この四月から農産物などにJASの表示がスタートする。
有機栽培○○とか、有機減農薬○○とか言うまぎらわしい表示が多くて、そのまぎらわしさを解消するため、第三者機関のきちんとした基準をクリアーしたものにのみ有機である表示ができるようにする制度である。
もちろん違反すれば罰則の規定も作られた。
私もそのJAS有機栽培に挑戦しているが、最近こんな質問をよく受ける。
「有機栽培と言ったって、周りにある隣近所の田畑が農薬を撒いている現実の中で、本当に本物ができるの?」というわけだ。
その疑問の通りだと思う。この四月新入生を持つ若いお母さんが「自分の子供に、家の中でどんなに良い言葉を教えても、保育園で友達から変な言葉を覚えてきて困る」と言ってましたが、周りからの影響尾を強く受けるという点では共通しているのかも知れない。
それでもその母親は、周りからの感化に負けないようにしながら、わが子に言葉を教えるのを諦めはしないでしょう。
私の有機農業もそんなものです。周りの影響を気にしていては何もできません。
有機農業の認証制度は、まず自分で手を挙げ停止を表示してスタートするものです。どんなに美味しいものでも、他人に口に入れられてムリヤリ食べさせられるのと、自分で箸を持って食べるのとでは味が違います。
四月になると「鷹が鳩になる」という諺が中国にあるそうです。厳しい顔が希望あるれる春という季節が来て穏やかになるということでしょうか。
四月、今年も希望を持って笑顔で頑張りましょう!
由米(ゆめ)物語
清水町在田 宇野 肇
米という字は八十八と書く程に、昔の農民は終始手作業で八十八の手数と計り知れない手間を要した作物であり、その労働の結晶はその当時、総ての物の価値を計る貨幣的(金と同じ)存在であった。例えば鯖五匹米一升、大工の一日の手間が米一斗とかで交換された。
今日の米作りは苗作りから、収穫・調整に至るまで殆ど機械。でも八十八の半分の四十四ぐらいの手数がかかるように思う。
人間が米寿に達するのは昔も今も変わらぬ難関と同じく、米作りも自然相手の中では、そう簡単なものではないと思う。
では、人間と米作りの歴史を辿ってみることにする。地球が生まれて今日まで約四十五億年といわれている。ほぼ太陽の年齢と等しいから、太陽系誕生と期を同じくしているようである。その四十五億年を一年、つまり十ニヶ月の三百六十五日に短縮すると、七月に初めて光合成植物(藻の一種)が生まれる。(二十億年前)
十一月二十九日
初の陸上植物出現(四億年前)
十二月二十日
勝山など全世界的に恐竜時代(一億二千年前)
十二月二十六日
哺乳類出現(七千万年前)
十二月三十日
原人の出現(二百万年前)
十二月三十一日二十三時
新人出現(三十万年前)
十二月三十一日二十四時の〇・七秒前
稲作の始まり(約八千年前)
以上の如く、地球上動物の世界では人間が一番おそく出現し、植物の世界では稲が一番おそく出現している。つまり人間と稲の出現には地球誕生以後丸々四十五億年も必要で、天文学的年数に及んでいる。
稲作の歴史は中国の長江流域で七、八千年前に栽培されていた遺跡が発見され、炭化した籾がトン単位で発掘された。
日本では約二、三千年前の弥生中期頃といわれている。以上から稲作の歴史はどう見積っても一万年以内ということになり、これ程に人類にとって稲作は新しい栽培である。
ちなみに一億年と一口に言うことが出来るが、西暦が始まって未だ二千年、日本の国造りもほぼ同時期である。
一万年といえば、この西暦二千年の五倍もかかる。その一万年が百回で百万年、千回で一千万年、一千万年が十回でやっと一億年前となり、その頃が恐竜の全盛期、気の遠くなる時間である。その一億年の四十五倍が地球の年齢である。
