御 講 聞 書

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    御講聞書目録

一、妙法蓮華経序品第一の事                八〇七

一、妙法                         八〇八

一、蓮華                         八〇八

一、本因本果の事                     八〇九

一、爾前無得道の事                    八〇九

一、序品の事                       八〇九

一、品と云う事                      八〇九

一、如是我聞の事                     八一〇

一、如是の二字                      八一〇

一、耆闍崛山(ぎしゃくっせん)の事                     八一一

一、与大比丘衆の事                    八一二

一、爾時世尊の事                     八一三

一、浄飯王摩耶夫人成仏証文の事              八一三

一、方便品の事                      八一三

一、仏所成就第一希有難解之法唯仏与仏の事         八一四

一、十如是の事                      八一五

一、自証無上道大乗平等法の事               八一五

一、我始坐道場観樹亦経行の事               八一六

一、今我喜無畏の事                    八一六

一、我聞是法音疑網皆已除の事               八一六

一、以本願故説三乗法の事                 八一七

一、有大長者の事                     八一八

一、多有田宅の事                     八一九

一、等一大車の事                     八二〇

一、其車高広の事                     八二〇

一、是朽故宅属于一人の事                 八二〇

一、諸鬼神等揚声大叫の事                 八二一

一、乗此宝乗直至道場の事                 八二一

一、若人不信毀謗此経則断一切世間仏種の事         八二二

一、捨悪知識親近善友の事                 八二三

一、無上宝聚不求自得の事                 八二四

一、薬草喩品の事                     八二四

一、現世安穏後生善処の事                 八二五

一、皆悉到於一切智地の事                 八二五

一、此の一切智地の四字                  八二六

一、根茎枝葉の事                     八二七_

一、枯槁衆生の事                     八二七

一、等雨法雨の事                     八二七

一、如従飢国来忽遇大王・の事               八二八

一、大通智勝仏○不得成仏道の事              八二九

一、貧人見此珠其心大歓喜の事               八三〇

一、如甘露見潅の事                    八三一

一、若有悪人以不善心等の事                八三二

一、如是如是の事                     八三二

一、是真仏子住淳善地の事                 八三二

一、非口所宣非心所測の事                 八三三

一、不染世間法如蓮華在水従地而涌出の事          八三三

一、願仏為未来演説令開解の事               八三四

一、譬如良医智慧聡達の事                 八三四

一、一念信解の事                     八三五

一、見仏聞法信受教誨の事                 八三五

一、若復有人以七宝満是人所得其福最多の事         八三五

一、妙音菩薩の事                     八三六

一、爾時無尽意菩薩の事                  八三六

一、観音妙智力の事                    八三六

一、自在之業の事                     八三六

一、妙法蓮華経陀羅尼の事                 八三六

一、六万八千人の事                    八三七

一、妙荘厳王(みょうそうごんのう)の事                     八三七

一、華厳大日観経等の凡夫の得道の事            八三七

一、題目の五字を以て下種の証文と為す可き事        八三七

一、題目の五字末法に限て持つ可きの事           八三八

一、天台云く是我弟子応弘我法の事             八三八

一、色心を心法と云う事                  八三八

一、無作の応身我等凡夫也と云う事             八三八

一、諸河無鹹の事                     八三八

一、妙楽大師の釈に末法之初冥利不無の釈の事        八三九

一、爾前経瓦礫国の事                   八三九

一、無明悪酒の事                     八三九

一、日蓮己証の事                     八四〇

一、釈尊の持言秘法の事                  八四〇

一、日蓮門家大事の事                   八四〇

一、日蓮が弟子臆病にては叶う可からざる事         八四〇

一、妙法蓮華経の五字を眼と云う事             八四〇

一、法華経の行者に水火の行者の事             八四一

一、女人と妙と釈尊と一体の事               八四一

一、置不呵責の文の事                   八四二

一、異念無く霊山浄土へ参る可き事             八四二

一、不可失本心の事                    八四二

一、天台大師を魔王障礙せし事               八四三

一、法華経極理の事                    八四四

一、妙法蓮華経五字の蔵の事                八四四

一、我等衆生の成仏は打かためたる成仏と云う証文の事    八四五

一、爾前法華の能くらべの事                八四五

一、授職の法体の事                    八四五

一、末代譲状の事                     八四五

一、本有止観と云う事                   八四五

一、入末法四弘誓願の事                  八四五

一、四弘誓願応報如理と云う事               八四六

一、本来の四弘の事                    八四六

已上九十ケ条

 右日向記の目録は、現行板本の目録に脱せる「如是我聞の事」及び「法華経の行者に水火の行者の事」の二条を加え、新曾本に明かに「已上九十ケ条」とあるに合せて、新たに作製せり。現行板本に八十八箇条とあるは誤なり、但し巻頭の「総」は新曾本に  も数えず、故に本目録にも記載せず。なお同一箇条にして、別条に御講示ある場合、即ち「等雨法雨の事」「根茎枝葉の事」等は、新曾本も現行板本も、共に一条に数うるを以て、本目録も亦た其れに従えり。

已上四行の附記は全く日宗社本に依る、編者。

自二弘安元年三月十九日一連連御講至二同三年五月二十八日一也仍テ記シレ之畢

                                  日向記之

凡そ法華経と申すは一切衆生皆成仏道の要法なり、されば大覚世尊は説時未至故(みしこ)と説かせ給いて説く可き時節を待たせ給いき、例せば郭公(ほととぎす)の春をおくり鶏鳥(けいちょう)の暁を待ちて鳴くが如くなり、此れ即ち時を待つ故なり、さ れば涅槃経に云く以知時故名大法師と説かれたり、今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり、されば此の題目には余事を交えば僻事なるべし、此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり、之に依つて一部二十八品の頂上に南無妙法蓮華経序品第一と題したり。

一妙法蓮華経序品第一の事  玄旨伝に云く、一切経の惣要とは謂く妙法蓮華経の五字なり、又云く、一行一切行恒修二此三味一文、云う所の三味とは即ち法華の有相無相の二行なり、此の道理を以て法華経を読誦せん行者は即ち法具の一心三観なり云云、此 の釈に一切経と云うは近くは華厳・阿含・方等・般若等なり、遠くは大通仏より已来の諸経なり、本門の意は寿量品(じゅりょうほん)を除いて其の外の一切経なり、惣要とは天には日月・地には大王・人には神(たましい)・眼目の如くなりと云う意を以つて釈せり、此れ即ち妙法蓮華経の枝葉なり、一行とは妙法の一行に一切行を納めたり、法具とは題目の五字に万法を具足すと云う.事なり、然る間・三世十方の諸仏も上行菩薩等も・大梵天王 ・帝釈・四王・十羅刹女・天照太神・八幡大菩薩・山王二十一社・其の外・日本国中の小神・大神等・此の経の行者を守護すべしと・法華経の第五巻に分明に説かれたり、影と・身と・音と・響との如し、法華経二十八品は影の如く響の如し、題目の五字は体 の如く音の如くなり、題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉(たてまつる)る間、一大三千界にいたらざる所なし、譬えば小音なれども貝(ばい)に入れて吹く時・遠く響くが如く、手の音は わずかなれども鼓を打つに遠く響くが如し、一念三千の大事の法門是なり、かかる目出度き御経にて渡らせ給えるを、謗る人何ぞ無間に堕在せざらんや、法然弘法等の大悪知識是なり。

一妙法   の二字は一切衆生の色心の二法なり、一代説教の中に法の字の上に妙の字を置きたる経は一経もなし、涅槃経の題目にも大涅槃経と云いて大の字あれども妙の字なし、但し大は只是れ妙と云えり然れども大と妙とは不同なり、同じ大なれども華 厳経の大方広仏華厳経と云える題号の大と、涅槃経の大と天地雲泥なり、華厳経の大は無得道の大なり。涅槃経の大は法華同醍醐味の大なり、然れども然涅槃尚劣と云う時は法華経には劣れり、此の事は涅槃経に分明に法華経に劣ると説かれたり、涅槃経に 云く如下法華中八千声聞得レ受二記べつ一成中大果舞上如三秋収冬蔵更無二所作二云云此の文分明に我と法華経に劣れりと説かせ給えり。

一蓮華   とは本因本果なり、此の本因本果と云うは一念三千なり、本有の因・本有の果なり、今始めたる因果に非ざるなり、五百塵点の法門とは此の事を説かれたり、本因の因と云うは下種の題目なり、本果の果とは成仏なり、因と云うは信心領納 (りょうのう)の事なり、此の経を持ち奉る時を本因とす其の本因のまま成仏なりと云うを本果とは云うなり、日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗とするなり、本因なくしては本果有る可からず、何て本因とは慧の因にして名字即の位なり、本果は 果にして究竟即の位なり、究竟即とは九識本覚の異名なり、九識本法の都とは法華の行者の住所なり、神力品に云く若しは山谷(せんごく)曠野等と説けり即ち是れ道場と見えたり豈法華の行者の住所は生処・得道・転法輪・入涅槃の諸仏の四処の道場に 非ずや。

一本因本果の事   法界悉く常住不滅の為体を云うなり、されば妙楽大師・此の事を釈する時・弘決に云く当七知身土一念三千・故成道時称二此本理二身一念遍二於法界一云云、此の釈分明に本因本果を釈したり、身と云うは一切衆生なり、土と云うは此 の一切衆生の住処なり一念とは此の衆生の念念の作業なり、故成道時称二此本理一とは本因本果の成道なり、本理と本因本果とは同じ事なり法界とは五大なり、所詮法華経を持ち奉る行者は若在仏前蓮華化生なれば称此本理の成道なり、本理に称うとは妙法 蓮華経の本理に称うと云う事なり、法華経の本理に叶うとは此の経を持ち奉るを云うなり、若有能持則持仏身とは是なり。

一爾前無得道の事  此の法門は蓮華の二字より起れり、其の故は蓮華の二字を以て云うなり、三世の諸仏の成道を唱うるは蓮華の二字より出でたり、権教に於て蓮華の沙汰無し若しありと云うとも有名無実の蓮華なるべし、三世の諸仏の本時の下種を指し て華と名け、此の下種の華によつて成仏の蓮を取る、妙法蓮華即ち下種なり、下種即ち南無妙法蓮華経なり、華は本因・蓮は本果なれば華の本国を不信謗法の人豈具足せんや、経に云く若人不信毀謗此経則断一切世間仏種云云、此の蓮華に迷う故に十界具足 無し、十界具足せざれば一念三千跡形無きなり、一切の法門は蓮華の二字より起れり、一代説教に於て無得道と云うも蓮華の二字より起れり深く之を案ず可し。

序品の事  此の事は、教主釈尊・法華経を説き給わんとて先ず瑞相(ずいそう)の顕れたる事を云うなり、今末法に入つて南無妙法蓮華経の顕われ給うべき瑞相(ずいそう)は彼には百千万倍勝るべきなり、其の故は雨は竜の大小により蓮華は池の浅深に随つて其の色不同なるが 如くなるべし。

一品と云う事  品とは、釈に云く義類同と云えり、此の法華経は三仏寄合い給いて定判し給えり、三仏とは釈迦・多宝・分身是なり、此の三仏・評定してのたまわく一切衆生皆成仏道は法華経に限りて有りと、皆是真実の証明・舌相梵天の誠証・要当説真実 の金言・此等を義類同して題したる品の字なり、天竺には跋渠(ばっこ)と云う此には品と云えり、釈迦・多宝・分身の三仏の御口を以て指し合せ同音に定判し給える我等衆生の成仏なり、譬えば鳥の卵の内より卵をつつく時・母又同じくつつきあくるに・同 じき所をつつきあくるが如し、是れ即ち念慮の感応する故なり、今法華経の成仏も此くの如くなり、三世諸仏の同音に同時に定め給える成仏なり、故に経に云く従仏口生如従仏(じゅうぶつくしょうにょじゅうぶつく)等云云。

