守護国家論

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守護国家論の概要

守護国家論 
【正元元年、聖寿三十八歳、真筆−曽存】 
 夫れ以んみれば偶十方微塵の三悪の身を脱れて希に閻浮日本の爪上の生を受く。
亦閻浮日域爪上の生を捨てて十方微塵三悪の身を受けんこと疑ひ無き者なり。
然るに生を捨てて悪趣に堕つるの縁一に非ず。或は妻子眷属の哀憐に依り、或は殺生悪逆の重業に依り、或は国主と成て民衆の歎きを知らざるに依り、或は法の邪正を知らざるに依り、或は悪師を信ずるに依る。
此の中に於ても世間の善悪は眼前に在り、愚人も之を弁ふべし。仏法の邪正・師の善悪に於ては、証果の聖人尚之を知らず。況や末代の凡夫に於ておや。
 
 しかのみならず仏日西山に隠れ余光東域を照してより已来、四依の恵灯は日に減じ、三蔵の法流は月に濁る。
実教に迷へる論師は真理の月に雲を副へ、権経に執する訳者は実経の珠を砕て権経の石と成す。
何に況や震旦の人師の宗義其の誤り無からんや。何に況や日本辺土の末学誤りは多く実は少き者か。
随て其の教を学する人数は竜鱗よりも多く、得道の者は麟角(りんかく)よりも希なり。
或は権教に依るが故に、或は時機不相応の教に依るが故に、或は凡聖の教を弁へざるが故に、或は権実二教を弁へざるが故に或は権教を実教と謂ふに依るが故に、或は位の高下を知らざるが故になり。
凡夫の習ひ、仏法に就て生死の業を増すこと其の縁一に非ず。
 中昔、邪智の上人有て、末代の愚人の為に一切の宗義を破して選択集一巻を造る。
名を鸞綽導の三師に仮て一代を二門に分ち。実経を録して権教に入れ。法華真言の直道を閉じて浄土三部の隘路を開く。
亦浄土三部の義にも順ぜずして権実の謗法を成し。永く四聖の種を断じて阿鼻の底に沈むべき僻見なり。
而るに世人之に順ふこと譬へば大風の小樹の枝を吹くが如く。門弟此の人を重んずること天衆の帝釈を敬ふに似たり。
 
 此の悪義を破らんが為に亦多くの書有り。所謂浄土決義抄・弾選択・摧邪輪等なり。
此の書を造る人、皆碩徳の名一天に弥ると雖も、恐くは未だ選択集謗法の根源を顕はさず。故に還て悪法の流布を増す。
譬へば盛なる旱魃の時に小雨を降せば草木弥枯れ、兵者を打つ刻に弱兵を先んずれば強敵倍力を得るが如し。
 
 予此の事を歎く間、一巻の書を造て選択集謗法の縁起を顕はし、名づけてと号す。
願はくば一切の道俗、一時の世事を止めて永劫の善苗を種ゑよ。
今経論を以て邪正を直す。信謗は仏説に任せ敢て自義を存する事無かれ。
 
 分て七門と為す。一には、如来の経教に於て権実二教を定むることを明し。二には、正像末の興廃を明し。三には、選択集の謗法の縁起を明し。
四には、謗法の者を対治すべき証文を出すことを明し。五には、善知識並に真実の法には、値ひ難きことを明し。六には、法華涅槃に依る行者の用心を明し。七には、問に随て答ふることを明す。
 
 大文の第一に、如来の経教に於て権実二教を定むることを明かさば、此に於て四有り。一には、大部の経の次第を出して流類を摂することを明し。二には、諸経の浅深を明し。三には、大小乗を定むることを明し。四には、且らく権を捨てて実に就くべきことを明す。
 
 第一に、大部の経の次第を出して流類を摂することを明さば。
問て云く、仏最初に何なる経を説きたまうや。答て云く、華厳経なり。
問て云く、其の証如何。答て云く、六十華厳経の離世間浄眼品に云く「是の如く我聞く。一時仏摩竭提国寂滅道場に在て始めて正覚を成ず」と。
法華経の序品に放光瑞の時、弥勤菩薩十方世界の諸仏の五時の次第を見る時、文殊師利菩薩に問て云く「又諸仏聖主師子の経典の微妙第一なることを演説し給ふに其の声清浄に柔軟の音を出して諸の菩薩を教へ給ふこと無数億万なることを覩る」。
方便品に仏自ら初成道の時を説て云く「我始め道場に坐し樹を観じ亦経行す、乃至爾の時に諸の梵王及び諸天帝釈・護世四天王及び大自在天・並に余の諸の天衆眷属百千万・恭敬合掌し礼して我に転法輪を請ず」と。
此等の説は法華経に華厳経の時を指す文なり。故に華厳経の第一に云く「毘沙門天王〈略〉月天子〈略〉日天子〈略〉釈提桓因〈略〉大梵〈略〉摩醯首羅等〈略已上〉」。
 
 涅槃経に華厳経の時を説て云く「既に成道し已て梵天勧請すらく、唯願はくば如来当に衆生の為に広く甘露の門を開き給ふべし。
乃至、梵王復言く、世尊一切衆生に凡そ三種有り。所謂利根・中根・鈍根なり。利根は能く受く。唯願はくば為に説き給へ。仏言く、梵王諦に聴け諦に聞け。我今当に一切衆生の為に甘露の門を開くべし」。
亦三十三に華厳経の時を説て云く「十二部経修多羅の中の微細の義を我先に已に諸の菩薩の為に説くが如し」。
 
 此くの如き等の文は、皆諸仏世に出で給て一切経の初めには必ず華厳経を説き給ひし証文なり。
 
 問て云く、無量義経に云く「初めに四諦を説き、乃至次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説く」。此の文の如くんば般若経の後に華厳経を説けり。相違如何。
答て云く、浅深の次第なるか。或は後分の華厳経なるか。法華経の方便品に一代の次第浅深を列ねて云く「余乗〈華厳経なり〉若は二〈般若経なり〉若は三〈方等経なり〉有ること無し」と此の意なり。
 
 問て云く、華厳経の次に何の経を説き給ふや。答て云く、阿含経を説き給ふなり。
問て云く、何を以て之を知るや。答て云く、法華経の序品に華厳経の次の経を説て云く「若し人苦に遭て老病死を厭ふには為に涅槃を説く」。方便品に云く「即・波羅奈に趣き乃至五比丘の為に説く」。
涅槃経に華厳経の次の経を定めて云く「即波羅奈国に於て正法輪を転じて中道を宣説す」。此等の経文は華厳経より後に阿含経を説くなり。
 
 問て云く、阿含経の後に何の経を説き給ふや。答て云く、方等経なり。
問て云く、何を以て之を知るや。答て云く、無量義経に云く「初に四諦を説き乃至次に方等十二部経を説く」。涅槃経に云く「修多羅より方等を出す」。
 
 問て云く、方等とは天竺の語、此には大乗と云ふ。華厳・般若・法華・涅槃等は皆方等なり。何ぞ独り方等部に限り方等の名を立つるや。
答て云く、実には華厳・般若・法華等皆方等なり。然りと雖も今方等部に於て別して方等の名を立つることは私の義に非ず。無量義経・涅槃経の文に顕然たり。
阿含の証果は一向小乗なり。次に大乗を説く。方等より已後皆大乗と云ふと雖も、大乗の始なるが故に初に従て方等部を方等と云ふなり。
例せば十八界の十半は色なりと雖も、初に従て色境の名を立つるが如し。
 
 問て云く、方等部の諸経の後に何の経を説き給ふや。答て云く、般若経なり。
問て云く、何を以て之を知るや。答て云く、涅槃経に云く「方等より般若を出す」。
 
 問て云く、般若経の後には何の経を説き給ふや。答て云く、無量義経なり。
問て云く、何を以て之を知るや。答て云く、仁王経に云く「二十九年中」。無量義経に云く「四十余年」。
問て云く、無量義経には般若経の後に華厳経を列ね、涅槃経には般若経の後に涅槃経を列ぬ。今の所立の次第は、般若経の後に無量義経を列ぬ、相違如何。
答て云く、涅槃経第十四の文を見るに、涅槃経已前の諸経を列ねて涅槃経に対して勝劣を論じ而も法華経を挙げず。
第九の巻に於て、法華経は涅槃経より已前なりと之を定め給ふ。法華経の序品を見るに、無量義経は法華経の序分なり。
無量義経には般若の次に華厳経を列ぬれども、華厳経を初時に遣れば般若経の後は無量義経なり。
 
 問て云く、無量義経の後に何の経を説き給ふや。答て云く、法華経を説き給ふなり。
問て云く、何を以て之を知るや。答て云く、法華経の序品に云く「諸の菩薩の為に大乗経の無量義教菩薩法(きょうぼさつほう)仏所護念と名づくるを説き給ふ。仏此の経を説き已て、結跏趺坐し、無量義処三昧に入る」。
 
 問て云く、法華経の後に何の経を説き給ふや。答て云く、普賢経を説き給ふなり。
問て云く、何を以て之を知るや。答て云く、普賢経に云く「却て後三月我当に般涅槃すべし。乃至如来昔耆闍崛山(ぎしゃくっせん)及び余の住処に於て已に広く一実の道を分別す。今も此の処に於てす」。
 
 問て云く、普賢経の後に何の経を説き給ふや。答て云く、涅槃経を説き給ふなり。
問て云く、何を以て之を知るや。答て云く、普賢経に云く「卻て後三月我当に般涅槃すべし」。涅槃経三十に云く「如来何が故ぞ二月に涅槃し給ふや。亦云ふ、如来は初生・出家・成道・転法輪皆八日を以てす。何ぞ仏の涅槃独り十五日なるや」と。
大部の経、大概是くの如し。此より已外諸の大小乗経は次第不定なり。或は阿含経より已後に華厳経を説き、法華経より已後に方等般若を説く。皆義類を以て之を収めて一処に置くべし。
 
 第二に、諸経の浅深を明さば。無量義経に云く「初に四諦を説き〈阿含〉、次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説き、菩薩の歴劫修行を宣説す」。
亦云く「四十余年には未だ真実を顕はさず」。又云く「無量義経は尊く過上無し」と。此等の文の如くんば、四十余年の諸経は無量義経に劣ること疑ひ無き者なり。
 
 問て云く、密厳経に云く「一切経の中に勝れたり」と。大雲経に云く「諸経の転輪聖王なり」と。金光明経(こんこうみょうきょう)に云く「諸経の中の王なり」と。此等の文を見るに諸大乗経の常の習なり。何ぞ一文を瞻て無量義経は四十余年の諸経に勝ると云ふや。
答て云く、教主釈尊若し諸経に於て互に勝劣を説かば、大小乗の差別・権実の不同有るべからず。若し実に差別無きに互に差別浅深等を説かば、諍論の根源、悪業起罪の因縁なり。爾前の諸経の第一は縁に随て不定なり。或は小乗の諸経に対して第一と、或は報身の寿を説くに諸経の第一と、或は俗諦・真諦・中諦等を説くに第一なりと。一切の第一に非ず。今の無量義経の如きは、四十余年の諸経に対して第一なり。
 
 問て云く、法華経と無量義経と何れが勝れたるや。答て云く、法華経勝れたり。
問て云く、何を以て之を知るや。答て云く、無量義経には未だ二乗作仏(にじょうさぶつ)久遠実成(くおんじつじょう)とを明さず。故に法華経に嫌はれて今説の中に入るなり。
問て云く、法華経と涅槃経と何れが勝れたるや。答て云く、法華経勝るるなり。
問て云く、何を以て之を知るや。答て云く、涅槃経に自ら「如法華中」等と説き「更無所作」と云ふ。法華経に当説を指して「難信難解(なんしんなんげ)」と云はざるが故なり。
 
 問て云く、涅槃経の文を見るに、涅槃経已前をば皆邪見なりと云ふ、如何。
答て云く、法華経は如来出世の本懐なる故に「今者已満足」、「今正是其時」、「然善男子 我実成仏已来」等と説く。
但し諸経の勝劣に於ては、仏自ら「我所説経典 無量千万億」なりと挙げ了て「已説・今説・当説」等と説く時、多宝仏地より涌現して「皆是真実」と定め、分身の諸仏は舌相を梵天に付け給ふ。是くの如く諸経と法華経との勝劣を定め了ぬ。
此の外釈迦如来一仏の所説なれば、先後の諸経に対して法華経の勝劣を論ずべきに非ざるなり。
故に涅槃経に諸経を嫌ふ中に法華経を入れず。法華経は諸経に勝るる由之を顕はす故なり。 但し邪見の文に至ては、法華経を覚知せざる一類の人、涅槃経を聞て悟を得る故に、迦葉童子自身並に所引を指して、涅槃経より已前を邪見等と云ふなり。経の勝劣を論ずるには非ず。
 
 第三に、大小乗を定むることを明さば。
問て云く、大小乗の差別如何。答て云く、常途の説の如くんば阿含部の諸経は小乗なり。華厳・方等・般若・法華・涅槃等は大乗なり。或は六界を明すは小乗、十界を明すは大乗なり。其の外法華経に対して実義を論ずる時、法華経より外の四十余年の諸大乗経は皆小乗にして、法華経は大乗なり。
 