おそらく地球誕生期の地上には水も空気もない一つの無機質の天体に過ぎなかったし、火山と宇宙からは間断なく隕石が降り注いでいたであろうと想像される。
そのような一天体が今日、全宇宙どこを探しても無い水の惑星となり、約三千万種に及ぶ動・植物の生命が脈打っている星になっているのである。これほどの不思議なことはない。言葉を失うほどである。
このようにして四十五億年を経なければ出現できなかった人間と米である。先の大戦の敗戦前後は日本にはこの米が無く、全国民は死直前の飢餓地獄であった。空腹に耐えかね、山の粘土まで食べたという。そのような時アメリカから大量の小麦粉がおくられ、国民は飢餓を脱した。
私は敗戦で捕虜時代、たった一つの希(ねが)いと夢は故国に帰ったら自いごはんを腹一杯たべたい事だった。
このように飢餓を味わった者は一粒の米の有難さを味わった。
今日はどうか、正に飽食時代、米余りで米の有難さを知らない時代、コシヒカリがどうの、華越前がどうのと食味で賑わしい。
かっての平成米騒動の如く、一年〜二年不作ともなれば、たちまち米騒動になる。そんな時は食味がどうのという事は消えて無くなる。
日本は瑞穂(水穂)の国といわれるほどに、雨に恵まれ米作りに適している風土である。ところが二千年来米作りをして来たが真の栽培方法は未完成である。処・処べたつぶれのコシヒカリを見る。これはコシヒカリの性質を無視しての栽培だからである。
確かにコシヒカリは倒伏に弱い品種である。華越前やキヌヒカリ、日本晴等とは全く異なる。つまり八頭身の美人だが、腰が弱い。そのコシヒカリをあまり倒伏させないで、刈取スムーズ、しかも反収九俵前後とれる方法は、うすまき・細植・疎植で且つ肥料でなく、水で作ることでないかと思う。倒伏度は稲軸が地球の地軸と同じ二十三・五度になり頭がたれる姿である。これぞ北極星米ということが出来ると思われる。
(清水の文化、第七七号、平成一二年一二月二〇日刊)
子牛の育成から学ぶもの
名津井萬
私は稲作と酪農の複合経営をしている。酪農では乳牛がら教えられる事が多い。
年間、延べ四十数頭に人口受精をし、二十数頭の子牛が産まれる。二頭ほど自家育成し、六〜七頭を県営の高原牧場で育成してもらっている。
子牛の上手な育て方の基本は、分娩した母牛の最初に搾る「初乳」を、分娩後三十分以内に生まれた子牛に充分飲ませるのがコツである。母牛の初乳には何百倍もの栄養素と色々な免疫素が含まれているからである。子牛は出来るだけ早く母牛の初乳を飲む事によって健康な牛として育つのである。と先日の酪農講演会での教えである。私もその教えを実行しているつもりである。ただ時には、分娩した母牛が産後の病気で初乳が搾れない時がある。そんな時に備え健康な分娩時の初乳の余乳をビニールパックに入れて冷凍庫で保存しておいたものを使用する。保存しておく初乳は四産・五産を経た健康な老年の初乳が良いそうである。それは健康な老年は永年の牛乳生産の中で、色々な病気に打ち勝ち、色々な免疫素を持った初乳だからである。
これを人間教育にあてはめると、まずお母さんの乳を早く多く飲んだ子供が第一である。「健康第一。」
そして次に祖父母による人間教育、家庭教育が良いのではないかと思う。それは何十年もの人間生活の中で「喜怒哀楽」を経験して来た中での人間教育が良いのではないかと思っている。「人間生活の免疫素。」
「じいちゃん、ばあちゃん」(私は昭和九年生れ)と言われる私達の世代は、未だ古い
日本の人間教育の良き所を少しは身につけているのではないかと思っている。
私は想う。昭和二十年を境にして今日までの人間教育の良さと、昭和二十年以前の家庭教育の良さを何としても取り入れて、二十一世紀の日本の人間、家庭教育を育てられないものだろうか。