一如是我聞の事  仰に云く如と云うは衆生の如と仏の如と一如にして無二如なり、然りと雖も九界と仏界と分れたるを是と云うなり、如は如を不具に名く即ち空の義なりと釈して少しも・ことならざるを云うなり、所詮法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃 ・生仏不二・迷悟一体といえり、是を如とは云うなり、されば如は実相・是は諸法なり、又如は心法・是は色法・如は寂・是は照なり、如は一念・是は三千なり、今経の心は文文・句句一念三千の法門なり、惣じて如是我聞の四字より外は今経の体全く無きな り 如と妙とは同じ事・是とは法と又同じ事なり、法華経と釈尊と我等との三・全く不同無く・如我等無異なるを如と云うなり、仏は悟り・凡夫は迷なりと云うを是とは云うなり、我聞と云うは、我は阿難なり、聞とは耳の主と釈せり、聞とは名字即なり、如 是の二字は妙法なり、阿難を始めて霊山一会の聴衆・同時に妙法蓮華経の五字を聴聞せり仇つて我も聞くと云えり、されば相伝の点には如は是なりきと我れ聞くといえり、所詮末法当今には南無妙法蓮華経を我も聞くと心得べきなり、我は真如法性の我なり、 天台大師は同聞衆と判ぜり同じ事を聞く衆と云うなり、同とは妙法蓮華経なり、聞は即身成仏・法華経に限ると聞くなり云云。

一如是の二字  を約教の下に釈する時・文句の一に又一時に四箭を接して地に堕せしめざるも未だ敢て捷しと称せず、鈍驢に策(むちう)って跋べつを駈る尚し一をも得ず何に況や四をや云云、記の一に云く、大経に云く迦葉菩薩(かしょうぼさつ)問うて云く云何か智者・ 念念の滅を観ずと、仏の言く譬えば四人皆射術を善し満つて一処に在りて・各一方を射るに念言すらく・我等は四の箭・倶に射て倶に堕せんと、復人有りて念ずらく・其の未だ堕せざるに及んで我れ能く一時に手を以て接取せんというが如し、仏の言(のた まわ)く、捷疾鬼(しょうしつき)は復是の人よりも速なり是くの如く、飛行鬼(ひぎょうき)・四天王・日月神・堅疾天は展転して箭よりも疾し、無常は此れに過ぎたりと、此の本末の意は他師・此の経の如是に付て釈を設くと云えども・更に法蓮華の理 に深く叶わざるなり、一二だも義理を尽さざるなり況や因縁をや、何に況や約教・観心の四をやと破し給えり、所詮法華経は速疾頓成(そくしとんじょう)を以て本とす、我等衆生の無常のはやき事は捷疾鬼よりもはやし、爰を以て出ずる息は入る息を待たず、 此の経の如是は爾前の諸経の如是に勝れて超八の如是なり、超八醍醐の如是とは速疾頓成の故なり、妙楽大師云く若し超八の如是に非ずんば、安(いずくん)ぞ此の経の所聞と為さんと云云。

耆闍崛山(ぎしゃくっせん)(ぎしゃくくざん)の事 (811P) 仰に云く耆闍崛山(ぎしゃくっせん)とは霊鷺山なり、霊とは三世の諸仏の心法なり必ず此の山に仏法を留め給う、鷲とは鳥なり此の山の南に当つて詩だ戸陀林(しだりん)あり死人を捨つる所なり、鷲此の屍を取り食うて、此 の山に住むなり、さて霊鷲山とは云うなり、所詮今の経の心は迷悟一体と談ず、霊と云うは法華経なり、三世の諸仏の心法にして悟なり、鷲と云う卯は畜生にして迷なり、迷悟不二と開く中道即法性の山なり、耆闍崛山(ぎしゃくっせん)中と云うは迷悟不二・三諦一諦・中道第 一義空の内証なり、されば法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり行者遠釈迦如来に非ずや、日本国は耆闍崛山(ぎしゃくっせん)・日蓮等の類は釈迦如来なるべし、惣じて一乗南無妙法蓮華経を修行せん所は・いかなる所なりとも常寂光の都 ・霊鷲山なるべし、此の耆闍崛山(ぎしゃくっせん)中とは煩悩の山なり、仏菩薩等は菩提の果なり・煩悩の山の中にして法華経を三世の諸仏説き給えり、諸仏は法性の依地・衆生は無明の依地なり.、此の山を寿量品(じゅりょうほん)にしては本有の霊山と説かれたり、本有の霊山とは此の裟婆 世界なり、中にも日本国なり、法華経の本国土妙・裟婆世界なり、本門寿量品(じゅりょうほん)の未
一与大比丘衆の事  仰に云く文句の一に云く釈論に明す、大とは亦は多と言い亦は勝と言う、遍く内外の経書を知る故に多と言う、又数一万二千に至る故に多と言う、今明さく大道有るが故に・大用有るが故に・大知有るが故に・故に大と言う、勝とは道勝 れ・風勝れ・知勝る、故に勝と言う、多とは道多く・用多く・知多し故に多と言う、又云く含容一心・一切心なり、故に多と名くるなり、記の一に云く一心一切心と言うは心境倶に心にして各一切を摂す、一切三千を出でざるが故なり、具に止観の第五の文の 如し、若し円心に非ざれば三千を摂せず、故に三千惣別威く空仮中なり、一文既に爾なり他は皆此れに准せよ、此の本末の心は心境義の一念三千を釈するなり、止観の第五の文とは夫一心具十法界乃至不可思議境の文を指すなり、心境義の一念三千とは此の与 大比丘和が大の字より釈し出だせり、大多勝の三字・三諦・三観なり、円頓行者起念の当体・三諦三観にして大多勝なり、

此の釈に惣と云うは一心の事なり、別とは三千なり、一文とは大の一字なり、今末法に入つては法華経の行者・日蓮等の類、正しく大多勝の修行なり、法華経の行者は釈迦如来を始め奉りて悉く大人の為に敬い奉るなり誠に以て大曼荼羅の同共の比丘衆なり、 本門の事の一念三千・南無妙法蓮華経・大多勝の比丘衆なり、文文・句句・六万九千三百八十四字の字ごとに大多勝なり、人法一体にして即身成仏なり、されば釈に云く大は是れ空の義・多は是れ仮の義・勝は是れ中の義と、一人の上にも大多勝の三義・分明 に具足す、大とは迹門・.多とは本門・勝とは題目なり、法華経の本尊を大多勝の大曼荼羅と云うなり、是れ豈与大比丘衆に非ずや、二界・八番の雑衆悉く法華の会座の大曼荼羅なり、法華経の行者は二法の情を捨てて唯妙法と信ずるを大というなり、此の題 目の一心に一切心を含容するを多と云うなり、諸経・諸人に勝れたるが故に勝と云うなり、一切心に法界を尽す一心とは法華経の信心なり、信心即一念三千なり云云。

一爾時世尊の事  仰に云く世尊とは釈迦如来・所詮世尊とは孝養の人を云うなり、其の故は不孝の人をば世尊とは云わず教主釈尊こそ世尊の本にては御座侯え、父浄飯王・母摩耶夫人を成道せしめ給うなり、されど今経の座には父母御座さざれば方便土へ法 華経をば送らせ給うなり、彼土得聞とは是なり、但し法華経の心は十方仏土中・唯有一乗法なり切利夫に母摩耶夫人生じ給えり、仰利天に即したる寂光土なり、方便土に即したる寂光土なり、四土一念・皆常寂光なれば、何れも法華経の説処なり、虚空会の時 の説法華に岩切利天もるべきや寂光土の説法華に遠方便土もるべきや、何れも法華経の説所なれば同聞衆の人数なり云云。

一浄飯王座耶夫人成仏証文の事  仰に云く方便品に云く我始坐道場・観樹亦経行の文是なり、又寿量品(じゅりょうほん)に云く、然我実成仏已来の文是なり、教主釈尊の成道の時・浄飯王も摩耶も得道するなり、本迹二門の得道の文是なり云云、此の文日蓮が己心の大事なり 、我始と我実との文・能く能く之を案ず可し、其の故は爾前経の心は父子各別の談道なり、然る開成仏之れ無し、今の経の時・父子の天性を定め父子一体と談ぜり・父母の成仏即ち子の成仏なり、子の成仏・即ち父母の成仏なり、釈尊の我始坐道場の時・浄飯 王・摩耶夫人も同時に成道なり、釈尊の我実成仏の時・浄飯王・摩耶夫人同時なり始本共に同時の成道なり、此の法門は天台・伝教等を除いて知る人一人も之れ有る可からず、末法に入つて日蓮等の類・堅く秘す可き法門なり、譬えば蓮華の華果の相離せざる が如くなり、然れば法華経の行者は男女悉く世尊に非ずや、薬王品に云く於一切衆生中亦為第一文、此れ即ち世尊の経文に非ずや、是真仏子なれば法王の子にして世尊第一に非ずや。

方便品の事   妙法蓮華経の五字とは名体宗用教の五重玄義なり、されば止観に十章を釈せり此の十章即ち妙法蓮華経の能釈なり、夫れとは釈名は名玄義なり、体相摂法の二は体玄義なり、偏円の一は教玄義なり、方便・正観・果報の三は宗玄義なり、起 教の一は用玄義なり、始の大意の章と終の旨帰との二をば之を除く、此の意は止観一部の所詮は大意と旨帰とに納れり無明即明の大意なる故なり、無明とも即明とも分別せざるが旨帰なり、今妙法蓮華経の五重玄義を修行し奉れば・煩悩即菩提・生死即涅槃の 開悟を得るなり、大意と旨帰とは法華の信心の事なるべし、以信得入・非己智分とは是なり、我等衆生の色心の二法は妙法の二字なり無始色心・本是理性・妙境妙智と開覚するを大意と云うなり、大は色法の徳・意は心法の徳なり大の字は形に訓ぜり、今日蓮 等の類・南無妙法蓮華経と唱え奉る男女・貴賎・等の色心本有の妙境妙智なり、父母果縛の肉身の外に別に三十二相・八十種好の相好之れ無し即身成仏是なり、然る間大の一字に法界を悉く収むるが故に法華経を大乗と云うなり、一切の仏菩薩・聖衆・人畜・ 地獄等の衆生・の智慧を具足し給うが故に・仏意と云うなり、大乗と云うも同じ事なり是れ即ち妙法蓮華経の具徳なり、されば九界の衆生の意を以て仏の意とす、一切経の心を以て法華経の意とす、於一仏乗分別説三とは是なり、かかる目出度き法華経を謗じ 奉る事・三世の諸仏の御舌を切るに非ずや、然るに此の妙法蓮華経の具徳をば仏の智慧にてもはかりがたく何に況や菩薩の智力に及ぶ可けんや、之に依つて大聖塔中偶の相伝に云く、一家の本意は只一言を以て本と為す云云、此の一言とは寂照不二の一言なり 或は本末究竟等の一言とも云うなり、真実の義には南無妙法蓮華経の一言なり、本とは凡夫なり、末とは仏なり、究竟とは生仏一如なり、生仏一如の如の体は所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経是なり云云。

一仏所成就第一希有難解之法唯仏与仏の事   仰に云く仏とは釈尊の御事なり、成就とは法華経なり、第一は爾前の不第一に対し・希有は爾前の不希有に対し・難解之法は爾前の不難解に対したり、此の仏と申すは諸法実相なれば十界の衆生を仏とは云うなり、 十界の衆生の語言音声成就にして法華経なり、三世の諸仏の出世の本懐の妙法にして、優曇華の妙文なれば第一希有なり、九界の智慧は及ばざれば難解の法なり、成就とは我等衆生の煩悩即菩提・生死即涅槃の事なり、権教の意は終に不成仏なれば成就には非ず、 迹門には二乗成仏顕れたり、是れ即ち成就なり、是を仏所成就とは説かれたり、されば唯仏とは釈迦・与仏とは多宝なり、多宝涌現なければ与仏とは云いがたし、然りと雖も終には出現あるべき故に・与仏を多宝というなり、所詮日蓮等の類いの心は・唯仏は 釈尊・与仏は日蓮等の類いの事なるべし、其の故は唯仏の唯を重ねて譬喩品には唯我一人と説けり、与仏の二字を重ねて、方便品の末に至つて若遇余仏(にゃくぐうよぶつ)と説けり、釈には深く円理を覚るは、之れを名けて仏と為すと釈せり、是れ即ち与仏 と云うは法華経の行者男女の事なり、唯我一人の釈尊に与(くみ)し上(たてまつ)る仏なり、此の二仏寄り合いて、乃能究尽する所の諸法実相の法体なり、されば十如是と云うは十界なり、十界即十如是なり、十如是は即ち法華経の異名なり云云。

