あぜみちの会ミニコミ紙

みち22号

(1999年初秋号)

 

シグナル

 

福井市 中川清


 今年の夏は暑かった。
 学校が夏休みに入ったとたん、気温三〇度以上の日や、無降水日が連続二〇日余りだ。
暑い日が続くと冷たい飲み物につい手が出る。がぶ飲みして体調を崩すものだ。だから暑い時にこそ、あったかい飲みものが体に好いんだという人もある。一理ある。
 私は、3年前に胃の摘出手術を受けて、食物には気を使っている。消化に好い食物ばかりを取るように心がけていたら「人の体は、怠け易いので、胃が悪いからと消化しやすくやわらかい物ばかり食べていると、ますます胃が弱くなるので、適当に食物繊維などを摂取して胃に負担と刺激を与えた方が好い」と教えられた。
 暑い時、クーラの効いた部屋に閉じこもってばかりいるとかえって夏バテするのと通じるものがあるようだ。
 孫の小学校の夏休みの勉強をしている傍で「動物図鑑」を見ていたら、種類ごとに動物たちの顔に大きな特徴があることに気がついた。目の位置が違うのである、猫とかライオン、ゴリラなどは正面から見ると両目の位置がよく見えるが、馬とか象とかは目の着いている位置が左右に離れている。攻撃型の動物は、両目で相手をよく見て距離を測り飛び掛かるためらしい。それに対して、馬とか鳥などは顔面が前を見ていても、目の位置から背後の様子も感じることが出来るらしい。
 いわゆる目のつけどころが違うのである。
 人も目の位置や高さを変えて物を見るときっと、行きつまった時も、新しい見解が出来るような気がしてきた。
 この夏、暑い暑いと不平を言わなかった人がきっと頑張っているのだろうと思う。暑い時期、健康には気をつけましょう。
 人は一生に、越えねぱならぬ三つの坂があると言う。苦しい登り坂、滑りやすい下り坂、そして「まさか」です。
 みなさん暑くても「まさか」の不慮の事故には気をつけて頑張り、目先の稲刈りを乗り切り、秋の収穫祭でまた逢いましょう。

自分流唐詩散策(九)
福井市 細川嘉徳

 付かず離れずの関係の同級生の親友Nさん。最近また親密度が深くなっています。このNさん、今度は飲み会でこんなことを言うのです。「うらは自分で自分の退路を断ってしもたんや」と酒を注ぎながら語りかけます。なんの話かと思いきや「みち二一号」の「裏話」のことです。自ら「背水の陣」を布くということで並々ならぬ決意が見えます。郷土の治水と利水に政治生命をかけられて、いまは第一線を退かれてもなお、その情熱が些かの衰えを見せない郷土の政治家T先生から、重大な仕事を依頼されたからです。
 そのことに関して今回期せずして先生や村の長老から、全く知らなかつた故郷の歴史を直接聞く機会に恵まれました。福井県の三大河川の内側にあるため土地が低く、そのため三日雨が降れぱ洪水に見舞われ、また反対に少しでも日照りが続けば、忽ち干上がってしまうと言う我が故郷西藤島。この村の人々は、昔から水が欲しくて水が欲しくて、牛の涎(よだれ)でも欲しかったと言います。そのためみすみす肥えた土まで売り渡し、土地を低くしたと言います。水喧嘩を始め、そのことに起因して繰り返された様々な悲喜劇の歴史。宿命の土地と言ってしまえばそれまでですが、今まで全く知らなかつた先人の苦労の秘話実話を聞くことが出来ました。
 ところが、このような洪水や日照りで農作物の不作はもとより、人々の生活を脅かして来たのは、天災ではなく実は人災だったとT先生は言い切ります。話を聞くうちに政治家としての視点論点の高さに圧倒されました。先生は度重なる水害を体験された直後から政治の道を歩まれ、水の問題に関わる中で、政治の貧困を痛感するようになったそうです。「わたしの故郷のこの土地が、反骨の精神を培い今の私を育てたのです」と語るT先生の言葉には大変な重みがあります。
 中国に反骨の詩人達が世の中の矛盾を突いている詩は沢山あります。高い理想を持って何回も挑んだ科挙の試験は終に合格せず、生涯病気勝ちの苦しい放浪生活の中で、地に落ちた人情を嘆く盛唐の詩人杜甫も、ある意味では反骨の人であったと思います、大好きな杜甫の叫ぴ「貧交行」は時空を越えて人々の心を揺さぶり続けています。
 
貧交行 杜甫
手を翻せぱ雲となり手を覆せば雨
紛々たる軽薄何ぞ数うるを須いん
君見ずや管鮑貧時の交り
この道今人棄てて土の如し
 
 世聞の人の人情なんて手のひらを返すように簡単に、また雲が出たり雨が降ったりのように定めなく変わるもの/このような軽薄な者はいちいち教えたてる必要がないほど多いが/皆さんは見ませんか、管鮑の貧しい時の友情を/今の人はこの交友の道を泥のように見捨てているではありませんか。
 こじつけになってしまいましたが、二人の人物を反骨と言う言葉で結んで見ました。反骨の精神はその人の仕事や人生を磨くと言います。親友のNさんも知る人ぞ知る反骨の士。「寄らば大樹の陰」でしばらくはこの反骨の大木の木陰を借りることになりそうです。
<HR>
脱サラ5年目に思う百姓組織の感じ方
有限会社ライズグリーン
関本新右衛門
<HR>
 いつかはやりたいと思っていた農業を、遂に有限会社形式で広域的な稲作受託経営と米の直販という形で始めた。
