あぜみちの会ミニコミ紙

みち20号

(1999年冬号)

写真:第5回収穫祭スナップ

シグナル


福井市 中川清


 新しい年が明けた。
 昨年は暗いニュースが多すぎた。
 経済は、不況、不況で過ぎたし、和歌山などで毒物事件が連発し、政治家、官僚も汚職ばかりか、日米で女性スキャンダルまで飛び出し惨憺たるものである。
 農業界は、あんなに反対していた輸入自由化を年の暮れに、いとも簡単に容認した。  これは数年前に、強固な反対をミニマムアクセスとかで強引に合意させた時からの一連のシナリオなのかと疑いたくなる。
 こんな年であったればこそ、新しい年に何か期待をしたいものである。
 年の初めに、今年やりたいことの計画を建てる。あれもやりたい、これもしたいと夢は多いほど楽しい。
 「二兎を追うもの一兎も獲ず」とか云って、人の力に限界があるからあまり数多く望まぬが好いという戒めだと思うが、私は、今年数多くの夢を持ちたいと思っている。
 昨秋、収穫祭の前夜、「癒しの農業」のシンポジウムで、まだ若い近藤まなみさんが「障害を持った兄の安定した働き場所を求めて家族で農業を始めた」という内容の講演をされた。
 これは聞く人に多くの感動を与えた。
 農業には、経済的な面以外に多くの目的があることを、今更のように痛感した。金儲けの為の農業を追い続けると、金に窮したとき(経済的に行き詰まったとき)の打撃が大き過ぎる。
 二兎も三兎もの意味で、健康のこと、環境の事など、いろいろな目的を追えば経済が多少窮しても、他の面で頑張れる気がしてきた。
 だから今年は、目的や希望を多く持ち、三兎も五兎も追う夢を描きたい。
 たとえ、これから真っ暗な夜を迎えるのであっても、西の空の夕焼けのあかねを見て、明日の天気を信じたいものである。