一十如是の事   仰に云く此の十如是は法華経の眼目・一切経の惣要たり、されば此の十如是を開覚しぬれば語法に於て迷悟無く、実相に於て染浄無し、之れに依つて天台大師は止観の十章も此の十如是より釈出せり、然る間・十如是に過たる法門更に以て之 れ無し、爰を以て和尚授けて云く十大章は是れ全く十如是・若し大意を覚る時・性如是の意を以て下の玄如の図を分別す可し、十如是を十大章に習う事は性如是は大意・和如是は釈名・体如是は体相・力如是は摂法・作如是は偏円・縁如是は方使・因如是は正 観・果報如定は果報・本末究竟如是は旨帰なり、此の中に起教の章は化他利物果上化用と云うなり云云。

一自証無上道大乗平等法の事 (816P) 仰に云く末法当今に於て大乗平等の法を証せる事・日蓮等の類いに限れりされば此の経文は教主大覚世尊・法華経の極理を証して番番に出世し給いて説き給うなり、所詮此の自証と云うは三十成道の時を指すなり、其 の故は教主釈尊は十九出家・三十成道なり、然る間・自証無上道等文、所詮此の品の心は十界皆成の旨を明せり、然れば自証と云うは十界を諸法実相の一仏ぞと説かれたり、地獄も餓鬼も悉く無上大乗の妙法を証得したるなり、自は十界を指したり、恣(ほし い)ままに証すと云う事なり、権教は不平等の経なり、法華経は平等法の経なり、今日蓮等の類いは真実自証無上道・大乗平等法の行者なり、所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経の大乗平等の広宣流布の時なり 云云。

一我始坐道場観樹亦経行の事  仰に云く、此の文は教主釈尊・三十成道の時を説き給えり、観樹の樹と云うは十二因縁の事なり、所詮十二因縁を観じて経行すと説き給えり、十二因縁は法界の異名なり又法華経の異名なり、是れ仏受用し給い、経行し及び坐臥 し給わんと、既に此の人を称して仏と為す、出田観心の長者と名けざらんやと此の釈分明に観心の長者に十徳を具足すと釈せり、所謂(いわゆる)引証の文に、分別功徳品の則是仏受用の文を引けり、経文に は仏子住此地とあり、此の字を是の字にうつせり、経行若坐臥の若を及の字にかえたり、又法帥品の文を引けり、所詮仏子とは法華経の行者なり、此地とは実相の大地なり、経行若坐臥とは法華経の行者の四威儀の所作の振舞、悉く仏の振舞なり、我等衆生の振 舞の当体、仏の振舞なり、此の当体のふるまいこそ長者なれ、防つて観心の長者は我等凡夫なり、然るに末法当今の法華経の行者より外に、観心の長者無きなり、今日遮等の薙レ商無妙法蓮華経と唱え奉る者、無上宝緊不求自符の長者に非ずや、既称此人為仏 の六字に心を留めて案ずべきなり云云。

其の故は樹木は枝葉華菓あり是れ即ち生住異滅の四相なり、大覚世尊・十二因縁の流転を観じ・経行し給えり、所詮末法当今も一切衆生・法華経を謗じて流転す可きを観じて日本国を日蓮経行して南無妙法蓮華経と弘通する・又又此の如くなり、法華の行者は 悉く道場に坐したる人なり云云。

一今我喜無畏の事  仰に云く此の文は権教を説き畢らせ給いて法華経を説かせ給う時なれば喜びておそれなしと観じ給えり、其の故は爾前の間は一切衆生を畏れ給えり、若し法華経を説かずして空しくやあらんずらんと思召して畏れ深くありと云う文なり 、さて今は恐るべき事なく時節・来つて説く間・畏れなしと喜び給えり、今日蓮等の類も是くの如く日蓮も三十二までは畏れありき、若しや此の南無妙法蓮華経を弘めずして・あらんずらんと畏れありき、今は即ち此の恐れ無く既に末法当時・南無妙法蓮華経 の七字を日本国に弘むる間恐れなし、終には一閻浮提(いちえんぶだい)に広宣流布せん事一定なるべし云云。

一我聞是法音疑網皆已除の事  仰に云く法音とは南無妙法蓮華経なり、疑網とは最後品の無明を云うなり、此の経を持ち奉れば悉く除くと説かれたり、此の文は舎利弗が三重の無明・一時倶尽する事を領解せり、今日本国の一切衆生・法華経の法音を聞く と云えども未だ能く信ぜず豈疑網皆已に除かんや、除かざれば入阿鼻獄は疑無きなり、疑の字は元品の無明の事なり此の疑を断つを信とは云うなり、釈に云く無疑曰信と云えり身子は此の疑無き故に華光仏と成れり、今日蓮等の類は題目の法音を信受する故 に疑網更に無し、如我等無異とて釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり、疑網と云うは色心の二法に有る惑障なり、疑は心法にあり・網は色法にあり、此の経を持ち奉り信ずれば色心の二法共に悉く除くと云う事なり、此の皆已の已の字は身子尊者・ 広開三顕一を指して已とは云うなり、今は領解の文段なり、身子・妙法実相の理を聴聞して心懐大歓喜せしなり、所詮舎利弗尊者程の智者・法華経へ来つて華光仏となり、疑網を断除せり、何に況んや末法当時の権人謗法の人人此の経に値わずんば成仏あら んや云云。

一以本願故説三乗法の事   仰に云く此の経文は身子尊者・成道の国・離垢世界にて三乗の法は悪世には非ず、然りと雖も身子本願の故に説くと云えり、其の本願と云うは身子菩薩の行を立てしに乞眼の婆羅門に眼を抉(く)じられて、其の時・菩薩の行を 退転したり、此の菩薩の行を百劫立てけるに、六十劫なして今四十劫たらざりき、此の時・乞眼に眼を抉じられて其の時・菩薩の行を退して願成仏日・開三乗法の願を立てたるなり、上品浄土・不須開漸なれば三乗の法を説く事は更に以てあるまじけれども以 本願故の故にて三乗の法を説くなり、此の行は禅多羅仏の所にして立つるなり、此の事は身子が六住退とて大なる沙汰なり、重重の義勢之れ在り輙(たやす)く心得難きの事なり、或は欲怖地前の意、或は権者退云云、所詮は六住退とは六根・六道に菩薩の行 を取られたりと云う事なり、之を以て之を思うに末法当今・法華経を修行せんには、必ず身子が退転の如くなるべし、所詮身子が眼を取らるるは菩薩の智慧の行を取らるるなり、今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経の眼を持ち奉るに謗法の諸人に障観せらるる・ 宝眼を抉(く)り取らるるに非ずや、所詮彼の乞眼の婆羅門・眼を乞いしは身子が菩薩の行を退転せしめんが為に乞いて踏みつぶして捨てたり、全く菩薩の供養の方を本として眼をば乞わざりしなり、只だ退転せしめん為なり、身子は一念菩薩の行を立ててか かる事に値えり、向後は菩薩の行をば立つ可からず二乗の行を立つ可しと云つて後悔せし故に成仏の日・説三乗法するなり、所詮乞眼婆羅門の責を堪えざるが故なり、法華経の行者・三類の強敵を堪忍して妙法の信心を捨つ可からざる見り信心を以て眼とせり 云云。

一有大長者の事  仰に云く此の長者に於いて天台大師・三の長者を釈し給えり、一には世間の長者・二には出世の長者・三には観心の長者是なり、此の中に出世観心の長者を以て、此の品の長者とせり、長者とは釈迦如来の事なり、観心の長者の時は一切 衆生なり、所詮法華経の行者は男女共に長者なり、文句の五に委しく釈せり、末法当今の長者と申すは日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり、されば三の長者を釈する時、文句五に云く、二に位号を探するに三と為す、一は世間の長者・二は出世の 長者・三は観心の長者なり、世に十徳を備う、一には姓貴・二には位高・三には大富・四には威猛・五には智深・六には年者・七には行浄・八には礼備・九には上歎・十には下帰なり云云、又云く、出世の長者は、仏は三世の真如実際の中より生ず、功成り、 道著われて、十号極り無し、法財万徳、悉く皆具に満せり、十力雄猛にして、魔を降し外を制す、一心の三智通達せずと云うこと無し、早く正覚を成じて、久遠なること斯くの如し、三業智に随つて、運動して矢無し、仏の威儀を具して、心大なること海の如 し、十方の種覚・共に称誉する所なり、七種の方便・而も来つて依止す、是を出世の仏大長者と名く、三に観心とは、観心の智実相より出で生じて仏家にあり、種性真正なり、三惑 起らず、未だ真を発さずと縮も是れ如来の衣を着れば、寂滅忍と称す、三諦に 一切の功徳を含蔵す、正観の慧・愛見を降伏す、中道双べ照して権実並に明なり 所謂(いわゆる)、久く善根を積みて・能く此の観を修す、此の観七方便の上に出でたり、此の観・心性を観ずるを上定と名くれば、即ち三業過無し、歴縁対境するに成儀失無し、能く此くの如く観ず、是れ 深信解の相諸仏皆歓喜して持法の者を歎美したもう、天竜・四部・恭敬供養す、下の文に云く、仏子是の地に住すれば、即ち是れ仏受用し給い、経行し及び坐臥し給わんと、既に此の人を称して仏と為す、出田観心の長者と名けざらんやと此の釈分明に観心の 長者に十徳を具足すと釈せり、所謂(いわゆる)引証の文に、分別功徳品の則是仏受用の文を引けり、経文には仏子住此地とあり、此の字を是の字にうつせり、経行若坐臥の若を及の字にかえたり、又法帥品の文を引けり、所詮仏子とは法華経の行者なり、此地とは実相の 大地なり、経行若坐臥とは法華経の行者の四威儀の所作の振舞、悉く仏の振舞なり、我等衆生の振舞の当体、仏の振舞なり、此の当体のふるまいこそ長者なれ、仍って観心の長者は我等凡夫なり、然るに末法当今の法華経の行者より外に、観心の長者無きなり 、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者、無上宝緊不求自得の長者に非ずや、既称此人為仏の六字に心を留めて案ずべきなり云云。

一多有田宅の事 仰に云く田宅とは、長者の財宝なり、所詮田と云うは命なり、宅とは身なり、文句の五に田宅をば身命と釈せり、田は米なり、米は命をつぐ、宅は身をやどす是は家なり、身命の二を安穏にするより外に財宝は無きなり、法門に約すれば田 は定・宅は慧なり、仍って定は田地の如し、慧は万法の如し、我等一心の田地より諸法の万法は起れり、法華一部方寸知るべしと釈して八年の法華も一心が三千と開きたるなり、所詮田は定なれば妙の徳、宅は慧の徳なれば法の徳、又は本迹同門なり、止観の 二法なり、教主釈尊本迹両門の田宅を以つて一切衆生を助け給えり、田宅は我等衆生の色心の二法なり、法華経に低い奉りて、南無妙法蓮華経と唱え奉る時・煩悩即菩提・生死即涅槃と体達するなり、山扁多有田宅の長者に非ずや、多有と云う心は心法に具足 する心数なり、色法に具足する所作なり、然らば多有田宅の文は一念三千の法門なり、其の故は一念は定なり、三千は慧なり、既に釈に云く、田宅は別譬なり、田は能く命を養う、禅定の般若を資するに譬う、宅は身を栖ます可し、実境の智の所託と為るに誓 う云云、此の釈分明なり、田宅は身命なり、身命は即ち南無妙法蓮華経なり、此の題目を持ち奉る者は宝多有田宅の長者に非ずや、今末法に入つて日蓮等の類・多有田宅の本主として如説修行の行者なり云云。(820P)