 脱サラの時に近い収入は欲しいと経営基盤=受託の規模拡大に精力を尽くす今までであったが、当地区は担い手農家が多く過剰気味であることと、いくら米価が下落しようが今の「百姓」はやはり機械を買って家族経営を維持しようとして、思うようには面積確保が進まなかった。
 そんな中で5年目を迎えるようになって、ようやく会社の形と中身が自分の考えている七割くらいにしてきたと感じています。
 これまでの経営感覚は財務のしっかりした生産と経営受託、作業受託と直接販売をめざすものでしたし、これからも社員を増やして限りなく拡大路線を進めていくけれど、これでいいのかと自問自答を繰り返しているところです。最近になって実践の中から見えてきたのは当たり前のことですが・・・。
 今の農業環境の中で、農業組織はこうあるべきだ。なんて簡単に答が見つかるはずもありませんが、要するに組織自体が具体的にどんな目標を持つか、地域特性を活かしながら固有の主体性ある事業展開をする。そこにはいつも夢とか希望がある。
 単なる規模拡大、大型経営が唯一の目標の時代は終わりました。このことは経営の中の一つの目標であり、汗と借金しか残らないようです。
 恥ずかしながらこんな段階の考えです。
 ○○株式会社や農協に『なんで会社してるの?』との問いに、利益目標を除けば、返ってくる答えはさみしいものが多いのではないかと思います。
 しかし月給が少なくても農業はすばらしい世界です。それは有機的に結ばれているからだと思います。人と人、人から物(食)へ、物から物へこれらの結び付けの仕掛け人であるから面白い。発想と実践力さえあれば何でもできるはずです。
 農業を本来の「業」として取り組む者にとって同じ地域の農業者にどう向かい合うか、一方、消費者にもどう向かい合うか、さらに集落とか地域にどう根ざしていくか、難問ではあるけれど視点を変えてみればそこには必ず足がかりがあるはずです。
 組織で行なおうが、個人であろうがその考えなり行動は同じです。自分は少々窮屈な感はありますが、農業生産法人としての組織でなければ出来ない組織力で、今後の展開を進めて行きたいと考えています。
 具体的な事例をあげれば、以下のようです。
 無理な有機栽培米はせず低農薬有機栽培で価格も一般価格で供給する。
 無農薬大豆栽培を継続し現在の枝豆から加工等への活路を探す。
 無策な農政を利用し集落単位の転作経営受託を進める。
 有機無農薬軟弱野菜の冬季生産と販売を始める。
 完全平飼の自然養鶏卵(一〇〇〜二〇〇羽程度から始める)の生産、販売を始める。
          以上
<HR>
名津井さんとの出会いから
福井市  土保裕治
<HR>
 毎週日曜日は早起きして、牛の乳搾りに出掛けます。
 あぜみちの会の名津井さんの牧場です。昨年秋に尋ねたのがきっかけで、お手伝いをさせていただくようになりました。
 それまで早起きが苦手だった私も、5時半丁度に体内時計が働き、目覚まし時計は要らなくなりました。
 また牛小屋では、嫌がる牛に蹴飛ばされないよう注意が必要で、糞や尿のついた尻っぽで顔や頭を叩かれることからは逃げたくても逃げられません。
 それでも名津井さんと奥さんの人柄がさわやかなので、いつも気持ちよくお手伝いさせて頂いています。
 二時間の作業を終えると、牛フン堆肥をふんだんに投入した畑で穫れた名津井さん自家製の無農薬野菜を預かって帰ります。私の自宅前で販売する為です。
 私は近くに田畑がない所で育ちましたが、一〇年ほど前、二坪程の市民農園を借りて家庭菜園を始めました。無農薬の野菜を食べたいと始めたところ、私の他にも同じように安心できる野菜を求めている人がいることを知り、自分だけが食べていいのかと自問し、多めに作り、販売することにしました。
 その後場所が変わり、面積が多少増えましたが、収穫があった時だけ棚に並べるやり方では、いつ来れば良いか分からず、無駄足も多かっただろうと思います。
 毎週定期的に出店しなければ、遠くの人は買いに来れないので、広まっていきません。
 そこで今年の春からは名津井さんに協力をお願いし、前述のように野菜を提供して頂くようになってからは、毎週日曜、月曜には必ず名津井さんと私の野菜が並ぶようになりました。そのおかげで見知らぬ人、仕事の帰りに立ち寄ってくれる人などお客さんも増えています。「今日は何が出ているか楽しみだ」と言ってくれる人も出てきました。
 今後も多くの人に喜んでもらう為、無農薬野菜の販売を続け、徐々に拡大して行きたいと思っています。
 以上のように、自分で野菜づくりをしていますが、私が一軒の農家になろうとしているのではなく、消費者の側から多くの生産者を支援したいと考えます。
 有機またはそれに準ずる農家が増え、より多くの無農薬作物が入手できるようになる為、農家にかかる負担を一つ一つ軽減して行きたいと考えています。
 まずは堆肥作りです。質の良い食物残渣や家畜糞から安価で安全な堆肥を生産・供給することを目指します。
 しかしこのプロジェクトは、各方面の多くの人々の協力が欠かせません。名津井さんをはじめ、あぜみちの会の皆様と協力しあって、取り組んで行きたいと願っています。
 
<HR>
土佐の高知で思ったこと
玉井道敏
<HR>