 問て云く、諸宗に亘て我所拠の経を実大乗と謂ひ、余宗所拠の経を権大乗と云ふこと、常の習ひなり。末学に於ては是非定め難し。未だ聞知せず、法華経に対して諸大乗経を小乗と称する、証文如何。
答て云く、宗宗の立義互に是非を論ず。就中、末法に於て世間出世に就て非を先とし是を後とす。自ら是非を知らず愚者の歎くべき所なり。
但し且く我等が智を以て四十余年の現文を観るに、此の文を破する文無ければ、人の是非を信用すべからざるなり。
其の上法華経に対して諸大乗経を小乗と称することは、自答を存すべきに非ず。
法華経の方便品に云く「仏は自ら大乗に住し給へり。乃至自ら無上道大乗平等の法を証しき。若し小乗を以て化すること乃至一人に於てせば我即ち慳貧に堕せん。此の事は為て不可なり」。此の文の意は、法華経より外の諸経を皆小乗と説けるなり。
寿量品(じゅりょうほん)に云く「小法を楽ふ」と。此等の文は法華経より外の四十余年の諸経を皆小乗と説けるなり。
天台・妙楽の釈に於て四十余年の諸経を小乗なりと釈すとも、他師之を許すべからず。故に但経文を出すなり。
 
 第四に、且らく権経を閣て実経に就くことを明さば。
問て云く、証文如何。答て云く、十の証文有り。
法華経に云く「但大乗経典を受持することを楽て乃至余経の一偈をも受けざれ」〈是一〉。涅槃経に云く「了義経に依て不了義経に依らざれ」〈四十余年を不了義経と云ふ。是二〉。法華経に云く「此の経は持ち難し若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す諸仏も亦然なり是の如き人は諸仏の歎めたもう所なり是れ則ち勇猛なり是れ則ち精進なり是を戒を持ち頭陀を行ずる者と名く」〈末代に於て四十余年の持戒無し唯法華経を持つを持戒と為す。是三〉。
涅槃経に云く「乗に緩なる者に於ては乃ち名けて緩と為す。戒に緩なる者に於ては名けて緩と為さず。
菩薩摩訶薩此の大乗に於て心懈慢せずんば是を奉戒と名づく。正法を護らんが為に大乗の水を以て而も自ら澡浴す。是の故に菩薩破戒を現ずと雖も名づけて緩と為さず」〈此の文は法華経の戒を流通する文なり。是四〉。
法華経第四に云く「妙法華経乃至皆是真実」〈此の文は多宝の証明なり。是五〉。
法華経第八普賢菩薩の誓に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」〈是六〉。
法華経第七に云く「我が滅度の後後の五百歳の中に閻浮堤に於て断絶せしむること無けん」〈釈迦如来の誓なり。是七〉。
法華経第四に多宝並に十方諸仏来集の意趣を説て云く「法をして久しく住せしめんが故に此に来至し給へり」〈是八〉。
法華経第七に法華経を行ずる者の住処を説て云く「如来の滅後に於て応に一心に、受持・読・誦・解説・書写して説の如く修行すべし。
所在の国土に、乃至、若は経巻所住の処、若は園の中に於ても、若は林の中に於ても、若は樹の下に於ても、若は僧坊に於ても、若は白衣の舎にても、若は殿堂に在ても、若は山谷広野にても、是の中に皆塔を起て供養すべし。
所以は何ん。当に知るべし、是の処は則ち是れ道場なり。諸仏此に於て阿耨多羅三藐三菩堤を得給ふ」〈是九〉。
法華経の流通たる涅槃経の第九に云く「我涅槃の後正法未だ滅せず、余の八十年、爾時に、是の経閻浮堤に於て当に広く流布すべし。是の時当に諸の悪比丘有るべし。是の経を抄掠して分て多分と作し、能く正法の色香美味を滅す。
是の諸の悪人、復是くの如き経典を読誦すと雖も、如来深密の要義を滅除して世間荘厳の文を安置し、無義の語を飾り、前を抄て後に著け、後を抄て前に著け、前後を中に著け、中を前後に著けん。
当に知るべし。是くの如き諸の悪比丘は是魔の伴侶なり。乃至譬へば牧牛女の多く水を乳に加ふるが如く。諸の悪比丘も亦復是の如し。雑るに世語を以てし錯て是の経を定む。多くの衆生をして正説・正写・正取・尊重・讃歎・供養・恭敬することを得ざらしむ。
是の悪比丘は利養の為の故に是の経を広宣流布すること能はず。分流すべき所少く言ふに足らず、彼の牧牛の貧窮の女人展転して乳を売るに、乃至糜と成して乳味無きが如し。
是の大乗経典大涅槃経も亦復是の如く。展転薄淡にして気味有ること無し。気味無しと雖も猶余経に勝る、是れ一千倍なること彼の乳味の諸の苦味に於て千倍勝ると為すが如し。何を以ての故に、是の大乗経典・大涅槃経は声聞の経に於て最上首為り」〈是十〉。
 
 問て云く、不了義経を捨てて了義経に就くとは、大円覚修多羅了義経・大仏頂如来密因修証了義経、是の如き諸大乗経は皆了義経なり。依用と為すべきや。
答て云く、了義・不了義は所対に随て不同なり。二乗・菩薩等の所説の不了義に対すれば、一代の仏説は皆了義なり。
仏説に就て小乗経は不了義、大乗経は了義なり。大乗に就て又四十余年の諸経は不了義経、法華・涅槃・大日経等は了義経なり。
而るに円覚・大仏頂等の諸経は、小乗及び歴劫修行の不了義経に対すれば了義経なり。法華経の如き了義には非ざるなり。
 
 問て云く、華厳・法相・三論等の天台・真言より已外の諸宗の高祖、各其の依憑の経経に依て其の経経の深義を極めたりと欲へり。是れ爾るべしや如何。
答て云く、華厳宗の如きは、華厳経に依て諸経を判じて華厳経の方便と為すなり。
法相宗の如きは、阿含・般若等を卑しめ華厳・法華・涅槃を以て深密経に同じ同じく中道教と立つると雖も、亦法華・涅槃は一類の一乗を説くが故に不了義経なり、深密経には五性各別を論ずるが故に了義経と立つるなり。
三論宗の如きは、二蔵を立てて一代を摂し、大乗に於て浅深を論ぜず。而も般若経を以て依憑と為す。
此等の諸宗の高祖多分は四依の菩薩なるか。定めて所存有らん。是非に及ばず。
 
 然りと雖も自身の疑を晴らさんが為に且らく人師の異解を閣て諸宗の依憑の経経を開き見るに、華厳経は旧訳は五十・六十。新訳は八十・四十。
其の中に法華涅槃の如く一代聖教を集めて方便と為すの文無し。
四乗を説くと雖も其の中の仏乗に於て十界互具久遠実成(くおんじつじょう)を説かず。
但し人師に至ては五教を立てて先の四教に諸経を収めて華厳経の方便と為す。
法相宗の如きは、三時教を立つる時法華等を以て深密経に同ずと雖も。深密経五巻を開き見るに全く法華等を以て中道の内に入れず。
 
 三論宗の如きは二蔵を立つる時菩薩蔵に於て華厳・法華等を収め般若経に同ずと雖も。新訳の大般若経を開き見るに全く大般若を以て法華・涅槃に同ずるの文無し。
華厳は頓教・法華は漸教等とは人師の意楽にして仏説に非ざるなり。
 
 法華経の如きは、序分無量義経に慥に四十余年の年限を挙げ、華厳方等・般若等の大部の諸経の題名を呼て「未顕真実(みけんしんじつ)」と定め、正宗の法華経に至て一代の勝劣を定むる時、
「我が所説の経典無量千万億、已に説き今説き当に説かん」の金言を吐て、「而も其の中に於て此の法華経は最も難信難解(なんしんなんげ)なり」と説き給ふ時、多宝如来仏地より涌出し妙法蓮華経皆是真実と証誠し、分身の諸仏十方より悉く一処に集て舌を梵天に付け給ふ。
 
 今此の義を以て余推察を加ふるに、唐土・日本に渡れる所の五千七千余巻の諸経以外の天竺・竜宮・四王天・過去の七仏等の諸経、並に阿難の未結集の経、十方世界の塵に同ずる諸経の勝劣・浅深・難易掌中に在り。
無量千万億の中に豈釈迦如来の所説の諸経を漏らすべけんや。已説・今説・当説の年限に入らざる諸経之れ有るべきや。
願はくば末代の諸人、且らく諸宗の高祖の弱文無義を閣て、釈迦・多宝・十方諸仏の強文有義を信ずべし。
何に況や諸宗の末学偏執を先と為し、末代の愚者人師を本と為して経論を抛つ者に依憑すべきや。
故に法華の流通たる双林最後の涅槃経に、仏迦葉童子菩薩に遺言して言く「法に依て人に依らざれ、義に依て語に依らざれ、智に依て識に依らざれ、了義経に依て不了義経に依らざれ」と〈云云〉。
 
 予世間を見聞するに、自宗の人師を以て三昧発得智恵第一と称すれども、無徳の凡夫として実経に依て法門を信ぜしめず。
不了義の観経等を以て時機相応の教と称し、了義の法華・涅槃を閣て譏て理深解微(りじんげみ)の失を付く。
如来の遺言に背て「人に依て法に依らざれ、語に依て義に依らざれ、識に依て智に依らざれ、不了義経に依て了義経に依らざれ」と談ずるに非ずや。
請ひ願はくば心有らん人は思惟を加へよ。如来の入滅は既に二千二百余の星霜を送れり。文殊・迦葉・阿難経を結集して已後、四依の菩薩重ねて出世し論を造り経の意を申ぶ。
末の論師に至て漸く誤り出来す。亦訳者に於ても梵・漢未達の者、権教宿習の人有て。実の経論の義を曲げて権の経論の義を存せり。
之に就て亦唐土の人師過去の権教の宿習の故に、権の経論心に叶ふ間実経の義を用ひず。或は少し自義に違ふ文有れば理を曲げて会通を構へ、以て自身の義に叶はしむ。
設ひ後に道理と念ふと雖も、或は名利に依り、或は檀那の帰依に依て、権宗を捨てて実宗に入らず。
世間の道俗亦無智の故に理非を弁へず。但人に依て法に依らず。設ひ悪法たりと雖も多人の邪義に随て一人の実説に依らず。
而るに衆生の機多くは流転に随ふ、設ひ出離を求むとも亦多分は権経に依る。但恨むらくは悪業の身善に付け悪に付け生死を離れ難きのみ。
然りと雖も今の世の一切の凡夫設ひ今生を損すと雖も、上に出す所の涅槃経第九の文に依て且らく法華・涅槃を信ぜよ。
其の故は世間の浅事すら展転多き時は虚は多く実は少し。況や仏法の深義に於てをや。
如来の滅後二千余年の間、仏法に邪義を副へ来り、万に一も正義無きか。一代の聖教多分は誤り有るか。
所以に心地観経の法爾無漏の種子、正法華経の属累の経末、婆沙論の一十六字、摂論の識の八九、法華論と妙法華経との相違、涅槃論の法華煩悩所汚の文、法相宗の定性無性の不成仏、摂論宗の法華経の一称南無の別時意趣、此等は皆訳者人師の誤りなり。
此の外に亦四十余年の経経に於て多くの誤り有るか。設ひ法華・涅槃に於て誤有るも誤無きも、四十余年の諸経を捨てて法華・涅槃に随ふべし。其の証上に出し了ぬ。況や誤り有る諸経に於て信心を致す者、生死を離るべきや。
 
 大文の第二に、正像末に就て仏法の興廃有ることを明すとは。之に就て二有り。
一には爾前四十余年の内の諸経と浄土の三部経と末法に於て久住不久住を明す、二には法華・涅槃と浄土の三部経並に諸経との久住不久住を明す。
第一に、爾前四十余年の内の諸経と浄土の三部経と末法に於て久住不久住を明すとは。
問て云く、如来の教法は大小・浅深・勝劣を論ぜず。但時機に依て之を行ぜば定めて利益有るべきなり。
然るに賢劫・大術・大集等の諸経を見るに・仏滅後二千余年已後は仏法皆滅して但教のみ有て行証有るべからず。
随て伝教大師の末法灯明記を開くに、我延暦(えんりゃく)二十年辛巳一千七百五十歳〈一説なり〉。延暦(えんりゃく) 二十年より已後亦四百五十余歳なり。
既に末法に入れり。設ひ教法有りと雖も行証無けん。然るに於ては仏法を行ずる者万が一も得道有り難きか。
然るに双観経の「当来の世経道滅尽せんに我慈悲哀愍を以て特り此の経を留め止住せんこと百歳ならん。其れ衆生の斯の経に値ふこと有らん者は意の所願に随て皆得道すべし」等の文を見るに。
釈迦如来一代の聖教皆滅尽の後、唯特り双観経の念仏のみを留めて衆生を利益すべしと見え了ぬ。
 