一等一大車の事 仰に云く此の大車とは直至道場の大白牛車にして其の疾(はや)きこと風の如し、所詮南無妙法蓮華経を等一大車と云うなり、等と云うは諸法実相なり、一とは唯有一乗法なり、大とは大乗なり、車とは一念三千なり、仍って釈には等の字を 子等車等と釈せり、子等の等と如我等無異の等とは同なり、車等の等は平等大慧の等なり、今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は男女・貴賎共に無上宝聚・不求自得の金言を持つ者なり、智者愚者をきらわず共に即身成仏なり云云、疏の五に云く一 に等子二に等車・子等しきを以ての故に則ち心等し、一切衆生等しく仏性有るに譬う、仏性同じきが故に等しく是れ子なり、第二に車等とは法等しきを以ての故に仏法に非ざること無し、一切法皆摩詞えんなるに誓う、摩詞えん同じきが故に等しく是れ大車な り、而して各賜と言うは各々本習に随う、四諦六度無量の諸法・各各旧習に於て真実を開示す、旧習同じからず故に各と言う、皆摩詞えんなり故に大車と言う云云。

一其車高広の事  仰に云く此の車は南無妙法蓮華経なり、即ち我等衆生の体なり、法華一部の総体なり、高広とは仏知見なり、されば此の車を方便品の時は諸仏智慧と説き其の智慧を甚深無量と称歎せり、歎の言には甚深無量とほめたり、爰には其車と説い て高広とほめたり、されば文句の五に云く其車高広の下は如来の知見深遠なるに譬う、横に法界の辺際に周く・堅に三諦の源底に徹す故に高広と言うなりと、所詮此の如来とは一切衆生の事なり既に諸法実相の仏なるが故なり、知見とは色心の二法なり知は心法・見は色法なり、色心二法を高広と云えり、高広即本迹二門なり此れ即ち南無妙法蓮華経なり云云。(820P)

一是朽故宅属干一人の事  仰に云く此の文をば文句の五に云く出火の由を明す文、此の宅とは三界の火宅なり、火と云うは煩悩の火なり、此の火と宅とをば属于(う)一人とて釈迦一仏の御利益なり、弥陀・薬師・大日等の諸仏の救護に非ず、教主釈尊一仏の御化導なり、唯我一人・能為救護とは是なり、此の属于一人の文を重ねて、五巻提婆品に説いて云く観二三千大千世界一乃至無レ有下如芥子許非是菩薩捨二身命一処上為二衆生一故文、妙楽大師此の属于一人の経文を釈する時・記の五に云く、成く長者に帰す・一一番・一切皆然なりと判ぜり、既に成帰長者と釈して、法界に有りとある一切衆生の受くる苦悩をば、釈尊一人の長者に帰すと釈せり、一色一香一切皆然なりとは、法界の千草万木・飛華落葉の為体、是れ皆無常遷滅の質(すがた)と見て仏道に帰するも、属于一人の利益なり、此の利益の本源は南無妙法蓮華経の内証に引入れしめんが為なり、所詮末法に入つて属于一人の利益は日蓮が身に当りたり、日本国の一切衆生の受くる苦悩は、悉く日蓮一人が属于一人なり、教主釈尊は唯我一人・能為救護、日蓮は一人能為救護に云云、文句の五に云く、是朽故宅属于一人の下、第二に一偈有り、失火の由を明す、三界は是れ仏の化応の処発心已来誓つて度脱せんと願う、故に属于一人と云うと、此の釈に発心已来誓願度脱の文、豈日蓮の身に非ずや云云。

一諸鬼神等揚声大叫の事  仰に云く諸鬼神等と云うは親類部類等を鬼神と云うなり、我等衆生死したる時・妻子眷属あつまりて悲歎するを揚声大叫とは云うなり、文句の五に云く諸鬼神等の下・第四に一行半は被焼の相を明す、或は云く親属を鬼神と為し・哭泣を揚声と為すと。(821P)

一乗此宝棄直至道場の事  仰に云く此の経文は我等衆生の煩悩即菩提・生死即捏槃を明せり、其の故は文句の五に云く、此の国易ること無きが故に直至と云う、此の、釈の心は爾前の心は煩悩を捨てて生死を厭(いと)うて別に菩提捏槃を求めたり、法華経の意は煩悩即菩提・生死即捏槃と云えり、直と即とは同じ事なり、所詮日蓮等の・類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の、住処即寂光土と心得可きなり、然れば此の実乗に乗じて、忽ちに妙覚極果の位に至るを直至道場とは云うなり、直至と云う文の意は、四十二位を爰にて極めたり、此の直の一字は、地獄即寂光・餓鬼即寂光土なり、法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも、直至道場なり、道場とは究竟の寂光なり、仍って乗此宝乗の上の乗は法華の行者、此の品の意にては中根の四大声聞なり、惣じて一切衆生の事なり、今末法に入つては日蓮等の類いなり、宝乗の乗の字は大白牛車の妙法蓮華経なり、然れば上の乗は能乗・下の乗は所乗なり、宝乗は蓮華なり、釈迦・多宝等の諸仏も、此の宝乗に乗じ給えり、此れを提婆品に重ねて説く時・若在仏前蓮華化生と云云、釈迦・多宝の二仏は我等が己心なり、此の己心の法華経に値い奉つて成仏するを顕わさんとして釈迦・多宝・二仏・並座して乗此宝乗・直至道場を顕わし給えり、此の乗とは車なり、車は蓮華なり、此の蓮華の上の妙法は、我等が生死の二法・二仏なり、直至の至は此れより彼へいたるの至るには非ず住処即寂光と云うを至とは云うなり、此の宝乗の宝は七宝の大車なり、七宝即ち頭上の七穴・七穴即ち末法の要法・南無妙法蓮華経是なり、此の題目の五字、我等衆生の為には、三途の河にては船となり、紅蓮地獄にては寒さをのぞき、焦熱地獄にては涼風となり、死出の山にては達華となり、渇せる時は水となり・飢えたる時は食となり・裸かなる時は衣となり、妻となり、子となり、眷属となり、家となり、無窮の応用を施して一切衆生を利益し給うなり、直至道場とは是なり、仍って此の身を取りも直さず寂光土に居るを直至道場とは云うなり、直の字心を留めて之を案ず可し云云。ー若人不信毀謗此経則新一切世間仏種の事(822P)  仰に云く此の経文の意は小善成仏を信ぜずんば一切世間の仏種を断ずと云う事なり、文句の五に云く、今経に小善成仏を明す、此れは縁因を取つて仏種と為す、若し小善の成仏を信ぜずんば、即と一切世間の仏種を断ずるなり文、爾前経の心は小善成仏を明さざるなり、法華経の意は一・華・一香の小善も法華経に帰すれば大善となる、縦い法界に充満せる大善なりとも此の経に値(あ)わずんば善根とはならず、譬えば諸河の水・大海に入りぬれば鹹の味となる、入らざれば本の水なり、法界の善根も、法華経へ帰入せざれば善根とはならざるなり、されば釈に云く、断一切仏種とは浄名には煩悩を以て如来の種と為す、此れ境界性を取るなり、此の釈の心は浄名経の心ならば我等衆生の一日一夜に作す所の罪業・八億四千の念慮を起す、余経の意は皆三途の業因と説くなり、法華経の意は、此の業因・即ち仏ぞと明せり、されば煩悩を以て如来の種子とすと云うは此の義なり、此の浄名経の文は、正しく文在爾前・義在法華の意なり、此の境界性と云うは、末師釈する時、能生煩悩・名境界性と判ぜり、我等衆生の眼耳等の六根に妄執を起すなり、是を境界性と云ぅなり、権教の意は此の念慮を捨てよと説けり、法華経の心は、此の境界性の外に、三因仏性の種子なし、是れ則ち三身円満の仏果となるべき種性なりと説けり、此の種性を、権教を信ずる人は之を知らず此の経を謗るが故に、凡夫即極の義をも知らず、故に一切世間の仏種を断ずるなり、されば六道の衆生も三因仏性を具足して、終に三身円満の尊容を顕す可き所に、此の経を謗ずるが故に、六道の仏種をも断ずるなり、されば妙楽大師云く、此の経は遍く六道の仏種を開す、若し此の経を謗ずるは、義・断に当るなりと、所詮日蓮が意は一切の言は十界をさす、此の経を謗ずるは十界の仏種を断ずるなり、されば、誹謗の二字を大論に云く、口に謗るを誹と云い、

心に背くを謗と云うと、仍って色心三業に経て、法華経を謗じ奉る人は入阿鼻獄疑い無きなり、所謂(いわゆる)弘法・慈覚・智証・善導・法然・達磨等の大謗法の者なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る、豈二世の諸仏の仏種を継ぐ者に非ずや云云。

一捨悪知識親近善友の事  仰に云く悪知識とは在世にては善星・瞿伽利・提婆等是なり、善友とは迦葉・舎利弗・阿難・目連等是なり、末法当今に於て悪智識と云うは法然・弘法・慈覚・智証等の権人謗法の人人なり、善智識と申すは日蓮等の類の事なり、惣じて知識に於て重重之れ有り、外護の知識・同行の知識・実相の知識是なり、所詮実相の知識とは所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経是なり、知識とは形をしり、心をしるを云うなり、是れ即ち色心の二法なり、謗法の色心を捨てて法華経の妙境・妙智の色心を顕すべきなり、悪友は謗法の人人なり、善友は日蓮等の類いなり。

無上宝聚不求自得の事(824P)

仰に云く、此の無上宝聚に於て一には釈尊の因行・果徳の万行・万善の骨髄を宝聚と云うなり、二には妙法蓮華経の事なり、不求とは中根の四大声聞は此くの如き宝聚を任運自在と得たり此実我子我実其父の故なり、総じては一切衆生の事なり、自得と云うは自は十界の事なり、此れは自我得仏来の自と同じ事なり、得も又同じ事なり末法に入つては自得とは日蓮等の類いなり、自とは法華経の行者、得とは題目なり、得の一字には師弟を含みたり、与うると得るとの義を含めり、不求とは仏法に入るには修行・覚道の辛労あり、釈迦如来は往来娑婆八千反の御辛労にして求め給う功徳なり、さて今の釈迦牟尼仏と成り給えり、法華経の行者は求めずして此の功徳を受得せり仍て自得とは説かれたり、此の自の字は一念なり得は三千なり、又自は三千・得は一念なり、又た自は自なり得は他なり、総じて自得の二字に法界を尽くせり、所詮此の妙法蓮華経を自より得たり、自とは釈尊なり、釈尊は即ち我が一心なり、一心の釈迦より受得し奉る南無妙法蓮華経なり、日蓮も生年三十二にして自得し奉る題目なり云云。

一薬草喩品の事  

仰に云く薬とは是好良薬の南無妙法蓮華経なり、妙法を項上にいただきたる草なれば、薬に非ずと云う事なし、草は中根の声聞なれども、惣じては一切衆生なり、譬えば土器に薬をかけたるが如し、我等衆生・父母果縛(かばく)の肉身に南無妙法漣華経の薬をかけたり、煩悩即菩提・生死即涅槃は是なり云云、此の分を教うるを喩とは申すなり、釈に云く、喩とは暁訓なりと、提婆・竜女の畜生・人間も、天帝・羅漢・菩薩等も、悉く薬草の仏に非ずと云う事なし、末法当今の法華の行者の日蓮等の類い、薬草にして日本国の一切衆生の薬王なり云云。  (825P)

一現世安穏後生善処の事  仰に云く所詮此の妙法蓮華経を聴聞し奉るを現世安穏とも後生善処とも云えり、

既に上に聞是法已と説けり聞は名字即の凡夫なり妙法を聞き奉る所にて即身成仏と聞くなり、若有能持即持仏身とは是なり、聞く故に持ち奉るの故に三類の強敵来る来るを以て現世安穏の記文顕れたり、法華の行者なる事疑無きなり、法華の行者はかかる大難に値うべしと見えたり、大難に値(あ)うを以て後生善処の成仏は決定せり是れ豈現世にして安穏なるに非ずや、後生善処は提婆品に分明に説けり、所詮現世安穏とは法華経を信じ奉れば三途八難の苦をはなれ善悪上下の人までも皆教主釈尊・同等の仏果を得て自身本覚の如来なりと顕す、自身の当体・妙法蓮華経の薬草なれば現世安穏なり、爰を開くを後生善処と云うなり、妙法蓮華経と云うは妙法の薬草なり、所詮現世安穏は色法・後生善処は心法なり、十界の色心・妙法と開覚するを現世安穏・後生善処とは云うなり、所詮法華経を弘むるを以て現世安穏・後生善処と申すなり云云。