 この二月中旬、高知県に五日間滞在しいろいろと見てきました。最初の三日間は地元の農業改良普及センターの案内で、ナス、ピーマン等の野菜団地、スカシユリ、カスミソウ等の花卉団地を見学、あとの二日間は友人宅に泊めてもらって西南海岸の照葉樹林や漁村、文旦の果樹園やタパコ団地などを案内して貰いました。久し振りの長い旅行で大変刺激を受けました。
 一番印象的だったのは、高知県内を流れる川の水のきれいなことでした。清流として全国的に名高い四万十川をはじめ、仁淀川、吉野川等々、どの川の水もきれいなのです。何故、高知県の川はきれいなのか、自分なりに考えてみました。
 一つは大きな開発が行われていない、二つ目は人口密度が少ない、三つ目は大きな企業やこれといった産業が立地していない、四つ目は雨が多くて川の流量が多い、五つ目は流域に住む人々と川とのつながりが濃厚で、川の存在が身近であり、日々の生活の中で川を汚さない暮らしが営まれてきた等が挙げられるように思います。全国的に近代化の流れの中で失われてきた良好な環境がこの地では残っており、まさに一周遅れのランナーが先頭を走っているという印象を持ちました。環境立県としての可能性を感じました。
 さらに驚いたのは、国営農用地開発事業が何ヶ所かで導入され、野菜団地や花卉団地、そしてタバコ団地の造成が盛んに行われている点でした。今、農地が新たに造成され、園芸作物や工芸作物が増反されている、農業におけるこれだけのエネルギーは一体どこから生まれてくるのか。
 高知は園芸王国として全国的に著名です。温暖多雨多照の恵まれた気候は確かに本県よりも優れていますが、見た限りでは、土壌条件はそれほど良くない。砂地や赤土の土壌が多いのです。むしろ水田にできない所、米の生産力の低い所で園芸作物を振興してきたという感じがします。それよりもナスやビーマンやカスミソウやタバコをつくるひとのいる、またいたことが園芸王国を築きあげた大きな要因だと思われます。
 何故ひとがいたのか。いるのか。それは川の話に戻るのですが、農林漁業以外に働く場が極めて少なかったからではないか。都道府県の統計数値を比較すると、高知県は事業所数では少ない方から3番目、製造品出荷額では小さい方から二番目にランクされます。これといった産業がない、大きなプロジェクト開発が行われていないことなどが、農林漁業による所得の向上を図らざるを得なかったと思われます。大げさに言えば、農業や漁業の振興は所得向上の切り札であった、背水の陣の策であったとも言えます。さらに近年の漁業の不振は、なおさら農業振興への特化を強めているのではないか。それに比べて、全国的にも一戸当たりの農家所得の水準が高い本県は、家族みんなで稼ぎをして家としての総所得を高めることで豊かさを追求してきました。冬期間の気象上の不利性を『米プラス安定兼業』の形でしのいできたということです。繊維やメガネなどの地場産業が立地していたことも農家の兼業化を助長しました。
 豊かな農家所得の中で農業をどのように意味づけその振興を図っていくのか。当然高知県とは異なる対応が本県では必要となります。単純な生産振興策だけでは割り切れないところです。
 県内各地域の持つ歴史や社会、自然条件の実態を、もっともっと深く鋭く把握、分析、整理し、実際に農作物を作り、農村に住んでいるひとに焦点をあてながら、福井県として独自性のある農業・農村のあり方や振興方向をこれからも自分なりに考え続けていかねばならないと思っています。
 高知県のきれいな川や大規模なハウス園芸団地、タバコ団地をみて触発され考えたことをまとめてみました。旅はいいものですね。
<HR>
墓場から平和
名津井 萬
<HR>
 私は、昨年の八月より一年有余空白だった地区の遺族会の長をする事になってしまった。
 会員は戦争未亡人三十五名と遺児百三十名で構成されている。未亡人の方は年齢七十八才から九十才の高齢で、この一年間に三名の方が亡くなった。
 私は三歳の時、父は北支戦線で戦死した。母は私が十三才の時、農作業の過労から三十三才で病死した。その年、私の家の農作業は地区の婦人会、青年団、中学校生が勤労動員で秋の農作業を終えて頂いた。会員の中には私の家の農作業にかけつけてくれた方が何人もおられる。そして私が、どうにか農業で一人立ちしているのを大変喜んでくれている。
 私は決して名誉欲で長を引き受けたわけではない。私の生涯最後の努めと思っている。
 私は戦争未亡人の会員の方の人生の終着駅まで見送りたいと思っている。それまで私は死ぬことは出来ない。私の報恩である。
 それらの会員の方は会合などで冗談もとび出し、大変明るいのが私の救いである。
 しかし時には五十数年前の想い出になる事もある。Aさんは、夫から呉の軍港に居るとの連絡を受け、駆けつけた時には、一足おそく、あえずに出港する軍艦を見送ったと語り「お腹の中の子供の事も知らずに……」と声をつまらせる。
 私は出来るだけ聞き役になっている。
 私の最初の仕事として会員名簿を発刊する事にして、本年二月から着手し八月一日に発行する事が出来た。内容は、遺族の住所氏名、戦没者の氏名、戦没年月日、年齢、戦没、場所を調査した(約二百五十名)。他に忠魂碑、観音堂の写真、私の水墨画二枚(突撃姿勢で倒れた兵士の姿、靖国神社遊就館前の母の像)そして「旧西藤島地区戦没者遺族名簿」と題した。
