当体義抄
当体義抄の概要 【文永十年、聖寿】 日蓮之を勘ふ 問ふ、妙法蓮華経とは其の体何物ぞや。答ふ、十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり。 問ふ、若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云はるべきか。答ふ、勿論なり。経に云く「所謂諸法乃至本末究竟等」云云。 妙楽大師釈して云く「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身士」云云。天台云く「十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ」云云。 南岳大師云く「云何なるを名けて妙法蓮華経と為すや。答ふ、妙とは衆生妙なるが故に、法とは即ち是れ衆生法なるが故に」云云。又天台釈して云く「衆生法妙」云云。 問ふ、一切衆生の当体即妙法の全体ならば、地獄乃至九界の業因業果も皆是れ妙法の体なるや。 答ふ、法性の妙理に染浄の二法有り。染法は薫じて迷と成り、浄法は薫じて悟と成る。 悟は即ち仏界なり。迷は即ち衆生なり。此の迷悟の二法二なりと雖も、然も法性真如の一理なり。 譬へば水精の玉の日輪に向へば火を取り、月輪に向へば水を取る、玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し。 真如の妙理も亦復是くの如し。一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇へば迷と成り、善縁に遇へば悟と成る。悟は即ち法性なり、迷は即ち無明なり。 譬へば人夢に種種の善悪の業を見、夢覚めて後に之を思へば我が一心に見る所の夢なるが如し。一心は法性真如の一理なり。夢の善悪は迷悟の無明法性なり。 是くの如く意得れば、悪迷の無明を捨て善悟の法性を本と為すべきなり。 大円覚修多羅了義経に云く「一切諸の衆生の無始の幻無明は皆諸の如来の円覚の心従り建立す」云云。 天台大師の止観に云く「無明痴惑本是れ法性なり。痴迷を以ての故に法性変じて無明と作る」云云。 妙楽大師の釈に云く「理性体無し全く無明に依る。無明体無し全く法性に依る」云云。 無明は所断の迷、法性は所証の理なり、何ぞ体一なりと云ふやと云へる不審をば、此等の文義を以て意得べきなり。大論九十五の夢の譬、天台一家の玉の譬、誠に面白く思ふなり。 正く無明法性其の体一なりと云ふ証拠は、法華経に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云。 大論に云く「明と無明と異無く別無し。是くの如く知るをば是を中道と名く」云云。 但真如の妙理に染浄の二法有りと云ふ事、証文之れ多しと雖も、華厳経に云く「心仏及衆生 是三無差別」の文と、法華経の諸法実相の文とには過ぐべからざるなり。 南岳大師の云く「心体に染浄の二法を具足して而も異相無く一味平等なり」云云。 又明鏡の譬、真実に一二(つまびらか)なり。委くは大乗止観の釈の如し。 又能き釈には籤の六に云く「三千理に在れば同じく無明と名け、三千果成すれば咸く常楽と称す、三千改むること無ければ無明即明、三千並に常なれば倶体倶用なり」文。此の釈分明なり。 問ふ、一切衆生皆悉く妙法蓮華経の当体ならば、我等が如き愚痴闇鈍の凡夫も即ち妙法の当体なりや。 答ふ、当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず。謂ゆる権教の人、実教の人なり。 而も権教方便の念仏等を信ずる人は妙法蓮華の当体と云はるべからず。実教の法華経を信ずる人は即ち当体の蓮華真如の妙体是なり。 涅槃経に云く「一切衆生大乗を信ずる故に大乗の衆生と名く」文。 南岳大師の四安楽行に云く「大強精進経に云く、衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無比なるを妙法華経と称す」文。 又云く「法華経を修行するは此の一心一学に衆果普く備はる一時に具足して次第入に非ず。