戒壇本尊について


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戒壇本尊についてのとらえ方がおおよそご理解できると思います。

阿部宗門人云く

「正信会は戒壇本尊を拝めない。だから成佛できない」

この邪義を破します。

          一、

   彼らに反論しましょう「戒壇本尊を直接拝まなければ成佛できないのですか」と。

  そもそも、戒壇本尊はどういう因縁で造立されたのかを知らなくてはなりません。

大聖人の御化導がだんだんと弘まり、駿河地方に伝わりました。大聖人に会ったこともない百姓衆までが信心をするようになりました。すると、既成寺院が権力と結託して、大聖人の仏法に改宗した人々を弾圧するようになりました。かくて、熱原法難が起こりました。

 熱原の百姓衆は大聖人の仏法を熱烈に信仰したあまり、既成寺院の僧侶にうらまれ、幕府に訴えられました。幕府の権力者であった平左衛門という人物は、大の日蓮嫌いでしたから、これを奇貨として、百姓衆を捕縛し、鎌倉に連行しました。そして、「日蓮の信仰をやめよ、やめたら許してやる」と拷問しました。百姓衆は、どんなに拷問されても「日蓮聖人の信仰はやめない」とがんばり通しました。その結果、百姓衆の代表三人が殺されてしまいました。この代表三人を「熱原三烈士」といいます。

この事件の顛末に深く思いを致された大聖人は、熱原三烈士の死を機縁とされ、日蓮一期の本懐として、戒壇本尊を顕わされたのです。してみると、戒壇本尊を当て賜った張本人の熱原三烈士自身が、戒壇本尊を拝んだ事もありません。この熱原三烈士は成佛できないのですか。まずは、阿部宗門にこのように尋ねる事としましょう。

さらには、戒壇本尊が造立される以前で、且つ、大聖人にお会いしたこともなく死んでいった信者もありますが、こういう人は成佛できなかったのですか、と尋ねましょう。

二、

 彼らに反論しましょう「戒壇本尊は法門上、どいう本尊として位置づけられているのですか」と。

そもそも、戒壇本尊とは、広宣流布の暁に戒壇堂に安置し奉る本尊であり、広宣流布が来るまでは公開してはならない本尊です。それゆえ、古来から蔵にしまってお守り申し上げてきたのです。古来から人々は、普段の信心においては、戒壇本尊以外の本尊を拝んできました。古い時代の中では、戒壇本尊の名さへ知らずに死んでいった信者もいると想像されます。こういう人々は成佛できないのでしょうか。

ついでに、未だ広宣流布はきていないのに、金を取って戒壇本尊を拝ませるのは正しいのでしょうか、と尋ねましょう。

三、

 彼らに反論しましょう。「戒壇本尊は直拝するのが正しいのですか」と。

直拝とは、直接に戒壇本尊を拝むことであり、この直拝には内拝と公拝の二種があります。

内拝とは、陰でこっそりと拝むことです。これは、いつ来るかわからない広宣流布を待ってはおられない人々のために、特別のはからいで、時の貫主が私権をもって許可した礼拝方法です。現在、御開扉と称する礼拝は、要するに、この内拝です。いわばこれは、非常手段であり公式ではありません。

公拝とは、広宣流布達成の時に、公式に戒壇堂を建立し、公式に戒壇本尊を安置し、公式に礼拝することです。未だ広宣流布は達成されておりませんから、この公拝は禁止事項です。

直拝に相対する礼拝方法として、遙拝というのがあります。遙拝とは、蔵の中にある戒壇本尊を、蔵の外、もしくは遠方の異地から遙かに礼拝することです。

当家では古来から、広宣流布以前は遙拝をもって正式な礼拝方法としています。その証拠は、本山の丑寅勤行で歴代貫主が遙拝をしているのがそれです。

してみると、直拝しなければ成佛できないというのは、ちと、過ぎた理屈になりませんか。と一押しましょう。

四、

 彼らに反論しましょう「戒壇本尊とは何なのですか」と。

そもそも、御本尊とは大聖人の魂です。

ゆえに経王殿御返事に云く

「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候」と。

さらにはこの「日蓮が魂」を信じ奉る行者自身でもあります。

ゆえに御義口伝に云く「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」と。

かるがゆえに、本尊の実体に迷う者を誡める意味から「この御本尊まったく余所に求むる事なかれ、ただ我等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におわします」(日女御前御返事)とも仰せられるのです。

ここのところを理解せずに、本尊を物体とのみ執することは愚かしいことです。

ところで、「日蓮が魂」は本尊という物体があれば、必ずそこに宿っているものなのでしょうか。この点について、大聖人様は遺言なされています。「謗法の山には住むまじ」(日興上人の原殿御返事)と。つまり、謗法があれば、いかに本尊という物体があろうとも、その本尊に大聖人の魂は宿らないということになります。

ようするに、本尊の死活は行者の清濁によって決せられるということです。

 しかるに、阿部宗門には大きな謗法があります。

一は、池田学会への謗法与同罪があること、

二は、その罪を隠して懺悔せず、「我れ正し」とゴマカ シていること、

三は、悪人愛敬、善人治罰の罪があること、

四は、阿部本仏論を唱えていること、

どうして、「日蓮が魂」が宿るわけがありましょうか、と反論しましょう。

ついでに文証追加。

曽谷殿御返事に云く

 「いかに法華経を信じ給うとも、謗法あらば必ず地獄に堕つべし」

治病抄に云く

「いかに法華経をもって祈るともしるし無し、経は勝れたれども、行者僻見の者なるゆえなり」

これらの文証の「法華経」という言葉を「戒壇本尊」と読み代えれば、義は彷彿とすることです。この文証をあなたに差し上げますと、申し上げましょう。

成佛するかしないかの要は、戒壇本尊を直拝するか遙拝するかにあるのではなく、戒壇本尊を正しく信ずるかどうかの一点にかかっているのです。

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