 名簿作成に当たり、私は各集落の墓地すべてに足を踏み入れた。戦没者の墓碑名から書き写した。ある人は「そんな調査は関係ない」と否定する遺族もいる。また戦死した父の死亡年月日も場所も知らないと言う人もいる。だから、改めて、私は出来るだけ正確に調査しなければと意志を強くした。ある無縁墓地に戦没者の墓が何一〇基と土止めとして積み重ねてあるのを見て悲しい思いを味わった。
 私はいつの間にか各地の墓地に足を踏み入れて戦没者の墓碑を探し求める「くせ」がつき、大野、美山、勝山、坂井の集落の墓地に大分足を踏み入れた。
 ある美山の寒村の墓地で墓碑を読んでいると、ある老人が手に花を持っておとづれ、私を弟の戦友で墓参りに訪れたと勘違いし、お礼を言われた。そして弟の遺児である息子を育てた事や、その孫が夜中に遊び歩いて困る話まで、つきる事のない話に私は一時間ほど聞き役に回ってあげた。
 坂井町のある村の墓地には戦没者の墓十七基も並んでいる。ほとんどが昭和十七年から二十年にかけて、十九才から二十八才ぐらいまでの青年である。同じ村に育った竹馬の友が、それぞれに還らぬ人となっていった。
 八月十五日、福井市戦没者追悼慰霊祭に出席した。この日から「君が代」が斎唱された。
 私の隣席の婦人は本当に胸をはり声高く唱えていた。
 今年は戦後五十四年である。昭和二十年を五十四年さかのぼると明治二十四年になり、明治二十七年に日清戦争、その後、日露戦争、満州事変、上海事変、支那事変、大東亜戦争と続き、まさに戦争に明け、戦争に暮れる半世紀である。この間は共に喰うか喰われるかの緊迫の世界情勢であった。今日なお世界のあちこちで民族戦争、宗教戦争で戦火が絶えず、それぞれに聖戦を掲げて戦っている。数多くの戦場に没した兵士は決して好戦者ではない。敵も味方も共に困難に殉じた犠牲者である。
 今日の平和は、苦難の歴史を経て訪れたと思う。平和に溺れることなく平和を願い、平和に感謝したい。
<HR>
あぜみちの会結成十周年記念講演
パート2
(一九九九、七,一〇)
日本の有機農業運動の展開(その背景と成果)
講師 京都精華大学人文学部 槌田 劭
<HR>
 ただいまご紹介に預かりました槌田です。今日は有機農業に関する話をせよということで、呼んでいただき本当にありがとうございます。私は人前で話をするのが職業なんですけれども、だんだん人前で話をするのが好きでなくなってきて、車座になって、平場で同じ目の高さで、一方的な話でなく、対話するのが好きです。どうもこういう場で、私よりも人生経験の豊かな方とか、農業体験をお持ちの方とか、むしろ教えていただくべき皆さんを前に話をするのは落ち着きが悪いですね。これだけの人数ですと一方的に話さざるを得ないと思いますので、お許しいただきたいのですが、そういう私の心理状況ですので十分なお話ができるかどうか分かりません。
 机を隔てて話をするのは何となく空しいので前に出てお話ししたいと思います。それからもう一つお詫びしておかなければいけないのは、せっかく呼んで下さって、今日は泊めていただいて明日までおつきあいできればいいのですけれども、今日夕方から京都でまた会合が一つあって、そこでどうしても出ないと行けませんので、私の話と質疑が終わりましたら帰らせていただきたいと思います。あらかじめお許しいただきたいと思います。
<有機農業研究会の発足>
 今日お話する内容として持ってきたものは、実は先日、韓国で、日韓食文化フォーラムというのがありまして、そこで講演したときのレジメです。今日は、とりあえずこれを忠実に沿うかどうか分かりませんが、この線に沿ってお話しさせてもらおうと思っています。
 有機農業ということになりますと、日本で有機農業運動を提唱し、進めていった中心的団体は当然の事ながら、日本有機農業研究会です。日本有機農業研究会が発足しましたのは、昭和36年の10月です。その時の集まりには、私はまだ参加しておりません。ごく最近、伝え聞いた話によりますと、最初の会合に、30人ばかりの方が集まられたようです。そのほとんどは、農業団体か農協関係者、あるいは業者関係の人達、それから特筆すべきはお医者さん達、農村医学、農村で医療活動しているお医者さん達、その中で、農業者、お百姓さんはほとんどまだ参加されていなかったようです。どういう関心で、その時集まったかということが、その後の流れに決定的な位置を占めますので、簡単に紹介させてもらいます。
<農業の元気な時代>
 当時農業は非常に厳しい流れに入りつつあるというか、入って10年以上経っている。いわば日本の農業については、昭和20年代、いわば食糧危機であった時代、食糧増産が何にもましてすばらしい仕事であると農業者自身も思っていたし、社会もそう思っていた。こういうときというのは、農村も農家も幸せであったわけです。元気であったわけです。
<何か変>
