、大小権実は家家の諍ひなれども、一代聖教の中には法華独り勝れたり。是れ頓証菩提の指南、直至道場の車輪なり。 疑て云く、人師は経論の心を得て釈を作る者なり。然らば則ち宗宗の人師、面面各各に教門をしつらい、釈を作り、義を立て証得菩提と志す。何ぞ虚しかるべきや。然るに法華独り勝ると候はば、心せばくこそ覚え候へ。 答て云く、法華独りいみじと申すが心せばく候はば、釈尊程心せばき人は世に候はじ。 何ぞ誤りの甚しきや。且く一経・一流の釈を引て其の迷をさとらせん。 無量義経に云く「種種に法を説き種種に法を説くこと方便力を以てす、四十余年未だ真実を顕さず」云云。 此の文を聞て大荘厳等の八万人の菩薩一同に「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得ず」と領解し給へり。 此の文の心は、華厳・阿含・方等・般若の四十余年の経に付て、いかに念仏を申し、禅宗を持て仏道を願ひ、無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、無上菩提を成ずる事を得じと云へり。 しかのみならず、方便品には「世尊は法久くして後要当に真実を説きたもうべし」ととき、又「唯有一乗法 無二亦無三」と説て、此の経ばかりまことなりと云ひ、 又二の巻には「唯我一人のみ能く救護を為す」と教へ、「但楽て大乗経典を受持して乃至余経の一偈をも受けず」と説き給へり。 文の心は、ただわれ一人してよくすくひまもる事をなす。法華経をうけたもたん事をねがひて、余経の一偈をもうけざれと見えたり。 又云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」云云。 此の文の心は、若し人此の経を信ぜずして此の経にそむかば、則ち一切世間の仏のたねをたつものなり。その人は命をはらば無間地獄に入るべしと説き給へり。 此等の文をうけて天台は、将非魔作仏の詞正く此の文によれりと判じ給へり。 唯人師の釈計りを憑て、仏説によらずば何ぞ仏法と云ふ名を付くべきや。言語道断の次第なり。 之に依て智証大師は経に大小なく理に偏円なしと云て、一切人によらば仏説無用なりと釈し給へり。 天台は「若し深く所以有り、復修多羅と合せるをば録して之を用ゆ。無文無義は信受すべからず」と判じ給へり。 又云く「文証無きは悉く是れ邪の謂ひ」とも云へり。いかが心得べきや。 問て云く、人師の釈はさも候べし。爾前の諸経に、此の経第一とも説き、諸経の王とも宣べたり。若し爾らば仏説なりとも用ふべからず候か如何。 答て云く、設ひ此の経第一とも諸経の王とも申し候へ、皆是れ権教なり。其の語によるべからず。 之に依て、仏は「了義経によりて不了義経によらざれ」と説き、妙楽大師は「縦ひ経有りて諸経の王と云ふとも已今当説最為第一と云はざれば兼但対帯其の義知ぬべし」と釈し給へり。 此の釈の心は、設ひ経ありて諸経の王とは云ふとも、前に説きつる経にも後に説かんずる経にも此の経はまされりと云はずば、方便の経としれと云ふ釈なり。 されば爾前の経の習として、今説く経より後に又経を説くべき由を云はざるなり。 唯法華経計りこそ最後の極説なるが故に、已今当の中に此の経独り勝れたりと説かれて候へ。 されば釈には「唯法華に至て前教の意を説て今教の意を顕す」と申して、法華経にて如来の本意も、教化の儀式も定りたりと見えたり。 之に依て、天台は「如来成道四十余年未だ真実を顕さず、法華始めて真実を顕す」と云へり。 此の文の心は、如来世に出でさせ給て四十余年が間は真実の法をば顕さず。法華経に始めて仏になる実の道を顕し給へりと釈し給へり。 問て云く、已今当の中に法華経勝れたりと云ふ事はさも候べし。但し有人師の云く、四十余年 答て云く、法華経は二乗の為なり、菩薩の為にあらず。