大田左衛門尉御返事

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大田左衛門尉御返事の概要

【弘安元年四月二十三日、太田乗明、聖寿】 
当月十八日の御状、同じき二十三日の午の剋計りに到来、軈拝見仕り候ひ畢ぬ。
御状の如く御布施鳥目十貫文・太刀・五明一本・焼香二十両給ひ候。
抑専ら御状に云く「某今年は五十七に罷り成り候へば大厄の年かと覚え候。なにやらんして正月の下旬の比より卯月の此の比に至り候まで身心に苦労多く出来候。本より人身を受くる者は必ず身心に諸病相続して五体に苦労あるべしと申しながら更に」云云。
此の事最第一の歎きの事なり。十二因縁と申す法門あり。意は我等が身は諸苦を以て体と為す。
されば先世に業を造る故に諸苦を受け、先世の集煩悩が諸苦を招き集め候。
過去の二因・現在の五果・現在の三因・未来の両果とて三世次第して一切の苦果を感ずるなり。
在世の二乗が此等の諸苦を失はんとて、空理に沈み灰身滅智して、菩薩の勤行精進の志を忘れ、空理を証得せん事を真極と思ふなり。仏方等の時、此等の心地を弾呵し給ひしなり。
然るに生を此の三界に受けたる者苦を離るる者あらんや。羅漢の応供すら猶此くの如し。況や底下の凡夫をや。さてこそいそぎ生死を離るべしと勧め申し候へ。
此等体の法門はさて置きぬ。御辺は今年は大厄と云云。昔伏羲の御宇に、黄河と申す河より亀と申す魚、八卦と申す文を甲に負て浮出たり。時の人此の文を取り挙げて見れば、人の生年より老年の終りまで厄の様を明したり。
厄年の人の危き事は、少水に住む魚を鴟鵲なんどが伺ひ、灯の辺に住める夏の虫の火中に入らんとするが如くあやうし。鬼神ややもすれば此の人の神を伺ひなやまさんとす。
神内と申す時は諸の神身に在り万事心に叶ふ。神外と申す時は諸の神識の家を出でて万事を見聞するなり。
当年は御辺は神外と申して諸神他国へ遊行すれば慎て除災得楽を祈り給ふべし。
又木性の人にて渡らせ給へば、今年は大厄なりとも春夏の程は何事か渡らせ給ふべき。
至門性経に云く「木は金に遇て抑揚し、火は水を得て光滅し、土は木に値て時に痩せ、金は火に入て消え失せ、水は土に遇て行かず」等云云。
指して引き申すべき経文にはあらざれども、予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば、強ちに成仏の理に違はざれば、且らく世間普通の義を用ゆべきか。
然るに法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり。されば経に云く「此の経は則ち為閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば、病即消滅して不老不死ならん」等云云。
又云く「現世は安穏にして、後生には善処ならん」等云云。又云く「諸余の怨敵、皆悉く摧滅せん」等云云。
取分奉る御守り方便品寿量品(じゅりょうほん) 、同じくは一部書て進らせ度候へども、当時は去り難き隙ども入る事候へば略して二品奉り候。
相構へ相構へて御身を離さず重ねつつみて御所持有るべき者なり。
此の方便品と申すは迹門の肝心なり。此の品には仏十如実相の法門を説て十界の衆生の成仏を明し給へば、舎利弗等は此れを聞て無明の惑を断じ真因の位に叶ふのみならず、未来華光如来と成て、成仏の覚月を離垢世界の暁の空に詠ぜり。
十界の衆生の成仏の始めは是なり。当時の念仏者・真言師の人人、成仏は我が依経に限れりと深く執するは、此等の法門を習学せずして、未顕真実(みけんしんじつ)の経に説く所の名字計りなる授記を執する故なり。