 此の意趣に依て粗浄土家の諸師の釈を勘ふるに其の意無きに非ず。
道綽(どうしゃく)禅師は「当今末法は是れ五濁悪世なり、唯浄土の一門のみ通入すべき路なり」と書し。 善導和尚は「万年に三宝滅して此の経のみ住すること百年なり」と宣べ。
慈恩大師(じおんたいし)は「末法万年に余経悉く滅し、弥陀の一教利物偏に増さん」と定め。
日本国の叡山の先徳恵心僧都は、一代聖教の要文を集めて末代の指南を教ゆる往生要集の序に云く、
「夫れ往生極楽の教行は濁世末代の目足なり。道俗貴賎誰か帰せざる者あらん。但し顕密の教法は其の文一に非ず。事理の業因其の行惟れ多し。利智精進の人は未だ難しと為ず。予が如き頑魯の者豈敢てせんや」。
乃至・次下に云く「就中、念仏の教は多く末代経道滅尽の後の濁悪の衆生を利する計りなり」と。
総じて諸宗の学者も此の旨を存すべし。殊に天台一宗の学者誰か此の義に背くべけんや如何。
答て云く、爾前四十余年の経経は各時機に随て而も興廃有るが故に、多分は浄土の三部経より已前に滅尽有るべきか。
諸経に於ては多く三乗現身の得道を説く。故に末代に於ては現身得道の者之少きなり。
十方の往生浄土は多くは末代の機に蒙らしむ。之に就て、西方極楽は娑婆隣近なるが故に、最下の浄土なるが故に、日輪東に出で西に没するが故に、諸経に多く之を勧む。
随て浄土の祖師のみ独り此の義を勧むるのみに非ず。天台・妙楽等も亦爾前の経に依るの日は且らく此の筋あり。
亦独り人師のみに非ず、竜樹・天親も此の意有り。是れ一義なり。
亦仁王経等の如きは浄土の三部経より尚久く、末法万年の後八千年住すべしとなり。故に爾前の諸経に於ては一定すべからず。
 
 第二に、法華・涅槃と浄土の三部経との久住不久住とを明さば。
問て云く、法華・涅槃と浄土の三部経と何れが先に滅すべきや。答て云く、法華・涅槃より已前に浄土の三部経は滅すべきなり。
問て云く、何を以て之を知るや。答て云く、無量義経に四十余年の大部の諸経を挙げ了て「未顕真実(みけんしんじつ)」と云ふ。
故に双観経等の「特り此の経を留む」の言は、皆方便なり虚妄なり。
華厳・方等・般若・観経等の速疾歴劫の往生、成仏は無量義経の実義を以て之を検ふるに、「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども終に無上菩提を成ずることを得ず。乃至険き逕を行くに留難多きが故に」と云ふ経なり。
往生・成仏倶に別時意趣なり。大集・双観経等の住滅の先後は皆随宜の一説なり。
法華経に来らざる已前は彼の外道の説に同じ。譬へば江河の大海に趣かず、民臣の大王に随はざるが如し。
身を苦しめ行を作すとも法華・涅槃に至らずんば、一分の利益無く有因無果の外道なり。在世滅後倶に教有て人無く、行有て証無きなり。
諸木は枯るると雖も松柏は萎まず。衆草は散ると雖も鞠竹は変ぜず。
法華経も亦復是くの如し。釈尊の三説・多宝の証明・諸仏の舌相・偏に令法久住に在るが故なり。
 
 問て云く、諸経滅尽の後特り法華経のみ留るべき証文如何。
答て云く、法華経の法師品に釈尊自ら流通せしめて云く「我が所説の経典無量千万億、已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解(なんしんなんげ)なり」云云。
文の意は一代五十年の已今当の三説に於て最第一の経なり。八万聖教の中に殊に未来に留めんと欲して説き給へるなり。
故に次の品に多宝如来は地より涌出し、分身の諸仏は十方より一処に来集し、釈迦如来は諸仏を御使として八方四百万億那由佗の世界に充満せる菩薩・二乗・人天・八部等を責めて、多宝如来並に十方の諸仏・涌出来集の意趣は偏に令法久住の為なり。
各三説の諸経滅尽の後慥かに未来五濁難信の世界に於て此の経を弘めんとの誓言を立てよと云へる時に、二万の菩薩八十万億那由佗の菩薩各誓状を立てて云く「我身命を愛せず但無上道を惜む」と。
千世界の微塵の菩薩文殊等皆誓て云く「我等仏の滅後に於て乃至当に広く此の経を説くべし」云云。
其の後仏十喩を挙げ給ふ。其の第一の喩は川流江河を以て四十余年の諸経に譬へ、法華経を以て大海に譬ふ。
末代濁悪の無慙無愧の大旱魃の時、四味の川流江河は渇ると雖も、法華経の大海は減少せず等と説き了て、次下に正しく説て云く「我滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して、閻浮提に於て断絶せしむること無けん」と定め了ぬ。
 
 倩文の次第を案ずるに、我滅度後の次の後の字は四十余年の諸経滅尽の後の後の字なり。故に法華経の流通たる涅槃経に云く「応に無上の仏法を以て諸の菩薩に付すべし。諸の菩薩は善能く問答するを以てなり。是くの如き法宝は則ち久住することを得。無量千世にも増益熾盛にして衆生を利安すべし」〈已上〉。
此の如き等の文は法華・涅槃は無量百歳にも絶ゆべからざる経なり。
此の義を知らざる世間の学者大集権門の五五百歳の文を以て此の経に同じ、浄土の三部経より已前に滅尽すべしと存ずる立義は一経の先後起尽を忘れたるなり。
 
 問て云く、上に挙ぐる所の曇鸞(どんらん)道綽(どうしゃく)・善導・恵心等の諸師は、皆法華・真言等の諸経に於て末代不相応の釈を作る。
之に依て源空並に所化の弟子法華・真言等を以て雑行と立て難行道と疎み、行者をば群賊・悪衆・悪見の人等と罵り、或は祖父が履に類し〈聖光房の語〉、或は絃歌等にも劣ると云ふ〈南無房の語〉、其の意趣を尋ぬれば偏に時機不相応の義を存するが故なり。
此等の人師の釈をば如何に之を会すべきや。
答て云く、釈迦如来一代五十年の説教、一仏の金言に於て権実二教を分ち権経を捨てて実経に入らしむ。仏語顕然たり。
此に於て若但讃仏乗衆生没在苦の道理を恐れ、且らく四十二年の権経を説くと雖も、若以小乗化乃至於一人我則堕慳貪の失を脱れんが為に、入大乗為本の義を存し本意を遂げ法華経を説き給ふ。
 
 然るに涅槃経に至て我滅度せば必ず四依を出して権実二教を弘通せしめんと約束し了ぬ。故に竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)は如来の滅後八百年に出世して、十住毘婆沙等の権論を造て華厳・方等・般若等の意を宣べ、大論を造て般若・法華の差別を分ち、
天親菩薩は如来の滅後九百年に出世して、倶舎論を造て小乗の意を宣べ、唯識論を造て方等部の意を宣べ、最後に仏性論を造て法華・涅槃の意を宣べ、了教・不了教を分て敢て仏の遺言に違はず。
末の論師並に訳者の時に至ては、一向に権経に執するが故に実経を会して権経に入れ権実雑乱の失出来せり。
亦人師の時に至ては、各依憑の経を以て本と為すが故に、余経を以て権経と為す。是より弥仏意に背く。
 
 而るに浄土の三師に於ては、鸞・綽の二師は十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)に依て難易聖浄の二道を立つ。
若し本論に違して法華・真言等を以て難易の内に入れば信用に及ばじ。随て浄土論註並に安楽集を見るに多分は本論の意に違はず。
善導和尚は亦浄土の三部経に依て弥陀称名等の一行一願の往生を立つる時、梁・陳・隋・唐の四代の摂論師総じて一代聖教を以て別時意趣と定む。
善導和尚の存念に違するが故に摂論師を破する時彼の人を群賊等に譬ふ。順次生の功徳を賊するが故に。
其の所行を難行と称することは、必ず万行を以て往生の素懐を遂ぐる故に、此の人を責むる時に千中無一と嫌へり。
是の故に、善導和尚も雑行の言の中に敢へて法華・真言等を入れず。
 
 日本国の源信僧都は亦叡山第十八代の座主慈恵大師の御弟子なり。多くの書を造れることは皆法華を弘めんが為なり。
而るに往生要集を造る意は爾前四十余年の諸経に於て往生・成仏の二義有り。
成仏の難行に対して往生易行の義を存し往生の業の中に於て菩提心観念の念仏を以て最上と為す。
故に大文第十の問答料簡の中第七の諸行勝劣門に於ては、念仏を以て最勝と為す。
次下に爾前最勝の念仏を以て法華経の一念信解の功徳に対して勝劣を判ずる時、一念信解の功徳は念仏三昧より勝るる百千万倍なりと定め給へり。
当に知るべし往生要集の意は爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して、人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり。
故に往生要集の後に一乗要決を造て自身の内証を述ぶる時、法華経を以て本意と為すなり。
 而るに源空並に所化の衆此の義を知らざるが故に、法華・真言を以て三師並に源信所破の難聖雑並に往生要集の序の顕密の中に入れて、三師並に源信を法華・真言の謗法の人と為す。
其の上日本国の一切の道俗を化して法華・真言に於て時機不相応の旨を習はしめ、在家出家の諸人に於て法華・真言の結縁を留む。
豈仏の記し給ふ所の「悪世中比丘 邪智心諂曲」の人に非ずや。亦則ち一切世間の仏種を断ずの失を免るべけんや。
 
 其の上、山門・寺門・東寺・天台並に日本国中に法華・真言を習ふ諸人を、群賊・悪衆・悪見の人等に譬ふる源空が重罪、何れの劫にか其の苦果を経尽すべきや。
法華経の法師品に持経者を罵る罪を説て云く「若し悪人有て不善の心を以て一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん。其の罪尚軽し。若し人一つの悪言を以て在家出家の法華経を読誦する者を毀呰せん、其の罪甚だ重し」〈已上経文〉。
一人の持者を罵る罪すら尚是くの如し。況や書を造り日本国の諸人に罵らしむる罪をや。何に況や此の経を千中無一と定めて法華経を行ずる人に疑を生ぜしむる罪をや。何に況や此の経を捨てて観経等の権経に遷らしむる謗法の罪をや。
願はくば一切の源空が所化の四衆、頓に選択集の邪法を捨てて忽に法華経に遷り、今度阿鼻の炎を脱れよ。
 
 問て云く、正しく源空が法華経を誹謗する証文如何。
答て云く、法華経の第二に云く「若し人信ぜずして斯の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」〈経文〉。不信の相貌は人をして法華経を捨てしむればなり。
故に天親菩薩の仏性論の第一に此の文を釈して云く「若し大乗に憎背する者此は是れ一闡提の因なり。衆生をして此の法を捨てしむるを為の故に」〈論文〉。謗法の相貌は此の法を捨てしむるが故なり。
選択集は人をして法華経を捨てしむ書に非ずや。閣抛の二字は仏性論の憎背の二字に非ずや。
亦法華経誹謗の相貌は四十余年の諸経の如く小善成仏を以て別時意趣と定むる等なり。
 
 故に天台の釈に云く「若し小善成仏を信ぜずんば則世間の仏種を断ずるなり」。
妙楽重ねて此の義を宣べて云く「此の経は遍く六道の仏種を開す。若し此の経を謗ぜば義断に当るなり」。
釈迦・多宝・十方の諸仏・天親・天台・妙楽の意の如くんば源空は謗法の者なり。
所詮選択集の意は人をして法華・真言を捨てしめんと定めて書き了ぬ。謗法の義、疑ひ無き者なり。
 
 大文の第三に、選択集謗法の縁起を出さば。
問て云く、何れの証拠を以て源空を謗法の者と称するや。
答て云く、選択集の現文を見るに一代聖教を以て二つに分つ。一には聖道難行雑行、二には浄土易行正行なり。
其の中に聖・難・雑と云ふは、華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃・大日経等なり〈取意〉。浄・易・正とは、浄土の三部経の称名念仏等なり〈取意〉。
聖・難・雑の失を判ずるには、末代の凡夫之を行ぜば百の時に希に一二を得千の時に希に三五を得ん或は千が中に一も無し或は群賊・悪衆・邪見・悪見・邪雑の人等と定むるなり。
浄・易・正の得を判ずるには、末代の凡夫之を行ぜば十は即十生し百は即百生せん等なり。謗法の邪義是なり。
 