亦蓮華の一華に衆果を一時に具足するが如し。是を一乗の衆生の義と名く」文。 又云く「二乗声聞及び鈍根の菩薩は方便道の中の次第修学なり。利根の菩薩は正直に方便を捨て次第行を修せず。若し法華三昧を証すれば衆果悉く具足す。是を一乗の衆生と名く」文。 南岳の釈の意は、次第行の三字をば当世の学者は別教なりと料簡す。 然るに此の釈の意は、法華の因果具足の道に対して方便道を次第行と云ふ故に、爾前の円・爾前の諸大乗経並に頓漸大小の諸経なり。 証拠は無量義経に云く「次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説て、菩薩の歴劫修行を宣説す」文。 大強精進経の同共の二字に習ひ相伝するなり。法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり。不同共の念仏者等は、既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり。 利根の菩薩は正直に方便を捨てて次第行を修せず。若し法華経を証する時は衆果悉く具足す。是を一乗の衆生と名くるなり。 此等の文の意を案ずるに、三乗・五乗・七方便・九法界・四味・三教・一切の凡聖等をば大乗の衆生妙法蓮華の当体とは名くべからざるなり。 設ひ仏なりと雖も権教の仏をば仏界の名言を付くべからず。権教の三身は未だ無常を免れざる故に。 何に況や其の余の界界の名言をや。故に正像二千年の国王大臣よりも、末法の非人は尊貴なりと釈するも此の意なり。 南岳釈して云く「一切衆生法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」。 所詮妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり。 是の故に法華経に云く「父母所生清浄常眼耳鼻舌身意亦復如是」文。 又云く「問て云く、仏何れの経の中に眼等の諸根を説て名けて如来と為や。答て云く、大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」文。 他経に有りと雖も下文顕れ已れば通じて引用することを得るなり。 正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ其の人の所住の処は常寂光土なり。 能居所居、身土色心、倶体倶用、無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり。 是れ即ち法華の当体自在神力の顕はす所の功能なり。敢て之を疑ふべからず、之を疑ふべからず。 問ふ、天台大師妙法蓮華の当体・譬喩の二義を釈し給へり。爾れば其の当体・譬喩の蓮華の様は如何。 答ふ、譬喩の蓮華とは施開廃の三釈委く之を見るべし。当体蓮華の釈は玄義第七に云く「蓮華は譬へに非ず。当体に名を得。類せば劫初に万物名無し、聖人理を観じて準則して名を作るが如し」文。 又云く「今蓮華の称は是れ喩を仮るに非ず。乃ち是れ法華の法門なり。法華の法門は清浄にして因果微妙なれば、此の法門を名けて蓮華と為す。即ち是れ法華三昧の当体の名にして譬喩に非ざるなり」。 又云く「問ふ、蓮華定めて是れ法華三昧の蓮華なりや。定めて是れ華草の蓮華なりや。答ふ、定めて是れ法蓮華なり。法蓮華解し難し。故に草花を喩と為す。 利根は名に即して理を解し譬喩を仮らず。但法華の解を作す。中下は未だ悟らず。譬を須て乃ち知る。易解の蓮華を以て難解の蓮華に喩ふ。 故に三周の説法有て上中下根に逗ふ。上根に約すれば是れ法の名。中下に約すれば是れ譬の名なり。三根合論し双べて法譬を標す。是くの如く解する者は誰とか諍ふことを為さんや」云云。 此の釈の意は、至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時不思議の一法之れ有り。之を名けて妙法蓮華と為す。 此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。 