日頃静かなハウスに人が群れて


−永平寺ファームでの収穫祭−


福井市 屋敷紘美


 越坂トンネルを抜けるとすっかり山あいの風景になって、初秋の色合いが一層濃くなる。
 今年の「われらの収穫祭」は、このトンネルを抜けた永平寺町京善にある(有)永平寺ファームで一一月二三日に行われた。農場主の道下さんは、僕にとっては、県下で最初に家族経営協定を奥さんと結ばれた、フェミニストとしてインプットされている。僕は家では亭主関白なのに、どういうわけか、男女共生に関する「懇話会」やシンポジウムのパネラーに招かれたりする。その際、農村の男女共生の例として「家族経営協定」と、その例として「永平寺の道下氏」の話をすることにしている。
 彼はMOA(自然農法)の実践者で−今度の収穫祭にも、彼らは活動の紹介パネルや生産した野菜を出品されていた−必ずしも農業者だけではないらしいかれらのグループに民主主義的な雰囲気があって、家族経営協定の先駆けとなった土壌になったかもしれないと想像したりする。専業農家はともすれば農村社会にその行動エリアが限られがちだ、という僕の偏見がなさしめた想像かもしれないが……。
 今年は僕らの「あぜみちの会」が結成されて一〇周年になることを記念して、来年の一一月二三日に向けて記念行事を計画している。3回の連続シンポジウム、「みち」の記念出版、一〇周年記念パーティなどである。
 その第1回目として、収穫祭の前日、永平寺ファームのハウスの中で講演とシンポジウムを行った。およそ三〇人位の人達が参加されたと思う。僕は自分がこのシンポジウムの進行係だったから「欲目」があるのかも知れない。
 その中で、僕にとって刺激的だったのは近藤まなみさんの講演「癒しのガーデニング」であった。それまでに僕は大江健三郎の「恢復する家族」によって、心身に障害をもつ人達との共生は「庇護する者」と「庇護される者」との関係ではなく、互いの人格を認めあいながら、才能や生き方を刺激しあう関係であること。そして補完しあう関係であることを教えられていた。恥ずかしい自分を告白することになるが、家族や社会的な保護の下で生活する彼らは人間的にも劣っているような漠然とした錯覚を、深くも考えずに僕は持ち続けてきた。
 近藤さんのお兄さんで、知的障害者である岳志さんが、すれ違う車のすべてを言い当ててしまう才能は、大江氏の長男さんがクラシック曲を言い当てる能力に照応するし、「兄のためにと家族で始めた農場ですが、そのことで癒されていたのは実は私の方だった」という生き方は、光さんとの共生や、かれの発する言葉に触発されて小説を紡ぎ出す大江氏の生き方と重なっている。この事実を発見したときの僕の感動は言葉で尽くせない。
 「農業と癒し」と題されたシンポジウムは、僕たちの仲間、朝日泰蔵さんの企画である。見谷ナーセリーの見谷春美さんは、花作りのなかで癒される自分や地域や市民が自分達の仕事を通じて、心が豊かになって欲しいという夢と希望を話された。収穫祭の農場主である道下博信さんは、自然農法の指導者の言葉を紹介しながら、自然との共生の大切さを話された。殿下地区公民館の主事をされている橋本美佐子さんは、女性の活躍によって地区の活性化が図られていること、そして地域のコミュニケーションが深まったことを、事実を示されながら話して下さった。進行係の僕はその能力の無さに歯がゆい思いをしながら、大江家と近藤家が共通の生き方をしていることを紹介して、「癒し」ということが人や自然を愛し、信じ合うことで双方にもたらされることを結論とした。
 午後5時に近づくにつれて、ハウスの中はしんしんと底冷えがするようになり、また暗くなって人の顔が判別できなくなり、ライトがつけられた。我ながら熱心なことだと思わずにはいられない。それでもハウスの入り口近くから前夜祭の料理の匂いが漂ってきて、場内は次第に落ち着きがなくなってきた。さしずめ「早く終わって、一杯やろう」ということだったろう。
 料理の主役は見谷さんのアイガモ料理、橋本さんにお願いした殿下の郷土料理である。そして特別参加で、僕たち「あぜみちの会」が通いつめる「BAR花木」が出張開店してくれた。しばし、おいしい料理とアルコールをいただいて、次第に寒さと緊張が和らいでいった。
 翌日は収穫祭本番。開会は午前一〇時だというのに近所の人達らしいお客さんがどんどんハウスの中に入って来られて、事務局は大慌て。片岡君は「ハウスに入れていいんですか」と気色ばんでいる。いかにも彼の若さが表れていてほほえましい。それにしてもあっという間の出来事であった。お客さんはもう野菜などを買い始めている。開会式が始まる頃にはハウスの中は人で一杯になってしまって、上良会長、道下さん、川崎不二雄永平寺町長や地元区長さんのご挨拶は入り口から会場に向かってしていただくことになってしまった。開会式といえばちょっとしたハプニングがあって、テープカットのハサミが足りず、慌ててナスやきゅうりを着るハサミで代用したものだから、なかなかテープが切れなかったらしく、会場の笑いを誘った。これもまた農場での収穫祭らしい一こまといえようか。  今年の収穫祭では、僕には名津井さんの奥さんが入れてくれるミルクがたいへんおいしく感じられ、何度か頂いた。また「カモなべ」も格別の味であった。
 前田さんの手打ちソバも収穫祭の定番として人気が高く、人の列ができていたが、僕にとっては彼の手の動きの方にむしろ見とれたものだった。
 収穫祭も5回めだから、安実さんを中心として、それぞれ会員の動きもスムーズで手抜かりはなく、和やかで心温まる1日であった。

さらなる夢


永平寺町 道下博行


どうなる事かと心配していた収穫祭。
 多くの人達の参加を頂いて、盛大に行うことが出来ました。
 何日も前から準備して頂いた会員の皆様、お力添えを頂いた皆様に心からなる感謝を申し上げます。
 自分で作った物を、自分で価格を決め、自分で売る……。
 という長年の夢に一歩近づくことが出来た喜びに浸っているところです。
 今度の収穫祭で、地域の人達に行政とか農協といったところの手を借りずに、農業者と仲間達だけでも、あゝいった事が出来るんだという事を知ってもらえた事。
 そして何をするんだろうか、どうするんだろうかと思っていた人達が、多くの方々に来て頂いたことに「ビックリ」……。
 「よかった」「よかったのう」と喜んでもらえた事。
 これが私にとって一番の収穫ではなかったかと思っております。  また、家族全員が参加出来た収穫祭、これを機に自分の夢に向けてさらなる一歩をと思っております。
 今後とも皆様方のお力添えをお願い致しますと共に、今回参加頂いた多くの皆様に「みち」の紙面をお借りして感謝申し上げ、お礼とさせて頂きます。ありがとうございました。

