釈迦一代五時継図

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釈迦一代五時継図の概要

【未詳】 
大論に云く「十九出家、三十成道、八十入滅」文。此の論は竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)の造、寿命三百年、三十万偈の論師なり。付法蔵の第十三、仏滅後七百年の人なり。
    ・・説処は中天竺摩竭提国の寂滅道場菩提樹下、七処八会 
    ・・仮立実報土、別円の二教を説く 
    ・・三七日の説なり〈三七日は法華の説、二七日は華厳の説〉 
華厳経・・・兼と名く 
    ・・権大乗なり、乳味と名く、頓大の機の為に説く 
    ・・頓教と名く〈亦秘密教有り、亦不定教有り〉擬宜と名く 
    ・・結経は梵網経なり 
           ・・馬鳴菩薩・起信論を造る 
      ・・天竺・・・天親菩薩・十地論を造る 
      ・    ・・竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)を造る 
華厳宗祖師・・    ・・杜順和尚 
      ・    ・・法蔵大師 
      ・・漢土・・・智厳法師 
           ・・澄観法師 
此の華厳教というは、所謂仏、摩訶陀国寂滅道場菩提樹下にして始めて正覚を成じたまいし時、七処八会に於て、法恵・功徳林・金剛幢・金剛蔵の四菩薩に加して、頓大の根性の為に、
因陀羅網無障碍土の相を現じ、別円の両教、住行向地の功徳、法界唯心の理を説き給ふ。所謂華厳経なり。
この経には四十一位を明す。謂く十住・十行・十廻向・十地・仏果なり。
此の経には新古の二訳有り。六十華厳は旧訳なり。八十華厳は新訳なり。梵網経を以て華厳の結経と為す。
此の華厳は化儀は頓部、化法は別円なり。成道の最初に此の教を説き給ふ。譬へば日出でて先づ高山を照すが如し。
厚殖善根は斯の頓説を感ず。頓説本と小の為にせず。彼の初分に於ては永く声聞無し。後分には即ち有り。復た坐に在りと雖も聾の如く■の如し。
経文に云く「即ち傍人を遣はして急に追て将に還さんとす、乃至悶絶して地に躄る」云云。
    ・・説処は波羅奈国鹿野苑、同居土の説 
    ・・但三蔵教を説く、但と名く 
    ・・十二年小乗を説く、酪味と名く 
阿含経・・・三乗の根性の為に説く、漸教と名く〈亦秘密教有り、亦不定教有り〉 
    ・・誘引と名く 
    ・・結経は遺教経なり 
    ・・倶舎宗、成実宗、律宗 
此の阿含は是小乗教なり。仏成道五十七日を経て梵王の請に赴き、波羅奈国の鹿野苑に於て、陳如等の五人の為に、三蔵教の四諦の法輪を説き給ふ。
謂く四阿含等の小乗経を説くなり。増一阿含には人天の因果を明し、長阿含には邪見を破し、中阿含には真寂の深義を明し、雑阿含には禅定を明す。遺教経を以て結経と為す。
化儀は漸の部の初め、化法は三蔵教なり。三乗の根性の為に此の阿含教を説く。経の次第に依れば、日の次に幽谷を照すが如し。
浅行を偏に明せば当分に漸を解る。三蔵本大の為ならず、座に在りと雖も多■婆和す。
経に云く「将に其の子を誘引せんと欲して方便を説く、密かに二人の形色憔悴せる威徳無き者を遣はす」云云。
    ・・説処は欲色二界の中間大宝坊同居土の説なり 
    ・・蔵通別円の四教を説く 
    ・・十六年の説なり〈三井寺の義〉、説時不定なり〈山門の義〉、権大乗、生蘇味 
    ・・対と名く 
    ・・四教の機の為に説く、漸教と名く〈亦秘密教有り、亦不定教有り〉 
    ・・弾訶と名く 
    ・・結教は瓔珞経なり 
方等部・・・深密経・法相宗〈玄奘三蔵、慈恩大師(じおんたいし)〉 
    ・・楞伽経・禅宗・達磨 
    ・              ・・曇鸞(どんらん)法師 
    ・・観経・・・        ・・道綽(どうしゃく)禅師 
    ・・双観経・・・浄土宗・祖師・・・善導和尚 
    ・・阿弥陀経・        ・・法然上人 
    ・・大日経・・        ・・善無畏三蔵 
    ・・金剛頂経・・真言宗・祖師・・・金剛智三蔵 
    ・・蘇悉地経・        ・・不空三蔵 
此の方等教は謂く鹿苑の後、般若の前、四教の機に対し、処処に四教の法を説て、唯だ二乗を弾呵し、菩薩を称揚す。
所謂密厳経・厚厳経・思益経・方等経・楞伽経・浄名経等なり。瓔珞経を以て結経と為す。
化儀は漸部の中。化法は四教なり。説教の次第に依れば、日の次ぎに平地を照すが如し。
影万水に臨み器の方円を逐い、波の動静に随て一仏土を示すに浄穢不同ならしめ、一身を示現するに巨細各異なり。
一音の説法類に随て各解なり。恐畏し歓喜し厭離し断疑す。神力不共の故に見に浄穢有り。聞に褒貶有り。嗅に胆蔔と不胆蔔と有り。華に著身と不著身と有り。浄名方等の如し。
経文に云く「是を過て已後心相体信じて入出難り無し」文。
      ・・説処は鷲峰山、白鷺池等の四処十六会、同居土の説なり 
      ・・権大乗なり 
      ・・帯と名く 
    ・・・・熟蘇味と名く 
    ・ ・・十四年の説なり・〈三井寺の義〉・三十年の説・〈山門の義〉 
般若部・・ ・・漸と名く〈亦秘密教有り、亦不定教有り〉 
    ・ ・・淘汰と名く 
    ・ ・・結経は仁王経なり・已上四十二年なり 
    ・ ・・百論・・・ 
    ・・・・中論・・・・三論宗・祖師・・・嘉祥大師 
      ・・十二門論・        ・・吉蔵大師 
此の大般若経は唐の玄奘三蔵の所訳。是れ新訳なり。此の経は一部六百巻、二百六十五品、六十億四十万字、一万六百三十八紙なり。
此の般若経は方等の後、法華の前、四処十六会の中に於て、後三教の機の為に、広く諸部の般若を説く。
所謂光讃般若経・文殊問般若経・金剛般若経・能断金剛般若経・大品般若経・小品般若経・放光般若経・天王問般若経・大般若経等なり。仁王般若経(にんのうはんにゃきょう) を以て結経と為す。