 問て云く、一代聖教を聖道浄土・難行易行・正行雑行と分つ。其の中に難・聖・雑を以て時機不相応と称すること、但源空一人の新義に非ず。曇鸞(どんらん)道綽(どうしゃく)・善導の三師の義なり。
此亦此等の人師の私の案に非ず。其の源は竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)より出でたり。若し源空を謗法の者と称せば竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)並に三師を謗法の者と称するに非ずや。
答て云く、竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)並に三師の意は法華已前の四十余年の経経に於て難易等の義を存す。而るに源空より已来竜樹並に三師の難行等の語を借て法華・真言等を以て難・雑等の内に入れぬ。
所化の弟子師の失を知らずして此の邪義を以て正義と存じ此の国に流布せしむるが故に国中の万民悉く法華・真言に於て時機不相応の想を作す。
其の上世間を貪る天台・真言の学者、世の情に随はんが為に法華・真言に於て時機不相応の悪言を吐て選択集の邪義を扶け、一旦の欲心に依て釈迦・多宝並に十方諸仏の御評定の「令法久住於閻浮提広宣流布」の誠言を壊り、一切衆生をして三世十方の諸仏の舌を切る罪を得せしむ。
偏に是れ悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為得たりと謂ひ乃至悪鬼其の身に入り仏の方便随宜所説の法を知らざる故なり。
 
 問て云く、竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)並に三師は法華・真言等を以て難・聖・雑の中に入れざりしを源空私に之を入るるとは何を以て之を知るや。
答て云く、遠く余処に証拠を尋ぬべきに非ず。即選択集に之を見たり。
問て云く、其の証文如何。答て云く、選択集の第一篇に云く、道綽(どうしゃく)禅師聖道・浄土の二門を立て而して聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文と約束し了て、次下に安楽集を引て私の料簡の段に云く、
「初に聖道門とは之に就て二有り。一には大乗、二には小乗なり。大乗の中に就て顕密・権実等の不同有りと雖も、今此の集の意は唯、顕大及以び権大を存す。
故に歴劫迂回の行に当る。之に準じて之を思ふに、応に密大及以び実大をも存すべし」〈已上〉選択集の文なり。
此の文の意は、道綽(どうしゃく)禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道・浄土の二門を分つと雖も、我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す。「準之思之」の四字是なり。
此の意に依るが故に亦曇鸞(どんらん)の難・易の二道を引く時、亦私に法華真言を以て難行道の中に入れ、善導和尚の正・雑二行を分つ時も、亦私に法華・真言を以て雑行の内に入る。
総じて選択集の十六段に亘て無量の謗法を作す根源は、偏に此の四字より起る。誤れるかな、畏しきかな。
 
 爰に源空の門弟師の邪義を救て云く、諸宗の常の習ひ設ひ経論の証文無しと雖も義類の同じきを聚めて一処に置く。
而も選択集の意は法華・真言等を集めて雑行の内に入れ正行に対して之を捨つ。
偏に経の法体を嫌ふに非ず。但風勢無き末代の衆生を常没の凡夫と定め、此の機に易行の法を撰ぶ時、称名の念仏を以て其の機に当て、易行の法を以て諸教に勝ると立つ。
権実・浅深の勝劣を詮ずるに非ず。雑行と云ふも嫌て雑と云ふに非ず。雑と云ふは不純を雑と云ふ。
其の上諸の経論並に諸師も此の意無きに非ず。故に叡山の先徳の往生要集の意偏に是の義なり。
 
 所以に往生要集の序に云く「顕密の教法は其の文一に非ず。事理の業因其の行惟れ多し。利智精進の人は未だ難しと為ず。予が如き頑魯の者豈敢てせんや。是の故に念仏の一門に依る」云云。此の序の意は恵心先徳も法華・真言等を破するに非ず。
但偏に我等頑魯の者の機に当て法華・真言は聞き難く行じ難きが故に、我身鈍根なるが故なり。敢て法体を嫌ふに非ず。
其の上序より已外正宗に至るまで十門有り。
大文第八の門に述べて云く「今念仏を勧むること是れ余の種種の妙行を遮するに非ず。只是れ男女・貴賎・行住坐臥を簡ばず、時処・諸縁を論ぜず、之を修するに難からず、乃至、臨終には往生を願求するに其の便宜を得ること念仏には如かず」〈已上〉。
此等の文を見るに源空の選択集と源信の往生要集と一巻三巻の不同有りと雖も、一代聖教の中には易行を撰て末代の愚人を救はんと欲する意趣は但同じ事なり。
源空上人法華・真言を難行と立てて悪道に堕せば、恵心先徳も亦此の失を免るべからず如何。
答て云く、汝師の謗法の失を救はんが為に、事を源信の往生要集に寄せて、謗法の上に弥重罪を招く者なり。
其の故は釈迦如来五十年の説教に総じて先き四十二年の意を無量義経に定めて云く「険逕を行くに留難多き故に」と。無量義経の已後を定めて云く「大直道を行くに留難無きが故に」と。
仏自ら難易勝劣の二道を分ちたまえり。仏より外等覚已下末代の凡師に至るまで自義を以て難易の二道を分ち此の義に背く者は外道・魔王の説に同じきか。
随て四依の大士竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)には法華已前に於て難易の二道を分ち、敢て四十余年已後の経に於て難行の義を存せず。
其の上若し修し易きを以て易行と定めば、法華経の五十展転の行は称名念仏より行じ易きこと百千万億倍なり。
若し亦勝を以て易行と定めば、分別功徳品に爾前四十余年の八十万億劫の間の壇・戒・忍・進・念仏三昧等先きの五波羅密の功徳を以て法華経の一念信解の功徳に比するに、一念信解の功徳は念仏三昧等の先きの五波羅密に勝るる事百千万億倍なり。
難易勝劣と云ひ行浅功深と云ひ、観経等の念仏三昧を法華経に比するに、難行の中の極難行、劣が中の極劣なり。
 
 其の上悪人・愚人を扶くること亦教の浅深に依る。阿含十二年の戒門には現身に四重五逆の者に得道を許さず。
華厳・方等・般若・双観経等の諸経は阿含経より教深き故に勧門の時は重罪の者を摂すと雖も、猶戒門の日は七逆の者に現身の受戒を許さず。
然りと雖も決定性の二乗・無性の闡提に於て誡勧共に之を許さず。
法華・涅槃等には唯五逆・七逆・謗法の者を摂するのみに非ず亦定性・無性をも摂す。
就中、末法に於ては常没の闡提之多し。豈観経等の四十余年の諸経に於て之を扶くべけんや。無性の常没・決定性の二乗は但法華・涅槃等に限れり。
四十余年の経に依る人師は彼の経の機と取る。此の人は未だ教相を知らざる故なり。
 
 但し往生要集は一往序分を見る時は法華・真言等を以て顕密の内に入れて殆ど末代の機に叶はずと書すと雖も。
文に入て委細に一部三巻の始末を見るに、第十の問答料簡の下に正しく諸行の勝劣を定むる時、観仏三昧・般舟三昧・十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)・宝積・大集等の爾前の経論を引て一切の万行に対して念仏三昧を以て王三昧と立て了ぬ。
最後に一つの問答有り。爾前の禅定、念仏三昧を以て法華経の一念信解に対するに百千万億倍劣ると定む。復問を通ずる時、念仏三昧を万行に勝るると云ふは爾前の当分なりと云云。
当に知るべし、恵心の意は往生要集を造て末代の愚機を調へて法華経に入れんが為なり。
例せば仏の四十余年の経を以て権機を調へ法華経に入れ給ふが如し。
 故に最後に一乗要決を造る。
其の序に云く「諸宗の権実は古来の諍ひなり。倶に経論に拠て互いに是非を執す。
余寛弘丙午の歳冬十月、病中に歎て云く、仏法に遇ふと雖も仏意を了せず。若し終に手を空せば後悔何ぞ追はん。爰に経論の文義・賢哲の章疏、或は人をして尋ねしめ、或は自ら思択す。
全く自宗・他宗の偏党を捨つる時、専ら権智・実智の深奥を探ぐるに、終に一乗は真実の理・五乗は方便の説を得る者なり。既に今生の蒙を開く、何ぞ夕死の恨を残さんや」〈已上〉。此の序の意は偏に恵心の本意を顕すなり。自宗・他宗の偏党を捨つるの時、浄土の法門を捨てざらんや。一乗は真実の理と得る時、専ら法華経に依るに非ずや。
源信僧都は永観二年甲申の冬十一月往生要集を造り、寛弘二年丙午の冬十月の比一乗要決を作る。其の中間二十余年なり。権を先にし実を後にする。宛も仏の如く、亦竜樹・天親・天台等の如し。
汝往生要集を便りとして師の謗法の失を救はんと欲すれども、敢へて其の義類に似ず。義類の同じきを以て一処に聚むとならば何等の義類同なるや。
華厳経の如きは二乗界を隔つるが故に十界互具無し。方等・般若の諸経は亦十界互具を許さず。
観経等の往生極楽も亦方便の往生なり。成仏・往生倶に法華経の如き往生に非ず。皆別時意趣の往生・成仏なり。
 
 其の上源信僧都の意は四威儀に行じ易き故に念仏を以て易行と云ひ、四威儀に行じ難きが故に法華を以て難行と称せば、天台・妙楽の釈を破する人なり。
所以に妙楽大師の末代の鈍者・無智の者等の法華経を行ずるに普賢菩薩並に多宝・十方の諸仏を見奉るを易行と定めて云く「散心に法華を誦し禅三昧に入らず。坐立行一心に法華の文字を念ぜよ」〈已上〉。
此の釈の意趣は末代の愚者を摂せんが為なり。散心とは定心に対する語なり。誦法華とは八巻・一巻・一字・一句・一偈・題目・一心一念随喜の者五十展転等なり。坐立行とは四威儀を嫌はざるなり。一心とは定の一心に非ず、理の一心に非ず、散心の中の一心なり。
念法華文字とは此の経は諸経の文字に似ず、一字を誦すと雖も八万宝蔵の文字を含み、一切諸仏の功徳を納むるなり。
天台大師玄義の八に云く「手に巻を執らざれども常に是の経を読み、口に言声無けれども偏く衆典を誦し、仏説法せざれども恒に梵音を聞き、心に思惟せざれども普く法界を照す」〈已上〉。
此の文の意は手に法華経一部八巻を執らざれども是の経を信ずる人は昼夜十二時の持経者なり。
口に読経の声を出さざれども法華経を信ずる者は日日・時時・念念に一切経を読む者なり。
 
 仏の入滅は既に二千余年を経たり。然りと雖も法華経を信ずる者の許に仏の音声を留めて時時・刻刻・念念に我死せざる由を聞かしむ。
心に一念三千を観ぜざれども遍く十方法界を照す者なり。此等の徳は偏に法華経を行ずる者に備はるなり。
是の故に法華経を信ずる者は設ひ臨終の時、心に仏を念ぜず、口に経を誦せず、道場に入らざれども、心無くして法界を照し、音無くして一切経を誦し、巻軸を取らずして法華経八巻を拳る徳之有り。
是れ豈権教の念仏者の臨終正念を期して十念の念仏を唱へんと欲する者に百千万倍勝るる易行に非ずや。
故に天台大師文句の十に云く「都て諸教に勝るるが故に随喜功徳品と云ふ」。妙楽大師の法華経は諸経より浅機を取る。
而るを人師此の義を弁へざる故に、法華経の機を深く取る事を破して云く「恐らくは人謬て解する者、初心の功徳の大なることを測らずして、功を上位に推り此の初心を蔑る。故に今彼の行は浅く功は深きことを示して以て経力を顕す」〈已上〉。
以顕経力の釈の意趣は法華経は観経等の権経に勝れたるが故に行は浅く功は深し浅機を摂むる故なり。
若し恵心の先徳、法華経を以て念仏より難行と定め、愚者・頑魯の者を摂せずと云はば、恐らくは逆路伽耶陀の罪を招かざらんや。恐人謬解の内に入らざらんや。
 
 総じて天台・妙楽の三大部の本末の意には法華経は諸経に漏れたる愚者・悪人・女人・常没闡提等を摂し給ふ。
他師仏意を覚らざる故に法華経を諸経に同じ、或は地住の機を取り或は凡夫に於ても別時意趣の義を存す。
此等の邪義を破して、人天・四悪を以て法華経の機と定む。種類・相対を以て過去の善悪を收む。人天に生ずる人、豈過去の五戒十善無からんや等と定め了ぬ。
若し恵心此の義に背かば、豈天台宗を知れる人ならんや。而るを源空深く此の義に迷ふが故に、往生要集に於て僻見を起し、自ら失ち他をも誤る者なり。
適宿善有て実教に入りながら、一切衆生を化して権教に還らしめ、剰へ実教を破せしむ。豈悪師に非ずや。
彼の久遠下種 ・大通結縁の者の如き五百・三千の塵劫を経るか如きは、法華の大教を捨てて爾前の権小に遷るが故に、後に権経を捨てて六道を回りぬ。
不軽軽毀の衆は千劫阿鼻地獄に堕つ。権師を信じ実経を弘むる者に誹謗を作したるが故なり。
 
 而るに源空我が身唯実経を捨てて権経に入るのみに非ず、人を勧めて実経を捨てて権経に入らしめ、亦権人をして実経に入らしめず、剰へ実経の行者を罵るの罪永劫にも浮び難からんか。
 