<詩>  たまごをわる


清明小 中川寛紀


たまごを わったとき
ひよこが 出てきたら
びっくり するだろう
たまごを わったとき
にわとりが 出てきたら
もっと びっくり するだろう
たまごを わったとき
人間が 出てきたら
もっともっと びっくり するだろう
たまごを わったとき
ぞうが 出てきたら
こしを ぬかすだろう
そんなわけで
卵の中のひよこや にわとり 人間 ぞうは
黄身に ばけて 出てくる


これどうする


I.S


…農林行政の流れから…
一、低調な農業委員会活動  戦後の行政推進体制の改革で、民主的な運営や活動を促すため、各自治体において教育長や農業委員会制度が設けられた。現在もなお、公選制がしかれているものに農業委員の選出がある。
 公選制であるから、それなりの権威や識見が備わらなくてはならない事ぐらいは承知しているものであり、選出方法を批判するつもりはなく、委員会活動そのものが活力あるか否かが問題ではないかと思えてならない。
 本来の活動は地域の農業振興をどうするのかが基本的な課題であって、この中で振興に必要な土地利用のために、土地をどの様に確保するかが論議されなくては、意味が無いことになる。
 例えば農地の流動化一つにしても、本来は大規模化や専業的経営体育成のためにされなくてはならないだろうが、現実には旧来の自小作解消さえもおぼつかない現状で、多くの人はこれがなぜ必要なのかが分かっていない。
 月例的な委員会は農地法三条・五条の承認行為が殆んどで、全体計画の構想に基づいたものとはいい難い。この様な状態を個々の委員会の主体性を批判するものではなく、国策としての方向、方針が不明瞭だからこの様な状態にならざるを得ないことになる。
 このことは現在、論議されている食料・農業・農村基本問題調査会の検討の場に見られるように、「自給率が示されない」状態からも察せられる。
 生産振興にかかわるものが、自給目標がなくて何を目標に考えるのか……各自治体の主体性のみで食料の供給ができるとでも思えるのかねぇー。

二、里山開発と植林、
     そして景観は
 燃料革命がおきて雑木林の価値がなくなっていった頃の昭和三〇年代後半には、里山開発なる事業もあって、家の近くにある山だから「更生造林」といって、雑木林を伐採し、杉や檜の植林がなされた。
 今日、四十年ぐらい経過すると、伐採の時期に達してきたものもある。こうして素直に見れば良い事をしたものだなぁーと思うだろうし、何の変哲もないような話になる。
 しかし、時代が変われば物事の価値観も変わるし、経済的な背景も変わってくる。それは木材の経済的価値が極めて乏しいことで、余程一ケ所に大量に伐採されない限り経済的な潤いはないし、里山は一人が大面積を所有しているようなことは極少ないから、現実的には程遠い話になってしまう。
 そして今の農村に欠けているものに景観不足がある。家の近くの杉や檜は紅葉しますか? 落葉しますか? 年中ほぼ同じ色を呈している。木も大きくなってきて「むらの周囲がうっとうしい」ことだ。
 これらの影響はそこに住んでいる人達だけのものに止まらず、お嫁さんのことにまで影響することも理解してほしいものだ。
 北陸のような冬季の日照に恵まれない所は、少なくとも庭木ぐらいは落葉樹を植えることを教えられている。せっかく大きくなった樹木を処分しろとまではいわないが、何か物足りない結果に呆然とせざるを得ない、回顧録的発想ではない意味の、紅葉もあり、木枯らしもあり、新緑も漂う景観作りはないものか……。
 それは奈良県吉野村に見られる集落周辺に「染井吉野」がたくさん植えられていて、春になれば花の中に集落が浮き上がっているような光景に見ることができよう。