唯だ化儀は漸教の後、化法は通別円なり。此の般若経の時も二乗の念処道品は皆是れ摩訶衍と説て、亦身子・須菩提をして菩薩の為に般若を転教せしむ。
玄義に云く「大人は其の光用を蒙り、嬰児(えいじ)は其の精明を喪ふ。夜遊の者は伏匿し、作務の者は興盛す」。
故に文に云く「但菩薩の為に其の実事を説て、我が為に此の真要を説かず。三人倶に学すと雖も、二乗は証を取る。具に大品等の如し」。
経文に云く「爾の時に窮子、即ち教勅を受けて、衆物を領知し、乃至、而も一餐を■取するの意無し」云云。
仏自ら四十余年の諸経を破し給ふ事。
無量義経説法品に云く「我先に道場菩提樹下に端座すること六年にして阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観るに宣説すべからず。
所以は如何。諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説き、種種に法を説くことは方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕はさず」云云。
又云く「文辞は一なりと雖も義は各異なり」云云。
伝教大師の無量義経の注釈に云く「性欲不同なれば種種に法を説くとは是れ能被の教を挙ぐるなり。釈迦一代四十余年の所説の教、略して四教及び八教あり。
所謂樹王の華厳・鹿苑の阿含・坊中の方等・鷲峰等の般若・演説一乗・大小の菩薩の歴劫修行・小乗の三蔵教・大乗の通教・大乗の別教・大乗の円教・頓教・漸教・不定教・秘密教。是くの如き等の前四味、各各不同なり。是の故に名けて種種の説法と為す」云云。
又云く「但随他の五種性等・門外の方便・差別の権教・帯権の一乗を説て未だ随自一仏乗等・露地の真実・平等の直道・捨権の一乗を顕はさず。是の故に説て方便力を以て四十余年未だ真実を顕さずと言ふ」云云。
無量義経に云く「若し衆生有て是の経を聞くことを得ば則ち為れ大利なり。所以は如何。若し能く修行すれば必ず疾く無上菩提を成ずることを得ればなり。
其れ衆生有て聞くことを得ざる者は、当に知るべし、是等は為れ大利を失へるなり。無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども、終に無上菩提を成ずることを得ず。所以は如何。菩提の大直道を知らざる故に。険逕を行くに留難多きが故に」云云。
注釈に云く「疾く無上菩提を成ずることを得ずとは、未だ直道一乗の海路を解せず、未だ純円六度の固船に乗らず。未だ実相方便の順風を得ず。
是の故に横道の三乗嶮路歩行留難多き処、懃苦妄想夢裏の大河なり。是の故に説て疾く無上菩提を成ずることを得ずと言ふなり」云云。
秀句の下に云く「法華経を讃むと雖も還て法華の心を死す」云云。
無量義経に云く「次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説て、菩薩の歴劫修行を宣説せしかども」云云。
伝教大師秀句の下巻に云く「謹しみて無量義経を案ずるに云く、方等十二部経とは、法相宗の所依の経なり。摩訶般若とは、三論宗の所依の経なり。華厳空海とは、即ち華厳宗の所依の経なり。但歴劫修行を説て未だ大直道を知らず」云云。
天台大師玄義の五に云く「成道より以来四十余年未だ真実を顕はさず。法華に始めて真実を顕はす。相伝に云く、仏の年七十二歳にして法華経を説くと云云」。
恵心僧都の一乗要決の下に云く「仏既に説て言く、法華真実なり、前は未だ真実を顕はさず。何ぞ強ちに仏教に背て法華の怨嫉と為るや」云云。
記の八に云く「略して経題を挙げて玄に一部を収む。故に仏欲以此妙法等と云ふなり」。
釈籖一に云く「次に経題を釈す。初めには妙法の両字は通じて本迹を詮す。蓮華の両字は通じて本迹を譬ふ」。
    ・・説処は霊山虚空の二処三会、実報土の説 
    ・・実大乗 
    ・・八箇年の説 
    ・・又開会の妙典とも純円一実の説とも一円機の説とも云ふ 
法華経・・・醍醐味 
    ・・円教 
    ・・頓、不定と秘密無し 
    ・・結経は普賢経 
    ・・仏立宗・法華宗・天台宗 
    ・・一に霊山会・序品より法師品に至る十品 
二処三会の儀式・・・二に虚空会・宝塔品より神力品に至る十一品 
        ・・三に霊山会・属累品より勧発品に至る七品 
本迹の両門・・・・・序品より十四品は迹門なり・開権顕実と名く 
        ・・涌出品より十四品は本門なり・開近顕遠と名く 
此の法華経は第五時の教なり。無量義経を開経と為し、観普賢経を結経と為す。
化儀は会漸帰頓、会三帰一。化法は純円なり。般若の後、双林の前、純ら一の円機に対して真実を説くなり。日光普ねく照すに、土圭の測影、縮ならず盈ならざるが如し。
低頭挙手、皆仏道を成ず。汝は実に我が子。我は実に汝が父。唯だ如来の滅後を以て之を滅度す。
此の第五時の教は是れ日中にして四時に非ず。是醍醐にして四味に非ず。是れ定にして不定に非ず。是れ顕露にして秘密に非ず。
三乗・五乗・七方便・九法界を会して一仏乗に入らしむ。所以に迹門には二乗、初住の位に叶て、無生忍を得、成仏の記を受く。八歳の竜女は男子に変成して、即身に無垢の成道を唱ふ。
本門には二世の弟子増道損生の益を得。凡そ三周四説不可思議なり。
方便品に云く「世尊の法久くして後要ず当に真実を説くべし」。
又云く「未だ曽て説ざる所以は説時未だ至らざるが故なり。今正しく是れ其の時なり。決定して大乗を説かん」云云。
又云く「乃至一偈に於ても皆成仏すること疑無し。十方仏土の中、唯一乗の法のみ有て二も無く亦三も無し。仏の方便の説を除く」。
又云く「諸仏世に出る唯此の一事のみ実なり。余の二は則ち真に非ず」。
普賢経の記に云く「故に正説に云く、唯此の一事のみ実にして余の二は則ち真に非ずと。斯れに多義有り。
一には非頓非漸の妙法を指して一事実と為し、而頓而漸を余二の権と為す。二には三教の仮名を呼て非真と為し、一円の実理を指して一実と為す。三には四味を以て非真と為し、醍醐を以て一実と為す」と。
方便品に云く「終に小乗を以て衆生を済度せず」云云。
又云く「若小乗を以て化すること乃至一人に於てもせば、我則ち慳貪に堕せん。此の事不可と為す」。