聖人此の法を師と為して修行覚道し給へば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。故に妙覚果満の如来と成り給ひしなり。 故に 妙楽大師の云く「須く七譬を以て各蓮華権実の義に対すべし○何者蓮華は只是れ為実施権・開権顕実、七譬皆然なり」文。 又劫初に華草有り。聖人理を見て号して蓮華と名く。此の華草、因果倶時なること妙法蓮華に似たり。故に此の華草同じく蓮華と名くるなり。水中に生ずる赤蓮華・白蓮華等の蓮華是なり。 譬喩の蓮華とは此の華草の蓮華なり。此の華草を以て難解の妙法蓮華を顕す。 天台大師の妙法は解し難し、譬を仮て顕れ易しと釈するは是の意なり。 問ふ、劫初より已来何人か当体の蓮華を証得せしや。答ふ、釈尊五百塵点劫の当初、此の妙法の当体蓮華を証得して、世世番番に成道を唱へ、能証所証の本理を顕し給へり。 今日又中天竺摩訶陀国に出世して此の蓮華を顕はさんと欲すに機無く時無し。 故に一法の蓮華に於て三の草華を分別し、三乗の権法を施し擬宜誘引せしこと四十余年なり。 此の間は衆生の根性万差なれば種種の草華を施し設けて終に妙法蓮華を施したまはず。 故に無量義経に云く「我先に道場菩提樹下乃至四十余年未だ真実を顕さず」文。 法華経に至て四味三教の方便の権教小乗種種の草華を捨てて、唯一の妙法蓮華を説き、三の華草を開して一の妙法蓮華を顕す時、四味三教の権人に初住の蓮華を授けしより始めて開近顕遠の蓮華に至て二住三住乃至十住等覚妙覚の極果の蓮華を得るなり。 問ふ、法華経は何れの品何れの文にか正しく当体・譬喩の蓮華を説き分けたるや。 答ふ、若し三周の声聞に約して之を論ぜば、方便の一品は皆是当体蓮華を説けるなり。譬喩品・化城喩品には譬喩蓮華を説きしなり。 但方便品にも譬喩蓮華無きに非ず。余品にも当体蓮華無きに非ざるなり。 問ふ、若し爾らば正く当体蓮華を説きし文は何れぞや。答ふ、方便品の諸法実相の文是なり。 問ふ、何を以て此の文が当体蓮華なりと云ふ事を知ることを得るや。答ふ、天台・妙楽今の文を引て今経の体を釈せし故なり。 又 此の釈分明なり〈当世の学者此の釈を秘して名を顕さず。然るに此の文の名を妙法蓮華と曰ふ義なり〉。 又現証は宝塔品の三身是れ現証なり。或は涌出の菩薩・竜女の即身成仏是なり。 地涌の菩薩を現証と為す事は、経文に如蓮華在水と云ふ故なり。菩薩の当体と聞たり。 竜女を証拠と為す事は、霊鷲山に詣で千葉の蓮華の大いさ車輪の如くなるに坐しと説きたまう故なり。 又妙音・観音の三十三四身なり。是をば解釈には「法華三昧の不思議自在の業を証得するに非ざるよりは、安ぞ能く此の三十三身を現ぜん」云云。 或は「世間相常住」文。此等は皆当世の学者の勘文なり。然りと雖も、日蓮は方便品の文と神力品の「如来一切所有之法」等の文となり。 此の文をば天台大師も之を引て、今経の五重玄を釈せしなり。殊更此の一文正しき証文なり。 問ふ、次上に引く所の文証・現証殊勝なり。何ぞ神力の一文に執するや。答ふ、此の一文は深意有る故に殊更に吉なり。 問ふ、其の深意如何。答ふ、此の文は釈尊、本眷属地涌の菩薩に結要の五字の当体を付属すと説きたまえる文なる故なり。 如来の滅後後五百歳中広宣流布の付属を説かんが為、地涌の菩薩を召し出し本門の当体蓮華を要を以て付属し給へる文なれば、釈尊出世の本懐道場所得の秘法、末法の我等が現当二世を成就する当体蓮華の誠証は此の文なり。 故に末法今時に於て、如来の御使より外に当体蓮華の証文を知て出す人、都て有るべからざるなり。 真実以て秘文なり。真実以て大事なり。真実以て尊きなり。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経〈爾前の円の菩薩等の今経に大衆八万有て具足の道を聞かんと欲す云云是なり〉。 問ふ、当流の法門の意は、諸宗の人来て当体蓮華の証文を問はん時は、法華経何れの文を出すべきや。 答ふ、二十八品の始に妙法蓮華経と題す。此の文を出すべきなり。 問ふ、何を以て品品の題目は当体蓮華なりと云ふ事を知ることを得るや。