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雑記帳                   

 さて、雲龍丸は明日出航です。昨年とのつなぎ、そして来年への模索をしていけたらと思います。「海道をゆく」は、単に県の主催する講座という教室(学びの容器)だけではなく、県民の探求課題であり、この国の21世紀への課題であると感じています。のんびりしていないで、早急にこの課題を議論し探求していかないと、新しい郷土のイメージも国際関係も見えてこないと思っています。学び手がいかに学び新しい発想やイメージを獲得し、世論を盛り上げて、いい風向きをつくっていくかです。僕にとっても、「海道をゆく」はライフワークになっています。将来的に講座というスタイルがなくなっても、違う形で探求活動は続けますし、泊村の歴史も、韓国との交流も、すべて海道につながっていくと感じています。

 今まであまりにも陸からの発想によって、政治や文化が枠にはめられてきたかと感じます。「若狭のみち」から「海道をゆく」というこの自然な流れのなか、海に出て、海からの発想で若狭を、日本を、そしてアジアを考えるきっかけを得ました。

 堀江さんに、最初のきっかけをつくっていただいたのです。あらためて、今後の人生や、この国のこと、教育や政治のことについてもお話をうかがい、また、議論したいものですね。

1998.7.23 海坊主


雲龍丸で対馬へ行く、雲龍丸で韓国の麗水へいく

 これは、時代の課題です。小浜水産高校廃止などどいうの問題もあります。しかし、海を失ったら、海の学びを失ったら、この町はおしまいです。この国はおしまいです。全国で一番古い歴史をもつ小浜水産高校、海の学びの灯台なんです。福井の平野の中から21世紀を見るだけでなく、海のある若狭から21世紀を見る、そういう視座が必要な時が来ています。中島辰男先生が「福井県の誕生」を執筆されて改めて歴史的な経過をもとに福井県の生き方を考える視座を示されました。若狭の衰退は福井県自信の滅亡に直結します。越前と若狭の比較論では前にすすみません。個性を活かしながら、プラス思考で考えていく必要があります。そういう点からも、若狭図書学習センターで開催する講座は、常に、若狭の個性をもったものが含まれている必要があります。「海道をゆく」そういう点からも、継続、蓄積、発展させてほしいと願います。     1998.7.11    海坊主


海道はひろがり 若狭から隠岐へ そして次は対馬へ

 これは、古代からの海人のネットワークの再発見のルートであります。黒潮にのって大陸から、南方から多くの人やものがこの小さな島「日本」に渡ってきたことを想像し、学びを広げてゆく。2002年にはワールドサッカーも韓国と日本の共同開催。もう日本の中だけの発想ではダメなんです。お互いに抱き合うこの海、海の発想でないと。

 どうしても、来年(1999年)は、対馬へ、そして、やがて2000年、韓国の麗水へいきたいものです。時代が求めている課題なんです。東京や大阪がやってもダメなんです。海に面しているこの若狭から発信しないと。若狭からの発信が、新しい時代の関係を開いてゆく可能性があるのです。大きいとか小さいとか、お金があるとかないとかが重要なことではなく、どんなアイデアや発想があるか、いかに情熱があるかということ、量よりも質の時代が来ています。                    1998.7.10  海坊主


海人の発想

 海のネットワーク 「海は人を隔てるものではない、海は人をつなぐ」(海坊主)

 7月10日、小浜港に雲龍丸が帰ってきました。久しぶりの勇姿です。日焼けした荒木船長の笑顔が待っていてくれました。ハワイ沖での操業、そして、海難事故の捜索等でぎりぎりまで太平洋を航海し、小浜に帰ってきました。今回の多目的航海の内容やスケジュールには変更はありません。いろんな配慮に感謝です。雲龍丸に乗ると海の時間が広がっていきます。