三、牛歩の園芸振興
 土地の形状は、平地があって、傾斜地になると畑が帯状に山に連なっている、というのが一般的であった。今日はこの畑が殆ど姿を消してしまっている。
 その理由は、水田にしたほうが経済的であったし、畑では労多くして所得が伴わないこともあって、山沿いにあった畑の多くは植林をするか、圃場整備と共に水田に変貌してしまったのである。
 このこと事態は、致し方のないことだとは思うが……。
 実は、過去の農事記録によると特産物といわれるものや、工芸作物あるいは果樹などといったものは、この畑が出発点であった。水稲以外の作物の殆んどは畑作物であり、山沿いに存在した畑が試作圃で、ここから規模拡大がなされたことから、新規作物の出発点であった様子を知ることができる。現在のように大きくなった水田にいきなり園芸作物導入といっても実現しない理由が、この辺にありはしないか。
 もう少し具体的にいうなら、水田を利用した既存の園芸産地の大半は、大河川沿いで排水か透水の良い所か、奥越のような乾田地帯に限られていることからも理解されよう。一般の水田に園芸作物を導入しても、それ程の成果=規模・所得=が得られていないのが現状だろう。こうした課題を克服していくために、園芸作物のための圃場条件整備まで取り込んでいくだけのパワーは、行政指導からも生産者側からも影が薄いとしか思えない。

四、技術の伝承と新技術
 福井県における園芸関連試験研究の歴史は「松平試農場百年史」に見ることができる。今からほぼ百年前(1897年)、福井城とその周辺に(後に金津町山室地域に移転)今でいう地場産業興しのための実験農場が設けられ、当時としてはかなり先進的で、藩主自らが欧州から学んできた園芸関係の技術を持ち込んでおり、当時からリンゴの矮化技術の研究がなされている。この試農場が発足して三年後(1900年)に県農会(JA組織の前身)直営の農事試験場が設立された。
 この時に研究内容の分担について試農場と協議がなされ、園芸関係は試農場が行い、稲作と一般畑作物は農事試験場が行うこととなった。
 試農場の運営は独立採算方式ではあったようだが、必ずしも採算が成立していたわけではなく、とくに戦中は食糧増産に引き込まれて農場経営は壊滅的状態であったようだ。  このようなやり方から察するところ、地域レベルの研究からかけ離れることとなり、これが福井県の園芸生産基盤づくりが遅れてきたようだ。
 このような事からも、園芸生産に対する取り組みは遅れを取るようなこととなったようである。農事試験場が県立になってからも、園芸関連の研究に取り組み始めたのは戦後のことである。
 前置きが長くなってしまったが、最近、野菜関連機械開発にともなって現地実証や実演会に同席する機会が多くある。
 機械化の目的は先ずは省力化であろうが、実は野菜では省力化よりも、生育の均一化によってもたらされる高品質化の方が価値がある、という事に気付いてほしいことでもある。しかし現地で指導機関から示される「マニュアル」なるものは、教科書的で、現地実情(土地条件や気象条件に合致した作業体系、対応する機械の利用法など)や百姓技術(教科書にはない本来の技術のこと)に対応したものは見られない。なぜこうなるかは、実践的な経験不足であろうし、また、この様な体験を嫌う傾向もあるようだ。
 機械屋である小生は現地で見解が異なることがしばしばある。それは能率的な手段・手法と、原則的である生理生態的な側面とをドッキングした技術が成し得ない限り、断片的な「マニュアル」では理解は得られ難い。こうした技術の出発点の一つは、家庭菜園(土地がなくても貸し農園がある)からであろうが、もう一つ加えてほしいものに手作業時代に行ってきた基本的な手法の習得を勧めたい。これは現状の機械がどこまでクリアー出来るかが理解されるからでもある。
 諺に「古きを知って新しきを知る」というのがある、その古きは家庭菜園にあると言いたい。この事が十分に習得されれば、技術の伝承の中で新しい技術が定着していくものであり、このことが説得力を大いに高めていくことは間違いなしだ。その具体的な事例は奥越地域の「さといも」に見ることができる。