 ところがいつの頃からか、元気を失い始めてきた。何が元気を失なわさせたのかという点は、有機農業を考える際、有機農業だけでなく日本農業の現状と将来を考えるについて、大事なことだろうと思います。そのことは後ほど触れるとして、1970年頃になりますと、近代農業によって地力が低下し、このままで大丈夫なんだろうかという農業技術上の問題も浮上してきていた。変革といいますか、早く物事に気づく関係者達はそのことを重要なこととして認識し始めてきた。それよりも何よりも、近代化農業の中で、農薬を使う、機械化が進む、その結果として、農業災害というのが、無視できないほどの広がりを持ち始めてきた。機械の下敷きになって、大けがをしたり、あるいは命を失っている方がいるということも一つです。機械よりももっとじわっと来る形で見ますと、農薬中毒です。農民の農薬中毒は大変な数に上る犠牲者を毎年のように出していた。
<問題の認識>
 これでいいのだろうか、これは農村で医療活動に従事しているお医者さんにとっては、かなり深刻な問題として認識されたのは当然です。農薬中毒は、農業者にまず被害が出ていますが、それ以外にも、日常生活で、農産物に残留する農薬が健康被害をもたらしているのではないか。これは農村で医療に従事し、農薬中毒を目の当たりにしているお医者さんの目には、ただ単に農村の農業者の問題だけにとどまらない、いわば1億人、つまり日本の農産物を食べている日本人全体の問題として、何とか考えなければならないというように映った。化学肥料万能、農薬万能、機械化の進んでいる近代化された農業の世界の先に、非常に大きな問題が吹き出すように感じている、そういう認識を持った。
<憂気農業>
 つまりそういう状況に憂い、憂気(ゆうき)、「ゆうき農業」という言葉の「ゆうき」というのを私の話の中で、いくつか断らずに使いますので、今の「ゆうき」も「憂気」として受け取って下さい。だから「ゆうき」農業運動というのはですね、憂う人達によって始まった運動であると。現状を憂う、そういう優しさがあり、「人(にんべん)」がはずれて憂いだけが残っている。
 そうして、集まったのは、先ほど申しましたように、先覚的な知識人、エリートを中心にした人達なのです。
<ペテン師?>
 しかしその当時もう一つの側面として、世の中が、万能の近代化、つまり化学肥料、農薬で進んでいる時代ですから、化学肥料を使わない、農薬を使わない農業なんて、おおよそ非常識、考えられない、考えられないことを言うのはペテン師、新興宗教か何かだとそういうような感じに近いいかがわしい目で受け止められたのは間違いない。
 私も、その直後に有機農業研究会に会員にさせていただきますけれども、日本有機農業研究会に入った当時、そういうことを話題にすると、農家もそうですし、行政もそうですし、ほんとにいかがわしいペテン師、そして問題が重大だと指摘すればするほど、そう思いこむな、思い詰めるな、そう悲観的になるな、というような「ゆうき」から始まっているわけですから、その底に憂いがあるわけです。従って悲観的にもならざるに得なかったと思いますけれども、というような風潮の中で始まっています。
<食べ手の問題>
 はじまった当時、何に憂いていたかというと、食料生産の将来に憂いていた。そして、農民だけではなく、それを食べる消費者までの健康が冒されていく、いのちの危機としての憂いの問題。そいうことですので、当然、農業の新しい道を農法の問題として考えなければないと同時に、食べ方の問題としても、食べ手の問題としても、切り離せない、という認識が、日本有機農業研究会発足の当初から強く流れています。
 ということで、農業者だけの問題として有機農業を始めたのでは、有機農業はできない。要するに食べ手の問題、作り手があって、運び手があって、食べ手があって始めて成り立つことである、そういう認識を当初から持っていたという意味においては、これは非常に卓見であったと私は今も思います。
<循環と共生>
 これはちょっと脱線しますけれども、環境問題は現在はブームなんですけれども、環境の問題、環境の安定性を考えるとき大事なことは何かというと、循環と共生なのです。要するに循環というのは物質が滞りなく滑らかに流れてぐるっと一回りしていく、それが続いている限り大きな変換は起こらないわけですね。それに対して、流れが滞り、どこかにものがたまり、どこかにものが不足したりすると、一巻の終わりになるわけです。これは環境問題に限らず、健康を考えても同じです。私たちの健康で、例えば血液の循環が滞ったら一巻の終わりです。大問題ですね。心臓麻痺もそうですし、動脈瘤破裂もそうです。
 このように循環ということが大事なわけです。循環というのはいろんな部分、いろんなパートがあって、そのパートとパートがそれぞれに滑らかにつながっている結果として成り立っている。従って、農の問題を考えるときに、生産のことだけを考えていたのでは、生産もできなくなる。消費のことだけを考えていたのでは消費もまともにならない。つまり生産と消費・流通の流れが滑らかに流れるようにならなければならないと考えたのは卓見であったと私は思っています。
<食物と健康>
 当初そういう考え方で発足した有機農業研究会、当然あるべき農法の探求はそうですし、また食生活の健全化というテーマが当然浮かび上がってくる。それで、発足当初の雑誌の名前は、「食べ物と健康」となったわけです。今日では「土と健康」というふうになっています。ちょっと脱線しますけれども、「土と健康」の7月号の巻頭言を私が書いておりますので、もし興味を持っていただける方がおられたら、後ろにあるようですから買っていただけるとうれしいです。あわせて有機農業研究会の会員になっていただけるともっともっとうれしいと思います。