一皆悉到於一切智地の事  仰に云く一切智地と云うは法華経なり、譬えば三千大千世界の土地・草木・人畜等・皆大地に備りたるが如くなり、八万法蔵・十二部経・悉く法華に帰入せしむるなり、皆悉の二字をば善人も悪人も迷も悟も一切衆生の悪業も善業も其の外薬師・大日・弥陀並びに地蔵・観音・横に十方・竪に三世有りとある諸仏の具徳・諸菩薩の行徳・惣じて十界の衆生の善悪・業作等を皆悉と説けり、是を法華経に帰入せしむるを一切智地の法華経と申すなり、されば文句の七に云く皆悉到於一切智地とは、地とは実相なり、究竟して二に非ず故に一と名くるなり、其の性広博なり、故に名けて切と為す、寂にして常照なり、故に名けて智と為す、無住の本より一切の法を立す、故に名けて地と為す、此れ円教の実説なり、凡そ所説有るは皆衆生をして此の智地に到らしむ云云、此の釈は一切智地の四字を委しく判ぜり、一をば究竟と云い切をば広博と釈し智をば寂而常照と云い

地をば無住之本と判ぜり、然るに凡有所説は約教を指し・皆令衆生は機縁を納(い)るるなり、十界の衆生を指して切と云い凡有所説を指して、究竟非二故名一也と云えり、一とは三千大千世界・十方法界を云うなり、其の上に人畜等あるは地なり、記の七に云く、切を衆に訓ずと文、仍って一切の二字に法界を尽せりなり、諸法は切なり実相は一なり、

所詮・法界実相の妙体・照而常寂の一理にして十界三千・一法性に非ずと云う事なし是を一と説くなり、さて三千の諸法の己己に本分なれば切の義なり、然らば一は妙・切は法なり、妙法の二字・一切の二字なり、無住之本は妙の徳・立一切法は法の徳なり、一切智地とは南無妙法蓮華経是なり一切智地・即一念三千なり、今末法に入って一切智地を弘通するは日蓮等の類い是なり、然るに一とは一念なり切とは三千なり、一心より松よ桜よと起るは切なり、是は心法に約する義なり、色法にては手足等は切なり、一身なるは一切なり、所詮色心の二法・一切智地にして南無妙法蓮華経なり云云。

一此の一切智地の四字  に法華経一部八巻文文句句を収めたり、此の一切智地とは三諦・一諦・非三非一なり、三智に約すれば空智なり、さては三諦とは云い難し、然りと雖も三諦・一諦の中の空智なり、されば三諦に於て三三九箇の三諦あり、先ず空諦にて三諦を云う時は空諦と呼出だすが仮諦・空諦なるは空諦なり・不二するは中道なり、三諦同じく此くの如く心得可きなり、所詮此の一切智地をば九識法性と心得可きなり、九識法性をば、迷悟不二・凡聖一如なれば空と云うなり、無分別智光を空と云うなり、此の九識法性とは、いかなる所の法界を指すや、法界とは十界なり、十界即諸法なり、此の語法の当体・本有の妙法蓮華経なり、此の重に迷う衆生の為に、一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を立出ずるなり、さて終に本の九識に引入する、夫れを法華経とは云うなり、一切智地とは是れなり、一切智地は我等衆生の心法なり心法即ち妙法なり一切智地とは是なり云云。(826P)

一根茎枝葉の事(827p) 仰に云く此の文をば釈には信戒定慧と云云、此の釈の心は草木は此の根茎枝葉を以て増長と云うなり、仏法修行するも又斯くの如し、所詮我等衆生・法華経を信じ奉るは根をつけたるが如し、法華経の文の如く是名持戒の戒体を本として、正直捨方便・但説無上道の如くなるは戒なり、法華経の文相にまかせて、法華三昧を修するは定なり、題目を唱え奉るは慧なり、所謂(いわゆる)法界悉く生住異滅するは信・己己本分は戒・三世不改なるは定なり、各各の徳義を顕したるは慧なり、是れ即ち法界平等の根茎杖葉なり、是れ即ち真如実相の振舞なり、所謂(いわゆる)戒定慧の三学・妙法蓮華経なり、此れを信ずるを根と云うなり、釈に云く三学倶に伝うるを名けて妙法と日うと云云。

一根茎枝葉(こんきょうしよう)の事  仰に云く此れは我等が一身なり、根とは心法なり茎とは我等が頭より足に至るまでなり、枝とは手足なり、葉とは毛なり、此の四を根茎枝葉と説けり、法界三千此の四を具足せずと云う事なし、是れ即ち信戒定慧の体にして実相一理の南無妙法蓮華経の体なり、法華不信の人は根茎杖葉ありて増長あるべからず枯塙の衆生なるべし云云。

一枯塙(ここう)衆生の事  仰に云く、法華経を持ち奉る者は、枯塙の衆生に非ざるなり、既に法華経の種子を受持し奉るが故なり、謗法不信の人は下種無き故に枯塙の衆生なり、されば、妙楽大師の云く、余教を以て種と為さず文。

一等雨法雨の事(827P)

仰に云く等とは平等の事なり、善人・悪人、二乗・闡提、正早・邪見等の者にも、妙法の雨を惜まず平等にふらすと云う事なり、されば法の雨を雨すと云う時は、大覚世尊ふらしてに成り給えり、さて、の雨ふりてとよむ時は、本より実相平等の法雨は、常住本有の雨なれば、今始めてふるべきに非ず、されば、諸法実相を、譬喩品の時は風月に譬えたり、妙楽大師は何ぞ隠れ何ぞ顕れんと釈せり、実相の法雨は三世常恒にして、隠顕(おんけん)更に無きなり、所詮、等の字はひとしくとよむ時は、釈迦如来の平等の慈悲なり、さて、ひとしきとよむ時は、平等大慧の妙法蓮華経なり、ひとしく法の雨をふらすとは、能弘につけたり、ひとしき法の雨ふり、にりと読む時は、所弘の法なり、所詮法と云うは、十界の語法なり、雨とは十界の言語・音声の振舞なり、

ふるとは自在にして地獄は洞燃(どうねん)猛火(もうか)、乃至仏界の上の所作音声を、等雨法雨とは説けり、此の等雨法雨は法体の南無妙法蓮華経なり、今末法に入つて、日蓮等の類いの弘通する題目は、等雨法雨の法体なり、此の法雨・地獄の衆生・餓鬼・畜生等に至るまで同時にふりたる法雨なり、日本国の一切衆生の為に付属し給う法雨は題目の五字なり、

所謂(いわゆる)日蓮建立の御本尊・南無妙法蓮華経是なり云云、方便品には本末究竟等と云えり、譬喩品には等一大事と云えり、此の等の字を重ねて説かれたり、或は如我等無異と云えり、此の等の字は宝塔品の如是如是と同じなり、所詮等とは南無妙法蓮華経なり、法雨をふらすとは今身より仏身に至るまで打つや否やと云う受持の言語なり云云。

一等雨法雨の事   仰に云く此の時は妙法実相の法雨は十界三千・下は地獄・上は非想非非想まで横に十方・竪に三世に亘つて妙法の功徳をふるを等とは云うなり、さてふるとは一切衆生の色心・妙法蓮華経と三世常住ふるなり云云、一義に云く、此の妙法の雨は九識本法の法体なり、然るに一仏現前して説き出す所の妙法なれば、法の雨をふらすと云うなり、其の故は、ふらすと云うは・上より下へふるを云うなり、」のつて従果向因の義なり、仏に約すれば、第十の仏見より九界へふらす、法体にては・ふる処も・ふらす処も、真如の一理なり識分にては八識へふり下りたるなり、然らば今日蓮等の類い南無妙法蓮華経を日本国の一切衆生の頂上にふらすを法の雨をふらすと云うなり云云。(828P)

一如従飢国来忽遇大王膳の事  仰に云く此の文は中根の四大声聞・法華に来れる事、譬えばうえたる国より来りて大王のそなえに値うが如くの歓喜なりと云えり、然らば此の文の如くならば法華已前の人は餓鬼界の衆生なり、既に飢国来と説けり、大王膳とは醍醐味なり、中根の声聞・法華に来つて一乗醍醐の法味を得て忽に法王の位に備りたり、忽の字は爾前の迂廻道の機に対して忽と云うなり、速疾頓成の義を忽と云うなり、仮令外地の八相を唱うる事は所化をして仏道に進めんが為なり、所詮末法に入つては謗法の人人は餓鬼界の衆生なり、此の経に値い奉り・南無妙法蓮華経に値い奉る事は併ら大王膳たり、忽遇の遇の字肝要たり、釈に云く、成仏の難きには非ず、此の経に値うをかたしとすと云えり、不軽品に云く復遇常不軽と云云、厳王品に云く生値仏法云云、大王の膳に値いたり、最も以て南無妙法蓮華経を信受し奉る可きなり、此の経文の如くならば法華より外の一切衆生はいかに 高貴の人なりとも餓鬼道の衆生なり、十羅刹女は餓鬼界の羅刹なれども法華経を受持し奉る故に餓鬼に即する一念三千なり、法華へ来らずんば何れも餓鬼飢餓の苦みなるべし、所詮必ず中根の声聞領解の言に我身所謂(いわゆる)を餓鬼に類する事は餓鬼は法界に食ありと云えども食する事を得ざるなり、 諸法実相の一味の醍醐の妙法あれども終に開覚に能えざる間・四十余年食にうえたり云云、一義に云く序品方便より諸法実相の甘露顕れて南無妙法蓮華経あれども広略二重の譬説段まで悟らざるは餓鬼の満満とある食事をくらわざるが如し、所詮日本国の一切 衆生は餓鬼界の衆生なり、大王膳とは所謂南無妙法蓮華経是なり、遇の字には人法を納めたり、のつて未に如飢須教食と云えり、うえたるとも大王のをしえを待ちて醍醐を食するが如しと云えり、今南無妙法蓮華経有れども・今身より仏身に至るまでの受持を うけずんば成仏は之れ有るべからず、教とは爾前無得道・法華成仏の事なり、此の教をうけずんば法華経を読誦すとも大王の位に登る事・之れ有る可からず醍醐は題目の五字なり云云。

一大通智勝仏十劫坐道場仏法不現前不得成仏道の事  仰に云く此経文は一切衆生の本法流転を説かれたり、されば釈にも出世以前と判ぜり、此は大通仏出世し給えども十小劫の間・一経も説給わずと云う経文なり、仍て仏法も現前せざる故に不得成仏と云 えり、されども釈を見るに出世以前と云う時は、此の経文は何なる事ぞ此は本法の重を説かれたり、一仏出世すれば流転門となる、一仏も出世無き時は、本法不思議の体なり、迷悟もなく、生仏もなく、成仏もなく、不成仏もなきなり、仍つて不得成仏道と云 えり、抑も本法と申すは水があつくなり、火がつめたくならば流転門なるべし、水はいつもつめたく、火はいつもあつく、地獄は何も火焔・餓鬼はいつも飢渇・其の外・万法己己の当位・当位の儘なるを本法の体と云うなり、此の重を説き顕したる経文なり、 此の本法の重は法華経なり、権教は流転なり、此の流転の衆生を本法の重に引入せられんとての仏の出世なり、其の本法と云うは此の経なり、所詮此の経文・本法とは大通智勝仏と云うは我等衆生の色心なり、十劫と云うは十界なり、坐道場と云うは十界の住 所其の儘道場なり、道場なれば寂光土なり、法界寂光土にして、十界の衆生悉く諸法実相の仏なれば一仏現ずべきに非ず、迷の衆生無ければ説く可き法も無し、仍って仏法不現前と云えり、不得成仏道とは始覚本覚の成仏と云う事も無し、本法不思議の体にし て万法本有なり、之れに依つて釈には出世以前と判ぜり、然らば、其の本法の体とは、所詮南無妙法蓮華経なり、此の本法の内証に引入せんが為に、住は四十余年誘引し、終に第五時の本法を説き給えり、今末法に入つて上行所伝の本法の南無妙法蓮華経を弘 め奉る、日蓮・世間に出世すと云えども、三十二歳までは、此の題目を唱え出さざるは、仏法不現前なり、此の妙法蓮華経を弘めて、終には本法の内証に引入するなり日蓮・豈大通智勝仏に非ずや、日本国の一切衆生こそ十劫坐道場とて十界其の儘・本法の南 無妙法蓮華経へ引入するなり、所詮信心を出だして南無妙法蓮華経と唱え奉る可き者なり云云。(830P)