五、野菜関連の機械化は
 主要作物である稲作の機械化はほぼ完成したといって良い。しかし、これが野菜となると地域が変わり、作型が異なり、種類が多く、そう簡単には機械開発というわけには行かなかった。この様な事は言わずと認識していたことではあるが、新農政の提示以来、国公立の試験研究機関と関連メーカーが一体となって、通称、緊プロ(農業機械緊急開発促進のためのプロジェクトチーム)なるものが発足し、一挙にと言って良いほど機械の開発が進んできた。これまでの開発は、耕転・播種段階までのものではそれなりに評価するものがあったが、中間管理作業や収穫作業となると、先述のとおり各々の作物への対応は極めて困難であろうし、なかでも収穫ともなれば損傷が生ずるようなものは駄目となる。この様な条件をクリアーしていこうとすれば、自ずと価格に跳ね返ってくる。価格も稲作の機械に比べれば二〜三倍位に相当するものが多い。ましてや販売台数が少ないとなれば、なおさらこのような状態になってしまう。
 価格的には少々高い物ではあっても、現実的には、高齢化への対応、労働負担の軽減、農作業の快適化といったような課題に対応するには、機械化しか選択する途がないだろう。  個別の経営に取り込むにしては過大な投資になることから、行政支援も得ながら地域リースかレンタルシステムの構築、或いは部分的な農作業の受委託を促すことであろうが、圃場機械は揃えても洗浄、選別、選果などといった後処理の体系化がなされなくては成果が高まらない。
 JAや町村の枠を超えた広域的でも良いからRC、CEのような施設化も備わってほしいものだと日頃から考えている一人でもある。
 前者の圃場機械については、仮にリース公社みたいなセクターが運営し、生産者は利用すると言ったような体制があれば、生産は拡大されると思われてならない。


あぜみちの会結成一〇周年記念講演  パート1(1998.11.22)


癒しのガーデニング(その一)