 問て云く、十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)は一代の通論なり。難・易の二道の内に何ぞ法華・真言・涅槃を入れざるや。
答て云く、一代の諸大乗経に於て華厳経の如きは初頓後分有り。
初頓の華厳は二乗の成不成を論ぜず。方等部の諸経には一向に二乗無性闡提の成仏を斥ふ。般若部の諸経も之に同じ。
総じて四十余年の諸大乗経の意は、法華・涅槃・大日経等の如くには二乗・無性の成仏を許さず。此等を以て之を検ふるに爾前・法華の相違は水火の如し。
滅後の論師竜樹・天親も亦倶に千部の論師なり。所造の論に通別の二論有り。
通論に於ても亦二有り。四十余年の通論と一代五十年の通論となり。
其の差別を分つに決定性の二乗・無性闡提の成不成を以て論の権実を定むるなり。
而るに大論は竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)の造、羅什三蔵の訳なり。
般若経に依る時は二乗作仏(にじょうさぶつ)を許さず、法華経に依れば二乗作仏(にじょうさぶつ)を許す。
十住毘婆娑論も亦竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)の造、羅什三蔵の訳なり。
此の論にも亦二乗作仏(にじょうさぶつ)を許さず。之を以て知ぬ。法華已前の諸大乗経の意を申べたる論なることを。
 
 問て云く、十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)の何処に二乗作仏(にじょうさぶつ)を許さざるの文出でたるや。
答て云く、十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)の第五に云く〈竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)造羅什訳〉「若し声聞地及び辟支仏地に堕する是を菩薩の死と名く。則ち一切の利を失す。若し地獄に堕すとも是の如き畏れを生ぜじ。
若し二乗地に堕すれば則ち大怖畏と為す。地獄の中に堕すとも畢竟して仏に至ることを得。若し二乗地に堕すれば畢竟して仏道を遮す」〈已上〉。
此の文二乗作仏(にじょうさぶつ)を許さず。宛も浄名等の「於仏法中以如敗種」の文の如し。
 
 問て云く、大論は般若経に依て二乗作仏(にじょうさぶつ)を許さず。法華経に依て二乗作仏(にじょうさぶつ)を許すの文如何。答て云く、大論の一百に云く〈竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)造、羅什三蔵訳〉「問て云く、更に何の法か甚深にして般若に勝れたる者あれば、而も般若を以て阿難に属累し、余経を以て菩薩に属累するや。
答て云く、般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而るに法華等の諸経は阿羅漢の受決作仏を説く。所以に大菩薩能く受けて持用す。譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」と。
亦九十三に云く「阿羅漢の成仏は論義者の知る所に非ず。唯仏のみ能く了し給ふ」〈已上〉。此等の文を以て之を思ふに、論師の権実は宛も仏の権実の如し。而るを権経に依る人師猥りに法華等を以て観経等の権説に同じ、法華涅槃等の義を仮て浄土三部経の徳と作し、決定性の二乗無性の闡提常没の往生を許す。権実雑乱の失脱れ離し。
例せば外典の儒者内典を賊て外典を荘るが如し。謗法の失免れ難きか。
仏自ら権実を分ち給ふ。其の詮を探るに決定性の二乗・無性有情の成不成是なり。
而るに此の義を弁へざる訳者、爾前の経経を訳する時、二乗の作仏・無性の成仏を許す。
此の義を知る訳者は、爾前の経を訳する時、二乗の作仏・無性の成仏を許さず。
之に依て仏意を覚らざる人師も亦、爾前の経に於て決定性・無性の成仏を明すと見て、法華と爾前と同じき思ひを作し、或は爾前の経に於て決定無性を嫌ふ文を見、此の義を以て了義経と為し法華・涅槃を以て不了義経と為す。共に仏意を覚らず。権実二経に迷へり。
此等の誤りを出さば但源空一人に限るのみに非ず。天竺の論師並に訳者より唐土の人師に至るまで其の義有り。
所謂、地論師・摂論師の一代の別時意趣。善導・懐感の法華経の一称南無仏の別時意趣。此等は皆権実を弁へざるが故に出来する所の誤りなり。
論を造る菩薩、経を訳する訳者、三昧発得の人師猶以て是くの如し。況や末代の凡師に於てをや。
 
 問て云く、汝末学の身として何ぞ論師並に訳者人師を破するや。
答て云く、敢て此の難を致すこと勿れ。摂論師並に善導等の釈は権実二教を弁へずして、猥りに法華経を以て別時意趣と立つ。
故に天台・妙楽の釈と水火を作す間、且らく人師の相違を閣て経論に付て是非を検ふる時、権実の二教は仏説より出でたり。天親・竜樹重ねて之を定む。
此の義に順ずる人師をば且らく之を仰ぎ、此の義に順ぜざる人師をば且らく之を用ひず。敢て自義を以て是非を定むるに非ず。但相違を出す計りなり。
 
 大文の第四に、謗法の者を対治すべき証文を出さば、此れに二有り。
一には仏法を以て国王大臣並に四衆に付属することを明し。二には正しく謗法の人王地に処るをば対治すべき証文を明す。
第一に、仏法を以て国王大臣並に四衆に付属することを明さば。
仁王経に云く「仏波斯匿王に告はく乃至是の故に諸の国王に付属して、比丘・比丘尼・清信男・清信女に付属せず。何を以ての故に王の威力無さが故に。乃至此の経の三宝をば諸の国王四部の弟子に付属す」〈已上〉。
大集経二十八に云く「若し国王有て我が法の滅せんことを見て捨てて擁護(おうご)せずんば、無量世に於て施戒恵を修すとも悉く皆滅失し、其の国に三種の不祥の事を出さん、乃至命終して大地獄に生ぜん」〈已上〉。
仁王経の文の如くならば、仏法を以て先ず国王に付属し、次に四衆に及ぼす。王位に居る君・国を治むる臣は、仏法を以て先と為し国を治むべきなり。
大集経の文の如くならば、王臣等仏道の為に無量劫の間、頭目等の施を施し八万の戒行を持ち無量の仏法を学ぶと雖も、国に流布する所の法の邪正を直さざれば、国中に大風・旱魃・大雨の三災起て、万民を逃脱せしめ、王臣定めて三悪に堕せん。
又双林最後の涅槃経の第三に云く「今正法を以て諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に付属す。乃至法を護らざる者をば禿居士と名く」。
又云く「善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せずして、応に刀剣・弓箭・鉾槊を持つべし」。
又云く「五戒を受けざれども正法を護るを為て乃ち大乗と名く。正法を護る者は応に刀剣器杖を執持すべし」云云。
四十余年の内にも梵網等の戒の如くならば、国王・大臣の諸人等も一切刀杖弓箭矛斧闘戦の具を畜ふることを得ず。
若し此を畜ふる者は定めて現身に国王の位・比丘比丘尼の位を失ひ、後生は三悪道の中に堕つべしと定め了ぬ。
 
 而るに今の世は道俗を択ばず弓箭・刀杖を帯せり。梵網経の文の如くならば必ず三悪道に堕せんこと疑無き者なり。涅槃経の文無くんば、如何にしてか之を救はん。
亦涅槃経の先後の文の如くならば、弓箭・刀杖を帯して悪法の比丘を治し正法の比丘を守護せん者は、先世の四重・五逆を滅して必ず無上道を証せんと定め給ふ。
 
 亦金光明経(こんこうみょうきょう)の第六に云く「若し人有て其の国土に於て此の経有りと雖も未だ嘗て流布せず、捨離の心を生じ聴聞せんことを楽はず、亦供養し尊重し讃歎せず、四部の衆・持経の人を見て亦復尊重し乃至供養すること能はず、遂に我等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ず、甘露の味に背き、正法の流れを失ひ、威光及以び勢力有ること無からしめ、悪趣を増長し人天を損減し生死の河に墜て涅槃の路に乖かん。
世尊、我等四王並に諸の眷属及び薬叉等斯くの如き事を見て、其の国土を捨てて擁護(おうご)の心無からん。但我等のみ是の王を捨棄するに非ず、亦無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん。
既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有て国位を喪失すべし。一切の人衆皆善心無けん。唯繋縛殺害瞋諍のみ有て互に相讒諂し枉げて(つみ)無きに及ばん。
疫病流行し、彗星数数出で、両日並び現じ、薄蝕恒無く、黒白の二虹不祥の相を表はし、星流れ、地動き、井の内に声を発し、暴雨悪風時節に依らず、常に飢饉に遭て苗実も成らず、多く他方の怨賊有て国内を侵掠(しんりゃく)し、人民諸の苦悩を受け、土地所楽の処有る事無けん」〈已上〉。
 
 此の経文を見るに、世間の安穏を祈るとも而も国に三災起らば悪法流布する故なりと知るべし。
而るに当世は随分国土の安穏を祈ると雖も、去る正嘉元年には大地大に動じ、同二年に大雨大風苗実を失へり。定めて国を喪ふの悪法此の国に有るかと勘ふるなり。
選択集の或る段に云く「第一に読誦雑行とは上の観経等の往生浄土の経を除て已外、大小顕密の諸経に於て受持読誦する悉く読誦雑行と名く」と書き了て、次に書て云く「次に二行の得失を判ぜば、法華・真言等の雑行は失、浄土の三部経は得なり」。
次下に、善導和尚の往生礼讃の十即十生・百即百生・千中無一の文を書き載せて云く「私に云く、此の文を見るに弥よ雑を捨てて専を修すべし。豈百即百生の専修正行を捨てて堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者能く之を思量せよ」〈已上〉。
此等の文を見るに世間の道俗豈諸経を信ずべけんや。
次下に亦書して法華経等の雑行と念仏の正行と勝劣難易を定めて云く「一には勝劣の義・二には難易の義なり。初に勝劣の義とは、念仏は是れ勝、余行は是れ劣なり。次に難易の義とは、念仏は修し易く、諸行は修し難し」と。
亦次下に法華・真言等の失を定めて云く「故に知ぬ、諸行は機に非ず時を失ふ。念仏往生のみ機に当り時を得たり」と。
亦次下に法華・真言等の雑行の門を閉じて云く「随他の前には暫らく定散の門を開くと雖も、随自の後には還て定散の門を閉ず。一度開て以後永く閉じざるは唯是れ念仏の一門なり」〈已上〉。
最後の述懐に云く「夫れ速に生死を離れんと欲せば二種の勝法の中に且らく聖道門を閣て撰て浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せは正雑二行の中に且らく諸の雑行を拠て撰て応に正行に帰すべし」〈已上〉。
門弟此の書を伝へて日本六十余州に充満するが故に、門人世間無智の者に語て云く「上人は智恵第一の身と為て此の書を造り真実の義と定め法華・真言の門を閉じて後に開くの文無く、拠て後に還て取るの文無し」等と立つる間、
世間の道俗一同に頭を傾け、其の義を訪ふ者には仮字を以て選択の意を宜べ、或は法然上人の物語を書す間、法華・真言に於て難を付けて、或は去年の暦祖父の履に譬え、或は法華経を読むは管絃より劣ると。
是くの如き悪書国中に充満するが故に、法華・真言等国に在りと雖も聴聞せんことを楽はず、偶行ずる人有りと雖も尊重を生ぜず、一向念仏者法華経の結縁を作すをば往生の障と成ると云ふ。故に捨離の意を生ず。
此の故に諸天妙法を聞くことを得ず。法味を嘗めざれば威光勢力有ること無し、四天王並に眷属此の国を捨て、日本国守護の善神捨離し已ぬ。
故に正嘉元年に大地大に震い、同二年に春の大雨苗を失ひ、夏の大旱魃に草木を枯し、秋の大風に菓実を失ひ、飢渇忽に起て万民を逃脱せしむること金光明経(こんこうみょうきょう)の文の如し。豈選択集の失に非ずや。
仏語虚しからざる故に、悪法の流布有り既に国に三災起れり。而も此の悪義を対治せずんば仏の所説の三悪を脱がるべけんや。
而るに近年より予「我身命を愛せず但無上道を惜む」の文を瞻る間、雪山・常啼の心を起し命を大乗の流布に替へ強言を吐て云く、選択集を信じて後世を願はん人は無間地獄に堕つべしと。
爾時に法然上人の門弟選択集に於て上に出す所の悪義を隠し、或は諸行往生を立て、或は選択集に於て法華・真言を破らざる由を称し、或は在俗に於て選択集の邪義を知らしめざる為に妄語を構へて云く、日蓮は念仏を称ふる人は三悪道に堕せんと云ふと。
 
 問て云く、法然上人の門弟諸行往生を立つるに失有りや否や。
答て云く、法然上人の門弟と称し諸行往生を立つるは逆路伽耶陀の者なり。
当世も亦諸行往生の義を立つ。而も内心には一向に念仏往生の義を存し、外には諸行不謗の由を聞かしむるなり。
抑此の義を立つる者は選択集の法華・真言等に於て失を付け、捨閉閣抛・群賊・邪見・悪見・邪雑人・千中無一等の語を見ざるや否や。
 