されば 此の事を伝教大師破し給ふに「現在の麁食者は偽章数巻を作て法を謗じ人を謗ず、何ぞ地獄に堕せざらんや」と破し給ひしかば、徳一は其の語に責められて舌八にさけてうせ給ひき。 されば華厳経には地獄の衆生は仏になるとも、二乗は仏になるべからずと嫌ひ、方等には高峰に蓮の生ざるように、二乗は仏の種をいりたりと云はれ、般若には五逆罪の者は仏になるべし、二乗は叶ふべからずと捨てらる。 かかるあさましき捨者の仏になるを以て如来の本意とし、法華経の規模とす。 之に依て天台の云く「華厳大品も之を治すること能はず唯法華のみ有て能く無学をして還て善根を生じ仏道を成ずることを得せしむ、所以に妙と称す。 又闡提は心有り、猶作仏すべし。二乗は智を滅す、心生ずべからず。法華能く治す。復称して妙と為す」云云。 此の文の心は、委く申すに及ばず。誠に知ぬ、華厳・方等・大品等の法薬も、二乗の重病をばいやさず。又三悪道の罪人をも菩薩ぞと爾前の経にはゆるせども、二乗をばゆるさず。 之に依て、妙楽大師は「余趣を実に会すること諸経に或は有れども二乗は全く無し。故に菩薩に合して二乗に対し難きに従て説く」と釈し給へり。 しかのみならず、二乗の作仏は一切衆生の成仏を顕すと天台は判じ給へり。 修羅が大海を渡らんをば、是れ難しとやせん。 然らば則ち仏性の種あるものは仏になるべしと爾前にも説けども、未だ焦種の者作仏べしとは説かず。かかる重病をたやすくいやすは、独り法華の良薬なり。 只須く汝仏にならんと思はば、慢のはたほこをたをし、忿りの杖をすてて、偏に一乗に帰すべし。 名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。嗚呼、恥づべし恥づべし、恐るべし恐るべし。 問て云く、一を以て万を察する事なれば、あらあら法華のいわれを聞くに耳目始めて明かなり。但し法華経をばいかように心得候てか、速に菩提の岸に到るべきや。 伝へ聞く、一念三千の大虚には恵日くもる事なく、一心三観の広池には智水にごる事なき人こそ、其の修行に堪へたる機にて候なれ。 然るに南都の修学に臂をくだく事なかりしかば、瑜伽・唯識にもくらし。北嶺の学文に眼をさらさざりしかば、止観・玄義にも迷へり。 天台・法相の両宗はほとぎを蒙て壁に向へるが如し。されば法華の機には既にもれて候にこそ、何んがし候べき。 答て云く、利智精進にして観法修行するのみ法華の機ぞと云て、無智の人を妨ぐるは当世の学者の所行なり。是れ還て愚癡邪見の至りなり。 一切衆生皆成仏道の教なれば、上根上機は観念観法も然るべし。下根下機は唯信心肝要なり。 されば経には「浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん」と説き給へり。いかにも信じて次の生の仏前を期すべきなり。 譬へば高き岸の下に人ありて登ることあたはざらんに、又岸の上に人ありて縄をおろして、此の縄にとりつかば我れ岸の上に引き登さんと云はんに、引く人の力を疑ひ縄の弱からん事をあやぶみて、手を納めて是をとらざらんが如し。 争か岸の上に登る事をうべき。若し其の詞に随て、手をのべ是をとらへば即ち登る事をうべし。 唯我一人能為救護の仏の御力を疑ひ、以信得入の法華経の教への縄をあやぶみて、決定無有疑の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず。菩提の岸に登る事難かるべし。 不信の者は堕在泥梨の根元なり。されば経には「疑を生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」と説かれたり。 受けがたき人身をうけ、値ひがたき仏法にあひて争か虚くて候べきぞ。 同じく信を取るならば、又大小権実のある中に、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道の一乗をこそ信ずべけれ。 