故は天台大師今経の首題を釈する時、蓮華とは譬喩を挙ぐると云て譬喩蓮華と釈し給へる者をや。 答ふ、題目の蓮華は当体・譬喩を合説す。天台の今の釈は譬喩の辺を釈する時の釈なり。 玄文第一の本迹の六譬は此の意なり。同じく第七は当体の辺を釈するなり。 故に天台は題目の蓮華を以て当体・譬喩の両説を釈する故に失無し。 問ふ、何を以て題目の蓮華は当体・譬喩合説すと云ふ事を知ることを得んや。 南岳大師も妙法蓮華経の五字を釈する時「妙とは衆生妙なるに故に、法とは衆生法なる故に、蓮華とは是れ譬喩を借るなり」文。南岳・天台の釈、既に譬喩蓮華なりと釈し給ふ如何。 答ふ、南岳の釈も天台の釈の如し云云。但当体・譬喩合説すと云ふ事経文分明ならずと雖も、南岳・天台既に天親・竜樹の論に依て合説の意を判釈せり。 所謂法華論に云く「妙法蓮華とは二種の義有り。一には出水の義、乃至泥水を出るをば諸の声聞、如来大衆の中に入て坐し、諸の菩薩の如く蓮華の上に坐して、如来無上智恵、清浄の境界を説くを聞て、如来の密蔵を証するを喩ふるが故に。 二に華開とは、諸の衆生、大乗の中に於て其心怯弱にして信を生ずること能はず。故に如来の浄妙法身を開示して、信心を生ぜしめんが故なり」文。 諸の菩薩の諸の字は、法華已前の大小の諸菩薩法華経に来て仏の蓮華を得ると云ふ事、法華論の文分明なり。故に知ぬ「菩薩処処得入」とは方便なり。 天台此の論の文を釈して云く「今論の意を解せば、若し衆生をして浄妙法身を見せしむと言はば、此れ妙因の開発するを以て蓮華と為るなり。若し如来大衆に入るに蓮華の上に坐すと言はば、此は妙報の国土を以て蓮華と為るなり」と。 又天台が当体・譬喩合説する様を委細に釈し給ふ時、大集経の我今仏の蓮華を敬礼すと云ふ文と法華論の今の文とを引証して釈して云く、 「若し大集に依れば行法の因果を蓮華と為す。菩薩上に処すれば即ち是れ因の華なり。仏の蓮華を礼すれば即ち是れ果の華なり。若し法華論に依れば依報の国土を以て蓮華と為す。復菩薩蓮華の行を修するに由て報蓮華の国土を得。 当に知るべし依正因果悉く是れ蓮華の法なり。何ぞ譬をもつて顕すことをもちいん。鈍人の法性の蓮華を解せざる為の故に世の華を挙げて譬と為す。亦何の妨げかあるべき」文。 又云く「若し蓮華に非んば何に由て遍く上来の諸法を喩へん。法譬双べ弁ずる故に妙法蓮華と称するなり」。 次に 一心の妙法蓮華は因華果台倶時に増長す。此の義解し難し。喩を仮れば解し易し。此の理教を詮ずるを名けて妙法蓮華経と為す」文。 此等の論文釈義分明なり。文に在て見るべし。包蔵せざるが故に合説の義極成せり。 凡そ法華経の意は、譬喩即法体、法体即譬喩なり。故に 但し法体とは法性の理体なり。譬喩とは即ち妙法の事相の体なり。事相即理体なり。理体即事相なり。故に法譬一体とは云ふなり。是を以て論文山家の釈に皆蓮華を釈するには法譬並べ挙ぐ」等云云。釈の意分明なる故重ねて云はず。 問ふ、如来の在世に誰か当体の蓮華を証得せるや。答ふ、四味三教の時は、三乗・五乗・七方便・九法界、帯権の円の菩薩、並に教主乃至法華迹門の教主、総じて本門寿量の教主を除くの外は本門の当体蓮華の名をも聞かず。何に況や証得せんをや。 開三顕一の無上菩提の蓮華、尚四十余年には之を顕さず。故に無量義経に「終不得成 無上菩提」とて、迹門開三顕一の蓮華は爾前に之を説かずと云ふなり。 何に況や、開近顕遠・本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華をば、迹化弥勒等之を知るべきや。 問ふ、何を以て、爾前の円の菩薩・迹門の円の菩薩は、本門の当体蓮華を証得せずと云ふ事を、知ることを得んや。 答ふ、爾前の円の菩薩は迹門の蓮華を知らず。迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知らざるなり。 天台云く「権教の補処は迹化の衆を知らず。迹化の衆は本化の衆を知らず」文。 爾前迹門の菩薩は一分断惑証理の義分有りと雖も、本門に対するの時は当分の断惑にして、跨節の断惑に非ず未断惑と云はるるなり。 然れば「菩薩処処得入」と釈すれども、二乗を嫌ふの時一往得入の名を与ふるなり。 