 当初は「食べ物と健康」だったわけです。要するに、食べ物の質、食べ物の安全、そして、そのことを願う消費者と農業者がどう手を結んでいくのかという様なこととして動きが始まったわけです。
<いのちの危機>
 そういう形で始まった運動の底に、いのちの問題があるということを先ほど申し上げましたけれども、日本の社会は、本当にいのちの危機をいろいろな形ですでに迎えていました。そして今もなお、いのちの危機と直面しているのかという問題をちょっと触れてみたいと思います。
 ちょっと触れるといっても大きな問題ですから、長くなるかもしれませんが、先ほどいいましたように、有機農業研究会はいのちの危機に基づいて始まったわけですけれども、いのちを脅かす流れというのは世の中で、もうすでに広く大きく私たちを包み込んでいたんです。
<高度成長の表と裏>
 それはどういう形で起こったかと申しますと、先ほどいいましたように、昭和20年代は食糧不足の時代で、食糧増産に励んでいる農業は尊重される時代であったわけです。その時代が昭和30年頃になりますと、大きく変わり始めます。この変わっていくいきさつについては時間がありませんので触れませんが、昭和30年には、ひとまず世の中は敗戦の痛手から立ち直って落ち着いてくるわけです。昭和31年の経済白書は、もはや戦後ではないという言葉を高らかに歌い上げているわけです。つまり戦後は終わったのだ、そして新しい時代に入るのだというのが昭和30年の頃のはじめの頃の様子です。
 昭和20年代の終わりには朝鮮戦争があって、糸へんブーム、金へんブームで敗戦の痛手を完全に抜け出すわけです。そして朝鮮特需でお金がだぶついて残った。それで新しい製品を作ると飛ぶように売れる。売れると儲かる。儲かったお金でまた新しい仕事をすればもっと儲かる。つまりこれが高度成長社会です。そういう流れに日本は昭和30年代流れるように入っていったわけです。ここに今日いのちの危機となる本質的原因がある。一つはですね、これは抽象的、道徳的いい方になってしまうのですけれども、隣の朝鮮半島で、血と涙を流している人達の犠牲の上で、金儲けに浮かれた日本て一体なんだろうか。要するに、人の悲しみ人の辛さ、そこで血を流し命を失っている人達がいる。その引き替えにお金儲けができることを喜ぶ世界があったとすると、その世界が罰せられないはずがない。実はそういう意味で、日本の戦後の復興と復興された日本の道筋には大きな間違い、そしてその間違いの故に、それを罰せられる当然の厳しい事態が予定されていたように私は思うのです。いずれにしても、昭和30年には日本の経済は復興していくのです。そして復興してみるとですね、おなかをすかし、食べ物がなかった時代をすっかり忘れることができる状態になってきた。
<おとぎ話>
 ちなみに私自身学生達にいつも話していることですけれども、学生達は信じられない昔話、おとぎ話のような世界と感じているようです。食べ物がなくて困った20年代のはじめの頃を私たち日頃思い出すことはほとんどありませんけれども、私は毎日のようにそれを思い出します。皆さんもたぶん思い出される方があろうかと思いますが、概ね忘れている。そして昭和29年、私はその年に大学に入学するのですけれども、その時始めて外食券なしに外でご飯が食べられる喜びを感じました。5円の割増料金、外食券なしで、学生食堂でカレーライスが30円くらいだったと思うのですけれども、うどんが1杯12円だったと思うのですけれども、そのときに5円の割増料金を払うと、昭和29年に外食券なしにお米のご飯が食べられた。つまり日本の農業もそういう点で食料生産力をほぼ回復していたということになったわけです。だから、世の中が昭和20年代から30年にかけて食べ物が大きく変わったことがあります。家庭電化の3種の神器ということばが昭和28年に出ています。
<三種の神器>
 家庭電化の3種の神器というのは、電気洗濯機、掃除機、冷蔵庫、そして昭和28年1953年には、テレビジョンが放送を始めています。それまではテレビジョンはなかったわけです。これが、今日の私たちの豊かな暮らしのスタートです。しかし先ほどいいましたように、家庭電化の三種の神器といわれていわれているのは、まだ金がない。金があれば買う。金持ちの手に届くけれど庶民の手には届かないという思いが「神の器」ですね。皇室の三種の神器、草薙の剣と、曲玉と、なんとかの鏡ということでしょうか、庶民の手が届かないのを三種の神器というたわけですけれども、それをもじって家庭電化の三種の神器といった。要するにまだ手が出なかった。しかしこの言葉の底に何を見るかというかと、手が届かないという欲求不満があるわけです。つまり昭和20年代の終わりから、戦後復興してみたときに、欲求不満を持った私たちは、欲求不満に導かれて、昭和30年代の戦後復興後の経済成長を支えて行くわけです。この欲求不満が高度経済成長を導くわけです。欲求不満の所へ新しい製品、便利なものを持ち込んだら、金があったらとりつくように買ってくれるらしいですよ。そして作れば儲かるから、さっき言ったように、儲かって儲かって笑いの止まらぬ時代が起こるわけです。