持つ処の御経の諸経に勝れてましませば、能く持つ人も亦諸人にまされり。 爰を以て経に云く「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為第一なり」と説き給へり。大聖の金言疑ひなし。 然るに人此の理をしらず見ずして、名聞狐疑偏執を致せるは堕獄の基なり。 只願くは経を持ち、名を十方の仏陀の願海に流し、誉れを三世の菩薩の慈天に施すべし。 然れば法華経を持ち奉る人は、天竜八部諸大菩薩を以て我が眷属とする者なり。 しかのみならず、因身の肉団に果満の仏眼を備へ、有為の凡膚に無為の聖衣を著ぬれば、三途に恐れなく、八難に憚りなし。 七方便の山の頂に登て九法界の雲を払ひ、無垢地の園に花開け、法性の空に月明かならん。 「是人於仏道 決定無有疑」の文憑あり。「唯我一人 能為救護」の説疑ひなし。 一念信解の功徳は五波羅蜜の行に越え、五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり。 頓証菩提の教は遥に群典に秀で、顕本遠寿の説は永く諸乗に絶えたり。 爰を以て八歳の竜女は大海より来て経力を刹那に示し、本化の上行は大地より涌出して仏寿を久遠に顕す。言語道断の経王、心行所滅の妙法なり。 然るに此の理をいるかせにして、余経にひとしむるは、謗法の至り、大罪の至極なり。 譬を取るに物なし。仏の神変にても何ぞ是を説き尽きん。菩薩の智力にても争か是を量るべき。 されば譬喩品に云く「若し其の罪を説かば劫を窮むとも尽きず」と云へり。 文の心は、法華経を一度もそむける人の罪をば、劫を窮むとも説き尽し難しと見えたり。 然る間、三世の諸仏の化導にももれ、恒沙の如来の法門にも捨てられ、冥きより冥きに入て、阿鼻大城の苦患争か免れん。誰か心あらん人、長劫の悲みを恐れざらんや。 爰を以て経に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賎憎嫉して結恨を懐かん其の人命終して阿鼻獄に入らん」云云。 文の心は、法華経をよみたもたん者を見て、かろしめ、いやしみ、にくみ、そねみ、うらみをむすばん。其の人は命をはりて阿鼻大城に入らんと云へり。 大聖の金言誰か是を恐れざらんや。正直捨方便の明文、豈是を疑ふべきや。 然るに人皆経文に背き、世悉く法理に迷へり。汝何ぞ悪友の教へに随はんや。 されば邪師の法を信じ受くる者を、名けて毒を飲む者なりと天台は釈し給へり。汝能く是を慎むべし、是を慎むべし。 倩ら世間を見るに法をば貴しと申せども、其の人をば万人是を悪む。 汝能く能く法の源に迷へり。何にと云ふに、一切の草木は地より出生せり。是を以て思ふに、一切の仏法も又人によりて弘まるべし。 之に依て、天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす。末代いづくんぞ法は貴けれども人は賎しと云はんや、とこそ釈して御坐候へ。 されば持たるる法だに第一ならば、持つ人随て第一なるべし。然らば則ち其の人を毀るは其の法を毀るなり。其の子を賎しむるは即ち其の親を賎しむなり。 爰に知ぬ、当世の人は詞と心と総てあはず、孝経を以て其の親を打つが如し。 豈冥の照覧恥かしからざらんや。地獄の苦み恐るべし恐るべし。慎むべし慎むべし。 上根に望めても卑下すべからず。下根を捨てざるは本懐なり。下根に望めても■慢ならざれ。上根ももるる事あり、心をいたさざるが故に。 凡そ其の里ゆかしけれども道たえ縁なきには、通ふ心もをろそかに、其の人恋しけれども憑めず契らぬには、待つ思もなをざりなるやうに、彼の月卿雲閣に勝れたる霊山浄土の行きやすきにも未だゆかず。 我即是父の柔軟の御すがた見奉るべきをも未だ見奉らず。是れ誠に袂をくだし、胸をこがす歎ならざらんや。