又云く「正直に方便を捨てて但だ無上道を説く」と。
玄の九に云く「廃三顕一とは、此れ正しく教を廃す。其の情を破すと雖も若し教を廃せざれば樹想還て生ず。教を執して惑を生ず。是の故に教を廃す。
正直に方便を捨てて但だ無上道を説く。十方仏土の中唯だ一乗の法のみ有り。二も無く亦三も無し」云云。
玄義の一に云く「華落は権を廃するを譬へ、蓮成は実を立するを譬ふ」。
文に云く「正直に方便を捨てて但だ無上道を説く」云云。
伝教大師の顕戒論に云く「白牛を賜ふ朝には三車を用ひず。家業を得る夕べには何ぞ除糞を用ひん」。
故に経に云く「正直に方便を捨てて但だ無上道を説く」と。
方便品に云く「我が昔の所願の如く今已に満足す」云云。
玄義の十に云く「即ち方便の一乗を廃して唯だ円実の一乗なり。故に云く、我本と誓願するが如き今已に満足す」。
方便品に云く「当来世の悪人、仏一乗を説き給ふを聞て、迷惑して信受せず、法を破して悪道に堕せん」云云。
又云く「法を聞き歓喜し讃めて乃至一言も発す、則ち為れ已に一切三世の仏を供養するなり」。
譬喩品に云く「今此の三界は皆な是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す」云云。
文句の六に云く「旧は西方の無量寿仏を以て、以て長者に合す。今之を用ひず。西方の仏別に縁異なり。仏別なり故に穏顕の義成ぜず。縁異なるが故に子父の義成ぜず。又此の経の首末全く此の旨無し。閉眼穿鑿せよ」。
疏記の六に云く「弥陀・釈迦二仏既に殊なり。況や宿昔の縁別に化導同じからざるをや。結縁は生の如く成熟は養の如し。生養の縁異なれば父子成ぜず。珍幣途を分ち、著脱殊に隔たる。消経事欠け、調熟義乖く。当部の文永く斯の旨無し」云云。
又云く「往昔は大小の両縁倶に釈迦に在りとし、今は尊特垢衣倶に弥陀に在りとせば、更に笑ふべきことを成ず」云云。
涅槃経の疏の一に云く「無救無護無所宗仰とは、此れは無主の苦を釈す。貧窮弧露、一旦遠離、無上世尊とは、此れは無親の苦を釈す。設有疑惑、当復問誰とは、此は無師の苦を釈す」云云。
涅槃経の四に云く「我又閻浮提の中に示現し、疫病劫起多く衆生有て病に悩む所と為んに、去て医薬を施し、然して後に為に微妙の法を説て、其をして無上菩提に安住せしむ」云云。
涅槃経の一に云く「我等今より救護有ること無く、宗仰する所無く、貧窮弧露なり。一旦無上世尊に遠離したてまつらば、設ひ疑惑有りといえども当に復た誰にか問ふべし」。
同二に云く「主無く親無ければ、家を亡し国を亡す」。又云く「一体の仏を主師親と作す」。譬喩品に云く「一切衆生皆是吾が子なり」云云。
寿量品(じゅりょうほん) に云く「我常に此の娑婆世界に在て説法教化す。亦余処の百千万億那由佗阿僧祇の国に於ても衆生を導利す」云云。
大論に云く「十方恒河沙等の三千の国土を名けて一仏国土と為す。是の中に更に余仏無し。実に一りの釈迦仏のみなり」云云。
寿量品(じゅりょうほん) に云く「我も亦為れ世の父、諸の苦患を救ふ者なり」云云。
宝塔品に云く「能く来世に於て此の経を読み持たんは是れ真の仏子なり」云云。
譬喩品に云く「若し人あつて信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ず。其の人命終して阿鼻獄に入り、一劫を具足して、劫尽て更に生じ、是くの如く展転して無数劫に至らん」。
又云く「但大乗経典を受持することを楽て、乃至余経の一偈をも受けざれ」。
妙楽大師の五百問論に云く「況や彼の華厳は但福を以て比す。此の経の法を以て之を比するに同じからず。故に云く、乃至不受余経一偈と。人之を思はず、徒らに引く。何んの益あらん」。
玄義の五に云く「究竟の大乗は華厳・大集・大品・法華・涅槃に過ぐる無し」。
妙楽の釈籖の十に云く「請ふ、有眼の者委悉に之を尋ねて、法華は漸円、華厳の頓極に及ばずと云ふこと勿れ。当に知るべし、法華は部に約するときは則ち尚華厳・般若を破し、教に約するときは則ち尚別教の後心を破す」。
譬喩品に云く「初め仏の所説を聞て心中大に驚疑す。将に魔仏と作て我が心を悩乱するに非ずや」。
宝塔品に云く「爾の時に宝塔の中より大音声を出して歎めて言く、善哉善哉。釈迦牟尼世尊、能く平等大恵、教菩薩法(きょうぼさつほう)、仏所護念の妙法華経を以て大衆の為に説き給ふこと是くの如し是くの如し。釈迦牟尼世尊、所説の如きは皆是れ真実なり」。
又云く「釈迦牟尼仏、快く是の法華経を説き給へ。我是の経を聴かんが為の故に而かも此に来至せり」云云。
又云く「大音声を以て普く四衆に告ぐ。誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり。如来久しからずして当に涅槃に入り給ふべし。仏此の妙法華経を以て付属して在ること有らしめんと欲す」。
法師品に云く「薬王、若し人有て何等の衆生か未来世に於て当に作仏することを得べしと問はば、応に示すべし、是の諸人等未来世に於て必ず作仏することを得んと。何を以ての故に。善男子善女人、法華経の乃至一句に於て受持し読誦せん」云云。
宝塔品に云く「諸余の経典数恒沙の如くならん。此等を説くと雖も未だ難しと為るに足らず。若し仏の滅後、悪世の中に於て能く此の経を説く、是則ち難しと為す」と。
提婆品に云く「仏諸の比丘に告げ給はく。未来世の中に若し善男子・善女人有て、妙法華経の提婆達多品を聞て、浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして、十方の仏前に生ぜん。
所生の処には常に此の経を聞かん。若し人天の中に生れば勝妙の楽を受け、若し仏前に在らば蓮華より化生せん」。
又云く「当時の衆会、皆竜女の忽然の間に変じて男子と成て、菩薩の行を具して即ち南方無垢世界に往き、宝蓮華に坐して等正覚を成じ、三十二相八十種好あて、普く十方の一切衆生の為に妙法を演説するを見る」。
又云く「爾の時に娑婆世界の菩薩・声聞・天・竜・八部・人と非人と、皆遥かに彼の竜女の成仏して普く時の会の人天の為に法を説くを見て、心大いに歓喜し、悉く遥に敬礼す」。