一貧人見此珠其心大歓喜の事  仰に云く此珠とは一乗無価の宝珠なり、貧人とは下根の声聞なり、惣じて一切衆生なり、所詮末法に入つて此珠とは南無妙法蓮華経なり、貧人とは日本国の一切衆生なり、此の題目を唱え奉る者は心大歓喜せり、されば見宝塔と云う見と此珠とは同じ事なり所詮此珠とは我等衆生の一心なり、一念三千なり此の経に値い奉る時、一念三千と開くを珠を見るとは云うなり、此の珠は広く一切衆生の心法なり此の珠は体中にある財用なり、一心に三千具足の財を具足せり、此の珠を方便品にして諸法実相と説き、譬喩品にては大白牛車・三草二木・五百由旬の宝塔、共に皆一珠の妙法蓮華経の宝珠なり、此の経文・色心の実相歓喜を説けり・見此珠の見は色法なり、其心大と云うは心法なり、色心共に歓喜なれば大歓喜と云うなり、所詮此珠と云うは我等衆生の心法なり、仍つて一念三千の宝珠なり、所謂(いわゆる)妙法蓮華経なり、今末代に入つて此の珠を顕す事は日蓮等の類いなり所謂(<一閻浮提(いちえんぶだい)/rp>いわゆる)未曾有の大曼荼羅こそ正しく一念三千の宝珠なれ、見の字は日本国の一切衆生、広くは一閻浮提の衆生なり、然りと雖も其心大歓喜と云う時は、日蓮が弟子檀那等の信者をさすなり、所詮煩悩即菩提・生死即捏槃と体達する、其心大歓喜なり、されば、我等衆生・五百塵点の下種の珠を失いて、五道・六道に輪廻し・貧人となる、近くは三千塵点の下種を捨てて備輪諸道せり、之れに依つて貧人と成る、今此の珠を釈尊に値い奉りて見付け得て本の如く取り得たり、此の故に心大歓喜せり、末法当今に於いて妙法蓮華経の宝珠を受持し奉りて、己心を見るに、十界互具・百界千如・一念三千の宝珠を分明(ふんみょう)に具足せり、是れ併ら末法の要法たる題目なり云云。

一如甘露見潅の事 仰に云く甘露とは天上の甘露なり、されば妙楽大師云く実相常住は甘露の如し是れ不死の薬云云、此の釈の心は諸法実相の法体をば甘露に譬えたり、甘露は不死の薬と云えり、所詮妙とは不死の薬なり、此の心は不死とは法界を指 すなり、其の故は森羅三千の万法を不思議と歎じたり、生住異滅の当位当位三世常恒なるを不死と云う、本法の徳として水はくだりつめたく火はのぼりあつし、此れを妙と云う、此れ即ち不思議なり、此の重を不死とは云うなり、甘露と妙とは同じ事なり、然らば法界の侭に閣いて妙法なりと説くを本法とも甘露とも云えり、火は水にきゆる本法にして不死なり、十界己己の当位当位の振舞常住本有なるを甘露とも 妙法とも不思議とも本法とも止観とも云えり、所詮末法に入つて甘露とは南無妙法蓮華経なり、見潅とは受持の一行なり云云。

(832P)

一若有悪人以不善心等の事 仰に云く悪人とは在世にては提婆瞿伽利等なり、不善心とは悪心を以て仏を罵詈し奉る事を説くなり、滅後には悪人とは弘法慈覚智証善導法然等是なり、不善心とは謗言なり此の謗言を書写したる十住心等選択集(せんじゃくしゅう)等の謗法の書どもなり、さて末法に入て善人とは日蓮等の類いなり善心とは法華弘通の信心なり所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経是なり云云。

一如是如是の事 仰に云く釈に云く法相の是に如し根性の是に如するなり文、法相の是に如すとは諸法実相を重ねて如是と説かれたり、根性の是に如すとは、九法界を説かれたり、然れば機法共に釈迦如来の所説の如く真実なりと証明し給えり、始の如是 は教一開会なり次の如是は人一開会なり、権教の意は諸法を妄法ときらいし隔別不融の教なり、根性に於ては性欲不同なれば種種に説法し給えり、仍つて人も成仏せず、今の経の心は諸法実相の御経なれば十界平等に授くる所の妙法なり、根性は不同なれども同じく如是性の一性なり、所詮今末法に入つての如法相是は塔中相承の本尊なり如根性是也と云うは十界宛然の尊像なり法相は南無妙法蓮華経なり、根性は日本国の一切衆生広くは一閻浮提の衆生なり云云。

一是真仏子住淳善地の事 仰に云く末法当今に於て釈迦如来の真実の御子と云うは法華経の行者なり、其の故は上の文に能於来世読持此経と説けり来世とは末法なり、読むと云うは法華経の如説修行の行者なり、弘法慈覚智証善導法然等読みて云く第三の劣戯論の法捨閉閣抛理同事勝(りどうじしょう)等と読むは謗法にして三仏の御舌を切るに非ずや何に況や持たんをや、伝教大師云く法華経を讚むると雖も還つて法華の心を死すとは是なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る人は、読持此経の人なり、豈是真仏子に非ずや淳善地は寂光土に非ずや、是真仏子の子の字は十界の衆生なり、所詮此の子の字は法華経の行者に限る、悉是吾子(しつぜごし)の子は孝不孝を分別せざる子なり、我等皆似仏子の子は中根の声聞仏子に似たりと説かれたり、為治狂子故の子は、久遠の下種を忘れたれば物にくるう子なり、仍つて釈尊の御子にも物にくるう子もあり、不孝の子もあり、孝養の子もあり、所謂(いわゆる)法華経の行者真実の釈尊の御子なり 無量義経と、釈迦多宝分身三千三百万億那由佗の世界に充満せる諸仏の御前にして孝不孝の子を定めをき給えり、父の業をつぐを以て子とせり、三世の諸仏の業とは南無妙法蓮華経是なり、法師品に 行如来事と説けり云云、法華経は母なり釈尊は父なり我等衆生は子なり、無量義経に云く諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生み給う文、菩薩とは法華経の行者なり、法師品に云く在家出家行菩薩道云云。(833P)

一非口所宣非心所測の事 仰に云く非口所宣は色法非心所測は心法なり、色心の二法を以て大海にして教化したる衆生を宣測するに非ずと云えり、末に至つては広導諸群生と説かれたり云云。

一不染世間法如蓮華在水従地而涌出の事 仰に云く、世間法とは全く貪欲等に染せられず、譬えば蓮華の水の中より生ずれども淤泥にそまざるが如し、此の蓮華と云うは地涌の菩薩に譬えたり、地とは法性の大地なり所詮法華経の行者は蓮華の泥水 に染まざるが如し、但だ唯一大事の南無妙法蓮華経を弘通するを本とせり、世間の法とは国王大臣より所領を給わり官位を給うとも夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云うなり、所詮蓮華は水をはなれて生長せず水とは南無 妙法蓮華経是なり、本化の菩薩は蓮華の如く過去久遠より已来本法所持の菩薩なり蓮華在水とは是なり、所詮此の水とは我等行者の信心なり、蓮華は本因本果の妙法なり信心の水に妙法蓮華は生長せり、地とは我等衆生の心地なり涌出とは広宣流布の時一閻浮提(いちえんぶだい)の一切衆生法華経の行者となるべきを涌出とは云うなり云云。

一願仏為未来演説令開解の事 仰に云く此の文は弥勒菩薩等末法当今の為に我従久遠来教化是等衆の言を演説令開解せしめ給えと請じ奉る経文なり、此の請文に於て寿量品(じゅりょうほん)は顕れたり五百塵点の久遠の法門是なり、開解とは教主釈尊の御内証に此の分をを さえ給うを願くは開かしめ給え同じく一会の大衆の疑をも解かしめ給えと請するなり、此の開解の語を寿量品(じゅりょうほん)にして汝等当信解と誡め給えり、若し開解し給わずんば大衆皆法華経に於て疑惑を生ず可しと見給えり、疑を生ぜば三悪道に堕つべしと既に弥勒菩 薩申されたり、此の時寿量品(じゅりょうほん)顕れずんば即当堕悪道すべきなり寿量品(じゅりょうほん)の法門大切なるは是なり、さて此の開解の開に於て二あり、迹門の意は諸法を実相の一理と会したり、さては諸法を実相と開きて見れば十界悉く妙法実相の一理なりと開くを開仏智見と説けり、さて本門の意は十界本有と開いて始覚のきづなを解きたり、此の重を開解と申されたり仍つて演説の二字は釈尊開解の両字は大衆なり、此の演説とは寿量品(じゅりょうほん)の久遠の事なり、終に釈尊寿量品(じゅりょうほん)を説かせ給いて一切大衆の疑惑を破り給えり云云。

一譬如良医智慧聰達の事 仰に云く良医とは教主釈尊智慧とは八万法蔵十二部経なり聡達とは三世了達なり薬とは妙法の良薬なり、さて寿量品(じゅりょうほん)の意は十界本有と談ぜりされば此の薬師とは一切衆生の事なり、智慧とは万法己己の自受用報身の振舞なり聡達とは自在自在に振舞うを聡達とは云うなり、所詮末法当今の為の寿量品(じゅりょうほん)なれば法華経の行者の上の事なり、此の智慧とは南無妙法蓮華経なり、聡達とは本有無作三身なりと云う事なり、元品の無明の大良薬は南無妙法蓮華経なり、智とは一切衆生の力なり、慧とは一切衆生の言語音声なり、故に偈頌に云く我智力如是慧光照無量と云えり云云。

(835P)

一一念信解の事  仰に云く此の経文は一念三千の宝珠を納めたる函なり此れは現在の四信の初の一念信解なり、さて滅後の五品の初の十心具足初随喜品も一念三千の宝を積みたる函なり、法華経の骨髄・末法に於て法華経の行者の修行の相貌分明なり、所詮信と随喜とは心同じなり随喜するは信心なり信心するは随喜なり一念三千の法門は信心随喜の函に納りたり、又此の函とは所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経是なり又此の函は我等が一心なり此の一心は万法の総体なり総体は題目の五字なり、一念三千と云うが如く一心三千もあり釈に云く介爾も心有れば即ち三千を具すと、又宝函とは我等が色心の二法なり。本迹両門・生死の二法・止観の二法なり所詮信心の函に入れたる南無妙法運華経の函なり云云。

一見仏聞法信受教誨の事  仰に云く此の経文は一念随喜の人は五十の功徳を備うべし、然る間見仏間法の功徳を具足せり、此の五十展転の五十人の功徳を随喜功徳品には説かれたり、仍つて世世・生生の問見仏間法の功徳を備えたり、所詮末法に入つては仏を見るとは寿量品(じゅりょうほん)の釈尊・法を聞くとは南無妙法蓮華経なり、教轟とは日蓮等の類い教化する所の諸宗無得道の教誡なり、信受するは法華経の行者なり、所詮・寿量開顕の眼の顕れては、此の見仏は無作の三身なり、開法は万法己己の音声なり、信受教範は本有随縁真如の振舞なり、是れ即ち色心の二法なり、見聞とは色法なり、信受は信心領納なれば心法なり、所謂(いわゆる)色心の二法に備えたる南無妙法蓮華経是なり云云。

一若復有人以七宝満是人所得其福最多の事  仰に云く此の経文は七宝を以て三千大千世界に満てて四聖を供養せんよりは法華経の一偈を受持し奉らんにはをとれりと説かれたり、天台大師は生養成栄の四の義を以て、法華経の功徳を釈し給えり、所詮末法に入つては題目の五字即ち是なり、此の妙法蓮華経の五字は万法能生の父母なり、生養成栄も亦復是くの如きなり、仍て釈には法を以つて本と為すと釈せり、三世十方の諸仏は、妙法蓮華経を以て父母とし給えり、