講師 フラワービレッジ代表 近藤 まなみ


 皆さんこんにちは。只今ご紹介いただきました近藤と申します。群馬県倉淵村という山の中から、今日ここへおじゃまさせていただきました。
 私たちのやっているフラワービレッジは、全くの非農家からはじめた花屋ですので、目の前にいらっしゃる皆さんの方が大先輩で教えていただくことの方が多いような気がしておりますが、私たちの花屋がいろんなところで『何か今までと違った形態』として取り上げてくださっているので、私がかれこれ一〇年近くやってきた、私なりの農業、そんなものを今日ご紹介させていただこうと思っております。
 今日、皆さんお集まりいただきまして、私の方が教えていただきたいこともあるかと思いますので、私の話はちょっと早めに終わり、皆さんから質問などをいただきながら時間を消化していきたいと思っております。
 作っていただきました資料に、私のこと、私の農場のことも書いてあるのですけれども、私が農場をはじめたいきさつからお話ししたいと思います。
 一〇年前、私たち家族が群馬県倉淵村というところに入って花農場をはじめました。元々私たちが花農場をやろうと思い立ったのは、農業がやりたくてなったということも一つあるのですけれど、それよりは、実は私の兄が、今でいう知恵遅れという分類になるのでしょうが、知的障害を持って生まれ、彼らが働ける場所を作りたいというのがきっかけだったのです。というのも、彼らが働ける場所というのは、すごく限られたところでしかなかったり、もしくは全然なかったりということが、特に親御さんの共通する悩みだったんですね。もちろん私の両親も同じような悩みを持っていたんです。いろんな方が、学生時代からのつてとか、職種だとか、職場を探したり、ネットワークなどを組んでみたり努力していたのですけれども、やはりどうしても彼らがのびのびと働ける場所が少なくて、例えば、工場で仕事をする場合、工場主さんなどのトップの方の理解があっても、実際に作業をする現場の人たちと折りあいがあわなくなったり、意地悪をされたり、作業がついていけなかったりして、彼らが働ける場所がとても少なかったんです。そんなに少ないのだったらいっそのこと自分たちで作ってしまおうじゃないかというのが、私たちが農場をはじめた一番のいきさつだったのです。スタートしたのは一〇年前でしたけれど、考え、思いが家族の中にあったのはもっと前の話になります。
 その当時、ちょうどいろんなものが満ち足りてきて、心の時代と言われはじめるようになりました。衣食住も満ち足りてきまして、心を象徴するもので花なんかがおもしろいのではないかな、ということから、農業の中でも花を選択したのです。でも、やっていくうちに、全くの非農家なものですから、誰も農業の「の」の字も知らないメンバーばかりですので、これではいけないということで、かじる程度ではありますけれども、私が技術面、栽培面のことは勉強してみようかな、ということで大学で園芸を専攻し、その後ドイツのジプラーという花の農場実習生として、一年間研修をしてきました。そしてその後倉淵村に戻ってきまして、農場をはじめたというのがスタートになります。それが今から一〇年前になります。
 そんなことではじめた農場ですから、場所も場所で、中山間の本当に小さなスペースです。規模拡大して、たくさん作ってたくさん儲けて、という発想は最初から全くありませんでした。むしろいろんな人たちが出入りできる農場を作りたいという思いで、農場をスタートさせました。
 スタートは彼らの働く場所を作りたいということがあったのですけれども、かといって施設だとか作業所だとか言う形態ではなくて、農業は農業として確立したうえで、いろんな人たちと彼らも一緒になって、彼らが中心になってできるようなスペースを作りたいと思ったんです。彼らだけが、山の奥の方に隔離されて仕事をしているというスペースではないのです。ですから私の農場は、農事組合法人という一花会社としての形を最初から取っています。
 福祉と関係するというのは、たまたま彼らがそこを職場として働きに来ているという地盤だけであって、何も福祉作業所でも病院でも施設でも何でもありません。
 私の職業というのは、皆さんと一緒の農業人です。そういうことではじめた農場ですので、いろんな人たちが出入りできるいろんな仕事のある農場づくり、それが作物にかかってくるのです。農業というものは、そのなかに普通の工場のラインで作ってるよりは、自然とふれあえたり、土をさわれたり、鳥の声が聞けたり、太陽の光を浴びながら作業できたり、すごくいいことがたくさんあるなあということを何となく分かってスタートしたのですけれども、やり始めてみたら、私が思っていた以上に、農業がもっているすばらしさというのは、ものすごく大きなものがあることに気がついたのです。いろんな場面に発見があったんです。そのことをお話していきたいと思います。