分別功徳品に云く「阿逸多、是の善男子・善女人は我が為に復た塔寺を起て、及び僧坊を作り、四事を以て衆僧に供養することを須いず。
所以は如何。是の善男子・善女人、是の経典を受持し読誦する者は、已に塔を起て僧坊を造立し衆僧を供養すと為す。則ち為れ仏舎利を以て七宝の塔を起て、高広漸小にして梵天に至る」云云。
神力品に云く「仏滅度の後に能く是の経を持たんを以ての故に、諸仏皆歓喜す」云云。
又云く「我が滅度の後に於て、応に斯の経を受持すべし。是の人仏道に於て、決定して疑有ること無けん」云云。
薬王品に云く「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是くの如し。一切衆生の中に於て亦第一と為す」云云。
普賢経に云く「煩悩を断ぜず、五欲を離れず、三昧に入らざれども、但誦持するが故に」云云。
又云く「其れ大乗方等経典を読誦する有らば、当に知るべし、此の人は仏の功徳を具して、諸悪永く滅して仏恵より生ずるなり」云云。
一経の始めの如是我聞を釈する文句の一に云く「如是とは所聞の法体を挙ぐ」と、則ち妙法蓮華経是なり。
    ・・一日一夜の説 
    ・・権大乗 
涅槃経・・・説処は跋提河の辺 
    ・・常住四教を説く 
    ・・同醍醐味 
    ・・結経は像法決疑経 
此の涅槃経は一日一夜の説。三蔵経・通教・別教・円教を明す。亦は醍醐味と名く。
釈尊拘尸那城、力士生地、阿利羅跋提河、沙羅双樹の間に於て、二月十五日の晨朝、面門より種種の光を放ち給ふ。十二由旬の内十方の大衆を集めて涅槃経を説き給ふ。
即ち三十六の涅槃経、旧訳の四十の涅槃経なり。像法決疑経を以て結経と為す。亦■拾経と名け、亦扶律顕常と云ふ。
化儀は漸部、化法は四教なり。法華の時、猶未解の輩有り。更に後番五味を以て余残の機を調熟し給ふ。
涅槃の時四教の機同く仏性を見る。秋収冬蔵の如し。唯四機有り、倶に常住を知る。故に法華と合して同醍醐味と為すなり。
凡そ一往此くの如く配立すと雖も、万差の機縁に随て時節の長短不同なり。或は華厳の時長は涅槃の時に至る。阿含・方等・般若も亦爾なり云云。
涅槃経の六に「法に依て人に依らざれ、義に依て語に依らざれ、智に依て識に依らざれ、了義経に依て不了義経に依らざれ」云云。
又「亦如来、随宜の方便、所説の法の中に執著を生ぜざる、是を了義と名く。不了義とは、経の中に一切焼然なり、一切無常なり、一切皆苦なり、一切皆空なり、一切無我なりと説くが如し。是を不了義と名く。
何を以ての故に、是くの如きの義を了すること能はざるを以ての故に、諸の衆生をして阿鼻獄に堕せしむ」云云。
十七の巻に云く「如来は虚妄の言無しと雖も、若し衆生の虚妄の説に因て○」文。
又云く「虚妄の法則ち是れ罪と為す。是の罪を以ての故に地獄に堕す」云云。
一、小乗戒を破する事 
涅槃経の三の巻に云く「仏迦葉に告げ給はく、能く正法を護持する因縁を以ての故に、是の金剛身を成就することを得。迦葉、我往昔に於て護法の因縁を以て今是の金剛身を成就することを得て、常住にして壊せず。
善男子、正法を護持する者は、五戒を受けず威儀を修せず。応に刀剣・弓箭・鉾槊を持して、持戒清浄の比丘を守護すべし」云云。
同十七に云く「仏性を見るが故に大涅槃を得。是を菩薩の清浄の持戒にして世間の戒には非ずと名く」云云。
又云く「是の経を受持して戒を毀る者は、則ち是れ衆生の大悪知識なり、我が弟子に非ず、是れ魔の眷属なり」云云。
法師品に云く「若し是の深経、声聞の法を決了する是れ諸経の王なることを聞て」云云。
安楽行品に云く「又声聞を求むる比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に親近せざれ、亦問訊せざれ。若しは坊中に於ても、若しは経行の処、若しは講堂の中に在ても、共に住止せざれ」云云。
伝教大師の顕戒論の中に云く「貧人の食は是れ輪王の毒なるが如し。故に二乗の者の持戒精進は即ち菩薩の破戒懶惰なり。故に応に親近すべからず。来らば為に法を説け。親使・利養・恭敬を■わざれ」云云。
秀句の下に云く「小乗の持戒は則ち菩薩の煩悩なり」云云。
宝塔品に云く「此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は、我則ち歓喜す、諸仏も亦然なり。是の如きの人は、諸仏の歎め給ふ所なり。
是則ち勇猛なり、是則ち精進なり。是を戒を持ち頭陀を行ずる者と名く。則ち疾く無上の仏道を得と為す。能く来世に於て、此の経を読み持たんは、是真の仏子なり」云云。
竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)の大論に云く「自法愛染の故に他人の法を毀呰す。持戒の行人と雖も地獄の苦を脱れず」云云。
涅槃経の十二に云く「仏迦葉に告げ給はく、若し菩薩有て破戒の因縁を以て、則ち能く人をして大乗経典を受持し愛楽せしむることを知て、
又能く其れをして経巻を読誦し通利し書写し、広く人の為に説て阿耨多羅三藐三菩提を退転せざらしめ、是くの如き為の故に、故さらに戒を破ることを得」云云。
安然の広釈に云く「能く法華経を説く、是を持戒と名く。律儀を持すと雖も善法を摂せざれば、猶木石の衣鉢を帯持せるが如し」云云。
弘決の四に大論の十九を引て云く「諸の比丘、仏に問ひたてまつる。阿蘭若の比丘死しぬ、今何の処にか生ずる。仏の言く、阿鼻獄に生ずと。諸の比丘大いに驚く。坐禅持戒するに便ち爾るを至すや。仏答て言く、多聞・持戒・禅、未だ漏尽の法を得ず」云云。
伝教大師云く「今より已後、声聞の利益を受けず。菩薩は二百五十戒を捨て畢ぬ」云云。
涅槃経の四に云く「我れ涅槃の後、無量百歳に四道の聖人も悉く復涅槃せん。正法滅して後、像法の中に於て当に比丘有べし。貎持律に像て、少しく経を読誦し、飲食を貧嗜し、其の身を長養す。
袈裟を服すと雖も猶猟師の如く、細めに視て徐かに行くこと猫の鼠を伺ふが如し。常に是の言を唱ふ、我羅漢を得たりと。諸の病苦多く糞穢に眠臥す。外には賢善を現し内には貪嫉を懐く。唖法を受けたる婆羅門等の如し。
実に沙門に非ずして沙門の像を現し、邪見熾盛にして正法を誹謗し、及び甚深秘密の教を壊り、各自意に随て反て経律を説く」云云。