故に爾前迹門の大菩薩が仏の蓮華を証得する事は本門の時なり。真実の断惑は寿量の一品を聞きし時なり。 天台大師、涌出品の「五十小劫仏の神力の故に諸の大衆をして半日の如しと謂はしむ」の文を釈して云く「解者は短に即して長、五十小劫と見る。惑者は長に即して短、半日の如しと謂へり」文。 妙楽之を受けて釈して云く「菩薩已に無明を破す。之を称して解と為す、大衆仍お賢位に居す。之を名けて惑と為す」文。 釈の意分明なり。爾前迹門の菩薩は惑者なり。地涌の菩薩のみ独り解者なりと云ふ事なり。 然るに当世天台宗の人の中に本迹の同異を論ずる時、異り無しと云て此の文を料簡するに、解者の中に迹化の衆入りたりと云ふは、大なる僻見なり。経の文、釈の義分明なり。何ぞ横計を為すべけんや。 文の如きは、地涌の菩薩五十小劫の間、如来を称揚するを霊山迹化の衆は半日の如く謂へりと説き給へるを、天台は解者惑者を出して迹化の衆は惑者の故に半日と思へり。是れ即ち僻見なり。 地涌の菩薩は解者の故に五十小劫と見る。是れ即ち正見なりと釈し給へるなり。 妙楽之を受けて無明を破する菩薩は解者なり。未だ無明を破せざる菩薩は惑者なりと釈し給ひし事、文に在て分明なり。 迹化の菩薩なりとも住上の菩薩は已に無明を破する菩薩なりと云はん学者は無得道の諸経を有得道と習ひし故なり。 爾前迹門の当分に妙覚の位有りと雖も、本門寿量の真仏に望むる時は、惑者仍お賢位に居ると云はるる者なり。権教の三身未だ無常を免れざる故は夢中の虚仏なるが故なり。 爾前と迹化の衆とは、未だ本門に至らざる時は未断惑の者と云はれ、彼に至る時正しく初住に叶ふなり。 妙楽の釈に云く「開迹顕本皆初住に入る」文、「仍賢位に居す」の釈、之を思ひ合すべし。 爾前迹化の衆は惑者、未だ無明を破せざる仏菩薩なりと云ふ事、真実なり真実なり。 故に知ぬ、本門寿量の説顕れての後は霊山一会の衆皆悉く当体蓮華を証得せしなり。二乗・闡提・定性・女人・悪人等も本仏の蓮華を証得するなり。 若し一乗に達すれば三乗・定性・不定性・内道・外道・阿闡・阿顛・皆悉く一切智地に到る。是の一大事仏の知見を開示し悟入して一切成仏す」。 女人・闡提・定性・二乗等の極悪人、霊山に於て当体蓮華を証得するを云ふなり。 問ふ、末法今時誰れ人か当体蓮華を証得せるや。答ふ、当世の体を見るに、大阿鼻地獄の当体を証得する人之れ多しと雖も、仏の蓮華を証得せるの人之れ無し。 其の故は無得道の権教方便を信仰して、法華の当体真実の蓮華を毀謗する故なり。 仏説て云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」文。 天台云く「此の経は遍く六道の仏種を開く。若此の経を謗せば義断ずるに当るなり」文。 日蓮云く、此の経は是れ十界の仏種に通ず。若し此の経を謗せば義是れ十界の仏種を断ずるに当る。是の人無間に於て決定して堕在す。何ぞ出ずる期を得んや。 然るに日蓮が一門は、正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てて、正直に正法正師の正義を信ずる故に、当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり。 問ふ、南岳・天台・ 答ふ、南岳大師は観音の化身、天台大師は薬王の化身なり等云云。 若し爾らば霊山に於て本門寿量の説を聞きし時は之を証得すと雖も、在生の時は妙法流布の時に非ず、故に妙法の名字を替へて止観と号し、一念三千・一心三観を修し給ひしなり。 但し此等の大師等も南無妙法蓮華経と唱ふる事を自行真実の内証と思食されしなり。 南岳大師の法華懺法に云く「南無妙法蓮華経」文。天台大師の云く「南無平等大恵一乗妙法蓮華経」文。又云く「稽首妙法蓮華経」云云。又「帰命妙法蓮華経」云云。 問ふ、文証分明なり。何ぞ是くの如く弘通したまわざるや。答ふ、此れに於て二意有り。一には時の至らざるが故に。二には付属に非ざるが故なり。 凡そ妙法の五字は末法流布の大白法なり。地涌千界の大士の付属なり。 是の故に南岳・天台・ 日蓮花押 |