 第二に、正しく謗法人の王地に処るを対治すべき証文を出さば。
涅槃経第三に云く「懈怠にして戒を破し正法を毀る者をば王者・大臣・四部の衆・応に苦治すべし。善男子是の諸の国王及び四部の衆は当に罪有るべきや不や。不なり、世尊。善男子是の諸の国王及び四部の衆は尚罪有ること無し」と。
又第十二に云く「我往昔を念ふに、閻浮提に於て大国の王と作り名を仙予と曰ひき。大乗経典を愛念し敬重し、其の心純善にして麁悪嫉妬慳有ること無かりき。
乃至善男子我爾の時に於て心に大乗を重んず。婆羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已て即時に其の命根を断ちき。善男子是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず」〈已上〉。
 
 問て云く、梵網経の文を見るに比丘等の四衆を誹謗するは波羅夷罪なり。而るに源空が謗法の失を顕はすは豈阿鼻の業に非ずや。
答て曰く、涅槃経の文に云く「迦葉菩薩(かしょうぼさつ)世尊に言さく、如来何が故ぞ彼当に阿鼻地獄に堕すべしと記するや。
善男子善星比丘は多く眷属有り。皆善星は是れ阿羅漢なり、是れ道果を得つと謂へり。我彼が悪邪の心を壊らんと欲するが故に、彼の善星は放逸を以ての故に地獄に堕せりと記す」〈已上〉。
此の文に放逸とは謗法の名なり。源空も亦彼の善星の如く、謗法を以ての故に無間に堕すべし。
所化の衆此の邪義を知らざるが故に、源空を以て一切智人と号し、或は勢至菩薩或は善導の化身なりと云ふ。
彼が悪邪の心を壊らんが為の故に謗法の根源を顕はす。梵網経の説は謗法の者の外の四衆なり。
仏誡めて云く「謗法の人を見て其の失を顕はさざれば仏弟子に非ず」と。
故に涅槃経に云く「我涅槃の後其の方面に随ひ持戒の比丘有て威儀具足し正法を護持せば、法を壊ぶる者を見て即ち能く駈遣し呵責し徴治せよ。当に知るべし、是人は福を得んこと無量にして称計すべからず」。
亦云く「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置て、呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば是我弟子真の声聞なり」〈已上〉。
 
 予仏弟子の一分に入らんが為に此の書を造り謗法の失を顕はし世間に流布す。
願はくば十方の仏陀此の書に於て力を副へ、大悪法の流布を止め一切衆生の謗法を救はしめたまえ。
 
 大文の第五に、善知識並に真実の法に値ひ難きことを明さば、之に付て三有り。
一には受け難き人身値ひ難き仏法なることを明し。二には受け難き人身を受け値ひ難き仏法に値ふと雖も悪知識に値ふが故に三悪道に堕するを明し。三には正く末代凡夫の為の善知識を明す。
 
 第一に、受け難き人身、値ひ難き仏法なることを明さば。
涅槃経三十三に云く「爾の時に世尊地の少土を取て之を爪上に置き、迦葉に告げて言く、是の土多きや、十方世界の地土多きや。
迦葉菩薩(かしょうぼさつ)仏に白して言く、世尊、爪上の土は十方所有の土に比べず。善男子、人有り身を捨てて還て人身を得、三悪の身を捨てて人身を受くることを得。
諸根完く具して中国に生れ正信を具足して能く道を修習し、道を修習し已て能く正道を修し、正道を修し已て能く解脱を得、解脱を得已て能く涅槃に入るは、爪上の土の如く、
人身を捨て已て三悪の身を得、三悪の身を捨てて三悪の身を得、諸根具せずして辺地に生じ、邪倒の見を信じ邪道を修習し、解脱常楽の涅槃を得ざるは、十方界の所有の地土の如し」〈已上経文〉。
此の文は多く法門を集めて一具と為せり。人身を捨てて還て人身を受くるは爪上の土の如し、人身を捨てて三悪道に堕るは十方の土の如し。
三悪の身を捨てて人身を受くるは爪上の土の如く、三悪の身を捨てて三悪の身を得るは十方の土の如し。
人身を受くるは十方の土の如く、人身を受けて六根欠けざるは爪上の土の如し。
人身を受けて六根を欠けざれども辺地に生ずるは十方の土の如く、中国に生ずるは爪上の土の如し。
中国に生ずるは十方の土の如く、仏法に値ふは爪上の土の如し。
又云く「一闡提と作らず、善根を断ぜず、是の如き等の涅槃の経典を信ずるは、爪上の土の如し、乃至一闡提と作て、諸の善根を断じ、是の経を信ぜざる者は、十方界所有の地土の如し」〈已上経文〉。
此の文の如くんば、法華・涅槃を信ぜずして一闡提と作るは十方の土の如く、法華・涅槃を信ずるは爪上の土の如し。此の経文を見て弥感涙押へ難し。
今日本国の諸人を見聞するに多分は権教を行ず。設ひ身口は実教を行ずと雖も心には亦権教を存ず。
 
 故に天台大師、摩訶止観(まかしかん)の五に云く「其の癡鈍なる者は毒気深く入て本心を失ふ故に、既に其れ信ぜざれば則ち手に入らず。乃至大罪聚の人なり。
乃至設ひ世を厭ふ者も下劣の乗を翫び枝葉に攀付し、狗作務に狎れ{|を敬て帝釈と為し、瓦礫を崇て是れ明珠なりとす。此黒闇の人豈道を論ずべけんや」〈已上〉。
源空並に所化の衆、深く三毒の酒に酔て大通結縁の本心を失ふ。
法華・涅槃に於て不信の思を作し一闡提と作り、観経等の下劣の乗に依て方便称名の瓦礫を翫び、法然房の{|を敬て智恵第一の帝釈と思ひ、法華・涅槃の如意珠を捨てて、如来の聖教を褊するは権実二教を弁へざるが故なり。      
 
 故に弘決の第一に云く「此の円頓を聞て崇重せざる者は、良に近代大乗を習ふ者の雑濫に由るが故なり」。大乗に於て権実二教を弁へざるを雑濫と云ふなり。
故に末代に於て法華経を信ずる者は爪上の土の如く、法華経を信ぜずして権教に堕落する者は十方の微塵の如し。
故に妙楽歎て云く「像末は情澆く信心寡薄にして、円頓の教法蔵に溢れ函に満れども暫くも思惟せず。便ち瞑目に至る。徒に生じ徒に死す。一に何ぞ痛しきや」〈已上〉。
此の釈は偏に妙楽大師権者たるの間、遠く日本国の当代を鑑て記し置く所の未来記なり。
 問て云く、法然上人の門弟の内にも一切経蔵を安置し法華経を行ずる者有り。何ぞ皆謗法の者と称せんや。
答て云く、一切経を開き見て法華経を読み、難行道の由を称し選択集の悪義を扶けんが為なり。
経論を開くに付て弥謗法を増すこと、例せば善星の十二部経・提婆達多が六万蔵の如し。智者の由を称するは自身を重くし悪法を扶けんが為なり。
 
 第二に、受け難き人身を受け、値ひ難き仏法に値ふと雖も、悪知識に値ふが故に三悪道に堕することを明さば。
仏蔵経に云く「大荘厳仏の滅後に五比丘あり。一人は正道を知て多億の人を度し、四人は邪見に住す。此四人命終の後阿鼻地獄に堕つ。仰ぎ臥し、伏に臥し、左脇に臥し、右脇に臥すこと、各九百万億歳なり。
乃至若し在家出家の此の人に親近せしもの、並に諸の檀越凡そ六百四万億の人あり。此の四師と倶に生じ倶に死して、大地獄に在て諸の焼煮を受く。大劫若し尽くれば是の四悪人及び六百四万億の人此の阿鼻地獄より他方の大地獄の中に転生す」〈已上〉。
涅槃経三十三に云く「爾時に城中に一の尼乾有り。名を苦得と曰ふ。乃至善星、苦得に問ふ。答て曰く、我食吐鬼の身を得。善星、諦に聴け。
乃至爾の時に善星即ち我所に還て是の如き言を作す。世尊、苦得尼乾は命終の後に三十三天に生ぜんと。
乃至爾時に如来即ち迦葉と善星の所に往き給ふ。善星比丘遥に我来るを見、見已て即ち悪邪の心を生ず。悪心を以ての故に生身に陥ち入て阿鼻地獄に堕す」〈已上〉。
善星比丘は仏の菩薩たりし時の子なり。仏に随ひ奉り出家して十二部経を受け、欲界の煩悩を壊り四禅定を獲得せり。
然りと雖も悪知識たる苦得外道に値ひ、仏法の正義を信ぜざるに依て、出家の受戒十二部経の功徳を失ひ、生身に阿鼻地獄に堕す。
苦岸等の四比丘に親近せし六百四万億の人は、四師と倶に十方の大阿鼻地獄を経るなり。今の世の道俗は選択集を貴ぶが故に源空の影像を拝して、一切経難行の邪義を読む。
例せば尼乾の所化の弟子が尼乾の遺骨を礼して三悪道に堕せしが如く。
願はくば今の世の道俗、選択集の邪正を知て後に供養恭敬を致せ。爾らずんば定めて後悔有らん。
 
 故に涅槃経に云く「菩薩摩訶薩、悪象等に於て心に怖畏すること無く、悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ。何を以ての故に、是の悪象等は唯能く身を壊て心を壊る能はず、悪知識は二倶に壊る故に。
是の悪象等は唯一身を壊り、悪知識は無量の善身無量の善心を壊る。是の悪象等は唯能く不浄の臭き身を破壊す、悪知識は能く浄身及以び浄心を壊る。是の悪象等は能く肉身を壊り、悪知識は法身を壊る。
悪象の為に殺されては三趣に至らず、悪友の為に殺されては必ず三趣に至る。是の悪象等は但身の怨と為り、悪知識は善法の怨と為らん。是の故に菩薩常に当に諸の悪知識を遠離すべし」〈已上〉。
 
 請ひ願はくば今の世の道俗、設ひ此の書を邪義と思ふと雖も、且らく此の念を抛て、十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)を開き其の難行の内に法華経の入不入を検がえ、選択集の準之思之の四字を案じて、後に是非を致せ。謬て悪知識を信じ、邪法を習ひ、此の生を空うすること莫れ。
 
 第三に、正しく末代の凡夫の為の善知識を明さば。
問て云く、善財童子は五十余の善知識に値ひき。其の中に普賢・文殊・観音・弥勒等有り。
常啼・班足・妙荘厳・阿闍世(あじゃせ)等は曇無竭・普明・耆婆・二子・夫人に値ひ奉て生死を離れたり。此等は皆大聖なり。
仏世を去て後是の如きの師を得ること難しとなす。滅後に於て亦竜樹・天親も去りぬ。南岳・天台にも値はず。如何が生死を離るべきや。
答て云く、末代に於て真実の善知識有り。所謂法華・涅槃是なり。
問て云く、人を以て善知識と為すは常の習ひなり。法を以て知識と為すに証有りや。
答て云く、人を以て知識と為すは常の習ひなり。然りと雖も末代に於て真の知識無ければ法を以て知識と為すに多くの証有り。
摩訶止観(まかしかん)に云く「或は知識に従ひ、或は経巻に従ひ、上に説く所の一実の菩提を聞く」〈已上〉。此の文の意は経巻を以て善知識と為す。
法華経に云く「若し法華経を閻浮提に行じ受持すること有らん者は応に此の念を作すべし。皆是れ普賢威神の力なり」〈已上〉。
此の文の意は、末代の凡夫法華経を信ずるは普賢の善知識の力なり。
又云く「若し是の法華経を受持し読誦し正憶念し修習し書写すること有らん者は、当に知るべし、是の人は即ち釈迦牟尼仏を見るなり。仏口より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」〈已上〉。
此の文を見るに、法華経は即ち釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり。
 
 又云く「若し我成仏して滅度の後、十方の国土に於て法華経を説く処有らば、我が塔廟是の経を聴かんが為の故に其の前に涌現し為に証明を為さん」〈已上〉。
此の文の意は、我等法華の名号を唱へて多宝如来本願の故に必ず来りたまう。
又云く「諸仏の十方世界に在て法を説くを尽く還し一処に集めたまう」〈已上〉。
釈迦・多宝・十方の諸仏・普賢菩薩等は我等が善知識なり。若し此の義に依らば我等は亦宿善・善財・常啼・班足等にも勝れたり。
彼は権経の知識に値ひ、我等は実経の知識に値へばなり。彼は権経の菩薩に値ひ、我等は実経の仏菩薩に値ひ奉ればなり。
 
 涅槃経に云く「法に依て人に依らざれ、智に依て識に依らざれ」〈已上〉。
依法と云ふは法華・涅槃の常住の法なり。不依人とは法華・涅槃に依らざる人なり。
設ひ仏菩薩為りと雖も法華・涅槃に依らざる仏菩薩は善知識に非ず。況や法華・涅槃に依らざる論師・訳者・人師に於てをや。
依智とは仏に依る。不依識とは等覚已下なり。今の世の世間の道俗源空の謗法の失を隠さんが為に徳を天下に挙げて権化なりと称す。依用すべからず。
外道は五通を得て能く山を傾け海を竭すとも、神通無き阿含経の凡夫に及ばず。
羅漢を得六通を現ずる二乗は、華厳・方等・般若の凡夫に及ばず。
華厳・方等・般若の等覚の菩薩も、法華経の名字・観行の凡夫に及ばず。
設ひ神通智恵有りと雖も、権教の善知識をば用ふべからず。
我等常没の一闡提の凡夫、法華経を信ぜんと欲するは仏性を顕はさんが為の先表なり。
 