同九に云く「善男子一闡提有り、羅漢の像を作し空処に住して方等大乗経典を誹謗す。諸の凡夫人、見已て皆真の阿羅漢なり、是れ大菩薩摩訶薩なりと謂へり」。
一、善導和尚自害の事 
類聚伝に云く「導、此の身諸若に逼迫せられて情偽反易し、暫くも休息すること無し。乃ち所居の寺の前の柳樹に登て、西に向て願て云く、仏の威神驟以て我を摂し、観音・勢至も亦来て我を助け給へ。
此の心をして正念を失はざらしめ驚怖を起さず。弥陀の法の中に於て退堕を生ぜざらんと。願し畢て其の樹の上に極り身を投じて自ら絶えぬ」。
一、仏自害・断食・身根不具を禁ずる事 
涅槃の七に云く「若し説て言へること有らん。常に一の脚を翹げて寂■として言はず、淵に投じて火に赴き、自ら高巌より墜ち嶮難を避けず、毒を服し食を断じ、灰土の上に臥し、自ら手足を縛て衆生を殺害せん。
方道呪術・旃陀羅の子・無根二根・及び不定根・身根不具ならん。是くの如き等の事、如来悉く出家して道を為すことを聴し給ふといわば、是を魔説と名く」云云。
涅槃経の六に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す。耳鼻五根も例して亦是くの如し」云云。
像法決疑経に云く「諸の悪比丘、我が意を解せず、己が所見を執して、十二部経を宣説し、文に随て義を取り、決定の説と作さん。当に知るべし、此の人は三世の諸仏の怨なり。速かに我が法を滅せん」云云。
涅槃経の十四に云く「如来世尊は大方便有り、無常を常と説き、常を無常と説き、楽を説て苦と為し、苦を説て楽と為し、不浄を浄と説き、浄を不浄と説き、我を無我と説き、無我を我と説き、非衆生に於て説て衆生と為し、実の衆生に於て非衆生と説き、
非物を物と説き、物を非物と説き、非実を実と説き、実を非実と説き、非境を境と説き、境を非境と説き、非生を生と説き、生を非生と説き、乃至無明を明と説き、明を無明と説き、非色を色と説き、色を非色と説き、非道を道と説き、道を非道と説く」云云。
        ・・父は月浄転輪王。鼓音声陀羅尼経の説なり 
浄土宗の阿弥陀・・・誓願は執持名号往生極楽 
        ・・正覚は十劫已来なり 
        ・・父は大通智勝仏なり 
法華宗の阿弥陀・・・誓願は常楽の説、是妙法蓮華経なり 
        ・・正覚は三千塵点劫なり 
薬王品に云く「若し女人有て、是の経典を聞て、説の如く修行せば、此に於て命終して即ち安楽世界・阿弥陀仏・大菩薩衆の囲遶せる住処に往き、蓮華の中宝坐の上に生ず」云云。
疏記の十に云く「若女人有て等とは、此の中只是の経を聞くことを得、説の如く修行すと云ふ、即ち浄土の因。更に観経等を指すことを須いざるなり。
問ふ、如何が修行する。答ふ、既に如説修行と云ふ、即ち経に依て行を立つ。具さには分別功徳品の中直ちに此の土を観ずるに四土具足するが如し。故に此の仏身即三身なり」云云。「自在所欲生」云云。
方便品に云く「舎利弗、如来但一仏乗を以ての故に衆生の為に法を説く、余乗の若しは二若しは三有ること無し」云云。
安楽行品に云く「無量の国中に於て乃至名字を聞くことを得べからず」。
陀羅尼品に云く「汝等但能く法華の名を受持せし者を擁護(おうご)せんすら福量るべからず」。
釈籤の一に云く「名は即ち是体、文字解脱なり」。
又云く「次に経題を釈す、初めには妙法の両字は通じて本迹を詮す、蓮華の両字は通じて本迹を譬ふ」。
疏記の一に云く「妙法の唱は唯だ正宗のみに非ず。二十八品倶に妙と名くが故に。故に品品の内に咸く体等を具し、句句の下に通じて妙名を結す」云云。
薬王品に云く「若し復人有て、七宝を以て三千大千世界に満てて、仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養せん。是の人の得る所の功徳、此の法華経の乃至一四句偈を受持する其の福、最も多きに如かず」。
又云く「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是くの如し、一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」。
又云く「此の経は能く一切衆生を救ふ者なり。此の経は能く一切衆生をして諸の苦悩を離れしむ。此の経は能く大いに一切衆生を饒益して其の願を充満す」と。
勧発品に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出さば、若しは実・若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん。
若し之を軽笑すること有らん者は、当に世世に牙歯疎き欠け、醜脣平鼻、手脚繚戻し、眼目角■、身体臭穢にして、悪瘡(あくそう)膿血、水腹短気、諸の悪重病あるべし。
是の故に普賢、若し是の経典を受持する者を見ては、当に起て遠く迎へて、当に仏を敬ふが如くすべし」。
涅槃経の十三に云く「我爾の時に於て、思惟し、坐禅し、無量歳を経れども、亦如来出世の大乗経の名有ることを聞かず」。
文句の五に云く「所以は経に出でたり、人の語を信ずること勿れ」。
同三に云く「たとい百千種の師あつて、一一の師百千種の説を作すとも、是れ権ならざるは無し。如来の所説有る尚復是れ権なり、況や復人師をや。寧ろ権に非ざることを得るや。前に出す所の如きは悉く皆権なり」。
一、念仏者謗法罪を作る事 
法然の撰択に云く「道綽(どうしゃく)禅師、聖道・浄土の二門を立て、聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文。初に聖道門と云ふは、之に就て二有り。乃至之に准じて之を思ふに、応に密大及び実大を存すべし。
然れば則ち今真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論、此等の八家の意、正しく此に在り。浄土宗の学者、先ず須らく此の旨を知るべし。設ひ先ず聖道門を学するの人なりと雖も、若し浄土門に於て其の志有らん者は、須らく聖道を棄てて浄土に帰すべし。