 それにしても、我々は陸に閉じこもって、いかに閉鎖的な発想や生き方をしているかと気づくことが多いのです。もともと、海人のアンテナや発想をもっていた日本人が、この狭い国に閉じこもった思考パターンが作られてしまうのはなぜなのでしょう。なかでも行政の枠の中の発想というのは、どうしようもないことが多くあきれてしまいます。自分の立場や、嘆きの発想でなく、情熱をもってぐいぐいと仕事を押し進めることが、今、一番肝心かと思います。楽なことならだれでも出来るけど、ただやっただけで何も風は吹きません。生涯学習の現場で、あんなに多くの情熱が集まっています。特に若狭図書学習センターに集まる生涯学習者の熱気はすごいものです。会場の空気が違います。この勢いが21世紀を開くのではと思います。特に、若狭にとっての大きな課題を抱えています。新幹線や高速道路、小浜線のこともあるんですが、そんなものが次々と整備されていったとして、この町々に宝物がなかったら、誰も来ません。まして、ここに住んでいる人が、「この町は、こんなすばらしい町や」と誇りをもつ何かを明確にもっていなかったら、だれも来ません。のこるのは、観光客の残したゴミと、はいっていった唾と、住民の嘆きです。この町の歴史や文化をあらためて見直し、再発見、再評価して、大きくみせてゆく必要があります。古代から海道の重要な位置にあった若狭、もう一度、海人の発想で再発見してみたいものです。過日、網野善彦先生のご講演を聞き感動しました。古代から海の民のネットワークがあって、若狭湾には集中して船の往来があった。国境は人為的につくられたもの。海は人をつぐもので隔てるものではない。「日本海」という名前さえ、将来的には、きっとこの海を抱き合う国の民同士が協議して話し合うことが必要な時期がくるだろう。先生の話を聞きながら、胸が震えるほどの共感をしました。網野先生のお話が、今まで僕自身が感じていた発想や想い「海道をゆく」をぴたりと言い当ててくださった、そんな気持ちになりました。    

       1998.7.7  星を仰いで航海していた海人を想う   海坊主


海道をゆく 2002年への羅針盤

 未知のところへ行くのは、何か不安とうれしさと緊張が混じり合います。「海道をゆく」という講座自体もそんな要素、雰囲気をもっているからこそ、参加されるみなさんのあの新鮮なまなざしがあるのでしょうか。人生は、先が見えていると面白くないし、やっぱり、はらはらどきどきしていたほうが結果的にも充実するのではないでしょうか。担当者もそんな気持ちを参加者と共有しながら、すすんでいくというところが、また、この講座の新鮮な雰囲気をつくるのではないでしょうか。

「海道をゆく」このテーマは、単に生涯学習の講座のテーマだけではなく、人生の旅、道さがしの旅なのではないでしょうか。何もかも分かったつもりでいる時代、何でも情報の氾濫、でも、本当に自分の人生を見つけていくための学びに達することなく、ただ物知りで終わってしまうような状況があります。福井県の生涯学習が趣味の講座だけに終わっていたら情けないですからね。今日の刀禰勇太郎先生のお話は、ど真ん中にぐんときたお話でした。「知っただけで終わっているのでなく、そこから新しい学びを始め、どんどん探求していく」気概、それを教えていただいた気がします。「海道をゆく」次々と登場する講師陣、強烈に探求者の生き方を示してくださいます。「海道」をつないでゆくのは学んだ知識ではなく、受講者それぞれの人生探求道でしょう。ますます面白くなってきましたね。今年は、雲龍丸は隠岐に向かいますが、来年は、対馬へ、そしてどんどん大陸とのつながりも間近です。ワールドカップは日本は惜敗しましたが、2002年の韓国との共催のときが楽しみです。 単にスポーツの試合ということでなく、韓国と日本の国家同士のチームワークが必要な時がきたのです。「海道をゆく」この学びが、若狭の港から、日本海にひろがり、そして、隠岐、対馬、そして韓国へとつながる学びに発展し、国際平和に積極的な貢献ができるような学びになることを期待します。国同士や企業の駆け引きだけでは、歴史の溝はうめられないと思います。民同士の学びや交流こそが、新しい道です。そういう意味で若狭図書学習センターを基軸に展開する「海道をゆく」は、時代の新しい風にのり、また、新しい風を起こしていく企画になることを期待します。                           1998.6.27 海坊主


 小松和彦氏の話を聞いて、印象的だったのは、彼が「伝承は民衆の記憶装置」といったようなことを話されました。小浜市矢代に伝わる伝統行事「手杵祭り」。その由来が、異人殺しという事件であり、祭りの内容もその事件を再現しているのです。講演のあと、地元の主婦が、「地元にとって異人殺しという表現はショッキングであり、私たちは、このマイナーな祭りを心の中で否定したいと思っている」といったことに対し、小松先生は、「先祖からずっとこの事件を祭りという形で伝承してきた意味を考える必要がある」と言われました。ここで議論は切れ深まらなかったのですが、その後、その主婦は、まだ何かいいたそうだったので、ぼくも残って話をしていました。「この記録をパンフレットにしてはどうですか。あいまいに、上辺だけ伝わっているから遠慮や迷い、後ろめたさが出てくる、きちんと記録し、伝承してきたことの意義や村づくり、未来に伝えることまで、村で何らかの形に残していってはどうですか」と個人的な意見をいいました。彼女とご主人は「また、そうだんに乗ってください」とのことで、帰り際に小松先生にも紹介して分かれました。