米作りや乳しぼり作業をしながら時折り想う。「まだ遅くはないぞ。早く早く、ゆっくりあわてずに落ち着いて、急げ急げ。」
読者からの便り
前略
「みち」二八号をお送り下さいましてありがとうございます。
二八号は二〇〇〇年のまとめ的内容です。
収穫祭の実りある行事、まあすごいです。「農」だけでこれだけのことをやってのけるのは日本広しといえども他に類を見ないのではないでしょうか。
と申しますのは、日本中が農離れしているからです。減反、米価一万、環境、後継ぎ、田の放棄等々。
でも人間の生命は地球上の他の生命を食べて生存しているのです。
魚、牛、鶏、植物、(稲)。魚にしても、牛にしても人間に食べられるために地上に在るのではありません。人間の勝手です。
しかし、この「みち」は他の生命の力というか、そうした他力を感謝し、命にやさしくする心のかたまりです。農のこころを心とする団体です。
稲〜米は地球上最高の食糧です。どんなに立派な自動車でも食べるわけにはいきません。命のもとにはならないのです。
私の拙文「由米物語」は、稲作、米の由来を書いてみました。いつの日にか「みち」に載せていただきたいと思います。
先生もいつまでも元気で頑張って下さい。中川賞はあなたです。
中川先生
宇野 肇
夢は千本桜(もう一つの編集後記)
福井市 細川嘉徳
今年は十六年振りの大雪、暖冬にすっかり慣れてしまった者にとって厳しい新年のスタートであった。しかしながら昔から大雪に不作なしと言う諺があるので、明るい兆しの一つでもある。その十六年前親友の宮腰さんから新築祝いに頂いた枝垂れ梅が、今年は見事に咲いて毎朝楽しませてくれている。新世紀の初めに幸先の良い思いがする。梅の花が終われば春は一斉に動き出す。この中での主役は何と言っても桜である。桜と言えば忘れられない体験が一つ。
平成十一年三月二十四日、日野川右岸安竹町で福井市主催の「日野用桜並木植樹祭」が盛大に開催され、現地から日野用浄化センター近くまでの間に百本の桜が植えられた。この行事に参加した帰り、東郷重産先生の自宅に親友の名津井君と二人が呼ばれ、これを機会に水害から立ち上がった西藤島をテーマに、既に発刊されている「西藤島村史」の続編を編纂するよう依頼された。そして「これを今君らがやらなかったら、この歴史は永遠に消えてしまうだろう」と。依頼と言っても半ば命令に近い感じだった。二人は断わる理由が見つからなかった。このような大事な仕事を小生のような者になぜ、そんなためらいはこの一言で吹っ飛んだ。親友と後世に残る仕事が出来るという機会は滅多にあるものではない。以来二人は会うたびに編集の構想を話し合い、印刷はJAプリントの義元君にお願いした。これで百人力。そして二年近くわが家の屋根裏が三人のたまり場になった。
先ず編集の柱として、マスコミが殆どない五十年前、戦災、地震、水害と度重なる災害の中で人々はどのように苦難に耐え、自然と向き合って来たかを活字にするため、七月に地元の長者から当時の話を聞く事から始めた。川幅の狭いところに橋を架けた政治の無策、堤防が切れたことを自転車で部落に知らせて廻ったこと、堤防が決壊して流れ込んだ水を下流の堤防を切って排水したこと、水が来たとき「おひつ」をかついで堤防に非難したこと、牛にオムスビを食わせた話、内水対策経過と今後の課題、裏話も含めて延々六時間にも及んだ。話しは前後するが同年五月、福井市のフェニックスプラザで行われた福井市制百十周年記念「うらが町づくり市民の祭典」で、当時の自治会連合会長であった名津井君が「西藤島の日野川堤防に桜を千本植えて市民の憩いと安らぎの場所にする」と、市長に向かって宣誓したことも話題になり大いに盛り上がった。苦難の歴史ばかりでなく将来の明るい展望と指針が話し合われた対談は大きな収穫があったと思う。