暮行空の雲の色、有明方の月の光までも心をもよほす思なり。 事にふれ、をりに付けても後世を心にかけ、花の春、雪の朝も是を思ひ、風さはぎ、村雲まよふ夕にも忘るる隙なかれ。 出ずる息は入る息をまたず。何なる時節ありてか、毎自作是念の悲願を忘れ、何なる月日ありてか、無一不成仏の御経を持たざらん。 昨日が今日になり、去年の今年となる事も、是れ期する処の余命にはあらざるをや。 総て過ぎにし方をかぞへて、年の積るをば知るといへども、今行末にをいて、一日片時も誰か命の数に入るべき。 臨終已に今にありとは知りながら、我慢偏執名聞利養に著して妙法を唱へ奉らざらん事は、志の程無下にかひなし。 さこそは皆成仏道の御法とは云ひながら、此の人争でか仏道にものうからざるべき。色なき人の袖には・そぞろに月のやどる事かは。 又命已に一念にずぎざれば、仏は一念随喜の功徳と説き給へり。若し是れ二念三念を期すと云はば、平等大恵の本誓、頓教一乗皆成仏の法とは云はるべからず。 流布の時は末世法滅に及び、機は五逆謗法をも納めたり。故に頓証菩提の心におきてられて、狐疑執著の邪見に身を任する事なかれ。 生涯幾くならず。思へば一夜のかりの宿を忘れて幾くの名利をか得ん。 又得たりとも是れ夢の中の栄へ、珍しからぬ楽みなり。只先世の業因に任せて営むべし。 世間の無常をさとらん事は、眼に遮り耳にみてり。雲とやなり、雨とやなりけん、昔の人は只名をのみきく。露とや消え、煙とや登りけん、今の友も又みえず。 我れいつまでか三笠の雲と思ふべき。春の花の風に随ひ、秋の紅葉の時雨に染まる。 是れ皆ながらへぬ世の中のためしなれば、法華経には「世皆牢固ならざること水沫泡焔の如し」とすすめたり。 「以何令衆生 得入無上道」の御心のそこ、順縁逆縁の御ことのは、已に本懐なれば、暫くも持つ者も又本意にかないぬ。又本意に叶はば仏の恩を報ずるなり。 悲母深重の経文心安ければ、唯我一人の御苦みもかつかつやすみ給ふらん。 釈迦一仏の悦び給ふのみならず、諸仏出世の本懐なれば、十方三世の諸仏も悦び給ふべし。 「我即歓喜 諸仏亦然」と説かれたれば、仏悦び給ふのみならず、神も即ち随喜し給ふなるべし。 伝教大師是を講じ給ひしかば、八幡大菩薩は紫の袈裟を布施し、空也上人是を読み給ひしかば、松尾の大明神は寒風をふせがせ給ふ。 されば「七難即滅 七福即生」と祈らんにも此の御経第一なり。現世安穏と見えたればなり。 然るに当世の御祈祷はさかさまなり。先代流布の権教なり。末代流布の最上真実の秘法にあらざるなり。譬へば去年の暦を用ゐ、烏を鵜につかはんが如し。 是れ偏に権教の邪師を貴て、未だ実教の明師に値はせ給はざる故なり。惜いかな、文武の■和があら玉、何くにか納めけん。 嬉いかな、釈尊出世の髻の中の明珠、今度我身に得たる事よ。十方諸仏の証誠としているがせならず。 さこそは「一切世間 多怨難信」と知りながら、争か一分の疑心を残して、決定無有疑の仏にならざらんや。 過去遠遠の苦みは、徒らにのみこそうけこしか。などか暫く不変常住の妙因をうへざらん。 未来永永の楽みはかつかつ心を養ふとも、しゐてあながちに電光朝露の名利をば貪るべからず。 「三界無安 猶如火宅」は如来の教へ、「所以諸法 如幻如化」は菩薩の詞なり。 寂光の都ならずは、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽みなるべき。 願くは「現世安穏 後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。 須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧んのみこそ、今生人界の思出なるべき。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 日蓮花押 |