 まず農業のもっているすてきな部分の第一面というのは、誰でもが何かしら必ず作業があるということだと思います。私の農場は、いろんな人たちが出入りできる農場ということでやってきましたけれども、彼らはやはり仕事ができるところとできないところがあるんですね。工場ラインでしたら自分のもっている分野ができなければそれでもう首になってしまうのですが、農業はそうではないんです。例えば水やりができなかったらゴミ捨てをする作業がありますし、ゴミ捨てをする作業がどうしてもできなくても定植をする作業ができたり、定植をする作業はちょっと細かくてだめだけれども、肥料をやることならできる。これは、私なんかよりよっぽど正確に、例えば化成肥料を一ポットに三つずつ入れてください4つずつ入れてくださいというと、私なんかはいい加減にぽこ、ぽこ、とやってしまうのですけれども、彼らは違って一個づつ三つずつきちんと 一つの落ちも無くやってくれるのです。そんなことが肥料やりの天才だったりするわけです。あとどうしても土に触れられない人の中でも、例えばうちの作業の中では生産ということではなくて、それの販売加工というようなことも仕事の中にありますので、花を摘む作業が仕事になっていったり、その中で、例えば花を摘んだものをドライフラワーにすることが仕事になっていったり、いろんな作業が農業の中に含まれているんです。誰でもが必ずどこかに作業があるっていうのが、農業のもっているすごく大きな魅力の一つかな、というのがこの一〇年の中に、ことあるごとに感じて来たことの一つです。
 そのほかにも、作業ということばかりではなく、最近農業のもっている多面性とよく言われているんですが、農業の持っている魅力というのはたくさんあるんですね。うちのスタートは福祉と園芸ということをテーマにしてきましたので、福祉に関係することは極力含めてきたつもりですが、今この時代は、障害者というレッテルを貼らないまでも、精神的な病だったり、何とか症候群とか、何とか症とか、病気ではないんですけれども病気にされてしまっている人たちがものすごく多くて、そういう人たちが一般の会社で働けなくなったり、今まで働いていたところでお勤めができなくなったり、人とのコミュニケーションがうまくいかなくて仕事ができなくなってしまったり、という人たちがすごく多いんです。そういう人たちが自分でできることがある、自分が役に立っているというような楽しみの中で仕事ができるという職場づくりに、農業っていうのはすごく生かせるんですね。福祉と園芸という接点の中でも、農業というのはすごく役割があるのだと思います。  そのほかに、自然の中で作業ができるとすごく気持ちがいいということをお話ししましたけれども、健康ということでは、今わざわざジムに通ってアスレチックをしたり一生懸命汗をかいてダイエットをしたりとかいう人もいますけれども、農作業はそんなことみんなひっくるめてその作業の中に入ってしまうんですね。もちろん農業を本職でやられている方は、「そんな健康なんて、度が過ぎてむしろ体を壊してしまうわ」なんて言う方もいらっしゃるようなんですけれども、もっと全般的に広い面で見てみると、農業って健康にとってもいいんですね。ですから健康という面でも、農業というのはすごく力を発揮してくれるのかな、という気がします。
 そのほかに環境ですね。ここもとっても緑が多いスペースで、やはり緑を見るとホッとすると思うのですけれども、そんな経験は皆さんの中にもおありかと思います。農業、これは環境を作っているんですね。農業が無くなってしまうと農村の風景というのが崩れてきてしまいます。知らないうちに、私たちが農業をやっている中で農村という風景が作られているんですね。そんな中でやはり環境という問題にもすごく接点があると思います。
 そのほかに教育。これが意外と大きいんですね。最近低年齢化している事件が多いんですけれども、殺人とか命の尊さみたいなことを知らない子供達が増えてきたと言われています。またそれに伴う事件も多くなってきているんですけれども、彼らにこの命を育てるということを経験させることによって、その命の存在というか、尊さというのを解らせることが、この農業を通してできるんですね。なかなか子供を育てるということは難しいんですけれども、植物を育てるということが教育に大きな役割を果たしていると思います。私の農場にも時々小学校五、六年生の人たちが農業体験学習などと称して、半日ぐらい農業を手伝いに来るんですけれども、最初はそれこそ土をいじるのがいやだったり、堆肥が牛のうんちだよ、なんて説明すると「ひえー」などと、すごくいやな顔をしているんですけれど、それがたった二時間、三時間ですが、最後は土を一緒にぐじゅぐじゅまぜて、お花をきれいに植えて、花壇を作っていったりだとか、自分が植えた花が咲いているかどうか、そのあとを見に来たりだとか、作業をするときにお花を折ってしまったら、そのお花を大事にもってかえったりだとか、そんなことが、たった二、三時間のうちに生まれて来るんですね。これがもっと長期間だとか、身近に自宅で種をまいたり植物を育てることを経験させることなどで、いろいろな教育という場面のところにも農業というのは役割が大きいような気がします。それをもっと私たちは意識して、いろいろな場面で生かして行かなくてはいけないのかな、という気もするんです。