<パニック>
 こういう状態のときに、私は、みんなが、世の中が、全部が反省を欠いて、浮かれるように一つの流れに流される中で、これはパニックなんだと。パニックというのは、トイレットペーパーパニックがありましたね、お米のパニックがありましたね、パニックというのは、思いがけないことが起こってあわてるのをパニックというわけですけれども、思いがけないことが起こってあわてるだけがパニックでなくて、慌てていると言うことを自覚もせずに、みんなと一緒に押し流されてうろたえている状態は、もっともっと恐ろしいパニックな訳です。
 要するに反省して、一体何が問題なのか、今どういう状況になるのか、そして先に何が待っているのか、そのためには何を備えておいたらよいのかと考えている人間にとってはパニックはないわけです。どんな困難にあっても、どんなに大変な時代にあっても、うろたえる余裕などないわけです。しなければならないことが目の前にいっぱいあるわけです。考えなければならないことがいっぱいあるわけだから、パニックになりようがないわけですけれども、パニックというのは実に単純な事で起きますね。しかし重大なことで起こってもいいわけです。つまり、昭和20年代後半から30年代の高度経済成長そのものがパニックであったのではないか。今もなお、私たちは恐ろしいパニックの延長上にいますけれども、そのことについてはまた後ほど触れます。
<水俣事件と正義>
 そういう流れの中で、お金を求める流れに、みんなが浮かれるように流れていったときに、お金は得たけれども大事なものは失った。つまりいのちの危険が迫ってきたということが同時に起こっている。これは、具体適例をあげてみれば分かる。1956年、昭和31年ですけれども、その時が、水俣のあの大公害事件の患者の公的発見の年です。要するにその時始めて患者さんが見つかった。しかし、まだ水俣奇病であって、多くのあの化学公害の犠牲者達は隠れ水俣として、貧しいであろう漁民の奥の深い部屋で閉じこめられていた。それが昭和30年代のはじめです。この水俣事件、水俣病という言葉をあまり使いたくないのは、病ではなくて、あれは化学薬品による公害殺傷事件です。犯罪です。ちなみに、この事件は、時効という壁で、殺人事件として、刑事事件として裁かれることはありませんでした。何故時効の壁が働いたかと言いますと、それを追求する声よりも金儲けの方が正義である時代になっていましたから。正義というのは恐ろしいもので、前の戦争でたくさんの人が殺され、亡くなったけれども、誰もその責任を国内で問われることはなかった。東京裁判で外国から裁かれたことはあるのだけれども、日本国内で本当に反省があったわけではない。でも、大変な人が死んでいるあるいは外国で殺されている殺している。しかし、これは正義で闘っているから気にならない。同じように、金儲けが正義の時代になったら、金儲けのためにやる殺人行為というのは裁かれないだけのことです。そのことを我々はあまり意識しないけれども、十分に意識しておいて良いと思うのは、まともにいのちのことを見つめて考えているだろうか。物事を真剣に捉えているだろうか。その反省のために、今のことが大事だろうと私は思うので申し上げたわけです。
<水俣事件と金儲け>
 そういう風に、金儲けのために起こった事件だということを説明してみたいと思います。水俣のあのチッソ工場は、塩化ビニールと、塩化ビニールの関連製品を作っていたわけです。その生産工程の中で、あの有機水銀がこぼれ出るわけです。プラスチックスはご存じの通り、今日の豊かな文明社会にとって欠くことができません。高度成長時代に欠くことができないそういう生産に励む、しかもお金こそ全てであるという時代になって、お金を稼ぎ出すという企業活動を、誰が止めることができたのか。政府が止めることをしなかった。水俣の現場で言えば、水俣はチッソの城下町です。チッソなしに、水俣の町の経済が成り立たなくなってきている。そういう状況の中で、どうしてその問題がまともに取り上げられることができようか。当時、遠い日本全国の人達、私を含めてそうですけれども、目先のことに追われて、金のことに追われて、遠い遠い熊本の片隅で起こっていることに注目することは少なかった。これも歴史を反省しなければならないと思うのですけれども、世の中はそういう形で、たくさんの犠牲者が出た。これ戦後公害の原点といわれるものです。ほかにもたくさんの公害事件で、多くの被害者、犠牲者を出しております。
<森永砒素ミルク事件>