貴辺は日来は此等の法門に迷ひ給ひしかども、日蓮が法門を聞て、賢者なれば本執を忽に飜し給て、法華経を持ち給ふのみならず、結句は身命よりも此の経を大事と思食す事、不思議が中の不思議なり。
是れは偏に今の事に非ず。過去の宿縁開発せるにこそ、かくは思食すらめ。有り難し有り難し。
次に寿量品(じゅりょうほん) と申すは本門の肝心なり。又此の品は一部の肝心、一代聖教の肝心のみならず、三世の諸仏の説法の儀式の大要なり。
教主釈尊、寿量品(じゅりょうほん) の一念三千の法門を証得し給ふ事は、三世の諸仏と内証等しきが故なり。但し此の法門は釈尊一仏の己証のみに非ず諸仏も亦然なり。
我等衆生の無始已来六道生死の浪に沈没せしが、今教主釈尊の所説の法華経に値ひ奉る事は、乃往過去に此の寿量品の久遠実成(くおんじつじょう)の一念三千を聴聞せし故なり。有り難き法門なり。
華厳・真言の元祖、法蔵・澄観・善無畏・金剛智・不空等が、釈尊一代聖教の肝心なる寿量品の一念三千の法門を盗み取て、本より自の依経に説かざる華厳経・大日経に一念三千有りと云て取り入るる程の盗人にばかされて、末学深く此の見を執す。墓無し墓無し。
結句は真言の人師の云く「争て醍醐を盗て、各自宗に名く」云云。
又云く「法華経の二乗作仏・久遠実成(くおんじつじょう)は無明の辺域、大日経に説く所の法門を明の分位」等云云。
華厳の人師云く「法華経に説く所の一念三千の法門は枝葉、華厳経の法門は根本の一念三千なり」云云。
是跡形も無き僻見なり。真言・華厳経に一念三千を説きたらばこそ、一念三千と云ふ名目をばつかはめ。おかしおかし、亀毛兎角の法門なり。
正しく久遠実成(くおんじつじょう)の一念三千の法門は前四味並に法華経の迹門十四品まで秘させ給て有りしが、本門正宗に至て寿量品に説き顕し給へり。
此の一念三千の宝珠をば妙法五字の金剛不壊の袋に入れて、末代貧窮の我等衆生の為に残し置かせ給ひしなり。
正法・像法に出でさせ給ひし論師人師の中に此の大事を知らず。唯竜樹・天親こそ心の底に知らせ給ひしかども色にも出ださせ給はず。
天台大師は玄・文・止観に秘せんと思召ししかども、末代の為にや止観十章第七正観の章に至て粗書かせ給ひたりしかども、薄葉に釈を設けてさて止み給ひぬ。但理観の一分を示して事の三千をば斟酌し給ふ。
彼の天台大師は迹化の衆なり。此の日蓮は本化の一分なれば盛に本門の事の分を弘むべし。
然に是くの如き大事の義理の篭らせ給ふ御経を書て進らせ候へば弥信を取らせ給ふべし。
勧発品に云く「当に起て遠く迎へて、当に仏を敬ふが如くすべし」等云云。
安楽行品に云く「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す、乃至天の諸の童子、以て給使を為さん」等云云。
譬喩品に云く「其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」等云云。
法華経の持者は教主釈尊の御子なれば、争か梵天・帝釈・日月・衆星も昼夜朝暮に守らせ給はざるべきや。
厄の年災難を払はん秘法には法華経に過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな。
さては鎌倉に候ひし時は細細申し承はり候ひしかども、今は遠国に居住候に依て面謁を期する事更になし。
されば心中に含みたる事も使者玉章にあらざれば申すに及ばず。歎かし歎かし。
当年の大厄をば日蓮に任せ給へ。釈迦・多宝・十方分身の諸仏の法華経の御約束の実不実は是れにて量るべきなり。又又申すべく候。
弘安元年〈戊寅〉四月二十三日  日蓮花押 
太田左衛門尉殿御返事 

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