このようにして始めた編集はその過程で、最初の計画(予算も含めて)何処かに消えて、今しか出来ない事だからと言う思いに駆られ取材に奔走し熱中した分、中身が膨らむ結果になった。戦後から現在までの写真六五○枚、その一つ一つに解説やエピソードをつけた。これだけは何時迄も残したい「西藤島八景」もその一つである。
あの日からちょうど二年百の三月十五日、出来上がった「西藤島誌」が配達されてきた。A4版三五○頁、目方を量ると一○七八グラム、この重さに三人の友情が濃縮されていると思うと感無量で苦労が楽しみに変わる瞬間を味わった。良い時に良い仕事をさせて頂いた。編集に携わって一番長かったと思う事は、取材の過程で多くの出会いで得られた故郷の再発見が、自分史と重なったことである。そしてあの時の先生の「今君らがやらなかったら」の一言が忘れられない。後日先生から戴いた短冊に次の文字が書いてある。
天晴不着地利
地利不若人知
現在日野川堤防に植えられた約三石本の桜は、大半が地元有志の寄贈によるものである。それだけに人々の桜に寄せる思いは一人一人である。満開間近の桜通りを家族連れで散歩する人も多く、ここも桜の名所になる日は近い。
あぜみち中川賞原稿受付のおしらせ
今年のあぜみち中川賞の受付を五月一日から開始します。夢をつづった作文(四〇〇○字程度)での応募に加えて、今回から所定の項目について記述した応募用紙(注)での応募が加わり、応募しやすくなりました。ぜひ賞金の三〇万円をねらってください。最優秀賞でなくてもこの人は応援しようと審査委員が判断した方にも、特別賞として若干の賞金がもらえることもあります。とにかく応募してみることをおすすめします。この賞の審査は、その人の思いや人柄、環境などを総合的に判断して受賞者を決定します。そのため応募者本人と実際に会って直接話を聞く現地調査を、特に重視しています。作文や応募用紙は、賞の応募の意思表示としてとらえていますので、記述内容の上手下手はそれほど重要ではありません。
応募ができるのは、「福井県在住の農業者(個人)で五○歳未満の方」となっており、男性・女性、専業・兼業の区別はありません。農家の女性で将来こんなことをしてみたいと思っている方が、賞金で視察旅行をしたり、ちょっと、した機械を買ってみたり、事業資金の一部に当てたりといったことのために、応募してみるというのもいいと思います。また週末農業をしている方が、いろんな人との交流のために賞金をねらってみるというのもいいでしょう。当然、農業経営の次の展開のため、また今やっていることの継続のため賞金をねらうという方もどしどし応募してください。
応募原稿または応募用紙は、住所、氏名、年齢、連絡先電話番号を明記して、あぜみちの会事務局の安実正嗣まで、郵送かFAXでお送りください。(〒九一〇−〇八〇三 福井市高柳町三−八 ファックス○七七六−五四−八○七五)応募受付期間は八月三十一日までです。
お問い合わせは、安実正嗣(電話○七七六−五四−七五六五)か前川英範(電話○九○−四三二七−一三五四)までお願いします。
このみちの読者の皆様のご存じの方で、賞をねらってほしいとお思いの方がおられましたら、ぜひとも応募をおすすめしてください。このあぜみち中川賞は、皆様の口コミ・人的ネットワークで広げていって定着させていきたいと考えております。ご協力よろしくお願いいたします。
(注)応募用紙での応募の際は、A4用紙に縦長1横書きで、所定の項目(1.農業を始めた動機、2.現在の経営状況、3.これからの夢・将来の方向など、4.自由記入)について書いたものを、事務局までお送りください。また、事務局までお問い合わせいただければ、応募用紙をFAXか郵送でお送りいたします。
東北「農」めぐり(I)
福井市 義元孝司