 そのほかに、うちの農場では一番大きいのではないかと思うんですけれども、コミュニティー、交流の場になり得るんですね。うちの農場をちょっとご説明しますと、スタッフとして私の家族が五人、そのほかに知的障害とか障害と認定されなくても、ボーダーラインと言いますか、なかなか他へお勤めに行くのが難しいといわれる方たち五人ほどいらっしゃっています。また、村のいわゆるパートだとかアルバイトの方だとかが一〇人ほどおります。さらに海外実習生ですね。ドイツ、スイスあたりが多いんですけれど、今年は先週帰ったばかりなんですが、だいたい一年間のプログラムで毎年一人ずつ来ています。そのほかに実習研修生という形で二、三人ずつ毎年来るでしょうか。これ、面白いんですね。今農業は大きな問題を抱えているだとか、農業を離れていく方が多いとかいわれているんですが、うちの農場には農業がやりたいという方がいらっしゃるんです。いっぱい来るんですね。何で農業をしたくない人が多いと言われているのに、うちばっかりに来るのかな、という気もしますし、本当に農業がやりたくないと言っている人が多いのかな、と思うくらいうちは本当に農業がやりたいんだという人が多いんです。自分で農業をやり始めたいんだという、農家ではないけれどもうちみたいに新規就農で新しくはじめたいんだとか、農業がやりたくてやりたくてしょうがないんだというような人が多いんですね。それも若い方で。ですから本当に農業離れというのは進んでいるのかな、という気もするんです。そんなことで日本人の研修生も二、三人来ます。そうすると、計算すると何人でしょうか。二〇人前後になるんでしょうか。うちのフルメンバーというかスタッフとよばれる二〇人のメンバー以外にも、シーズンになるとボランティアと称していろんなグループの方たちが来たり、先ほどの小学校の子達が半日来たり、遊びに来たりもします。すごくいろんな人たちが出入りしているんですけれども、これが知らず知らずに交流というかコミュニティーの場になってしまっているんですね。村の方たちも半分農業をやっている方、自分の食べる分を作っているというお年寄りの方も、お手伝いに来ていただくんですけれども自分のところの畑でやっていると、一人で作業をするわけですね。もしくは愛する旦那様と一緒に作業をするわけですね。ずっと一日いると会話が無くなってしまうんですね。ですけれどもここの農場に来ると笑うことができるよねっておっしゃったんですよね。ああそうだな、同じ作業をしていても一人で笑っていたら気味が悪いですけれど、みんなで作業をしていればそれこそ大きな声で笑ったりわめいたりお話ししたりすることができるんですね。それが楽しくて農場へ来てくださる方もいらっしゃいます。そんな中で知らず知らずのうちにコミュニティーがとられていて、もちろんコミュニティーは遊ぶ場ではなくて、仕事の場ではあるんですけれども、それがコミュニティーの場につながっているんですね。これ、なかなか工場作業で単一のものだけを作っているんだったら難しいのですけれど、農業という仕事だからこそみんなでコミュニケートをとりながら作業ができるんじゃないかな、という気がしています。これも農場で、農業がもっている大きな力なのか、という気がしてなりません。
 先ほども障害を持った方が5人ほどいると言いましたが最初は彼らがやはりシャイなんですね。なかなか初めてあう人たちと話ができなかったり、どこかに逃げていってしまったり、挨拶ができなかったりしたんですけれども、彼らが一緒におばさんや新しく来た実習生達と一ヶ月二ヶ月作業をしてくると、どんどん言葉がでて来るんです。彼らにとって言葉をしゃべらせているというのは、農場というバックがあるからという気がしているんです。うちの農場の作業の中には一〇時と三時にお茶のタイムがあります。このお茶の時間が作業の中にきちんと入っているわけなんです。これがみんな楽しみの一つで、最初は人と話すことがいやだから、どこかに行ったり来なかったりする子が、最近、時間になると「お茶だよー」なんて率先していろんな人に声をかけてくれて、一番最初に席についているんですね。そんなことが農業の中にはあり得てしまうんですね。これはもちろんいろいろな周りの人たちの理解もあるんですけれど、やはり農業がもっている大きな力なのかな、という気がしています。もちろん効果を期待して農業をするわけではないのですが、そんなことが結果として私の農場ではいろんな場面に行われてきたり発見したりすることがあるもんですから、農業が持っている力は私たちが思っているよりもっと大きい、すばらしいものがあるんじゃないかな、という気がしてなりません。もちろん大規模農業で大きく機械化して、とてもたくさんお金を儲けてそれでやっていけるんであればそれもすばらしい農業ですし、それはそれで、一つの農業の方法だと思うんです。だけれども、私の農場ではそういう農業ではなく、むしろ今お話しさせていただいた、福祉、健康、教育、環境、コミュニティー、そんなことを含め、一緒にやっていく中での農業が私の農場のやっている農業なんですね。特に中山間地、大規模農業ということが見込めない、またそんなことで効率化していく農業というのがどうしてもやっていけない現状の中で、これからの農業の形というのは、もっと違った農業の多面性というものに目を向けると、もっといろんな広がりがでてくるのかなという気がしています。
 今日はビデオをもってきました。私が宣伝したわけでもお願いしたわけでもないんですけれども、私たちのやっている農業というのが、どうも他と違うらしくて、いろんな方たちが取材に来てくださいます。そんな中で、テレビ取材してくださったものがあります。私がしゃべるよりそれを見ていただいた方が、うまくまとめてあるような気がしますし、農場の風景もおわかり頂けるかと思います。ちょっと二〇分ほどそのビデオを見ていただこうと思います。どうぞ後ろの方、見えにくければ前の方へ移動していただければいいかと思います。それではビデオお願いします。
(続く)

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