 故に妙楽大師の云く「内薫に非ざるよりは何ぞ能く悟を生ぜん。故に知ぬ、悟を生ずる力は真如に在り、故に冥薫を以て外護と為すなり」〈已上〉。
法華経より外の四十余年の諸経には十界互具無し。十界互具を説かざれば内心の仏界を知らず。内心の仏界を知らざれば外の諸仏も顕はれず。
故に四十余年の権行の者は仏を見ず。設ひ仏を見ると雖も他仏を見るなり。二乗は自仏を見ざるが故に成仏無し。
爾前の菩薩も亦自身の十界互具を見ざれば、二乗界の成仏を見ず。故に衆生無辺誓願度の願も満足せず。
故に菩薩も仏を見ず、凡夫も亦十界互具を知らざるが故に、自身の仏界も顕はれず。
故に阿弥陀如来の来迎も無く、諸仏如来の加護も無し。譬へば盲人の自身の影を見ざるが如し。
 
 今法華経に至て九界の仏界を開くが故に、四十余年の菩薩・二乗・六凡始めて自身の仏界を見る。
此の時此の人の前に始めて仏・菩薩・二乗立ち給ふ。此の時に二乗・菩薩始めて成仏し凡夫も始めて往生す。此の故に在世滅後の一切衆生の誠の善知識は法華経是なり。
常途の天台宗の学者は爾前に於て当分の得道を許せども、自義に於ては猶当分の得道を許さず。
然りと雖も此の書に於ては其の義を尽くさず。略して之を記す。追て之を記すべし。
 
 大文の第六に、法華・涅槃に依る行者の用心を明さば。
一代教門の勝劣・浅深・難易等に於ては先の段に既に之を出す。此の一段に於ては一向に後世を念ふ末代常没の五逆・謗法・一闡提等の愚人の為に之を注す。略して三有り。
一には在家の諸人正法を護持するを以て生死を離れ、悪法を持つに依て三悪道に堕すべきことを明し。二には但法華経の名字計りを唱へて三悪道を離るべきことを明し。三には涅槃経は法華経の為の流通と成ることを明す。
 
 第一に、在家の諸人正法を護持するを以て生死を離れ、悪法を持つに依て三悪道に堕すべきことを明さば。
涅槃経第三に云く「仏迦葉に告はく、能く正法を護持するの因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり」と。
亦云く「時に国王有り、名を有徳と曰ふ。乃至法を護らんが為の故に、乃至是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。乃至王是の時に於て法を聞くことを得已て心大に歓喜し、尋で即ち命終して阿N仏の国に生ず」〈已上〉。
此の文の如くならば在家の諸人別の智行無しと雖も、謗法の者を対治する功徳に依て生死を離るべきなり。
 
 問て云く、在家の諸人仏法を護持すべき様如何。
答て云く、涅槃経に云く「若し衆生有て財物に貪著せば、我当に財を施し、然して後に是の大涅槃経を以て之を勧め読ましむべし。乃至先に愛語を以て其の意に随ひ、然る後に漸く当に是の大乗大涅槃経を以て之を勧めて読ましむべし。
若し凡庶の者には当に威勢を以て之に逼て読ましむべし。若しr慢の者には我当に其れが為に僕使と作り其の意に随順し其れをして歓喜せしむべし。然して後に復当に大涅槃を以て之を教導すべし。
若し大乗経を誹謗する者有らば、当に勢力を以て之を摧きて伏せしめ、既に摧伏し已て然して後に勧めて大涅槃を読ましむべし。若し大乗経を愛楽する者有らば、我躬ら当に往て恭敬し供養し尊重し讃歎すべし」〈已上〉。
 
 問て云く、今の世の道俗偏に選択集に執して、法華・涅槃に於ては自身不相応の念を作すの間、護惜建立の心無し。偶邪義の由を称する人有れば、念仏誹謗の者と称して、悪名を天下に雨らす。斯れ等は如何。
答て云く、自答を存すべきに非ず。
仏自ら此の事を記して云く、仁王経に云く「大王我が滅度の後未来世の中の四部の弟子・諸の小国の王・太子・王子乃ち是れ三宝を住持して護る者転更に三宝を滅破せんこと師子の身中の虫の自ら師子を食ふが如くならん。外道には非ざるなり。
多く我仏法を壊り、大罪過を得ん。正法衰薄し、民に正行無く、漸く悪を為すを以て其の寿日に減じて百歳に至らん。人仏法を壊て、復孝子無く、六親不和にして天神も祐けず。疾疫悪鬼日に来て侵害し、災怪首尾し、連禍縦横して、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん」。
亦次下に云く「大王未来世の中の諸の小国の王・四部の弟子・自ら此の罪を作るは破国の因縁なり。
乃至諸の悪比丘多く名利を求め、国王太子王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別へずして此の語を信聴し、乃至・其の時に当て正法将に滅せんこと久しからず」〈已上〉。
 
 余選択集を見るに敢て此の文の未来記に違はず。選択集は法華・真言等の正法を定めて雑行難行と云ひ、末代の我等に於ては時機相応せず之を行ずる者は千が中に一も無く、仏還て法華等を説くと雖も法華・真言の諸行の門を閉じて念仏の一門を開く。
末代に於て之を行ずる者を群賊等と定め当世の一切の道俗に此の書を信ぜしめ此の義を以て如来の金言と思へり。
此の故に世間の道俗に仏法建立の意無く、法華真言の正法の法水忽ちに竭き、天人減少して三悪日に増長する。偏に選択集の悪法に催されて起る所の邪見なり。
此の経文を仏記して「我滅度後」と云へるは、正法の末八十年、像法の末八百年、末法の末八千年なり。選択集の出る時は像法の末、末法の始なれば八百年の内なり。仁王経の記する所の時節に当れり。
「諸小国王王」とは日本国の王なり。中下品の善は粟散王是なり。
「如師子身中虫」とは仏弟子の源空是なり。「諸悪比丘」とは所化の衆是なり。
「説破仏法因縁破国因縁」とは上に挙る所の選択集の語是なり。
「其王不別信聴此語」とは今の世の道俗邪義を弁へずして猥りに之を信ずるなり。
 
 請ひ願はくば道俗法の邪正を分別して其の後正法に就て後生を願へ。今度人身を失ひ三悪道に堕して後に後悔すとも何ぞ及ばん。
 
 第二に、但法華経の題目計りを唱へて三悪道を離るべきことを明さば。
法華経の第五に云く「文殊師利、是の法華経は無量の国中に於て、乃至名字をも聞くことを得べからず」。
第八に云く「汝等但能く法華名を受持する者を擁護(おうご)する福量るべからず」。
提婆品に云く「妙法華経の提婆品を聞て浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄・餓鬼・畜生に堕ちず」。
大般涅槃経名字功徳品に云く「若し善男子・善女人有て是の経の名を聞て悪趣に生ずと云はば是の処有ること無けん」〈涅槃経は法華経の流通たるが故に引けるなり〉。
 
 問て云く、但法華の題目を聞くと雖も、解心無くば如何にして三悪趣を脱れんや。
答て云く、法華経流布の国に生れて此の経の題名を聞き、信を生ずるは宿善の深厚なるに依れり。
設ひ今生は悪人無智なりと雖も、必ず過去の宿善有るが故に、此の経の名を聞て信を致す者なり。故に悪道に堕せず。
問て云く、過去の宿善とは如何。答て云く、法華経の第二に云く「若し此の経法を信受すること有らん者は是の人は已に曽て過去の仏を見たてまつり恭敬し供養し亦此の法を聞けるなり」と。
法師品に云く「又如来滅度の後、若し人有て妙法華経の乃至一偈一句を聞て、一念も随喜せん者は、乃至当に知るべし、是の諸人等已に曽て十万億の仏を供養せしなり」と。
流通たる涅槃経に云く「若し衆生有て熈連河沙等の諸仏に於て菩提心を発し、乃ち能く是の悪世に於て是の如き経典を受持して誹謗を生ぜず。
善男子、若し能く一恒沙等の諸仏世尊に於て菩提心を発すこと有て、然る後に乃ち能く悪世の中に於て是の法を謗せず是の典を愛敬せん」〈已上経文〉。
 
 此等の文の如くんば、設ひ先に解心無くとも此の法華経を聞て謗ぜざるは大善の所生なり。夫れ三悪の生を受くること大地微塵より多く、人間の生を受くるは爪上の土より少し。
乃至四十余年の諸経に値ふことは大地微塵よりも多く法華・涅槃に値ふことは爪上の土より少し。
上に挙ぐる所の涅槃経の三十三の文を見るべし。設ひ一字一句なりと雖も此の経を信ずる者は宿縁多幸なり。
 
 問て云く、設ひ法華経を信ずと雖も、悪縁に随はば何ぞ三悪道に堕せざらんや。
答て云く、解心無き者権教の悪知識に遇て実教を退せば、悪師を信ずる失に依て必ず三悪道に堕すべきなり。
彼の不軽軽毀の衆は権人なり。大通結縁の者の三千塵点を経しは法華経を退して権教に遷りしが故なり。
法華経を信ずる輩は法華経の信を捨てて権人に随はんより外は、世間の悪業に於ては法華の功徳に及ばず。故に三悪道に堕つべからざるなり。
 
 問て云く、日本国は法華・涅槃有縁の地なりや否や。答て云く、法華経第八に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ」と。
七の巻に云く「広宜流布して閻浮堤に於て断絶せしむること無けん」と。
涅槃経第九に云く「此の大乗経典大涅槃経も亦復是の如し。南方の諸の菩薩の為の故に当に広く流布すべし」〈已上経文〉。
三千世界広しと雖も仏自ら法華・涅槃を以て南方流布の処と定む。
南方の諸国の中に於ては日本国は殊に法華経の流布すべき処なり。
 
 問て云く、其の証如何。答て云く、肇公の法華翻経の後記に云く、羅什三蔵須利耶蘇摩三蔵に値ひ奉て法華経を授かる時の語に云く「仏日西山に隠れ遺耀東北を照す。茲の典東北の諸国に有縁なり。汝慎て伝弘せよ」〈已上〉。
東北とは日本なり。西南の天竺より東北の日本を指すなり。
故に恵心の一乗要決に云く「日本一州円機純一なり。朝野遠近同じく一乗に帰し、緇素貴賎悉く成仏を期す」〈已上〉。
願はくば日本国の今世の道俗、選択集の久習を捨てて、法華涅槃の現文に依り、肇公恵心の日本記を恃て法華修行の安心を企てよ。
 
 問て云く、法華経修行の者何の浄土を期すべきや。答て云く、法華経二十八品の肝心たる寿量品(じゅりょうほん)に云く「我常に此の娑婆世界に在り」。亦云く「我常に此処に住し」と。亦云く「我が此土は安穏」文。
此の文の如くんば、本地久成の円仏は此の世界に在り。此の土を捨てて何の土を願ふべきや。
故に法華経修行の者の所住の処を浄土と思ふべし。何ぞ煩しく他処を求めんや。
故に神力品に云く「若は経巻所住の処、若は園中に於ても、若は林中に於ても、若は樹下に於ても、若は僧坊に於ても、若は白衣舎にても、若は殿堂に在ても、若は山谷広野にても、乃至当に知るべし是の処は即ち是道場なり」と。
涅槃経に云く「善男子、是の大涅槃微妙の経典流布せらるる処は当に知るべし其の地は即ち是れ金剛なり。此の中の諸人も亦金剛の如し」〈已上〉。
法華涅槃を信ずる行者は余処に求むべきに非ず。此の経を信ずる人の所在の処は則ち浄土なり。
 
 問て云く、華厳・方等・般若・阿含・観経等の諸経を見るに兜率・西方・十方の浄土を勧む。其の上法華経の文を見るに亦兜率・西方・十方の浄土を勧む。何ぞ此等の文に違して但此の瓦礫荊棘の穢土を勧むるや。
答て云く、爾前の浄土は久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦如来の所現の浄土にして実には皆穢土なり。
法華経は亦方便寿量の二品なり。寿量品(じゅりょうほん)に至て実の浄土を定むる時、此の土は即ち浄土と定め了ぬ。
但し兜率・安養・十方の難に至ては、爾前の名目を改めずして此の土に於て兜率・安養等の名を付く。
例せば此の経に三乗の名有りと雖も三乗有らざるが如し。「不須更指観経等也」の釈の意是なり。
法華経に結縁無き衆生の当世西方浄土を願ふは瓦礫の土を楽ふ者なり。法華経を信ぜざる衆生は誠に分添の浄土無き者なり。
 