善導和尚、正雑二行を立て、雑行を捨てて正行に帰するの文。第一に読誦雑行と云ふは、上の観経等の往生浄土の経を除て已外、大小乗・顕密の諸経に於て受持し読誦するを悉く読誦雑行と名く。
乃至第三に礼拝雑行と云ふは、上の弥陀を礼拝するを除て已外、一切諸余の仏菩薩等及び諸の世天等に於て礼拝し恭敬するを悉く礼拝雑行と名け。
第四に称名雑行とは、上の弥陀の名号を称するを除て已外、自余一切の仏菩薩等及び諸の世天等の名号を称するを悉く称名雑行と名く。
第五に讃歎供養雑行というは、上の弥陀仏を除て已外、一切諸余の仏菩薩及び諸の世天等に於て讃歎し供養するを悉く讃歎供養雑行と名く。
乃至此の文を見るに弥須らく雑を捨てて専を修すべし。豈百即百生の専修の正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや」。
又云く「貞元入蔵録の中に、始め大般若経六百巻より終り法常住経に至るまで、顕密の大乗経惣べて六百三十七部、二千八百八十三巻なり。皆須らく読誦大乗の句に摂すべし。
夫れ速かに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中且らく聖道門を閣て、選て浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中に且らく諸の雑行を抛て、選て正行に帰すべし」云云。
大論に云く「自法愛染の故に他人の法を毀呰す。持戒の行人と雖も地獄の苦を脱れず」云云。
法華経に云く「当来世の悪人は、仏の一乗を説き給ふを聞て、迷惑して信受せず、法を破して悪道に堕せん」。
又云く「法を破して信ぜざるが故に三悪道に墜ちなん」。
双観経に云く「設ひ我仏を得るも、十方衆生の至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して乃至十念せんに、若し生ぜずんば正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法(ひぼうしょうほう)を除く」。
譬喩品に云く「若し人あつて信ぜずして此の経を毀謗するときは則ち一切世間の仏種を断ず。其の人命終して阿鼻獄に入り、一劫を具足して劫尽て更に生ぜん。是くの如く展転して無数劫に至らん」。
文句に云く「今経に小善成仏を明かす。此の縁因を取て仏種と為す。若し小善成仏を信ぜずんば、則ち一切世間の仏種を断ずるなり」云云。
一、真言師謗法罪を作る事 
秘蔵宝鑰の上に云く、十住心とは、
一 異生羝羊心 凡夫悪人   二 愚童持斎心 凡夫善人 
三 嬰童無畏心 外道     四 唯薀無我心 声聞 
五 抜業因種心 縁覚     六 他縁大乗心 法相宗 
七 覚心不生心 三論宗    八 如実一道心 法華宗 
九 極無自性心 華厳宗    十 秘密荘厳心 真言宗 
又云く「他縁以後は大乗の心なり。大乗において前の二は菩薩乗、後の二は仏乗なり。此の如きの乗乗は、自乗には仏の名を得れども後に望むれば戲論と作る」云云。
又云く「人を謗じ法を謗ずれば、定めて阿鼻獄に堕て、更に出ずる期無し。世人斯の義を知らずして、舌に任せて輙く談じて深害を顧みず。寧ろ日夜に十悪五逆を作るべしとも、一言一語も人法を謗ずべからず」云云。
大日経に云く「仏不思議の真言相道の法を説くに、一切の声聞・縁覚を共にせず。亦普く一切衆生の為にするに非ず」。
法華経の二に云く「汝等若し能く是の語を信受せば、一切皆当に仏道を成ずることを得べし。是の乗微妙にして清浄第一なり」云云。
又云く「此の法華経は是れ諸の如来第一の説、諸説の中に於て最も甚深為り」。
又云く「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵、諸経の中に於て最も其の上に在り」。
六波羅蜜経に五蔵・五味を説く。私に云く、此の経は天台御入滅已後、百余年に天竺より漢土に来れり。爾れば見ざる経の醍醐を盗むと書くは謬失なり。
弘法の二教論の下に云く「喩して曰く、今斯の経文に依らば、仏五味を以て五蔵に配当し、総持を醍醐と称し、四味を四蔵に譬へ給へり。振旦の人師等、醍醐を諍ひ盗て各自宗に名く。若し斯の経を鑑みば、則ち掩耳の智割剖を待たじ」云云。
又云く「毘盧遮那経の疏に順ぜば阿字を釈す」云云。
私に云く、毘盧遮那経疏供養法の巻は、竜樹入滅已後八百年の造疏なり。而るに菩提心論に此の事を引き載せたり。故に知ぬ、菩提心論は竜樹の釈に非るなり。
又云く「唯真言法の中にのみ即身成仏するが故に、是三摩地の法を説く、諸教の中に於て欠て書せず」云云。
一、真言は別仏の説に非る事 
大日経の一の巻の五仏は、中央は大日如来と説く。同五巻の五仏は、中央は毘盧遮那と説く。第一の巻の五仏は、中央は釈迦牟尼仏と説く。
文句の九に云く「普賢観は法華を結成す、文に云く、釈迦牟尼仏を毘盧遮那と名く」と。乃ち是異名なり、別体に非ざるなり。
安然の教時義に云く「真言宗の本地毘盧遮那は、即ち天台宗の妙法蓮華経・最深密処と同仏なり」。
智証大師の授決集に云く「真言・禅門・華厳・三論・唯識・律宗・成・倶の二論等は、若し法華・涅槃経等の経に望むれば是れ摂引の門なり」云云。
金剛頂経に云く「婆伽梵釈迦牟尼如来、一切平等に善く通達するが故に、一切方を平等に観察して四方に坐したまう。不動如来・宝生如来・観自在王如来・不空成就如来」云云。
大日経普通真言蔵品の四に云く「時に釈迦牟尼世尊、宝処三昧に入て自心及び眷属の真言を説き給ふ」文。
大日経の第二に云く「我昔道場に坐して四魔を降伏し、大勤勇の声を以て衆生の怖畏を除く。是の時梵天等心喜共に称説す。此れに由て諸の世間号して大勤勇と名く。我本不生を覚る」云云。
前唐院金剛頂経の疏に云く「成仏以来甚大久遠なり。未だ所経の劫数を説かざる所以は、経に於て各傍正の義有り。故に彼の法華の久遠の成仏も、亦是れ此の経の毘盧遮那仏と異解すべからず」云云。
仏法伝来の次第に云く「大師智拳印を結て南方に向ふ、面門俄かに開けて金色の毘盧遮那と成り、即便ち本体に還帰す」云云。
涅槃経の七の巻に仏迦葉に告げ給はく「我れ般涅槃して七百歳の後、是の魔波旬漸く当に我が正法を壊乱すべし。乃至化して阿羅漢の身及び仏の色身と作らん。魔王此の有漏の形を以て無漏の身と作て我が正法を壊らん」云云。