 公害問題というと、もう一つ、食品公害の原点といわれる森永砒素ミルク事件が昭和30年。何故起こったのですか。これもまた、多くのことを考えさせてくれます。これもまた、世の中がお金に動くようになれば、食品産業に従事する人の給料も、ボーナスも上げねばなりません。ところが、食品産業というのはどういう特徴を持っているのか。もともと、食品産業というのは、古来日本にはほとんどなかったか、小さかったわけです。何故、なかったか、小さかったかというと、食べ物は腐りやすいのが本質です。時間が経てば変化する、食べられなくなる。つまり商品価値を失うわけですから、ものが賞品として扱いにくいわけです。従って、食べると言うことは、近所で採れた野菜を家庭で調理して、これをお袋の味というのですけれども、それで家族がそろって食卓を囲んで食べる。これが当たり前のことだったわけです。ところが、今は変わりました。その変わるきっかけの第一歩のところで、昭和30年のあの森永砒素ミルク事件が起こったのです。その商品価値を失わないために森永乳業は何をやったかと言いますと、森永だけでなく雪印も、明治も、粉ミルクに、第二リン酸ソーダといわれる食品添加物を加えたわけです。そうすると使い勝手がいいし、古くなっても変質が目立たない。ところが大変なドジを踏んだ訳ですね。第二リン酸ソーダの「リン」と毒物の「砒素」とは、化学的性質が似ていて、不純物として紛れやすい。工業用の薬品を使った、不純物が入っていた。最も、工業薬品は何も不思議でもなんでもない。食品産業が使うのは工業薬品を使うのであって、化学精製の特級薬品を使っているのではない。少々の不純物が入っていても、安いものを使わなければ産業が成り立ちませんから、金儲けできませんから、当然工業用の第二リン酸ソーダを使ったのです。ただし、こういう食品添加物を加えるという状況になったときに何が問題かということはこの事が示していますね。要するにお金儲けの時代になったら、後悔も起こるし、食品添加物を使わざるを得なくなる。事実食品添加物はその後たくさん使われるようになる。
<食品添加物>
 今日は有機農業の会合ですから、ですから化学農薬の話をしなければならないのですけれども、その前に、関連して、同じ質の問題であると思いますので、触れておきたいと思います。昭和30年には、厚生省の認めていた食品添加物の数は100品目にも満たない。ところが10年後、昭和40年1965年には、ほぼ350品目になっています。つまり3.5倍増えているわけです。これが今の世の中のです。つまり高度成長社会ということはそういうことなのです。お金をたくさん欲しいと思って、あれも欲しい、これも欲しいという欲求不満に引きずられていくその流れの中で、大変恐ろしいことが同時に進むことなんですよということです。ただし、ちなみに、その食品添加物の中に、大変な毒性で禁止になったものがあります。発ガン性あり、遺伝毒性あり、催奇形成毒性あり、肝臓毒あり、腎臓毒あり、性器生殖機能障害毒性あり、こういうわけで恐ろしい毒性が明らかになって、禁止になっている食品添加物があります。皆さん、学校の教師の悪い癖でつい聞くんですけれども、何品目くらい禁止になったのかご存じでしょうか。
 48品目です。それだけ危険なもの、毒を我々は食べさせられたのです。誰かといういい方をすると、いかにも恨みっぽく、自分には責任ないかのごとく響くので、そういういい方はしてはならないと思います。私たちが選んで食べたんです。しかし、知らねば仏様にされます。「知らぬが仏」の意味は深刻に変わります。要するに、お金にうつつを抜かしている間に大変恐ろしい世界に私たち巻き込まれてしまったわけです。この恐ろしい世界と同じ様なことが、農業で起こっているわけです。農業で起こった話は次ぎに申し上げますけれども、食品添加物問題の被害は、いろんな形でじわっと現れ始めてきています。そうですね、乳児死亡中の先天的奇形、これはかつては非常に少なかった。しかし、だんだん増えてきて、1960年には第3位になっています。1971年には第1位になっています。1971年というと豊かな時代を誇って、大阪で、万国博覧会で浮かれた年です。「♪こんにちはこんにちは世界の国から♪」と覚えておられるでしょうか。お客さんを招いて、日本は豊かな国になったということを誇示した年です。この前後に、日本消費者連盟という消費者団体も発足しているし、先ほど申しましたように、日本有機農業研究会も発足しているわけです。つまり、危機の時代、いのちの危機の時代を受け止めて、さまざまな動きが起こったわけです。
そして有機農業運動が、食品添加物をはじめとして、いのちの危機が迫っていると言うことを自覚した、お母さん方を巻き込んで運動を広げていった。それが日本有機農業研究会のその後の20数年の動き、活動の展開の基本軸である。従って、食品添加物の問題と農薬の問題は別問題ということではない。運動のなかにおいてもそうだし、その根底においてもそうです。
(以下次号)
<HR>
編集後記
<HR>
 暑い夏でした。東北・北海道でも連日35、6度の高温が続いて、かの地方では空前の豊作だという話が伝わってきます。うがった見方をすれば、米の適作地が少し緯度を上げて東北・北海道に移ったといえなくもありません。
 農水省では、「世界食糧自給モデル」を公表していて、2つのシナリオを描いています。そのうちの「生産制約シナリオ」では、2025年の世界食糧不足は深刻で、穀物価格は1994年の4倍になると予測しています。その制約の主な要因として、気候変動、環境問題をあげています。
 最近の状況は、このシナリオ通りに進んでいるように思えてならないのですが、いかがでしょう。
 秋の収穫期です。読者諸氏には体調に気を付けて繁忙期を乗り切っていただきたいと思います。(屋敷)

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