真冬の日本海で遭難した一隻の韓国船が、私の村「泊」に漂着しました。村人の救護によって93人の韓国人全員が無事に故国へ帰りました。1900年1月、日清戦争から日露戦争の渦中でおこった実話です。
言葉も通じない韓国人と村人は、8日間の滞在を通じて心を通わせていきます。別れの浜で、親子のように泣き分かれました。国家の間では悲しい争いをしていた時期に、民衆同士はこうした偶然の出会いにすら心と心をつないだのです。
1900年(明治33年)1月12日、北西の風が狂ったように荒れまくった翌日のことです。村の前の海に漂う一隻の外国船を発見しました。帆柱が折れ、帆も破れて無惨な状態になっています。難破船に近づくと、多くの人たちが船縁で、手をふって何やら叫びながら救助を求めています。村の衆は伝馬船をこぎ出して船に横付けし、韓国人を難破船から船小屋の前の浜に上陸させました。村中の飯や湯茶を集め、わらをたいて体を温めさせ、何軒かの家に分宿させ、村中の風呂を沸かしました。
絵 上原徳治
船の名前は「四仁伴載」といい、およそ八百石程積める2本マストの木造船。鄭在官船主を始め、商人、乗組員、荷役など何と93人の韓国人が乗船していました。
筆談で話を聞くと、その内容は悲惨さを極めました。
「私たちは商用のため出かけて来ていた露国海三威を出発し、ふるさと大韓国咸鏡道明川沙浦に向かっていました。
その日の夕方、急に嵐になり、船は真冬の日本海を漂流、大海原の中を木の葉のように流されました。船は破損し、船内には海水が入ってきました。いつ転覆するか分からない状態です。必死の思いで積荷を海中に投げ捨てました。
東へ西へどこへ流されるか分からない船の中で、私たちは不安な昼と夜を繰り返し、凍り付く寒さに震え体を寄せ合いながらも、懸命に生きようとする意志を確かめ合いました。暖をとる薪も食料も水も無くなり、飢えと寒さの極限の中で死を覚悟しました。僅かになった乾米を分け合って食べ、しまいには自分の尿を飲んで生きる望みをつなぎました。
夢のような光景でした。私たちの船は、あなたの国の泊村についたのです。」
韓国人の保護はそれから1週間続きました。
韓国人と区民の間では言葉は一言も通じません。しかし、8日間の対応の中で慈しみの情も深くなっていき、好奇の感情から親しみの感情へと変わっていきました。
1月19日、午前11時、船小屋下の浜へ、区民一同、老若男女、子供に至るまでみんな集まりました。
言葉はもう必要ではありません。気持ちがあふれていきました。
村人は、韓国人達に別れを告げるのですが、その様子は実に親子の別れと同じです。韓国人らが眼に涙をためて別れを言うと、村人も涙を流し、袖を絞るほどに泣きながら別 れを告げました。
私は文書からこの記録の全容を知ると胸が熱くなりました。特に、別れの浜の場面は、映画のクライマックスのシーンのように感動しました。この話を伝えたいという一心で、 村の仲間と一緒に「韓国船遭難救護の記録」という冊子を2年がかりで平成9年に出版しました。
それから2年後の平成11年1月、韓国のソウルから1本の電話がかかってきました。
相手は、韓国の大学教授の鄭在吉さんからでした。
「私は、日本の友人からいただいたこの本を読んでとても感動しました。このような美しい話が日韓の間にあったということを知りませんでした。私の父は徹底した反日でした。そして、私も学校で反日教育を受けました。戦争の歴史認識は重要です。しかし、憎しみだけでは21世紀は始まりません。私は、このような美しい話を、韓国の教科書に載せて子供達に伝えていくのが夢です。」と熱く語られました。
その後、電話と手紙とファックスでやりとりが続き、私たちの夢はどんどんふくれあがりました。
鄭さんは次のような提案をしました。
「1900年1月、あれから、ちょうど百年を迎える2000年1月、先祖たちが別れたその浜で、子孫たちが再会しましょう。別れは再会の約束です。百年前の偶然の出来事が、百年後の再会という必然の運命になり、新しい歴史をつくります。2000年1月を中心に“韓国船遭難救護百周年記念事業”を行いましょう。」と。
鄭教授と村の歴史の会のメンバーで実行委員会をつくり、2000年の記念イベントに取り組むことになりました。
1月8日、日韓の参加者がたくさん集い、遭難救護の歴史の現場である泊村で記念式典をい行いました。当時、遭難救護事務所となった寺、海照院を会場にしました。小さな村にとって100年来の大きな出来事でした。
歴史の現場にささやかな記念碑も建立しました。2メートル程の自然石に「海は人をつなぐ 母の如し」と刻みました。韓国の木「ムクゲ」と日本のサクラを植えました。花が咲いたら、この木の下で交流をしましょう。そう約束しました。
「風の吹いてきた村」という絵本も作成しました。遭難救護のドキュメンタリーを子供達にも分かり易い読み物にしたものです。日本語とハングルで記載し、両国の子供達が肩を並べて読めるようにしました。韓国と日本で配布を開始しました。
あの式典から1年が経過しました。4月には、式典で植樹したサクラの木に3つほど花が咲きました。また、9月には韓国の木「ムクゲ」も花をつけました。
記念碑を訪ねる人も増えてきて、村の老人会が自主的に掃除をしたりしてくれます。記念碑公園のそばには共同墓地があって、私たちの祖先が眠っています。
21世紀という新しい時代がきました。
今、伝えないと、もう忘れ去られていくのではないかという話があります。子供の頃に祖父から聞いた韓国船遭難救護の話まさにそのような話だったのだと改めて思います。
漂着物を展示 100年前の係留ロープが語る
韓国人からの礼状(村の土蔵より発見)
村の海岸にはハングル文字でかかれた漂着物が多く流れてきますが、いつか、サッカーボールが流れてきました。そのボールに、「2002年サッカーワールドカップ」と書かれていました。私は、未来が一足さきに海から流れてきたと思いました。
2002年サッカーのワールドカップ、日韓共同開催、そして、この小さなで始まった民衆同士の小さい交流。ひとつひとつのの蓄積から新しい時代が開けてゆくという予感がしています。
それにしても人の出会いというのは、ほんとうに不思議でうれしいものです。すべて「ふるさと」という大きなふところの中での出会いです。
ふるさとの美しい風景の中に子供たちは遊び、祖先の魂も遊ぶのだと私は思います。そして私たちも祖先になりこの美しい風景の中に遊ぶのだと思います。この風景、いつまでも美しくしておきたい、平安にしておきたい、そう願います。
風景の力が大きいと感じることがあります。ある日、海に太陽の光が射し込めていました。光のカーテンのようでした。その時、沖の方から歌が聞こえてきました。作るというより、海の大いなる風景に出会って自然できました。
著作・編集 大森和良
この本「風の吹いてきた村」は韓国船遭難救護記念事業実行委員会による自費発行です。この資料がご必要な方は、下記までご連絡、お問い合わせください。制作実費で配布しております。