一、禅宗謗罪を作す事 
円覚経に云く「修多羅の教は月を標す指の如し」文。
方便品に云く「或は修多羅を説く、衆生に随順して説く大乗に入るに為れ本なり」。
梵天王問仏決疑経に云く「梵王霊山会上に至て、金色の沙羅華を以て仏に献り、仏群生の為に法を説き給へと請す。世尊坐に登り、華を拈して、衆に示して青蓮の目を瞬す。天人百万悉く皆措くこと罔し。独り金色の頭陀破顔微笑す。
世尊の言く、吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相微妙の法門有り。文字を立てず、教外別伝(きょうげべつでん)、摩訶迦葉に付属す」云云。是は中天竺なり。仏の御入滅は北天竺拘尸那城なり。
涅槃経の一に云く「爾の時に閻浮提の中の比丘・比丘尼、一切皆集る。唯尊者摩訶迦葉・阿難の二乗を除く」。
同経の三に云く「若し法宝を以て阿難及び諸の比丘に付属し給ふ久住することを得ず。何を以ての故に、一切声聞及大迦葉は悉く当に無常なるべし。彼の老人の他の寄物を受くるが如し。是の故に無上の仏法を以て諸の菩薩に付属すべし」云云。
像法決疑経に云く「諸の悪比丘或は禅を修すること有るも経論に依らず。自ら己見を逐て、非を以て是と為し、是れ邪是れ正を分別すること能はず。
遍く道俗に向て是の如き言を作さん、我能く是を知り、我能く是を見ると。当に知るべし、此の人は速かに我が法を滅せん、乃至地獄に入ること猶箭を射るが如し」云云。
弘決一の下に云く「世人多く坐禅安心を以て名けて発心と為す。此の人都て未だ所縁の境を識らず。所期の果無ければ全く上求無し、大悲を識らざれば全く下化無し。是の故に発心は大悲より起るなり」云云。
天台の止観の五に云く「又一種の禅人、他の根性に達せずして純ら乳薬を教ゆ。体心踏心、和融覚覓、若しは泯若しは了、斯れ一轍の意なり。
障難万途紛然として識らず、纔に異相を見て即ち是れ道と判ず。自ら法器に非ず、復他に匠たるを欠く。盲跛の師徒二り倶に堕落す。瞽蹶の夜遊甚だ憐愍すべし」云云 
弘決の一に云く「世人教を蔑にし理観を尚ぶ者、誤れるかな誤れるかな」。
方便品云く「諸法実相、所謂諸法、如是相、如是性、如是体、如是力、乃至、如是本末究竟等」云云。
妙楽大師の金■論に云く「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土なり」云云。
疏記の十に云く「直に此の土を観ずるに四土具足す、故に此の仏身は即ち三身なり」云云。
一、権実証拠の事 
玄義の二に云く「則ち百法界千如是有り、束ねて五差と為す。一に悪・二に善・三に二乗・四に菩薩・五に仏なり。判じて二法と為す。前の四は是れ権法、後の一は是れ実法」云云。釈籖の二に云く「九界を権と為し、仏界を実と為す」云云。
秀句の下に云く「定性と不定性は位の高下に依り、成仏と不成仏は経の権実に依る」。
文句の九に云く「漸頓の益は虚なり」云云。記の九に云く「権を禀けて界を出るを名けて虚出と為す」云云。
玄義の九に云く「化他の因果は仏菩提を致すこと能はず。是の故に取て並べ用ひず。化他の権実も亦他をして極に至らしむること能はず。亦取る応らず」云云。
止観の三に云く「権の権は実の権に非ず、実の権と成ることを得べし。権の実は実の実に非ず、実の実と成ることを得べからず」云云。
一、権実分別の事 
一に玄義の一に云く「蓮の為の故に華。実の為に権を施すを譬ふ。権は即ち是れ苗。文に云く、種種の道を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」云云。
二に又云く「華敷は権を開するを譬ふ、蓮現は実を顕すを譬ふ。権実共に稲なり。文に云く、方便の門を開て真実の相を示す」云云。
三に又云く「華落は権を廃するを譬ふ。蓮成は実を立つるを譬ふ。実独り真米なり。文に云く、正直に方便を捨てて但無上道を説く」云云。
釈籖の一に云く「開廃倶時なり。開の時已に廃するが故なり」云云。又云く「開の時即ち廃す」。又云く「既に実を識り已れば永く権を用ひず」云云。
一、破三顕一の事 
方便品に云く「一仏乗に於て分別して三と説く」云云。玄義の九に云く「廃三顕実」。又云く「施権」。
方便品に云く「二も無く亦三も無し。仏の方便の説を除く」云云。
涅槃経の二十三に云く「実には三乗無し。顛倒心の故に三乗有りと言ふ。一実の道は真実にして虚ならず。顛倒心の故に一実無しと言ふ」云云。
方便品に云く「尚二乗無し、何に況や三有らんや」云云。
一、入如来恵の事 
法華経に云く「是の諸の衆生世世より已来常に我が化を受く。此の諸の衆生始めて我が身を見て、我が所説を聞て、即ち皆信受して如来の恵に入る。先より修習して小乗を学する者を除く」云云。
文句の九に云く「根利にして徳厚く。世世已来常に大化を受け、始めて我が身を見て即ち華厳を禀けて如来恵に入る。菓熟して零ち易し」云云。
釈籖の十に云く「当に知るべし。法華は部に約するときは則ち華厳般若を破す」云云。
一、余深法中の事 
属累品に云く「若し衆生有て信受せざらん者には、当に如来の余の深法の中に於て示教利喜すべし」。
文句の七に云く「示教利喜。示は即ち示転。教は即ち勧転。利喜は即ち証転なり」。
玄義の六に云く「余とは方便を帯するなり。深とは中道を明すなり。方便を帯して中道を明すは即ち別教なり」云云。
又云く「但為に実を弘むるに而も衆生信ぜず。須らく実の為に権を施すべし」。
釈籖の六に云く「有深復余とは即ち別教の法なり。入地を深と名け地前を余と名く」云云。
文句の十に云く「汝能く余深の法を以て仏恵を助申せば、即ち善巧に仏の恩を報ず」云云。
疏記の十に云く「以偏助円は則ち此の意なり。此の経の上下一切皆然なり。人之を見ずして三乗有りと謂ふは謬れり」云云。
一、三種教相の事 
玄義に「教相を三と為す。一に根性の融不融の相。二に化導の始終不始終の相。三に師弟の遠近不遠近の相」云云。
釈籖の一に云く「前の両意は迹門に約し、後の一意は本門に約す」云云。
  寂滅道場を以て元始と為す。方便以下の五品の意なり。
第一、根性融〈法華〉不融〈爾前〉の相 
  華厳・阿含・方等・般若・法華各得道有り、種熟脱を論ぜず。