昨年の秋、気の合う仲間と七人と東北地方に「農」をキーワードにした旅にでかけました。この旅は旅に参加するものが、主体的に計画をたて、連絡調整し、旅そのものを楽しむというものでした。一般的に旅はどんどんマニュアル化が進み、旅行すること自体が商品化し、旅行者自体が主体的に考え、行動することが、旅行そのもの楽しむことが少なくなっている時代に貴重な経験でした。第一日目に訪れたのは、山形県温海市の「温海かぶら」の加工場でした。温海かぶらは温海市で長年作られて来た「伝統野菜」です。日本海に面した温海市から四キロ程山間に入ったところにその畑があります。この日は到着が遅れ、現地を見ることは出来ませんでした。温海かぶらは約二十七一戸の農家で栽培され、
その全量が加工場で酢漬けにされ、全国に出荷販売され、その販売額は四千七百万円になっています。私達を迎えてくれたのは、五十過ぎの笑顔の佐々木加工場長さんでした。早速、佐々木さんに案内された加工場は昭和五十年に建てられ、少々古くはなってますが、きちんと整理整頓され、あの「温海かぶら」が山のように置かれていました。
収穫された温海かぶらは、表面は紫色、芯のほうは白色の形状をしています。かぶらの加工は塩漬け、保存、酢漬け、包装の行程で行われ、「温海かぶら」特有の真っ赤な色合いはこの加工行程を経ることによって、少しずつかぶら全体に浸透していくようです。加工場には往々木さんの他に地元のおばさんが四人袋つめ、包装の仕事を手際良くこなしていました。十月末から翌年二月末までメンバーは日々入れ替わりますが、毎日この加工場で働いているといいます。毎年、二月末までに完売される「温海かぶら」に地域で「業」を起こす農業者の底力を垣間見ました。
東北「農」巡りの旅2日目は、秋田市で毎年間催されている「第百二十三回秋田種苗交換会」を訪ねました。この会は江戸時代から続いているもので、今回で百二十三回目という継続力に驚きを感じました。会場は近隣の農民、市民が多数参加し、会期全体では、約六十万人の来場者があったという。特に農産物品評会には根のついた稲が、展示され圧巻でした。又来場者の多くが庭木等を買って帰る光景にはおどろきを感じました。(つづく)
編集後記
福井市内の桜通りや足羽河畔の桜が街の中を明るくしています。何の根拠もなくて、新しい世紀に入れば、希望のある将来が見えてきたり、明るい論調がマスコミを飾ると信じ込んでいました。二一世紀が三ヶ月あまりすぎて、前世紀末が申送りしてきた課題に明るい解決の方向が見えるどころか、むしろますます事態は悪化の一途を辿っているように見えます。いわく、アメリカの京都議定書の否定、世界的な経済状況の悪化、日本の政治的混迷等など。日本に限ってみても、これだけ、経済不況が深刻化し、失業率が高まり、リストラが吹き荒れても、誰も声をあげたり、行動を起こしたりしません。日本社会が萎えてしまっていることは、経済や政治状況の問題ではなく、むしろそれに向かって手を拱いている日本人の精神のありように起因しているように思えてなりません。
市民が今、自分の拠って立つ位置で、果敢に挑戦する心意気をもたなければ、この閉塞状況は打ち破れないのではないでしょうか。フランスの農民がやったように、また、シアトルのWTOの事前交渉を粉砕したNGOの行動のように、街頭行動も必要でしょうが、地域にじっくりと根を下ろして、地域社会の仕組み自体を変えていく行動もまた求められていると思います。あぜみちの会は農業者のネットワークとして、それなりのインパクトをこれまで発信してきました。十年を通り過ぎて、ひとつの踊り場に到達した今、次の階段の一段目に足をかける時がきた、と僕は考えています。
春の農作業の真っ盛りです。どなたもご自愛なさって奮闘なさるよう祈っています。(屋敷)