此の故に四聖を供養するよりも法華経を持つは勝れたり、七宝は世間の財宝なり、四聖は滅に帰する仏菩薩羅漢なり、さて妙法の功徳は一得永不失なれば朽失せざる功徳なり、此の故に勝れたり云云。

一妙音菩薩の事 仰に云く妙音菩薩とは、十界の語言音声なり、此の音声悉く慈悲なり、菩薩とは是れなり。

一爾時無尽意菩薩の事 仰に云く此の菩薩は空仮中の三諦なり、意の一字には一切の法門を摂得するなり意と云うは中道の事なり無は空諦なり尽とは仮諦なり、所謂(いわゆる)意と云うは南無妙法蓮華経なり、一切諸経の意三世の諸仏の題目の五字なり所詮法華の行者は信心を以て意とせり云云。

一観音妙智力の事 仰に云く妙とは不思議なり、智とは随縁真如の智力なり、森羅三千の自受用智なり、観音は円観なり、円観とは一念三千なり、観音とは法華の異名なり、観音と法華とは眼目の異名と釈する間法華経の異名なり、観とは円観音は仏機なり、仍つて観音の二字は人法一体なり、所謂(いわゆる)一心三観一念三千是なり云云。

一自在之業の事 仰に云く此の自在之業とは自受用報身の智力なり、森羅三千の諸法作業をさして云うなり、其の所作のまま法華経の意は不思議の自在之業なりと説けり、此の自在之業の本は南無妙法蓮華経是なり云云。

一妙法蓮華経陀羅尼の事 仰に云く妙法蓮華経陀羅尼とは正直捨方便但説無上道なり、五字は体なり陀羅尼は用なり妙法の五字は我等が色心なり、陀羅尼は色心の作用なり、所詮陀羅尼とは呪なり、妙法蓮華経を以て煩悩即菩提生死即涅槃と呪いたるなり、日蓮等の類い南無妙法蓮華経を受持するを以て呪とは云うなり、若有能持即持仏身とまじないたるなり、釈に云く陀羅尼とは諸仏の密号と判ぜり、所詮法華折伏破権門理の義遮悪持善の義なり云云。(837P)

一六万八千人の事   仰に云く六とは六根なり、万とは六根に具わる処の煩悩なり八とは八苦の煩悩なり千とは八苦に具足する煩悩なり、是れ即ち法華経に値い奉りて六万八千の功徳の法門と顕るるなり、所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る外に六万八千の功徳の法門之れ無きなり云云。

妙荘厳王(みょうそうごんのう)の事   仰に云く邪見即正の手本なり、所詮森羅三千の万法・妙を以て荘厳したる王なり妙とは称歎の語なり荘厳とは色法なり王とは心法なり諾法の色心を不思議とほめたり、然れば、妙荘厳王(みょうそうごんのう)の言・三千の諸法・三諦法性の当位なり、所詮日蓮等の類南無妙法蓮華経を以て色心を荘厳したり、此の荘厳とは別してかざり立てたるには非ず当位即妙の荘厳なり、煩悩即菩提・生死即捏槃是なり云云。

一華厳大日観経等の凡夫の得道の事  仰に云く彼等の衆皆各各其の経経の得道に似たれども真実には法華の得道なり、所謂(いわゆる)三五下種の輩なり経に云く始見我身聞我所説文、妙楽大師云く脱は現に在りと雖も具に本種を騰ぐと云えり本種と云うは南無妙法蓮華経是なり云云。

一題目の五字を以て下種の証文と為すべき事   仰に云く経に云く教無量菩薩畢責住一乗文、妙楽大師の云く余教を以て程と為さず文、無量の菩薩とは日本国の一切衆生を菩薩と開会して題目を教えたり、畢竟とは題目の五字に畢竟するなり住一乗とは乗此宝乗直至道場是なり文、下種とはたねを下すなり種子とは成仏の種の事なり、上の経文に教無量菩薩の教の一字は下種の証文なり教とは題目を授くる時の事なり、権教無得道・法華得道と教うるを下種とは云うなり、末法に入つて此の経文を出ださん人は有る可からざるなり慥に塔中相承の秘文なり下種の証文秘す可し云云。(838P)

一題目の五字末法に限つて持つ可きの事 仰に云く経に云く、悪世末法時能持是経者文、此の経とは題目の五字なり、能の一字に心を留めて之れを案ずべし云云、末代悪世日本国の一切衆生に持てと云う経文なり云云。

一天台云く是我弟子応弘我法の事 仰に云く我が弟子とは上行菩薩なり我が法とは南無妙法蓮華経なり、権教乃至始覚等は随他意なれば他の法なり、さて此の題目の五字は五百塵点より已来、証得し給える法体なり故に我が法と釈せり、天台云く此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり、三世の如来の証得し給える所とは是れなり。

一色心を心法と云う事 仰に云く玄の十に云く請を受けて説く時只だ是れ教の意を説く教意は是れ仏意なり仏意は即ち是れ仏智なり仏智至つて深し是の故に三止四請す此くの如きの艱難余経に比するに余経は則ち易し云云、此の釈の意分明なり教意と仏意と仏智とは何れも同じ事なり、教は二十八品なり意は題目の五字なり惣じて仏意とは法華経の異名なり、法華経を以て一切経の心法とせり又題目の五字を以て一代説教本迹二門の神とせり、経に云く妙法蓮華経如来寿量品(じゅりょうほん)是なり、此の題目の五字を以て三世の諸仏の命根とせりさて諸経の神法華経なりと云う証文は妙法蓮華経方便品と題したる是なり云云。

一無作の応身我等凡夫也と云う事 仰に云く釈に云く凡夫も亦三身の本を得たりと云云、此の本の字は応身の事なりされば本地無作本覚の体は無作の応身を以て本とせり仍つて我等凡夫なり、応身は物に応う身なり其の上寿量品(じゅりょうほん)の題目を唱え出し奉るは真実に応身如来の慈悲なり云云。(839P)

一諸河無鹹の事 仰に云く此無鹹の事をば諸教無得道に譬えたり大海のしをはゆきをば法華経の成仏得道に譬えたり、又諸経に一念三千の法門無きは、諸河にうしをの味無きが如く死人の如し、法華経に一念三千の法門有るはうしをの大海にあるが如く生きたる人の如し、法華経を浅く信ずるはあわのうしをの如し、深く信ずるは、海水の如し、あわはきえやすし、海水は消えざるなり、如説修行最も以て大切なり、然りと雖も、諸経の大河の極深なるも、大海のあわのしをの味をば具足せず、権教の仏は法華経の理即の凡夫には百千万倍劣るなり云云。

一妙楽大師の釈に末法之初冥利不無の釈の事 仰に云く此の釈の心は末法に於て冥の利益迹化の衆あるべしと云う事なり、此の釈は薬王品の此経即為閻浮提人病之良薬若人有病得聞是経病即消滅不老不死云云、此の経文の意を底に含めて釈せり、妙楽云く然るに後五百は、且らく一往に従う、末法の初冥利無きにあらず、且く大教の流行す可き時に拠る、故に五百と云う文、仍つて本化の菩薩は顕の利益迹化は冥の利益なるべし云云。

一爾前経瓦礫国の事 仰に云く法華経の第三に云く、如従飢国来忽遇大王・と云云、六の巻に云く我此土安穏天人常充満我浄土不毀云云、此の両品の文の意は権教は悉く瓦礫の旅の国なり、あやまりて本国と思いて都と思わん事迷の故なり、一往四十二年住したる国なれば衆生皆本国と思えり、本国は此の法華経なり、信解品 に云く遇向本国と、三五の下種の所を指して本国とも浄土とも大王・とも云うなり、下種の心地即ち受持信解の国なり云云。

一無明悪酒の事 仰に云く無明の悪酒に酔うと云う事は弘法慈覚智証法然等の人人なり、無明の悪酒と云う証文は勧持品に云く、悪鬼入其身是なり、悪鬼と悪酒とは同じ事なり悪鬼の鬼は第六天の魔王の事なり悪酒とは無明なり無明即魔王魔王即無明なり、其身の身とは日本国の謗法の一切衆生なり、入ると呑むとは同じ事なり、此の悪鬼入る人は阿鼻に入る、さて法華経の行者は入仏知見道故と見えて仏道に入る得入無上道とも説けり、相構え相構えて無明の悪酒を恐るべきなり云云。(0840P)

一日蓮己証の事 仰に云く寿量品(じゅりょうほん)の南無妙法蓮華経是れなり、地涌千界の出現末代の当世の別付属の妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に取次ぎ給うべき仏勅使の上行菩薩なり云云、取次とは取るとは釈尊より上行菩薩の手へ取り給うさて上行菩薩又末法当今の衆生に取次ぎ給えり是を取次ぐとは云うなり、広くは末法万年までの取次なり、是を無令断絶とは説かれたり、又結要の五字とも申すなり云云、上行菩薩取次の秘法は所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経なり云云。

一釈尊の持言秘法の事 仰に云く持言の秘法の経文とは寿量品(じゅりょうほん)に云く、毎自作是念の文是なり、毎の字は三世常住なり、是念の念とは、わすれ給わずして内証に具足し給えり故に持言なり、秘法とは南無妙法蓮華経是なり秘す可し秘す可し云云。

一日蓮門家の大事の事 仰に云く此の門家の大事は涌出品の前三後三の釈なり、此の釈無くんば本化迹化の不同像法付属末法付属迹門本門等の起尽之れ有る可からず、既に止善男子の止の一字は日蓮門家の大事なり秘す可し秘す可し、総じて止の一字は正しく日蓮門家の明鏡の中の明鏡なり口外も詮無し、上行菩薩等を除いては総じて余の菩薩をば悉く止の一字を以て成敗せり云云。

一日蓮が弟子臆病にては叶う可からざる事 仰に云く此の意は問答対論の時は爾前迹門の釈尊をも用う可からざるなり、此れは臆病にては釈尊を用いまじきかなんど思うべき故なり、釈尊をさえ用う可からず何に況や其の以下の等覚の菩薩をやまして謗法の人人に於ておや、所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経の大音声を出だして諸経諸宗を対治すべし、巧於難問答其心無所畏とは是なり云云。

一妙法蓮華経の五字を眼と云う事 仰に云く法華第四に云く、仏滅度後能解其義是諸天人世間之眼と云云、(841P)

此の経文の意は、法華経は人天二乗菩薩仏の眼目なり、此の眼目を弘むるは日蓮一人なり、此の眼には五眼あり、所謂(いわゆる)肉眼天眼慧眼法眼仏眼なり、此の眼をくじりて別に眼を入れたる人あり、所謂(いわゆる)弘法大師是なり、法華経の一念三千即身成仏諸仏の開眼を止めて、真言経にありと云えり、是れ豈法華経の眼を抽れる人に非ずや、又此の眼をとじふさぐ人あり所謂(いわゆる)法然上人是れなり、捨閉の閉の文字は、閉眼の義に非ずや、所詮能弘の人に約しては、日蓮等の類い世間之眼なり、所弘の法に随えば、此の大乗経典は、是れ諸仏の眼なり、所詮眼の一字は一念三千の法門なり、六万九千三百八十四字を此の眼の一字に納めたり、此の眼の字顕われて見れば煩悩即菩提生死即涅槃なり、今末法に入つて、眼とは所謂(いわゆる)未會有の大曼荼羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり云云。

一法華経の行者に水火の行者の事 仰に云く総じて此の経を信じ奉る人に水火の不同あり、其の故は火の如きの行者は多く水の如き行者はまれなり、火の如しとは此の経のいわれをききて火炎のもえ立つが如く貴く殊勝に思いて信ずれどもやがて消失す、此れは当座は大信心と見えたれども其の信心の灯きゆる事やすしさて水の如きの行者と申すは水は昼夜不退に流るるなり少しもやむ事なし、其の如く法華経を信ずるを水の行者とは云うなり云云。