釈籖の一に云く「又今文の諸義は凡そ一一の科、皆先ず四教に約して以て麁妙を判ずるときは、則ち前三を麁と為し、後一を妙と為す。次に五味に約して以て麁妙を判ずるときは、則ち前四味を麁と為し、醍醐を妙と為す。
全く上下の文意を推求せずして、直に一語を指して法華は華厳より劣れりと謂へるは幾許の誤りぞや、誤りぞや」云云。
華厳は一麁一妙  相待妙・・・麁妙を判ず。
阿含は単麁    無妙 
方等は三麁一妙  相待妙・・・麁妙を判ず。
般若は二麁一妙  相待妙・・・麁妙を判ず。
法華は二妙有り  相待妙は・・麁妙を判ず 
         絶待妙は・・麁を開して妙を顕はす 
釈籖の十に云く「唯だ法華に至て前教の意を説て今教の意を顕はす」。
玄義の二に云く「此の妙彼の妙、妙の義殊なること無し。〈約教相待、前三を麁と為し後一を妙と為す〉。但方便を帯すると方便を帯せざるを以て異と為すのみ」云云。〈約部・相、前四味を麁と為し醍醐を妙と為す〉。
同十に云く「初後の仏恵円頓の義斎し」一往の釈。文句の五に云く「今の如く始の如く、始の如く今の如し、二無く異無し」云云。
弘決の五に云く「惑者未だ見ず尚華厳を指す。唯華厳円頓の名を知て彼の部の兼帯の説に昧し。全く法華絶待の意を失ふ」云云。
釈籖の二に云く「故に諸味の中円融有りと雖も全く二妙無し」と。
同三に云く「若し但四教の中の円を判じて之を名けて妙と為す。諸経に皆是くの如きの円の義有り。何ぞ妙と称せざる。故に復更に部に約し味に約して、方に今経の教も円部も円なることを顕はすべし。
若し教に約せざれば則ち教の妙を知らず。若し味に約せざれば則ち部の妙を知らず。爾前の相待妙とは前三を〈蔵通別〉麁と為し、後一〈円〉を妙と為す」云云。
法華の相待妙とは、前四味〈華厳・阿含・方等・般若〉を麁と為し。醍醐を妙と為す。
  三千塵点大通を以て元始と為す。
第二、化導始〈中間〉終〈霊山の初住〉不始終の相。
  化城喩品の意なり。種熟脱を論ず、種は大通なり、熟は中間乃至今日の四味なり、脱は今の法華なり。
玄の一に云く「異とは、余教は当機益物にして如来施化の意を説かず。此の経は仏の教を設け給ふ元始巧みに衆生の為に頓漸不定顕密の種子を作すを明す」云云。
釈籖の一に云く「漸及び不定に寄すと雖も、余教を以て種と為さず、故に巧為と云ふ」。
止観の三に云く「若し初業に常を知るを作さずんば、三蔵の帰戒羯磨悉く成就せず」と。
弘決の三に云く「今日の声聞禁戒を具することは、良に久遠の初業に常を聞くに由る。若し昔聞かずんば小尚具せず。況や復大をや」云云。
弘決の三に云く「若し全く未だ曽て大乗の常を聞かずんば既に小果無し。誰か禁戒の具不具を論ぜんや」云云。
又云く「羯磨不成と言ふは、所謂久遠必ず大無んば、則ち小乗の■る法を成ぜざらしめん。本無きを以ての故に諸行成ぜざること、樹の根無ければ華菓を成ぜざるが如し。
時機未だ熟せずんば権に小の名を立つ。汝等の行ずる所是れ菩薩の道、始めて記を得て方に大人と名くるに非ず」。
釈籖の一に云く「法譬二周得益の徒は往日結縁の輩に非ること莫し」云云。
 ・・五百塵点 久遠を以て元始と為す、寿量品(じゅりょうほん) の意なり 
 ・・五百塵点 霊山の中間 
第三に師弟の遠近不遠近の相 
 ・・種熟脱を論ず 
 ・・種は久遠、熟は過去、脱は近く世世番番の成道今日の法華なり 
玄義の一に云く「又衆経(しゅうきょう)に咸く云く道樹に師の実智始めて満じ道樹を起て始めて権智を施す。今の経は師の権実道樹の前に在て久久に已に満すと明かす。
諸経に明かす二乗の弟子は実智に入ることを得ず、亦権智を施すこと能はず。今の経に明かす弟子の入実は甚だ久し亦先より解して権を行ず。
衆経(しゅうきょう)は尚道樹の前の師と弟子との近近の権実を論ぜず。況や復た遠遠をや。今の経は道樹の前の権実長遠なることを明かす。補処世界を数ふるに知らず。況や其の塵数をや」。
経に云く「昔未だ曽て説ざる所、今皆当に聞くことを得べし。慇懃に称讃すること良に所以有るなり。当に知るべし、此の経は諸教に異ることを」。
釈籤の一に云く「二乗猶小果に住す。故に不入と云ふ。豈に能く他を化せんや。故に権を施さず。次に今経を明かす。満願等の如き先に已に実に入る。説法第一なり。故に先より解して権を行ずることを」。
弘の七に云く「過去に種を下すは現在に重ねて聞て成熟の益を得。未だ曽て種を下さざるは現在に種を成じ未来に方に益す。故に三世の益皆法輪に因る」と。
薬草喩品に云く「汝等が所行は是れ菩薩の道なり。漸漸に修学して悉く当に成仏すべし」云云。
記の一に云く「一時一説一念の中、三世九世、種熟脱の三あり」。
弟子品に云く「諸の比丘諦かに聴け。仏子所行の道善く方便を学ぶが故に。思議することを得べからず。衆の小法を楽て而して大智を畏るることを知る。是の故に諸の菩薩声聞縁覚と作る。無数の方便を以て諸の衆生の類を化す」云云。
又云く「内に菩薩の行を秘し外に是れ声聞なることを現す。少欲にして生死を厭へども実には自ら仏土を浄む。衆に三毒有ることを示し。又邪見の相を現ず。我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」云云。
方便品に云く「大乗に入る為れ本なり」云云。
分別功徳品に云く「願はくば我未来に於て長寿を以て衆生を度せん」云云。
玄義の七に云く「但本極の法身微妙深遠なり。仏若し説かずんば弥勒尚暗し。何に況や下地をや。何に況や凡夫をや」云云。
伝教大師の秀句の下に云く「浅は易し深は難し釈迦の所判なり。浅を去て深に就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて震旦に敷揚し。叡山の一家は天台に相承して法華宗を助けて日本に弘通す」云云。
又云く「謹て法華経法師品の偈を案ずるに云く、薬王今汝に告ぐ。我か所説の諸経、而も此の経の中に於て法華最も第一なり〈已上経文〉。当に知るべし斯の法華経は諸経の中の最為第一なり」と。
釈迦世尊宗を立つるの言は法華を極と為す、金口の校量なり深く信受すべきか。

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