 第三に、涅槃経は法華経流通の為に之を説き給ふことを明さば。
間て云く、光宅の法雲法師並に道場の恵観等の碩徳は、法華経を以て第四時の経と定め無常の熟蘇味と立つ。天台智者大師は法華涅槃同味と立つと雖も、亦拾の義を存す。二師共に権化なり。互に徳行を具せり。何を正として我等の迷心を晴らすべきや。
答て曰く、設ひ論師訳者為りと雖も仏教に違して権実二教を判ぜずんば、且らく疑を加ふべし。
何に況や唐土の人師たる天台・南岳・光宅・恵観・智厳・嘉祥・善導等の釈に於てをや。
設ひ末代の学者為りと雖も、依法不依人の義を存し、本経本論に違はずんば信用を加ふべし。
 
 問て云く、涅槃経の第十四巻を開きたるに、五十年の諸大乗経を挙て前四味に譬へ、涅槃経を以て醍醐味に譬ふ。諸大乗経は涅槃経より劣ること百千万倍なりと定め了ぬ。
其の上迦葉童子の領解に云く「我今日より始て正見を得たり。此よりの前は我等悉く邪見の人と名く」と。
此の文の意は、涅槃経已前の法華等の一切の衆典を皆邪見と云ふなり。当に知るべし、法華経は邪見の経にして未だ正見の仏性を明らめず。
故に天親菩薩の涅槃論に諸経と涅槃との勝劣を定むる時、法華経を以て般若経に同じて同じく第四時に摂したり。豈正見の涅槃経を以て邪見の法華経の流通と為んや如何。
答て云く、法華経の現文を見るに仏の本懐残すこと無し。方便品に云く「今正しく是れ其時なり」と。
寿量品(じゅりょうほん)に云く「毎に自ら是の念を作す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速かに仏身を成就することを得せしめん」と。
神力品に云く「要を以て之を言へば、如来の一切の所有の法、乃至皆此の経に於て宣示顕説す」〈已上〉。
此等の現文は、釈迦如来の内証は皆此の経に尽くし給ふ。其の上、多宝並に十方の諸仏来集の庭に於て、釈迦如来の已今当の語を証し、法華経の如き経無しと定め了ぬ。
而るに多宝諸仏本土に還るの後に、但釈迦一仏のみ異変を存じて還て涅槃経を説て法華経を卑まば、誰人か之を信ぜん。
深く此の義を存じ、随て涅槃経の第九を見るに、法華経を流通して説て云く「是の経世に出ること彼の菓実の一切を利益し安楽する所多きが如く、能く衆生をして仏性を見はさしむ。
法華の中の八千の声聞の記tを授かるを得て大菓実を成ずるが如く、秋収冬蔵して更に所作無きが如し」と。
 
 此の文の如くんば法華経若し邪見ならば涅槃経も豈に邪見に非ずや。法華経は大収、涅槃経は・拾なりと見え了ぬ。
涅槃経は自ら法華経より劣るの由を称す。法華経の当説の文敢て相違無し。但し迦葉の領解並に第十四の文は法華経を下す文に非ず。
迦葉の自身並に所化の衆今始めて法華経の所説の常住仏性久遠実成(くおんじつじょう)を覚る。故に我が身を指して此より已前は邪見なりと云ふ。
法華経已前の無量義経に嫌はるる諸経を涅槃経に重ねて之を挙げて嫌ふなり。法華経を嫌ふには非ざるなり。
亦涅槃論に至ては、此等の論は書付くるが如く天親菩薩の造、菩提流支の訳なり。法華論も亦天親菩薩の造、菩提流支の訳なり。経文に違すること之多し。涅槃論も亦本経に違す。当に知るべし、訳者の誤りなり。信用に及ばず。
 
 問て云く、先の教に漏れたる者を後の教に之を承け取て得道せしむるを流通と称せば、阿含経は華厳経の流通と成るべきや。乃至法華経は前四味の流通と成るべきや如何。
答て曰く、前四味の諸経は菩薩人天等の得道を許すと雖も、決定性の二乗無性闡提の成仏を許さず。
其の上仏意を探て実を以て之を検ふるに、亦菩薩人天等の得道も無し。十界互具を説かざるが故に、久遠実成(くおんじつじょう)無きが故に。
問て云く、証文如何。答て云く、法華経方便品に云く「若し小乗を以て化すること乃至一人に於てせば、我則ち慳貪に堕せん。此の事は為て不可なり」〈已上〉。
此の文の意は、今選択集の邪義を破せんが為に余事を以て詮と為さず。故に爾前得道の有無の実義は之を出さず。追て之を検ふべし。
但し四十余年の諸経は実に凡夫の得道無きが故に法華経は爾前の流通と為らず。
法華経に於て十界互具・久遠実成(くおんじつじょう)を顕はし了ぬ。故に涅槃経は法華経の為に流通と成るなり。
 
 大文の第七に、問に随て答ふとは。
若し末代の愚人上の六門に依て万が一も法華経を信ぜば、権宗の諸人或は自惑に依り或は偏執に依て法華経の行者を破せんが為に、多く四十余年並に涅槃等の諸経を引て之を難ぜん。
而るに権教を信ずる人は之多く、或は威勢に依り、或は世間の資縁に依り、人の意に随て世路を亘らんが為に、或は権教には学者多く実教には智者少し。是非に就て万が一も実教を信ずる者有るべからず。是の故に此の一段を撰て権人の邪難を防がん。
 
 問て云く、諸宗の学者難じて云く「華厳経は報身如来の所説、七処八会皆頓極頓証の法門なり。法華経は応身如来の所説、教主既に優劣有り。所説の法門に於て何ぞ浅深無からん。随て対告衆も法恵・功徳林・金剛幢等なり。永く二乗を雑へず。法華経は舎利弗等を以て対告衆と為す」と〈華厳宗難〉。
法相宗の如きは解深密経を以て依憑と為し、難を加へて云く「解深密経は文殊観音等を以て対告衆と為す。勝義生菩薩の領解には一代を有空中と詮す。其の中の中とは華厳・法華・涅槃・深密等なり。
法華経の信解品の五時の領解は四大声聞なり。菩薩と声聞と勝劣天地なり」。
浄土宗の如きは道理を立てて云く「我等は法華等の諸経を誹謗するに非ず。彼等の諸経は正には大人の為、傍には凡夫の為にす。断惑証理理深の教にして末代の我等之を行ずるに千人の中に一人も彼の機に当らず。
在家の諸人多分は文字を見ず。亦華厳・法相等の名を聞かず。況や其の義を知らんや。
浄土宗の意は我等凡夫は但口に任せて六字の名号を称すれば、現在に阿弥陀如来二十五の菩薩等を遣はし、身に影の随ふ如く百重千重に行者を囲繞して之を守り給ふ。
故に現世には七難即滅七福即生し、乃至臨終の時は必ず来迎有て観音の蓮台に乗じ、須臾の間に浄土に至り業に随て蓮華開け、法華経を聞て実相を覚る。何ぞ煩しく穢土に於て余行を行じて何の詮か有る。但万事を抛て一向に名号を称せよ」云云。
禅宗等の人云く「一代聖教は月を指す指なり。天地日月等も汝等が妄心よる出でたり。十方の浄土も執心の影像なり。釈迦十方の仏陀は汝が覚心の所変なり。文字に執する者は株を守る愚人なり。
我が達磨大師は文字を立てず、方便を仮らず、一代聖教の外に仏迦葉に印して此の法を伝ふ。法華経等は未だ真実を宣べず」〈已上〉。
 
 此等の諸宗の難一に非ず。如何ぞ法華経の信心を壊らざるべしや。
答て云く、法華経の行者は心中に、四十余年、已今当、皆是真実、依法不依人等の文を存し、而も外に語に之を出さず。難に随て之を問ふべし。
抑所立の宗義は何の経に依るや。彼経を引かば引くに随て亦之を尋ねよ。
一代五十年の間の説の中に法華経より先か、後か、同時なるか、亦先後不定なるかと。
若し先と答へば、未顕真実(みけんしんじつ)の文を以て之を責めよ。敢へて彼の経の説相を尋ぬること勿れ。後と答へば、当説の文を以て之を責めよ。同時と答へば、今説の文を以て之を責めよ。
不定と答へば、不定の経は大部の経に非ず、一時一会の説にして亦物の数に非ず。其の上不定の経と雖も三説を出でず。
設ひ百千万の義を立つと雖も四十余年等の文を載せて虚妄と称せざるより外は用ふべからず。仏の遺言に不依不了義経と云ふが故なり。
 
 亦智厳・嘉祥・慈恩・善導等を引て徳を立て難ずと雖も、法華涅槃に違する人師に於ては用ふべからず。依法不依人の金言を仰ぐが故なり。
 
 亦法華経を信ぜん愚者の為に二種の信心を立つ。一には仏に就て信を立て、二には経に就て信を立つ。
仏に就て信を立つとは、権宗の学者来り難じて云はん、善導和尚は三昧発得の人師、本地は弥陀の化身なり。慈恩大師(じおんたいし)は十一面観音の化身、亦筆端より舎利を雨らす。
此等の諸人は皆彼彼の経経に依て皆証有り。何ぞ汝彼の経に依らず、亦彼の師の義を用ひざるや。
答て云く、汝聞け、一切の権宗の大師先徳並に舎利弗・目連・普賢・文殊・観音乃至阿弥陀・薬師・釈迦如来、我等並に十方の諸人の前に集まりて説て、法華経は汝等が機に叶はず、念仏等の権経の行を修して往生を遂げ、後に法華経を覚れと云はん。
是の如き説を聞くと雖も敢へて用ふべからず。其の故は四十余年の諸の経には法華経の名字を呼ばず。何れの処にか機の堪不堪を論ぜん。
法華経に於ては釈迦・多宝・十方諸仏一処に集て撰定して云く、法をして久住せしむ。如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむと。
此の外に今仏出来して法華経を末代不相応と定めば既に法華経に違す。知ぬ、此の仏は涅槃経に出す所の滅後の魔仏なり。之を信用すべからず。
其の已下の菩薩・声聞・比丘等は亦言論するに及ばず。此等は不審無し。涅槃経に記する所の滅後の魔の所変の菩薩等なり。
其の故は法華経の座は三千大千世界の外四百万億阿僧祇の世界なり。
其の中に充満せる菩薩・二乗・人天・八部等皆如来の告勅を蒙むり、各各所在の国土に法華経を弘むべきの由之を願ひぬ。
善導等若し権者ならば何ぞ竜樹・天親等の如く権教を弘めて後に法華経を弘めざるや。法華経の告勅の数に入らざるや。
何ぞ仏の如く権教を弘めて後に法華経を弘めざるや。若し此の義無くんば設ひ仏為りと雖も之を信ずべからず。今は法華経の中の仏を信ず。故に仏に就て信を立つと云ふなり。
 
 問て云く、釈迦如来の所説を他仏之を証するを実説と称せば、何ぞ阿弥陀経を信ぜざるや。答て云く、阿弥陀経に於ては法華経の如き証明無きが故に之を信ぜず。
問て云く、阿弥陀経を見るに、釈迦如来の所説の一日七日の念仏を六方の諸仏舌を出し三千を覆て之を証明せり。何ぞ証明無しと云ふや。
答て云く、阿弥陀経に於ては全く法華経の如き証明無し。但釈迦一仏舎利弗に向て説て言く、我一人阿弥陀経を説くのみに非ず、六方の諸仏舌を出し三千を覆て阿弥陀経を説くと云ふ、此等は釈迦一仏の説なり。敢へて諸仏来りたまはず。
此等の権文は四十余年の間は教主も権仏の始覚の仏なり。仏権なるが故に所説も亦権なり。故に四十余年の権仏の説は之を信ずべからず。
今の法華涅槃は久遠実成(くおんじつじょう)の円仏の実説なり。十界互具の実言なり。亦多宝十方の諸仏来て之を証明し給ふ。故に之を信ずべし。
阿弥陀経の説は無量義経未顕真実(みけんしんじつ)の語に壊れ了ぬ。全く釈迦一仏の語にして諸仏の証明には非ざるなり。
 
 二に経に就て信を立つとは、無量義経に四十余年の諸経を挙げて未顕真実(みけんしんじつ)と云ふ。
涅槃経に云く「如来は虚妄の言無しと雖も、若し衆生虚妄の説に因て法利を得と知れば、宜しきに随て方便して則ち為に之を説き給ふ」と。又云く「了義経に依て不了義経に依らざれ」〈已上〉。
是の如きの文一に非ず。皆四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義・魔説と称す。
是れ皆人をして其の経を捨てて法華涅槃に入らしめんが為なり。而るに何の恃み有て妄語の経を留めて行儀を企て得道を期するや。
今権教の情執を捨て偏に実経を信ず。故に経に就て信を立つと云ふなり。
 
 問て云く、善導和尚も人に就て信を立て、行に就て信を立つ。何の差別有らんや。
答て云く、彼は阿弥陀経等の三部に依て之を立て、一代の経に於て了義経・不了義経を分たずして之を立つ。故に法華涅槃の義に対して之を難ずる時は其の義壊れ了ぬ。

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