 次の日、網野善彦氏の「海の国、若狭の中世」といったテーマで講演をされました。とてもすばらしいお話しでした。僕自身が考えていた「海道をゆく」のイメージにぴたりときました。内容は、またお会いしたときにご報告します。

                              1998.6.10 海坊主


 新井英一氏のコンサートいかがでしたか。ぼくも行く予定でしたが、仕事と重なって行けなくなりました。ちょうど、半年前、今回の主催の村田さんが、若狭の方にきてくださり、新井さんのコンサートをやりたいとのことで、つなぎをさせていただきました。高浜で新井さんや村田さんと酒を酌み交わしながら福井でのコンサートの構想を練っていました。新井さんのコンサートを初めて聞いたのは、九州の田川市の小さなホールでした。それから、新井さんのメッセージに心をひかれ、若狭高浜でのコンサートのつなぎもさせていただきました。新井さんの歌は時には怨歌なんですが、民族を越える熱いものが奥にあります。日本の演歌をきいているより、なつかしい何かなつかしい感じがするんです。歌というのは、魂の叫びであり、時代を生きる人間のメッセージなんだと思います。

 さて、ロジンさんと出会って、もう10年以上経過した気がしていますが、2年前にであったのです。お互いに、時間の蓄積が加速度的なので、もうずいぶんあっているような気がします。「海道をゆく」だけでなく、私の村の取り組み「韓国船遭難救護の記録」をもとにした韓国との交流計画、その他、人生のライフワークにおいて共有点が多くあります。ロジンさんのいままでに歩んでこられた人生を聞いて、私自身が感動し、「ロジンさん、是非本にしましょう」ともちかけました。ロジンさんが、日本語で少しずつ書き始め、それを私がワープロで入力し、本にする準備を継続しています。もう300ページにもなりました。ロジンさんの人生は、戦前、戦後のアジア史そのものです。本にして是非伝えたいと思っています。

                       1998.7.      海坊主


 先日は、雄島さん参拝の世話をしていただき、高浜の漁師さんといっしょに雄島に行けました。どうもありがとうございました。雄島は、前回、上瀬から出航したのと2回目ですが、不思議な魅力の島で、神々の降臨を感じ、また海道のロマンを感じる島です。過去にどれだけの人がこの島を訪ねたことか。また、大陸からの人たちもこの島に立ち寄ったことだろうか。海道の時代、島は、重要な休息のポイントであったのでしょう。

 雄島参拝が盛んだった戦前の活気を、高浜の古老の漁師さんから聞きながら、当時の海道の様子を思い浮かべていました。

 6月20日は、海道をゆくで丸木氏の講座、みなさん楽しみにしていると思います。今日も、桑田テントの社長さんと会ったら、雄島の船玉を一度みたいと言っていましたので、講座の紹介をしました。僕は、20日は高浜で午後から晩まで組合の集会があり、行けないので残念です。どうかよろしくお願いします。        1998.6.13海坊主


大阪市の帆船「あこがれ」に乗って、小笠原の母島まで往復、1500海里の航海に行ってこられたお話、いいですね。またお話を聞かせてください。ところで、僕は転勤になりましたが、「海道をゆく」は続きますし、僕自身も関わっていきます。海道の夢は小浜の町の課題です。桑田さんの夢をどうか載せていってください。歴史の再発見と啓発により、この町にポットをあて大きく見せていけると思います。またお会いしましょう。1998.5.海坊主
堀江さんへ

「海道をゆく」は、今年、隠岐に向かって雲龍丸が出航します。僕は一般参加者という形で、このプロジェクトに関わっていくつもりです。記念講演に谷川健一さんを予定しています。海道は隠岐から韓国の麗水へと広がり、日本海の夢が大きくなっていきます。一方、泊の歴史を知る会の活動も、その後、大きく展開し、この秋には韓国から訪問者をお迎えする予定で、学びを蓄積しています。「生涯学習の学びは、趣味の延長ではいけない」というのは、僕が初めて若狭図書学習センターの講座の担当をしたときに堀江さんからのアドバイスですが、それを元に僕なりの取り組みをしました。そして、講座はもちろんですが、仕事を越え、地域の活動、ネットワークを越え、国境を越えて、僕自身のライフワークとしての課題ができました。堀江さんに感謝しています。そして、今後も議論をしていきたいと念願しています。議論、そしてコンセプトの構築、そして実践。これを確実に繰り返していきたいと思います。ところで、その後、堀江さんのお話を聞く機会も少なくなっています。また、親しく語りたいものです。                   1998.4. 海坊主