一女人と妙と釈尊と一体の事 仰に云く女人は子を出生す、此の出生の子又子を出生す此くの如く展転して無数の子を出生せり、此の出生の子に善子もあり悪子もあり端厳美麗の子もあり醜陋の子もあり長のひくき子もあり大なる子もあり男子もあり女子もあり云云、所詮妙の一字より万法は出生せり地獄もあり餓鬼もあり乃至仏界もあり権教もあり実教もあり善もあり悪もあり諸法を出生せり云云、又釈迦一仏の御身より一切の仏菩薩等悉く出生せり、阿弥陀薬師大日等は悉く釈尊の一月より万水に浮ぶ所の万影なり、然らば女人と妙と釈尊との三全く不同無きなり、妙楽大師の云く妙即三千・三千即法云云、提婆品に云く有二一宝殊一価直二三千大千世界一是なり云云。(842P)

一置不呵責の文の事  仰に云く此の経文に於ては日蓮等の類のおそるべき文字一字之れ有り、若し此の文字を恐れざれば縦い当座は事なしとも未来無間の業たるべし、然らば無間地獄へ引き入る獄卒なるべし夫れは置の一字是なり云云、此の置の一字は獄卒なるべし謗法不信の失を見ながら聞きながら云わずして置かんは必ず無間地獄へ堕在す可し、仍つて置の一字・獄卒・阿防羅刹なるべし尤も以て恐る可きは置の一字なり云云、所詮此の経文の内に獄卒の一字を恐るべきなり云云、此の獄卒の一字を深く之を思う可し、日蓮は此の字を恐る故に建長五年より今弘安年中まで在在所所にて申しはりしなり只偏に此の獄卒を脱れんが為なり、法華経には若人不信とも生疑不信者とも説き給えり、法華経の文文句句をひらき捏槃経の文文句句をひらきたりとも置いていわずんば叶う可からざるは此の置の一字より外に獄卒は無きなり云云。

一異念無く霊山浄土へ参る可き事 仰に云く異念とは不信の事なり若し我が心なりとも不信の意出来せば忽に信心に住すべし、所詮不信の心をば師となすべからず信心の心を師匠とすべし浄心信敬に法華経を修行し奉るべきなり、されば能持二是経一能説二此経一と説きて能の字を説かせ給えり霊山ここにあり四土ー念皆常寂光とは是なり云云。

一不可失本心の事  仰に云く此の本心と云うは法華経の信心の事なり、失と申すは謗法の人にすかされて法華経を捨つる心の出来するを云うなり、されば天台大師云く若し悪友に値えば則ち本心を失うと云云、此の釈に悪友とは謗法の人の事なり、本心とは法華経なり、法華経を本心と云う意は諸法実相の御経なれば十界の衆生の心法を法華経とは申すなり、而るに此の本心を引きかえて迷妄の法に着するが故に本心を失うなり、此の本心に於(おい)ては三五の下種の法門なり、(843P)

若し善友に値う時んば失う所の本心を忽に見得するなり、所謂(いわゆる)迦葉舎利弗等是なり、善友とは釈迦如来悪友とは第六天の魔王外道婆羅門是なり、所詮末法に入つて本心とは日蓮弘通の南無妙法蓮華経是なり、悪友とは法然弘法慈覚智証等是なり、若し此の題目の本心を失せんに於ては又三五塵点を経べきなり、但、如是展転至無数劫なるべし、失とは無明の酒に酔いたる事なり仍て本心を失うと云うなり、此の酔をさますとは権教を捨てしむるを云うなり云云。

一天台大師を魔王障礙せし事 仰に云く此の事は随分の秘蔵なり、其の故は天台大師一心三観一念三千の観法を説き顕さんとし給いしかば父母左右の膝に住して悩まし奉り障礙し給いしなり、是れ即ち第六天の魔王が父母の形を現じて障礙せしなり、終に魔王に障礙せられ給わずして摩訶止観(まかしかん)の法門起れり、何に况や今日蓮が弘むる南無妙法蓮華経は三世の諸仏の成道の師十方薩・の得道の師匠たり、其の上正像二千年の仏法は爾前迹門なれば、魔王自身障礙をなさずともなるべし、今末法の時は、所弘の法は、法華経本門の事の一念三千の南無妙法蓮華経なり、能弘の導師は本化地涌の大菩薩にてましますべし、然る間魔王自身下りて障礙せずんば叶う可からざるなり、仍つて自身下りたる事分明なり、所謂(いわゆる)道隆良観最明寺等是なり、然りと雖も諸天善神等は日蓮に力を合せ給う故に竜口までもかちぬ、其の外の大難をも脱れたり、今は魔王もこりてや候うらん、日蓮死去の後は残党ども軍を起すべきか、故に夫れも落居は叶う可からざるなり、其の故は第六天の魔王の眷属日本国に四十九億九万四千八百二十八人なりしが今は日蓮に降参したる事多分なり、経に云く悪鬼入其身とは是なり、此の合戦の起りも、所詮南無妙法蓮華経是なり、魔王に於て体の魔王用の魔王あり、体の魔王とは法性同共の魔王なり妙法の法是なり、用の魔王とは此れより出生する第六天の魔王なり、用の魔王は障礙をなす、然れども体用同共の諸法実相の一理なり、唯有一門の智慧の門に入り、無明法性一体なるべきなり云云、

所謂(いわゆる)摩訶止観(まかしかん)の大事の法門是なり、法華経の一代説教に勝れたるは此の故なり、一念三千とは是なり、法華経第三に云く魔及魔民皆護仏法云云。

一法華経極理の事 仰に云く迹門には二乗作仏(にじょうさぶつ)本門には久遠実成(くおんじつじょう)此をさして極理と云うなり、但し是も未だ極理にたらず、迹門にして極理の文は諸仏智慧甚深無量の文是れなり、其の故は此の文を受けて文句の三に云く竪に如理の底に徹し横に法界の辺を窮むと釈せり、さて本門の極理と云うは如来秘密神通之力の文是なり、所詮日蓮が意に云く法華経の極理とは南無妙法蓮華経是なり、一切の功徳法門釈尊の因行果徳の二法三世十方の諸仏の修因感果法華経の文文句句の功徳を取り聚めて此の南無妙法蓮華経と成し給えり、爰を以て釈に云く惣じて一経を結するに唯だ四のみ、其の枢柄を撮つて之を授与す云云、上行菩薩に授与し給う題目の外に法華経の極理は無きなり云云。

一妙法蓮華経五字の蔵の事 仰に云く此の意は妙法の五字の中には一念三千の宝珠あり五字を蔵と定む、天台大師玄義の一に判ぜり、所謂(いわゆる)此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり云云、法華経の第四に云く是れ法華経蔵と云云、妙華厳法阿含蓮方等華般若経涅槃、又云く妙涅槃法般若蓮方等華阿含経華厳、已上妙法蓮華経の五字には十界三千の宝珠あり、三世の諸仏は此の五字の蔵の中より或は華厳の宝を取り出だし或は阿含方等般若の宝を取り出だし種種説法し給えり、加之論師人師等の疏釈も悉く此の五字の中より取り出だして一切衆生に与え給えり、此等は皆五字の中より取り出だし給えども妙法蓮華経の袋をば持ち給わず、所詮五字は上行菩薩の付属にして更に迹化の菩薩諸論師いろはざる題目なり、仍つて上行所伝の南無妙法蓮華経は蔵なり、金剛不壊の袋なり此の袋をそのまま日本国の一切衆生には与え給えり、信心を以て此の財宝を受取るべきなり、今末法に入つては日蓮等の類い受取る所の如意宝珠なり云云。

一我等衆生の成仏は打かためたる成仏と云う証文の事 仰に云く経に云く無上宝聚不求自得の文是なり、我等凡夫即極とはたと打かためたる成仏なり所謂(いわゆる)不求自得する所の南無妙法蓮華経なればなり云云。

一爾前法華の能くらべの事 仰に云く爾前の経にして十悪五逆等の成仏の能なし、今法華経に十界皆成分明なり、爾前の経の無能と云う証文とは方便品に云く但以仮名字引導於衆生の文是なり、さて法華経は能と云う証文は諸法実相の文是なり、今末法に入つて第一の能たる南無妙法蓮華経是なり云云。

一授職の法体の事 仰に云く此の文は唯仏与仏の秘文なり輙く云う可からざる法門なり、十界三千の諸法を一言を以て授職する所の秘文なり、其の文とは神力品に云く皆於此経宣示顕説の文是なり、此の五字即十界同時に授職する所の秘文なり十界己己の当体本有妙法蓮華経なりと授職したる秘文なり云云。

一末代譲状の事 仰に云く末代とは末法五百年なり、譲状とは手継の証文たる南無妙法蓮華経是なり此れを譲るに二義之れ有り、一には跡をゆずり二には宝をゆずるなり、一に跡を譲ると云うは釈迦如来の跡を法華経の行者にゆずり給えり、其の証文に云く如我等無異の文是なり、次に財宝をゆずると云うは釈尊の智慧戒徳を法華経の行者にゆずり給えり、其の証文に云く無上宝聚不求自得の文是なりと云云、さて此の題目の五字は譲状なり云云。

一本有止観と云う事 仰に云く本有の止観と云うは大通を以て習うなり、久遠実成(くおんじつじょう)道の仏と大通智勝仏と釈尊との三仏を次の如く仏法僧の三宝と習うなり、此の故に大通は本有の止観なれば即ち三世の諸仏の師範と定めたり、仍つて大通仏を法と習う、此の法は妙法蓮華経是なり、仍つて証文に云く大通智勝仏十劫坐道場の文是なり十劫は即ち十界なり云云。

一入末法四弘誓願の事 仰に云く四弘誓願をば一文に口伝せり、其の一文とは所謂(いわゆる)神力品に云く於我滅度後応受持斯経是人於仏道決定無有疑と云云、

此の経文は法華経の序品より始て四弘誓願の法門を説き終りてさて上行菩薩に妙法蓮華経を付属し給う時妙法の五字に四弘誓願を結びて結句に説かせ給えり滅後とは末法の始の五百年なり、衆生無辺誓願度と云うは是人の人の字なり、誓願は地涌の本化の上行菩薩の誓願に入らんと此れ即ち仏道の二字度脱なり、煩悩無辺なれども煩悩即菩提生死即涅槃と体達す、仏道に入つては煩悩更になし受持斯経の所には法門無尽誓願知分明なり無上菩提誓願証と云うは是人於仏道決定無有疑と定めたる四弘誓願分明なり、教主釈尊末法に入つて四弘誓願も此の文なり、上行菩薩の四弘誓願も此の文なり深く之を思案す可し云云。

一四弘誓願応報如理と云う事 仰に云く衆生無辺誓願度は応身なり、煩悩無辺誓願断は報身なり、法門無尽誓願知は智法身なり、無上菩提誓願証は理法身なり、所詮誓願と云うは題目弘通の誓願なり、釈に云く彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なりと是なり云云。

一本来の四弘の事 仰に云く諸法の当体本来四弘なり、其の故は衆生と云うは法界なり、所詮法界に理智慈悲の三を具足せり、応報法の三身諸法の自体なり、無作の応身を以て衆生無辺誓願度と云うなり、無作の報身には智徳断徳の二徳を備えたり、煩悩無辺誓願断を以て本有の断徳とは定めたり、法門無尽誓願知を以て本有の智徳とす、無上菩提誓願証を以て無作の法身と云うなり、所詮四弘誓願の中には衆生無辺誓願度を以て肝要とするなり、今日蓮等の類いは南無妙法蓮華経を以て衆生を度する此より外は所詮なきなり、速成就仏身是なり云云、所詮四弘誓願は一念三千なり、さて四弘の弘とは何物ぞ、所謂(いわゆる)上行所伝の南無妙法蓮華経なり、釈に云く四弘能所泯すと云云、此の釈は止観に前三教を釈せり、能と云うは如来なり所とは衆生なり能所各別するは権教の故なり、法華経の心は能所一体なり泯すと云うは権教の心は機法共に一同なれば能所泯すと云うなりあえて能所一同して成仏する所を泯すと云うには非ざるなり、今末法に入つて法華経の行者は四弘能所感応の即身成仏の四弘なり云云。

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